阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第23号

牟岐町の婚姻習俗

民俗班 岡田一郎

1.子堕ろしの歌
  お前想いに みずかね飲んで
  一生病いと なるわいな
 この歌は、海部郡牟岐町河内に伝わる米踏み歌である。NHK徳島放迭局に勤務していた民謡研究家の皆川学氏は、この歌を、全国の他の地ではみられない子堕ろしの歌として「徳島春秋」に紹介している。
 一見、海の幸と山の幸に恵まれた平和そうにみられる牟岐町で、人生で最も悲惨であると考えられるうらぶれた女の悲情な歌を聞こうとは夢にも思っていなかった。
 なぜ、このような歌が此の地に生れたのであろうか。子堕ろしの歌を古人から伝え聞き、記憶しておられた牟岐町西又の山西彦太郎(明治31年12月6日生、78才)に会って、その話を聞いてみた。


 山西翁の話によると、「牟岐の奥地にあたる河内の笹見・西又の農家は、その昔、一村破滅の大飢饉にあった。それは、笹見の田の中に大きな椋の木があったものを、その木が陰になるというので切り取った。ところが、その年の秋に、サンカメイ虫が大発生し、稲穂が真白になってしまった。そこで村人たちは、毎日の食糧に困り果て、遂に田地を土佐の田野の人に売り払わなければならなくなってしまった。……」という。
 又、江戸時代の享和の頃、海部郡代佐和滝三郎の苛酷な年貢の取り立てによって、牟岐の百姓153人が、土佐へ逃散したという記録もある。(海部郡取調廻在録)
 このような、農村経済の悲惨な背景が、子堕ろしの歌をつくりあげたものだろうか。農村の疲弊によって、生活苦をきりぬけるための非常手段として、「間引き」がおこなわれた例は、全国各地にみられるが、それは、貧しい農家の個人的な問題が多い。しかし、牟岐の河内村のように、全村が窮地に追いやられ、そのために、「間引き」が流行したのであれば、あまりにもむごいことである。
 しかし、この歌の背景を多面的に考察するとき、生活苦の側面ばかりでなく、むしろ、この地方に盛んであったといわれる「夜這い」の風習を想い、多情で強引であったといわれる農村娘の意地の表現であるとさえ考えられるのである。
 ちなみに、この子堕ろしの歌は、日露戦争後、明治の末頃にかけてよく唄われたとか、又、みずがねは、鏡の裏をけずって作っていたものであるといわれる。

 

2.夜遣いの風習
 牟岐町の田植歌に、
   よんべの夜這い  あわてた夜這い
   どみそけにつまずいて
   塩から桶とびこんだ  という歌がある。
 この地方の夜這いは、郷中の男が、夜なベ仕事の終った後、意中の娘のところへ通うものであった。村外からの男の侵入を防ぐため、子若衆(こわかいし)が兄若衆の命令で、村境の番をしたといわれる。
 それにしても、あわてた夜這いで、みそ桶に飛込むという歌は面白い。たいへんユーモアがあり、笑いながら田植をする解放的な農村風景を想像することができる。
 郷中婚が多かったこの地方では、若連を媒体とした夜這いの風習が、大正の頃まで続いていた。そして、この夜這いが、足入婚の前提となっていたのである。
 夜這いは、不特定多数の男女の夜遊びの場合もあるが、適令期になると、若連の承認による特定の男女の交際にしぼられ、やがて、これが両家の了解のもとに聟入婚又は、足入婚へと進行するのである。
 このような習習は、牟岐町内の商業地区は、遠方婚への移行が早かったため大正の末期にはもうみられなくなっていたが、出羽島をはじめ、河内、辺川、橘、内妻等の農漁村地区では、昭和の初期まで続いていた。

 

