1 調査の概要
阿波学会の勝浦郡総合学術調査に参加した郷土班は、勝浦郡における古文書・古記録類の発掘と整理という部門を担当した。
事前計画としては、このたびの対象地域が、幕末期から昭和24年ごろまでの間、石炭の産地であったことから、これらに関する史料(古記録、古文書など)の収集に重点をおいた調査活動を考えていた。
そして、この計画が能率よく且効果的に実施できるように、あらかじめ予備調査をおこなった。
その結果、
(1)石炭採掘に関するものは、その経営の主体が民間資本によって行なわれたため、旧町村役場などの公共機関には、これに関する記録類は全然なく、民間においても、これらの記録はほとんど所蔵されていないことがわかった。
ただ、唯一の手がかりは、最後まで勝浦町生比奈炭山で操業していた、大阪市の石原産業株式会社に保存されている記録によるか、現存されている当時の関係者から聞きとる以外にはないということがわかった。しかし、このような悪条件の中でも、可能な限りの調査活動を行なうことを決意して現地にのぞんだ。
(2)それに反して、勝浦・上勝両町には、由緒ある家系をもつ名家や、かつて庄屋戸長・村長など村政にたずさわった旧家などが多く、それらの家には、質量ともに豊富な史料が所蔵されていることがわかった。
そこで、調査期間やその期間内の行動範囲などの条件を考え合わせて、
勝浦町では新開家、日下家
上勝町では美馬家、山本家
の四家を選んだ。
そして、両町教育委員会を通じて、所蔵史料の提示方について、それぞれの家に依頼しておいた。
2 調査の結果報告
1)石炭採掘について
このことについて、勝浦町教育委員会を通じて石原産業KKに対して、資料の提供を依頼してあったところ、つぎのような回答があった。
昭和49年7月9日
勝浦町教育委員会教育長
桜木義夫 殿
大阪市西区江戸堀上通1丁目11
石原産業株式会社
取締役 大西良夫
旧徳島炭山に関する件
掲題に関し、調査結果を別紙のとおり御回報します。尚、何分30年近くも前のことにつき、関係書類の保存倉庫の調査に手まどり御回答がおくれましたことを御容赦ください。
別紙
1.操業までの経緯
この炭山は、生比奈村を中心として、おおむね東西に分布している。
明治35年ごろから神戸在住の九鬼子爵により経営されていたが、交通不便のため、勝浦川を利用し高瀬舟で搬出していたと伝えられる。
その後、経営者は幾度となく代って、昭和17年7月、高須重彦氏の手に帰したが、業績は遅々とてあがらなかった。
もともと、ここの石炭はコークス用炭として嘱目されていただけに、軍需産業には重大な関係があったので、徳島県県会議長や四国各県の行政長官らの有力者が中心となって、大阪鉱山監督局において会議が開かれ、席上当時の本社々長石原新三郎に後援を求められたので、経営を引き受けることになった。
2.事業開始の時期
昭和18年なかば頃から開発準備にかかった。
炭質の一例
品位は水分 15.00%
揮発分 22.38%
硫黄分 8.34%
灰分 51.69%
固定炭素 24.36%
発熱量 4,800カロリー
骸炭性粘結炭
3.操業中の大きな出来事
特になし
4.閉山の時期およびいきさつ
終戦後、産業の平常化にともない、炭質、炭況の不利な当炭山の経営に将来性を欠ぐこととなったので、昭和24年1月閉山することを決めた。
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ところで、勝浦郡志(大正12年)には、石炭山 棚野村元標より南の方8丁余にして、竜田山の北面中腹にあり。発見は文政9丙戌年仲春、その後中絶し又明治4年春再起す。出高凡そ1万貫、その質よからずして、明治5年10月休鉱す。
とあるが、文化9年開鉱を証する史料は、まだみていない。
また、明治14年徳島県統計書に、
棚野村字竜田山
明治7年開坑 7,219坪
生名村ウチカネ名
明治7年開坑 5,310坪
正木村字古請
明治13年開坑 50,000坪
(中角村六兵衛奥
− 10,400坪)
とあることによって、明治7年に再び採掘が始まったことがわかる。この中角村を除く三炭坑の開坑人が、兵庫県淡路国津名郡山下町士族稲田植里となっていることに注目して、その解明に力をそそいでいる中で、班長森甚一郎の所蔵文書から、つぎの史料が発見された。
