阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第22号
神山町の民具

民俗学班 中野幸一

1. はじめに
 いよいよ70年代の後半をむかえたが、わたしたちが耳にしたバラ色の未来学は姿を消しつつある。産業公害や自然の破壊、人間性の喪失など、予期もしなかった事柄が周囲に充満している今日この頃である。人類の未来を見定めることは著るしくむづかしくなってきた。こんなとき、人々は原点に立ちかえることを要求される、人類を地球上に住む生物群の一員として見直すエコロジー(Echologier)の考えもその一つであるし、歴史をひもとき、古代史にさかのぼって人間とは、生活文化とは、物質文化とは、人間の幸福とは……、間うて見るのも意義のあることである。
 われわれの先人が繰り返し使用してきた伝承的なくらしの道具、いわゆる“民具”を調査研究することも、これら一環の仕事であるといえる。
 ところで、わたしたちの周囲にはこうした環境破壊と同時に、生活様式の破壊、いわゆる生活様式の変化がもたらす破壊がどんどん進められている。たとえば、老朽住居を建て替えたり増築したとき、そこにあった生活用具の数々は焼き捨てられ埋められてしまう運命にある。これは「生活文化の破壊」といえるものでなかろうか、また幸いにもこれらの用具がマニアによってコレクトされたとしてもそれは単なる形骸であって、そこにはこれを使う生活も、それを作り出す業も、人間の生活の知恵の集積も、そしてもっとたいせつなかけがえのない心も一挙に失なわれてしまうのである。(さいわい識者の提言によって昭和29年12月文化財保護法が制定され“民具”を有形民俗資料として保護・収集され研究の対象として具現されたことはよろこばしい)。加えて、たいせつなことは、こうして失なわれていく生活文化の破壊はここで用いられた道具の消滅とこの道具を作る業が共に無くなってしまうことである、このことは自然破壊以上に重要で、人間の本性を心を失なってしまうといっても過言ではない。
 そこでこれを未然に防ぎ記録・伝承することはゆるがせにできない。その道具類がいつ、どこで、誰が、どんな方法で、どのように使用されたか、ことばを変えれば産業考古学(Industrial archneology)とも称すべき意味をもっている。
 叙上の理念に基づいてこの期の調査においては次のことがらにつき、すでに消滅したものあるいはなくなりつつある事象にスポットをあて結果の報告をしたい。

 

2. 調査の対象
 1.竹細工   (広野・長瀬)
 2.おたまの製作(神領・西野間)
 3.紙漉き   (神領・小野)
 4.線香水車  (神領・谷)
 5.山林作業  (上分・奥屋敷・府殿)
 6.農業およびくらしの道具(神山町全域)

 

3. 調査の内容
1.竹細工
 当時、鮎喰川上流の両岸には豊富な竹林が群生し、竹細工用材として多く使用されたが護岸工事や開墾などによって次第に減少し現在では絶無に近く主として山林中に植栽した竹を利用する場合が殆んどとなった、工人も同じように減って僅かに数名が細々と生産に従事している。しかも相当の高年令者である当然需要もすくなくなり、合成樹脂の竹細工のイミテーションの品物にとって変わられた。
 ところで、盛業時の様態を聞き取りを中心にしてこの地の竹細工の概要を述ベよう。
 1.竹製品の種類と名称
 古くはこども達の遊戯用の竹馬・竹トンボ・竹ガン具にはじまり物干竿・センバコもの歯・竹ボウキ・熊手・火吹き竹・魚焼用の竹串など生活の実際に即して深くくらしの中に溶けこんでおり、特に自家使用の目的で生産されたものが多かった。そのご工具や技術が進歩し、まとまったものが生産されるようになり編組のかなり複雑なものは専業の工人があらわれ付近の需要に応えた。しかし遠くまで移出されるようには至らなかった。
 編組を基盤としての竹製品には図2のごとく◎1 カゴ(1 クワカゴ・2 タナカゴ・3 イモフリカゴ・4 ビンカゴ・5 メカゴ・6 ツリカゴ・7 センダクカゴ)◎2 イカキ(8 タマイカキ・9 クチイカキ)◎3 (10 オオミ・11 コミ・12 ツチミ◎4 トウシ(13 スミトウシ・14 トウシ)◎5 漁具(15 ビク・16 モジ(ウエ・ノド)、17 ツツ・18 ヤナ)がある。


