阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第22号
神山町周辺の婚姻習俗

民俗学班 岡田一郎

 本県の中央部の位置にある神山町とその周辺が、どのような婚姻習俗をもっているかは、阿波の南方と北方の比較において、本県の婚姻習俗を考えるうえで貴重なものであるという視点からこの調査研究を実施した。
1.婚姻について
 この地方においても、明治・大正ごろまでは、村内婚が殆んどで、ついで、徳島市や石井町方面との通婚が多くみられる。


 また、婚姻形式は、近年までは見合結婚が70%以上で、最近になって恋愛結婚が次第に多くなりつつあることは、他の地域と同じである。
 そして、村内婚から遠方婚への発達テンポにおいても特異性はみられない。
 結婚に至るまでの世話人である仲人については、いわゆる職業仲人はなく、村の有志や知人が行う例が多い。
 しかし、この地方における仲人役は、並大抵の苦労ではなかったとみえて、「仲人は一枚莚の毛が切れるまで通う。」といわれたほどである。
 明治、大正のころ、講中若連中の代表者が、婚礼の「肝入り」として、婚礼万端の世話をする風習があったが、これは、新郎新婦の「床入り」の世話まで介入するという出すぎた行為が非難されて、長くは続かなかった。
 ボボイチ
 婚姻成立過程における「ヨバイ」の風習は全県的におこなわれていた。「ヨバイ」は、ヨボウ、即ち「続けて呼ぶ」ことを意味するもので、村内婚を基盤としていた聟入婚、及び、足入れ婚の時代においては、正常な求婚手段であった。しかし、近年に至り「夜這」と解せられ、猥雑な行為とみる風潮ができ、大正の自由主義時代を境として、昭和の戦時体制下における道徳規範によって消滅した。
 しかし、現在、「ヨバイ」の呼名はみられなくなってはいるが、自由恋愛の名のもとに異性交遊は、木質的には昔も今も変らないのではなかろうか。
 このことに関して、民俗資料として注目したいのは、神山地方に極く最近まであったといわれる「ボボイチ」の風習である。
 神山町の焼山寺の例祭におこなわれた輪踊り(まる踊りともいう)の中にその風習がみられた。
 「ボボイチ」とは、「ボボ市」のことであろう。上古の時代においては、娘が祭日に、神仏に操を捧げる風習があった。それが後に境内における祭日の催物として、盆踊りの中に具現されたのが、焼山寺のボボイチである。
 これは、具体的に言うと、踊の輪の中に、腰や肩に手抜をつけて踊っている娘は、「私は、どなた様にも愛を捧げる用意ができております。」という。OKの印であったといわれる。
 或る人は、「ヨバイ」、「ボボイチ」と、「カタグ」を性交渉の三態と呼んでいるが、総体的にみて、阿波の北方は「ヨバイ」の風習がつよく、「阿波の北方女のヨバイ、男らしくして、ねやで待つ」とうたわれたほどである。また、県南では、阿土国境の宍喰町においては、「嫁さんカタギ」(嫁盗みともいう)の風習が盛んであった。そして、「ボボイチ」の風習は、中央部の山村にみられるところに特色がある。
 嫁入り
 嫁入り道具は、他の地方と大差はない。「○○家へは、○○棹の嫁が来た」という。普通の家で三―五棹、七棹以上は村の話題になり、嫁入後もしばらく「襟飾」までして、調度品を誇ったといわれる。
 嫁入道具の運搬は、講中の青年が、色ものの鉢巻をして村境まで送り届け、先方の青年に引き渡し、双方酒杯を交わして別れるという風習があった。
 嫁入行列が行くとき、近在の人々は、沿道に出て「嫁さんヨオヨオ」「婿さんヨオヨオ」と大声ではやしたてる。しかし、北方の山村でみられたような、道中に石を置いたり、汚物を置くような風習はみられない。
 昔は、嫁入行列には嫁の両親は加らなかったが、近年は加わるようになっている。
 先方の家に着くと、まず、出迎えの人から庭先で酒が出される。嫁は、嫁入先の姑に手を引かれて勝手口から座敷に上がる。その他の者は、すべて玄関から上がるのが普通である。
 一同が座に着くと、「おちつきのご飯」が出る。これは、遠い山道を歩いてきたため、まず少しばかり腹ごしらえをしておくということである。
 仲人は、この間に夫婦の契、三三九度の杯をさせる。そして、両家の親族が向いあって座り、紹介された後に披露宴にうつり、酒盛りは夜を徹しておこなわれた。
 この地方でも「嫁さん見」の風習があった。嫁入行列が着くと、近在の大人や子どもたちが大勢庭に集まってくる。大人たちは、庭先に敷いた莚の上で、2〜3升の「ふるまい酒」をいただいて気勢をあげる。また、煙草入れをかためて家の中へ投げこむ、すると、あらかじめ嫁方から持参していた刻み煙草をつめてかえす。子どもたちは、「嫁さん菓子」をもらう。
 酒盛りもほどよく続いたころ、機をみて「とりの杯」が出される。これは、大きな盆に野菜(大根や人参など)で器用に作られた鶴亀・松竹梅などの飾りもの(みづものという)と、大きな杯が、高砂をうたいながら、二人がかりで客の前に持ち出される。このとき客が「庭のいさご」をうたってうける。給仕人がその杯で酒をうけるようすすめるが、客はすぐにはうけない。そこで、いろいろと問答をくりかえし、時をかせぐ、しばらくすると、板前が出てきて、杯に酒をそそぐと、他の客から「おさかな」といって唄を贈る。唄が終わると、さらに酒を満々とそそぎ、それをのんで隣の人にまわす。そして、すべての客がのみ終わると一応酒宴はお開ききとなる。この地方では、「終わる」、「切れる」、「別れぬ」、「いぬ」、「さる」等のことばを嫌う風習がある。
 しかし、この「お開き」は、名目だけで、酒豪たちは、夜が明けるまでのみ続ける。そして、最終の客が大きな杯で「わらじ酒」をのんで帰る、という風習があった。