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この二つの史料は、旧藩士としては最高の地位にあった稲田、長谷川両氏が、勝浦炭山に投資していた事実を示している。
これは、明治維新後の激動期において、版籍奉還、廃藩、それに続く禄制改革等によって、生活の基盤が崩れ果てた藩士、中でも家老、中老という高級武士が、生きんがために如何なる道を選んだか。興味あるこの問題の一端をうかがい知れたことは、望外の大収穫であった。
2)諸旧家所蔵史料について
(A)上勝町福原 山本家とその所蔵史料
山本家は、元祖丹右衛門(明治6年卒)、2代快兵衛事兵次(安永5年卒)、3代与吉(文政13年卒)を経て、4代兵次の代にいたって苗字帯刀がゆるされた。
次の5代芳郎は幕末期に与頭庄屋となり、さらに明治新政下においても、引続いて用掛あるいは副戸長などを勤めて、村政につくした。ご当主英和氏はその曽孫にあたる。(勝浦郡史)
今回の調査において、最も重点的に、時間をかけて入念に調査した結果、同家所蔵の全史料を分類し、次に掲げるような史料目録を作成することができた。
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* 山本家所蔵史料目録
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* 所蔵史料の解説と紹介
目録を一見してわかるように、さすが代々村役人をつとめた家柄だけに、いわゆる村方文書(村役人が職務遂行上作成したり、保管している公的文書)が豊富にある。特に貞享3年の検地帳は、京都大学でもその存在を重視して、すでに研究のため同家から借り出していることが、「京大」の付箋がついている個所が所々にあることでも、それを知ることができた。
また、土地・貢租関係の文書も多く保存され、特に明治初期に行われた地租改正に関する史料が、ほとんど完全に近い形で残されていることに注目したい。
上勝町は今、「温泉とみどりの町」をキャッチフレーズとして、観光事業に大きい期待をかけ、その中心施設として、町営の月ケ谷温泉センターを建設している。この月ケ谷温泉も、古くから山本家が個人で経営したもので、地域の人たちの湯治場として、したしまれたものである。
同家所蔵の中から、それに関係あるものを紹介しておこう。
目録番号90 薬湯営業願
鉱水湯
■岩壁ヨリ■水 尤白滑ノ冷水ナリ
入浴度数
■通常一日五度 身体強ナル者ハ七度 弱ナル者ハ三度
入浴三週間日間ニ至リ効験アリ
主治功能
■ 疝症 帯下 瘡毒等ニ功アリ
右者従来営業仕候ニ付御検査之上御差支無之候ハバ御免許被成下度因テ此段奉願候也
高知県阿波国第十大区第三小区
勝浦郡福原村四拾壱番地居住
平民 山本芳郎
二等戸長 美馬要治
高知県権令 小池国武 殿
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(B)上勝町瀬津 美馬家とその所蔵史料
美馬家の先祖は、一宮長門守の家臣美馬助之頭で、一宮落城後勝浦川の上流瀬津村に入って帰農した。その後の消息は不明であるが、貞享3の検地帳に五人与助右衛門(享保4年卒)の名が出ている。次の分右衛門(宝暦9年卒)まで五人与であったが、次の周蔵(安永8年卒)の代にいたって庄屋となった。以来、喜太次(文化4年卒)、覚郎(文化3年卒)、周蔵(天保10年卒)と続いて庄屋をつとめた。泰次(安政7年卒)を経て要次(幼名鶴吉)は安政5年14歳で瀬津村庄屋となり、同6年には福原7か村の与頭庄屋となって幕末を迎えた。明治新政下においても、里長、戸長、村長などの要職を歴任して、村政につくした。(勝浦郡志)同家のご当主は治文氏である。
同家には600通に余るぼう大な量の村方文書が所蔵されているが、これについては昭和33年に県立図書館の手によって整理分類され、「美馬文書目録」が作成されている。
今回の調査に当って、上勝町教育長香川甫先生の特別のおはからいで、現在美馬家に保管されている史料の全部を、借り出すことができて、宿舎において既在の目録と対照しながら確認作業を行なうことができた。(美馬文書の大部は現在県立図書館に保管)