 2.竹細工用工具
 竹細工のために用いられた工具類はその種類もいたって少く、機能的にも極めて原初的でこの地区における特殊なものはなくどの地方にも散見されるものである。これには、1 セン 2 ナタ 3 タケボウチヨウ 4 ハサミ 5 タケビキノコ 6 ヨツマタ(とんぼ) 7 ユビアテ 8 シノギサシ 9 スベコキ(ひごぬき)などがある。


 3.生産の方法
 では、どのような方法で一個の竹製品が編みあげられるのだろうか、この点一人で竹細工の最初から最後まで仕上げていくのを原則とし、旦つ、これを段階的に編んで仕上げたことである。これを端的にいえば一個仕上げて次の一個を最初から仕上げるのではなくある段階まで何個も編んでおきそれらを一括して次の段階まで編み更に仕上げていくという方法をとっている。いわゆる“段階分け生産方式”であった。このやり方は実際的にみて仕事の能率があがりまた材料の有効な利用に好便であったことなどが関係するのではあるまいか。次に大きさの決め方であるが、現在われわれが類推するような尺貫法によるものではなく、身度尺(しんどじゃく)(Corporal medsure)とも称すべき、身体の各部を基準にして割り出したと伝承されている。たとえば足の文数と手指の全長、脛の長さと手首から肘までの長さ、両手を左右に伸ばした長さ、片腕の長さ、さらには手指の長さや二・三本の指を並べた幅であったりなど、こうした計測によって大きさを決めていった(なお、こうした計測は全国的に共通性がある。それは「日本の尺度」望月長与著の中にも詳わしく述べられている),次に、編み方のパターンはそれぞれ品物によって千差万別であるが基本的に分析してみると図4の如く12種類の範疇に属している。
 4.竹細工の材料
 使用する竹材は、竹製品の種類によっても異なるが一般的にはマダケ(真竹)が最も良いとされているが虫害の欠点がある。そこでハチク(淡竹)やモウソウ(孟宗)などが相当量使用された、伐採の適期は8〜9月が最もよく、これ以外に採ったものは虫に弱い、そんなときには蒸気で消毒処理のうえ用いた伐採後は共に天日乾燥を8〜10日前後行なうと同時に色抜をした。また、肉部と皮とに割って使用するが皮のところは上等品に肉部のものはこれに劣る。
 ともあれ、かつての竹細工は最近の合成樹脂製品にとって変わられ生産に手間のかかる編組の技術はもう消えつつある。これらがくらしの中で生きのびていくためには単なる実用品としてではなく、デザインについて一考し民芸品として或は地元の特産品としての考慮を払うべきであろう。

2.おたまの製作
 大きな鉄鍋に煮こまれた豆腐のミソ汁のこれをすくう木製のシャモジ、ふつうこれを“オタマ”または“オタマジャクシ”と呼ばれており、現在のような金属や合成樹脂製のものが使われる前はすべてこれであった。年輩者にとっては郷愁をそそるものであろう。
 さて、この神領の西野間に、おたまを作っていたところが古くは5軒ほどあった。その後2軒に減り大正・昭和と約50年余り続いた、つい最近まで1軒だけ残り生産していたが数年前これも消滅してしまった。幸いなことに当時の経験者が現存、貴重な生産工程のあらましを聞き取り記録にとどめることができた。その概要を次に説明しよう。
 1.おたまの材料
 当地にはおたまの適材がなく山を一つ南に越えて上勝の仁尾の山中まで取りにいく、ふつう“ハリの木”と呼んでおり材質も極めてすなおでやわらかいものである。また、“ホウの木”などもときおり用いられるが殆んどハリの木だそうである。木の樹令は大体、目通り直径7・8寸〜1尺程度のものを使用する。適木が見つかったらそこで伐採し引き続き長さを約一尺余に輪切りする。次にこの木口に接線状に図5のようにナタを当て木ヅチでポンポンと叩くときれいに割れ、ちょうどおたまの頭と柄と同じような厚さになる。次にこれにナタかチヨウナで両側を削り頭と柄の形に荒ごしらえをする(図5の1・2)