3.若連組
 牟岐町旧八か浦村(中村、牟岐浦、灘村、川長村、内妻村、河内村、辺川村、橘村)のすべてに若連が組織されていた。そして、各所に若衆宿があった。
 若衆宿は、村のなかでも家族の少ない気安い家や、空屋、会堂などが使用されていた。入会は、13歳で、村の行事の打ち上げなどの集会の場で、若連の頭によって会員に紹介された。
 出羽島では、旧正月15日に、神社の舞台に集まり、一般からの魚や野菜の差入れにより、ご馳走を作って、新会員を盛大に歓迎していたといわれる。
 河内、辺川、橘の三協地区では、旧7月に盆踊を若連が主催して行っていた。14日はお地蔵さんの踊り、15日は氏神さんの踊り、16日は山の神さんの踊り、17日は普周寺の踊り、18日は笹見の不動さんの踊り、20日は辺川のお大師さんの踊り。というように、「願おどり」が多かった。又、町内の寺の境内では、慰霊踊(ゆうれい踊りともいう)が盛んに行なわれた。
 牟岐の踊りは、一文字笠に振袖衣裳、顔をかくして踊る。非常にテンポのおそい、いわゆるゆうれい踊りであった。夜通し、朝まで踊るためには、ゆったりと手足を動かす踊りでなければ体力が続かなかったのである。
 男は、常日頃勤勉に働き、その貯で二着の同じ踊り衣裳を作り、その一つを意中の娘にさし上げて一緒に踊ったといわれる。
 このように、踊りは、若連の最も力をいれたもので、男女楽しい交際の場であった。
 又、牟岐町から遠く離れた日和佐の薬王寺や、野江の不動さんの縁日には、早朝2時頃から、村の男女が一緒に歩いて詣りに行ったという。
 きびしい労働に汗をした青年たちが、こうした祭日や縁日をいかに楽しく過していたか、当時の若連の生き生きした様子が想像される。
 村落社会の中で、若連中の果す役割は大へん大きかった。村の年中行事の外に、災害時の緊急出動、病人の運搬、遭難者の救助などの奉仕活動があった。そしてこのような若連の仕事が多ければ多いほど、村における若連組の発言力が大きかった。
 結婚すると同時に若連組を去る者と、子供が出来るまで若連組に留まる者がいた。若連から壮年組に入るのであるが、壮年組は、世帯持ちなので、若連組ほどの集団意識はなかった。
 若連中の相談役、顧問のような存在の人を「シクロ」と呼んでいた。「シクロ」は、「宿老」から生まれた言葉ではなかろうか。
 若連中の年代は、殆ど自分の家で宿泊せず若衆宿で泊り、社会人になるための様々なことがらを先輩から教えられた。そして、常に若衆宿を本拠として活動していた。
 民俗学者が「山村生活の研究」の中で述べているように、「息子や娘を年頃になってからまで、親の家に宿らせておくことは彼等が自由をするので充分な教育が出来ない。年頃の者は、年頃の者同志一緒に生活しなければ一人前になれない。」と、この意見は大切なものと考えられる。
 牟岐地方の若連中の行動をみても、一般に想像されるようなみだらなものではなく、伝統的な慣習の中から創造された制約があった。
 例えば、村の行事に参加しなかったり、他村の娘と通じ合うようなことがあれば、本人はもとより、その家族までが、郷中からのけものにされたのである。
 また、頭の弱い娘が、妊娠して私生児を生んだときは、「ミソコシマワシ」といって、その幼児の養育費をみんなでカンパするなど温い相互扶助の風習もあったといわれる。

 

4.婚姻の型
 明治、大正の初期までは、夜這いから聟入婚へ、そして足入婚婚へと進むケースが多く、村内婚が主であった。しかし、交通の発達に伴なって、大正の中頃から昭和に至って、村外婚(遠方婚)が増加し、見合結婚も多く、嫁入婚が普及した。そして、戦後、自由思想の氾濫によって、恋愛結婚が増加した。
 戦前までは、恋愛を「なじむ」といって、さげすみ、婚前交際を不倫なものとしてみる傾向があった。
 江戸末期から、明治の頃までおこなわれていたといわれる「嫁さんかつぎ」(掠奪結婚)の風習は、土佐境の宍喰町ほど顕著でなく、牟岐町においては、二、三の事例を聞く程度であった。

 