その結果、新たな文書を多数発見することができ、それを加えると総数は684通に達した。既存の目録の上に、新史料を加えたものが、下に掲げる目録である。(○印のついた文書が今回の調査で確認されたもの、◎印の文書は今回の調査で新たに発見されたものである。)
* 美馬家所蔵史料目録
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(C)上勝町福原 山崎家と所蔵医療関係史料
山崎家は文化年間から代々医を業とした家であったが、その所在地は標高500m、(勝浦川沿岸からの標高差は300m)けわしい山道をあえぎあえぎ約50分登らなければ行けない山間にある。
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司家の家系について勝浦郡志には、天保10年に死んだ主膳を開基とする漢方医家で、その子周平(天保14年卒)に至って、隆庵、光益の2人の子があったが 兄の隆庵は文政13年早世したので、弟の光益(嘉永5年卒)が医道を継いだ。その子周平は幼名を一源といったが、明治2年に逝去した後は後継者がなかったので、医系が絶えたとある。
しかし今回の調査で、同家を訪問し、現主久雄氏から聞いた同家の家系は次のとおりで、勝浦郡史の記述とは大きい差がある。一応現在の方を正として、その家系を図示すると次のとおりである。
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初代周平は本家から分家独立し、医師となる。(文化6年、年59と記した写本あり)。長男劉庵は早世(主庵と記した写本あり)。次男主膳が兄に代って医道を継いだ。この人が紀州の華岡青洲の門に入って、約10年間西洋の進歩的な外科、産科の技術を修得し、帰って医業に従事したが、いくばくもなくして30幾歳の若さで死んだ。この人の事歴、特に華岡青洲の門人であったことは今まで、ほとんど知られていなかった。同家の所蔵する多数(本箱6個)の医学書や医療器具はこの時に収集されたものであり、本県医事史研究の貴重な史料である。
主膳の死後、光益、一玄と家を継いだが、いずれも若死したので、医師になると早世するというので、源太以後は医師になることをやめたという。
調査当日、提示された多量の史料の整理作業中、突如高地特有の激しい雷雨に見舞われ、そのため約30分間は作業の手を休めた。そのようなアクシデントがあったので、全史料にはとても目がとどかず。やっと1/3についての所蔵目録が作成できたにとどまった。
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その所蔵史料目録はつぎのとおりである。
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* 所蔵史料の解説
この目録でもわかるように、古くは寛文年間から文久2年にわたる約200年の医書が収集されており、中でも文化・文政期のものが多いのは、同家医家としての最盛期を示すものと考えられる。
しかも、それらの書籍や写本のいたるところに朱注がほどこされたり、書き入れも随所によって苦心研究の跡が見られる。
医療器具類も数多く所蔵されて、それらによって当時の医療法のレベルを知ることができるようである。
なかでも、往診用の薬箱はいくつもの引き出しのついた精巧なもので、その中には膏薬など昔のままのものが残っている。また下段の引き出しは、薬サジやハサミ、メスなどのほか、出産用のものと思われる各種の器具が巧妙にセットされている。(写真参照)
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![](2120/21kyodo_fig08.gif) ![](2120/21kyodo_fig09.gif)
このように山崎家には多くの史料が保存されていることを報告するとともに、今後、医学専門家によって、さらに専門的な調査研究が行われることを期待したい。(この頁、喜多・青木 調査)
(D)勝浦町与川内 篠塚家とその所蔵史料
篠塚家はもと勝浦町与川内の山ふところに居住されていたが、当主太郎は横瀬町の町筋で旅館を経営されている。
今回の調査に当って、同家を訪問して家人との対話の中で、同家は、