 こうして材料の木取りができたら現場で小石を積みクドをつき上に材料を並べ下から雑木を燃やしその煙で乾燥させる。ちよっとしたコツがありあまり強火でたかないで弱火で根気強く、そのうちだんだんと黄ばんでくるから適当なときを見計らい取り外す。
 すべてこれまでの仕事は現地に数十日泊りこんで仕事をする。このことを“野どり”といっている。野どりについて若干補足しょう。野どりの時季は春ものの蒔きこみをすませた4月半ば項から9月下句頃までの間山に入る。その間時おり木取りのできた材料を家に運んだり、食料その他の日用品などを持っていく。山入りの持ちものは野どり道具(ノコギリ・ナタ・割りナタ・オノ・セン)と生活用品(米麦・ナベ・ミソ・ヤサイ・小屋の中に敷くムシロ・フトン1枚・着換えの衣類少々くらい)で背負いこみで持ちこんだ野どりの山小屋は、炭焼き小屋のようなもので、ナタの柄を尺ざおとして長さを決め、小枝で骨組みを作り屋根や壁をカヤとか笹でおおい、内部の中央には炉を堀り両眼に一枚ずつムシロを敷くのを原則とした、照明はふつう手ランプにより炉のわきに杭をさしその上において夜おそくまで作業した。
 こうして山で荒作りした材料は冬場に家で仕事をして完成する。その仕上工程の概要は、まず材料を庭にこしらえた池にスッポリ漬け水分を十分に含ませ木をやわらかくしたあと、これを取り出し直径1尺余りの木台の上におき、ちょうなで頭をまるめて大体の外形をつくる、ついでこれを図5の仕事台Aの円形の凹みにはめこみクリガンナで凹みの部分を一気にすくいとる要領で削る、これをまた向きを入れ変え同じ操作を施し、内側が完成、つぎに仕事台Bに材料を固定し左足でおさえ,右手でセン、ナタ、チョウナを扱って外形をきれいに仕上げ、そのあと柄を補修してできあがる。大体1人前の職人で1日50本前後こしられるのが普通であった。
 仕上げ用の工具類は図6のように、1 ナタ・2 クリガンナ・3 チヨウナ・4 ツチ(かし製)・5 コガタナ・6 セン(スグセン・マガリセン)・7 ヨキ
 このようにして作られたおたまは50本を1組として束ね売却、当時は時季毎に佐古の問屋から仕入れに来ていたが5・6年前からこれもなくなった。

3.紙漉き
 小野を中心にして手漉き和紙の生産があった、ここ数年前まで1軒が残り行なわれていたが現在ではすべて消滅した。当時の紙漉の様態を述べよう。


 紙の主原料は野生のカジ(コーゾ)の木の皮をむいて水に漬けこみジケ(あく)を抜く(一昼夜)、はじめに石灰をもどしてすすだき、次にソーダを沸かしたところへ皮を入れて煮く(平釜使用)そのあと川(鮎喰川)へ運び十分に流水で洗って晒し一緒にソーダのジケをぬく(川ザラシ)、ちょうどこうした作業は1月のお注蓮あがりから始めおそくとも6月の上旬頃までに終る。特に極寒を中にして行なわれた。土地の人は川の水がカミツクといわれ大変な作業であった。こんなために生活の知恵としての図7のようなオケグツなどが考えられたのであろう。どうして涼しい夏分に仕事をしないのかと聞くと、材料が腐ったりまた紙が純白に仕上らないためだそうである。次に石灰水を量に応じて沸かし煮て、されて来たらアクを抜きタンクから掛け流し十分に白くなるまで晒す、ついでタンクからイカキであげよりわけ、これを石板(イシバン)の上に置きカシのたたき棒で夜ッピイてたたき繊織を粉粋する(30年程前からピータ(粉粋機)を共同購入してこの仕事を機械化した)以上が紙の原料の作り方である。次にいよいよ紙を漉く。
 まず紙漉きの道具には
1.フネ、すきぶね、カヤの木を作って作る、くさらないためである。
2.マンブリ、ふねの中のコーゾをかきまぜたり、コーゾとニベを混合するときに使う。
3.スとケタ、スは竹の節を除き極めて細いものを編んで作り、ふつう土佐より購入した、ケタは木製の枠で、大ゲタ16枚取り(障子紙)・8枚ゲタ(8枚取り)6枚ゲタ・4枚ゲタなどがあり、大ゲタの使用は1人前の職人、4枚ゲタは老人・子ども用。
4.オシイタ、漉いた紙をあげる台、水切りの時上からジャッキを掛ける。
5.ジャッキ・水切り用のプレスに使う、古くは置き石や天びんであった。
6.カミホシイタ、巾2尺長さ8尺厚5分のカヤの板、これに紙を貼って乾す。
7.ホウキ、カミホシ板に漉き紙をなでつけるのに使う、クグ・ワラスベ・シュロなどで作る、紙にキズをつけないようにサッとはきつける。チョッとしたコツがいる由。風のないとき一気に天日乾燥、日光に晒すと純白になる、ときには急に風が出て吹き飛ばされる時もよくあった。
8.タチ台・カマ、規定寸法に裁断するときの道具。
 なお説明が前後したが紙漉きのときノリとしてニベを入れる。これはサナの木の皮をむいて煮きカゴに入れてジケを取り袋でこして作る。またニベイモ.トロロイモ.トロアオイ等と称するものを用いることもあった。