 

2.離婚について
 いかに盛大に結婚式や披露宴を催しても、離婚する者がいくらか出ることは、今も昔も変らない。
 ただ、個人を中心に考えて結論を出すという風潮のなかった戦前においては、離婚者に対する風評は暗いものがあった。そのために本人は勿論、家族、親族にいたるまでがいやな思いをしたものである。
 この地方では、離婚に際して、次のような離縁状を書いていた。

 離 縁 状
其方事、我等勝手ニ付
此度離縁致シ候、然ル上ハ
向後何方ニ縁付候共差構
無之仍如件
    年 月 日
       氏 名  ■
  殿

 これを「三下り半」というが、このようなけじめをつける風習のあったことは、この地方の人々の律義さを物語るものといえよう。

 

3.出産について
 この地方では、’妊娠五ケ月目の戌の日に岩田帯を嫁の里から贈る風習がある。
 大正十年ごろまでは、とりあげばあさん(神山町では、堀井のおばあさんが上手であったといわれる。)がいた。勿論、誰の手もかりずに自分で産む人もたくさんいた。
 産室の天井から太い荒縄をつるし、(この縄を力綱ともいう)それをにぎって陣痛をこらえたり、俵を置いて、それにだきついて出産するなどの方法が用いられていた。
 また、畳をあげて竹の篭や、藁を敷いて出産したともいわれる。
 後産は、入口の敷居の下の人のよく出入するところに埋めておくと、子どもが丈夫に育つという俗信がある。
 へその緒は木綿糸で切る。無理をして出血しないよう4〜5日から一週間もかけて切るのである。
 神山町では、昭和41年に出産設備の完備した母子センターができたので殆んどの人がここでお産をしている。
 同町の浜ロハナヱ氏(明治27.12.1日生れ)は、五十数年の長い間産婆の仕事を続けた人で、昭和49年11月3日に勲六等宝冠章を受彰されている。
 その人の産婆道具は、聴診器、計診器、計温器、計量器、切さつ糸、それに、消毒液であった。
 神山町は、昔から比較的経済的には豊かであったのか「まびき」の風習はみられない。
 命名は、出産から八日目におこなわれる。大正のころまでは、神主に名を見てもらう人が多かったが、最近は、たいてい親がつけている。名付の日、赤んぼうを父親か祖父の膝にだかせ、選ばれた名前を書いた紙片を頭の上にいただかせる。そして、頭つきの魚をのせた膳を前におき、神酒を指でつけてねぶらせる風習があった。
 以上、まことに断片的で粗雑な調査結果に終ったが、後日又機会をみてほりさげてみたい。この地域は、本県の中央部に位置するためか、短日時であったが、今後の研究の上に多くの課題をみつけることができた。このことは、私にとってなによりの幸なことであった。
 本調査研究にあたり、格別のご指導とご協力を賜わった神山町教育委員会、町文化財保護委員会、それに、浜口ハナヱ氏、伊藤クニヱ氏に対し深甚の敬意と感謝を申し上げたい。


徳島県立図書館