(1)旧富岡城主新開遠江守道善の家臣であった。
(2)新開氏が富岡落城後、摂州伊丹に逃れ伊丹氏と改姓したが、阿波に帰り新開姓にかえった際、主家の旧姓を継承して伊丹氏と名乗った。(其後今の篠塚と改姓)
ということを知った。
その後の調査で、今市正義・米田賀子共著「新開遠江守とその家臣団」によって、
・遠江守道善勝浦郡丈六寺敗死仕−中略−家来 南条、湊、今木、細山、志賀、遠藤ら17〜18人早速勝浦郡横瀬村住―後略―
・新開次郎少輔事初代伊丹又四郎此者根元苗字新開ニ而御座候富岡落城後摂州伊丹江奔走後勝浦郡横瀬邑隠住伊丹又四郎改名法名妙光院梅眠道清居士。―後略―
の二史料と、篠塚家所蔵文書の中に「伊丹姓」と記名あるものを発見して、家人の話は実証された。
![](2120/21kyodo_fig10.gif)
同家所蔵史料は、かなり長期間にわたって箱に入れたまま放置されていたので、整理に手間どったが、確認された同家所蔵史料はつぎのとおりである。
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![](2120/21kyodo_tab08b.gif)
![](2120/21kyodo_tab08c.gif)
・史料の一部紹介
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目録番号3 勝浦郡中地租改正組織 高知県令
代理少書記官 小山正武 命令書類簿
今般当県阿波国拾都地租決定ニ付之ヲ達ス此決定ハ各郡総代人曽テ組織セシ所ノ地位ヲ種トシ総代委員顧問人等ノ衆思ヲ参集シ各方面主任官員ノ意見ヲ参考シ尚且地租局出帳官員検査セラレタル処ニ照シ全国各府県既済租額ヲ照シ実ニ其適当公平タルヲ信スル也盍シ結果ハ官民協身就中人民一同善ク其本分ヲ重シ盡力シタル効居多ハ不俟言此上へ更ニ一歩ヲ進メ速ニ其地価帳ヲ整理シ郡民ヲシテ休息ニ就カシメヨ
明治12年卯3月29日
方上村
田反別 百六町八反三畝十六歩
内 四反七畝
収米 千五百廿八石四斗五升○一勺
地価 千五百廿八円四十五銭
地租 千五百七十八円五十銭
畑反別 六町九反二畝拾歩
収麦 九拾七石九斗八升七合
地価 弐百九十八円八十二銭八厘
地租 五十四円九十七銭
宅地反別 六町壱畝弐歩
此地価 弐千六百五拾三円七十銭九厘
地租 六十六円三十四銭三厘 (以上略)
(E)三溪 新聞家と横瀬立川の日下家
新聞家は、さきの篠塚家の項で掲げた史料が示すように、天正10年丈六寺で敗死した旧富岡臼杵城主新聞遠江守道善の弟道清を祖とする由緒ある家柄をもつ旧家である。今回の調査で再度訪問したが、当主茂雄氏のご不在のため、予定していた調査はできなかった。
ただ拝見した御位牌によって、先祖道清の法号が、「妙光院梅岸道清居士」とあって、前掲史料の法号と差異があることを報告しておく。
日下家は、横瀬から勝浦川左岸に沿って、がけっぷちの細い道を約5キロほど山ふところにはいった所にある。山けわしく谷深く、祖谷にも必敵するほどの秘境である。
日下家の先祖は、戦国の昔、伊予三島から落ちのびてきたと聞いたが、正に落武士が隠れ住むには絶好の地形である。
その後、江戸時代には、藩の御林番や林目付などを勤めた家柄であるから、それらに関する史料を所蔵されていると、期待をもって訪問したが、ここも当主裕道氏が不在で、その目的を果たすことができなかった。
この日下家の母屋は、玄関をはさんで、右に下男部屋、左に下女部屋が対称的に配置された特異な建築様式をとっている。民家建築上貴重なものであるので、家屋平面図を作成した。(藤目正雄指導)
3 おわりに
以上のように、当初の計画において選んだ勝浦町の新開、日下の両家はわれわれを快く受け入れて、調査に協力的であったが、ご当主の方の不在で、所期の目的をはたすことができなかったのは、残念であった。しかしこのマイナスは、篠塚・山崎両家によって完全に解消させるに余りがあった。
行動期間中に、調査・分類・目録作成までの作業を終えることができたのは、ひとえに各家のご好意とご協力、また、それまでに事が進ぶよう万全の準備工作をしてくださった両町教育委員会のご尽力のたまものであった。筆をおくに当って、これらの方々に深い謝意をささげます。(河野) |