4.線香水車
 町内には豊富な川水を利用した水車で線香の原料を作る場所が二ケ所ある、しかし一ケ所はすでに破損.原形を僅に留めるのみ、残りの一台は盛業中。この線香水車の実測は図8の如くである。古くから現在地にあったが昭和13年風水害で破損したものを改修したものがこれである。主として線香の原料になる杉の葉を粉粋して粉末にしている杉の葉は地山より購入、秋口から春の彼岸までが適期、その他のものはだめだそうである。


 水車は24時間連続運転、夜間は主としてケンド(ふるい器)を動かしている。製品は市内の問屋へ卸している。さて、水車の大きさは直径18尺(5、4m)矢、32本16角形をしておりこれに水受けが64個装着されている。水車の水は川上から水路で導びき水量を調節する加減ぜきを設け絶えず一定の水が水車に働らく仕掛けとなっている。車を止めるときには水車の水はせき、川へ落すせき板をはずす。きねは水車の心棒にしかけられた弾ね木によって2.3秒間隔に上下させる。若し一つだけ止めるときには別個に止め木がついている。臼は水車を中心にして左右に6個ずつ、計12個、また右端にはイガグリ器(杉の葉と茎を分ける)左端にはケンドを備えている。
 建物は二階建、上部には材料、下部にうすがある。上部の穴から材料を下に落すと、ちょうどイガグリ器に入る機構になっている。作業は常時1名で行っている由。

5.山林作業
 山仕事として下草刈りや樹木の伐採、植林管などに必要な手道具の類でその種類は極めて多くそれぞれ仕事の内容によって使いわける。基本的なものとしては図10のように1 チヨ−+2 ノコ(オガ、マエビキ、改良)3 ナタ4 カワムキ(スギカワ・マツカワ・シュロ)5 カマ(エガマ・カリヤケ)6 トビ(キマワシ、イカダ)等をあげることができる。たいてい町の金物店で購入する。ときには刃先だけを買い柄の部分は各自が扱いやすいように手作りのものをすげる場合も多い、また刃先は絶えず鋭利に保つためいつもトイシは現場へ携行していく。

6.農作業・くらしの道具
 山あいを縫って田・畑が開懇され米・麦その他たばこ等の耕作がなされている、それぞれこれ等に必要な農耕具は専用のものがある。しかし最近における機械化の波はこうした山村にまでも普及し、大きく変わりつつある。こうした中で若干の道具を次に紹介しよう。
 1.キンマ(木馬)
 山地特有の自然力と人力を調和させた陸上運搬具、ソリが雪や氷の上をすべらせて人や物質を運搬するのに対し、木馬は地面の傾斜をうまく利用して滑らせ運ぶものである。そのため時には地面に棒を横に並べすべりをよくした木馬道を作る場合もある。さて、木馬には普通ソウダイキンマとハギキンマの両種がある前者はすべてカシなどの硬木で作る、後者は木馬が台とハギに分かれダイを軽くスベリ部に堅木のカシをつけたものである。
 ちょうど図11がこれで典型的な木馬の構造のものである。普通、材料を提供して地元の大工に作らせたり、器用な人は手作りをする。大抵の農家に大・小2・3台は常備していた。