5.結婚式
 仲人を立てて見合いからはじまる嫁入婚が近年の普通の方式である。この場合、結納、迎え送り、結婚式、三三九度の盃、床入り、被露宴、歩きぞめ、色直し、衣裳見せ、里帰り等があるが、その手順や様式は、他町村と余り変ったところはなく大同小異である。
○おちつき
 遠方婚の場合、正装して長旅はできないので、嫁方は、聟方の近くの適当な場所をかりて休息し、そこで、化粧や衣裳の着付けをおこなうようになった。これを「おちつき」(中宿のこと)という。しかし、このような便法も、最近は、旅館や特設の結婚式場を利用する者が多くなり、両方がそこに出向いて、一ぺんに結婚式と披露宴をおこなうケースが多くなりつつある。
○床入り
 三三九度の盃の後、仲人の責任において、新郎新婦が同床する儀式が大正の頃まで行なられていた。新婦は、13筋の細帯をしめて行き、これを全部解くことのできない聟は、駄目な男とされていた。一三解いて、床入りが無事終ると「一国二国三国一の嫁取すました。」と、手をたたいて喜び、一同に報告して、祝盃をあげたのである。
 又、床入りの前に、「ねや盃」といって、新郎新婦ヘ盃をすすめる風習もあった。
○引きこみ
 嫁が婚家に入るとき「ひきこみ」といって、ヨシコノ節を三味線でひく。このような「ひきこみ」は、阿波の北方は盛大であるが、南方は少なく、特に農付でおこなう家は稀である。
 出羽島では、「嫁さん船」が港に着くと、弓張りチョウチンをさげて出迎える風習が今も残っている。
 又、漁村の特色として、潮の満引きをやかましくいう習慣があり、よろこびごとは、すべて上げ潮のときにおこなう。
○披露宴
 戦前までは、一日目が親族、二日目が友人、三日目が打上げ(千伝人の慰労会)と最底三日三晩は宴会を続けたが、近年は、一日で済ます家が多い。

 

6.通婚圏
 牟岐町の町内では、「嫁さんは日和佐女、聟さんは牟岐男」ということばが残っている。
 これは、日和佐は方角がよい、土地相がよいという俗説があるためである。このようなわけで、牟岐は、日和佐との通婚が一番多かった。その次が海南町の大里、海部町の奥浦、出羽島、徳島市、阪神方面などが比較的多い。徳島市や、阪神方面との交流は、女中奉行時代の名残りであり、徳島市との関係は、牟岐の本町の商業活動の活発さを物語るものであろう。
 出羽島は、近年まで島内婚が主であった。比較的多いのは、山河内村、木頭村である。これは、漁村と農村との物資交易のはげしかった戦時統制経済時代の名残りとも考えられる。特に木頭村をはじめ、那賀奥との関係は、この地方から養子をもらう風習があったことによる。これは、出羽島の漁業労働力確保のために考えられていたものである。
 河内村は、純農村なので、村内婚が近年まで続いていたが、全体として、町内よりか、東牟岐の漁場とか、出羽島との交流が比較的多い。これは、百姓は、町人よりも漁師とのつきあいが、気安くしやすかったためであるといわれる。

 

おわりに
「子堕ろし」の歌や、「夜這い」の歌が、牟岐地方に残っていると聞いていたのでそれらのことを若連組の活動と、婚姻習俗との関連において追求してみようと試みた。しかし、調査期間が短く、資料収集が不十分であったため、初期の目的を達することができなかった。
 婚姻の習俗は、その土地や、その時代の社会の実相を知る上に役立つ貴重な民俗資料である。特に、若連組の研究は、青年の生き方や在り方を考える上に大切である。
 しかし、こうした資料が近年急速に得難くなりつつある。こうした時期に、牟岐町内の富田重雄氏、西又の山西彦太郎氏、出羽島の平野市三氏から、貴重なお話を聞くことができたことは、大変幸であった。三氏に対し、深く感謝を申し上げたい。又、これが調査に当り、ご配慮下さった小林滋教育長、大竹茂主事に対し厚くお礼を申し述べて稿を閉じたい。


徳島県立図書館