 2.ヒノミ
 麦わらで木綿のボロ布を包み数箇所稲わらで結束し腰に携げられるよう縄をつけたものである。図12のように民具とはいえないが、夏期の農山林作業でブヨやカを追うためには欠かせないものである、この端に火をつけ腰にさげ特有の煙りや臭を出す。またこうした類型のものは各地区に散見される。(上勝・宍喰・etc)


 3.タウス
 一名籾摺臼と呼ばれているもので、籾をすって皮を剥ぎ玄米にするもので、大体江戸時代から使われたと記録されている。しかしこのタウスはちょっと時代が下り変ったカラクリがなされている。それは図13のようにウスの横に受け箱がセットされ、回転と同時に中に備えつけのほうきが玄米をはき集め一ところの口から、自動的に出る装置となっており、なかなかユニークなものである。このタウスの操作は2・3人でテギを握り前後に押し引きすると上臼が回転して籾を摺る、かなりの労働がともなうので唄など唱いながら時には夜ッピイて仕事をしたそうである、くらしの汗がにじみこんだ貴重な民具の一つであろう。


 4.オイダイ(負台)
 物を運搬するには車に乗せる、手に携げる、肩にかつぐ、頭にいただくなど多様である、このオイタイは背に負って物を運ぶときに用いる道具。こうした形式のものは全国的に分布しており、それぞれ用途に応じて特有の名称を付している九州の鹿児島などではカリコとかカルイなどと呼んでいる。図14のオイダイの使い方を述べると、大抵の場合モッツイ(下草のこと)たき木、肥料などを運ぶのに使い、要領はこうしたものを台にそえ上から縄をかがりキクビ(上部の曲がった木片)を通してしめこみ固定し、オイヅルを両手に持ってヨイショと肩に振り回してにない運搬するものである。大体女子衆で10貫余、男であればこの数倍の荷を運搬することができる、なお、多くの場合台と直角に爪が、2本つけられているがこれにはそれがない。製作は地元の大工が作る。中には器用な人の手作りもある、一軒に2・3個のオイダイはもっていた。

 5.ミノ(簑)
 ミノは現在の雨合羽のことである。図15のものは材料をシュロからとったもので手作りである。大体このようなミノを一枚作るためには棕櫚の木の皮の赤い元の部分が約50枚前後必要である、そこで1枚作るのに5・6本の木がいることになる。そして1枚に1人半工程、手間がかかる、5・60年前まではそれぞれの家庭内に誰かはこの製作技術をもっていた、当時はこんな意味から毎年定期的に和歌山から講師を招き講習会をもったそうである、現在ではもうミノを作る技術のある人は皆無である。
 またこのミノには材料によって、ワラミノ・スゲミノなどがある。概してこの付近はシュロミノの分布が多い。

 6.ヤネフキドウグ(屋根葺道具)
 萱葺屋根の葺き替えに用いる道具である。その主なものは図16のように1 オオガギ(ヤネタタキ) 2 ハサミ 3 ハリ 4 テイタなどがある、なお、これにシブカキ・カヤサシ・ヘラ・ヤネカマなどが併用される、オオガキ・テイタは硬木で自製、ハサミ、ハリは購入する。またハリの柄は長短数本を竹かまたは真直な硬木を差し込んで作る。屋根の葺き替えは専門の職人がおり、これに部落衆が寄って手伝い何れにしても共同作業であった。さて、屋根葺職人のスタイルは縄帯にカマをはさみ、腰に玉状に巻いた縄をさげている、職人1人に助手2人が原則、助手の1人は屋根裏にあがり職人と声をかけ合いなから作業する、やり方の聞き取りを記そう、まず職人がハリの穴に縄を通してカヤの上から刺し込むと、中にいる助手が縄をハリから外し合図する、次に職人はハリを抜きとりちょっと位置を変えてタルキをまたぐように刺してくる、すると助手はこれにはじめの縄をハリ穴に通しオーと合図すると職人はハリを抜くこれと一緒に縄がもどってくる、これをとって十分にカヤを締めこみ男結びに結ぶこの動作を繰り返しどんな屋根も葺き上げてしまう。最後に棟のイラカ作り全体をハサミできれいに化粧して完成する。


 7.フゴとメンツ(畚とねつぱ)
 フゴは一名サゲフゴ・ベントウフゴ等とも呼び主として農山林の作業用道具や弁当などをこれに入れ携行するためのものである、また、町への買物袋としても用いられた。材料は地山のシユロや稲ワラ等を主材として自家製、しかし、最近はこうした技術の保持者は殆んどいなくなった。メンツはところによってメンパともいわれ弁当箱のことである、主として農山林の作業時に用いられた、旅行などには杷柳製のものであった。これは主に町の荒物店から購入したものである図17は稲ワラ製のフゴと生ウルシ塗りのメンツである。

 8.イタチバコ
 ところによっていろいろ形の変った捕獲用の道具が見られるが、何れにしてもカラクリによってネズミ・イタチ等を捕えるために使うものである、なまえも、単にワナといったりイタチワナ・トマコトリなどとも称している。図18は箱部の大きさが28角・高さ24の桝型の容器の一端に出入口の穴をあけ、両側に柱を立て上端を笠木でつなぎ、その中央に棒を通し下端に押え板と重しのため石灰に土を混ぜ練り合わせ盛りつけてある。器用人の手作り品、操作は箱の中に紐のついた餌(小魚の類)を入れこの紐を押え板にセットしておくと餌をイタチがツツクと自動的に押え板が落下して捕えるといったものである。

 9.ハリボテ
 図19は竹製の篭に障子の張り替のためにはがした古和紙を数枚ノリで張りつけ、その上から渋(渋柿から作る)を数回塗り重ねてこしらえたものである。日用品の小物類をこれに収納して保管した。当時としては現在のように紙箱など豊富でなかったので非常に重宝がられ、竹製の空き篭があれば暇を見てはハリボテをこしらえたそうである。なお、名称としてはハリボテのほかにシブハリカゴなどともいわれている。こうした技術の類型として讃岐の“イツカンバリ”がある。これは郷土民芸品としてかなりの販路をもっている。地元の産業の一環として小野の和紙と提携してこうした技術を農村工業の中に生かして実用化してほしいものである。

 10.ヤゲン(薬研)
 固形物を押し潰して粉末にする民具で、古くは硬木をこうした形に彫って作ったものがあった、それから比べればこれは時代がちょっと下る。図20の薬研は鉄製で極め頑丈な木製の台がセットされている。使い方は鉄の円板を貫通した杷手を両手に持ち片膝を立て体重を両腕に支えて加え舟型の皿の中を前後に強く動かすと、皿中の固形物が粉砕されるものである。ところでこの薬研は猿の頭を黒焼きにしたものを、これで潰し丸薬を作り病人に服用させた由、肺病に特効があり伝え聞いて遠くより買いに来たそうである。

 11.ハタドケイ(機時計)
 これは機織りの付属品で、カセ糸の長さを計測する道具で、図21のようにクロスした枠に糸を、ドンドン巻きつけていくと歯車の作用によって後部に設けた棒が上昇していき一定のところまで達すると一気に下に棒が落ちコトンと音がする。これによってどれだけの長さの糸がカセになったかといったことがわかるものである。カラクリもなかなか精巧で歯車などもすべて手作りである。

 12.トウダイ(灯台)
 これは幅30高さ55で、材料は地山のスギで大工に作らせたものである。これにはないが、周わりに和紙を張り奉灯、○○姓と墨書したものである。図22のように内部に灯芯皿を備えこれに種油を注ぎ灯明とした。正月や祭礼時に門口に揚げたものである。

 13.シヨウメイヨウグ(照明用具)
 明りの歴史は長く古くから大きな変せんがある。その一時代の照明具として取りあげたのが図23の用具類である。テシヨク・ランプ・チヨウチンなどそれぞれその時代の必要民具であったものである。灯芯はローソク、種油など、一般的傾向に属している。

 14. キヨウダイ・ハリバコ(鏡台・針箱)
 当時としては女性の命としての鏡台・針箱・精巧で、ほのぼのとした暖かさをいまに伝える作品図24の左が鏡台カガミ2枚これを1枚カガミ立てに掛けるひき出しにはカンザシ、コウガイ、・クシ、タボその他化粧品などを収めた、右は針箱、ひきだしには糸・ハサミ・布片など上部の桝型の箱にはハリを刺し、そのよこにモノサシを立てる穴があけてある。なかなか機能的で造形美があり現代デザインの中に置いても十分環境とマッチするものである。

 15.イレコ(入れる)
 一つの箱の中につぎつぎとスッポリ入るように作られたもので、底と蓋がセットするようになっている。正月や祭礼のときなど当時は相当のご馳走を作ったのでたくさん入れものが要求され、これに応えておそらくデザインされたものであろう。なかなかユニークでしかもコンパクトである。主材料はヒノキでウルシ塗り仕上げとなっている。こうした発想は現在のような住宅事情が中に積極的に導入すべきでなかろうか。図25

 16.キバチ(木鉢)
 ハンボウやメシビツのような桶細工の技術が現われるまえはすべて木を刳りぬき作ったものである。図26は直径2・3尺もある大きなタラの木(シシダラ)を二つ割りにしたものを略々円形に整え中側をゴートバツリと呼ぶノミでコツコツと根気強く彫ってこしらえたものである。大体これを作るには1人半工程を要したとのこと、大きさにはこのほか大・小さまざまあり用途によって使いわけた、ダンゴの水練りやスシ・赤飯を入れて人前に出すなど現在のハンボウの役目を果たしたものが多かった。

 17.ハイガン
 図27は酒の燗(かん)をする道具ですてがたい造形美の味がある。この中に約1合の地酒を入れイロリの灰の中に差しこんでおくと僅かの時間でカンができるものである。一名これをサシコミとも呼んでいる、材料は素焼きで主に川島焼のものが多い当時は荒物屋で購入した、もうこうした民具も、イロリの消滅と共に姿を消した。

 18.コタツ・ヤグラ(炬燵・櫓)
 このごろは電気ゴタツや電気毛布の普及のため図28のようなコタツやヤグラは過去の遺物となってしまった、右のコタツは川島焼、ときには大谷焼も散見された。この中に小鉢を具え、これに火(タドン・木炭)をついでさしこみフトンの中で暖をとるものである。左のヤグラもやはり、この枠の内に火鉢を置き上にフトンを掛ける。共に火を用いるのでよく倒して火事の原因となったり、火加減がむずかしく途中で火の消えるときもあった。

 19.アミダ堂
 阿弥陀如来を祀ったところで数ケ所この形式のものが現存する。民具とはいえないが年中行事、くらしと大きな結びつきがある。古くは屋根は萱葺であったが最近こうした材料の入手が困難となったため図29のように瓦葺に変った、当時はこどもや青年達の集会の場であった。そんなこともあり、よこには力石が2個あった。おそらくこれで力比べなど行なったものであろう。また隣りには庚申堂などもある。

 

4.おわりに
 幸いにして神山町には旧庁舎を利用しての〃神山町郷土室〃が設けられ民具・民俗資料の数々を収集・展示されている。郷土を知り先人の労苦を学びとる好個のものであろう。ところでこうした資料の整理には末だ完成されたものがないが将来の研究を期待したい、さて、民俗学班の一員としてこの地区の民具を調査しましたが、何しろ浅学の上非才十分に調べ得ず今後の精進をと自戒いたしております。
なお、この調査に当っては地元の教育委員会やその他多数の方々の暖かいご協力やご指導をいただきました、忘れることはできません。最後になりましたがここにそのご芳名を記し謝意を表します。

(敬称略・順不同)
○滝 脇亀一     〇大粟玲造
○山本久男     ○森下重一
〇向定義      ○垣内光雄
○西尾八十八   ○小川晴之
○山下 吾郎     ○坂本秀利
○坂本さわの     ○小西 正
○小西ひさの     ○松本京一


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