阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第21号
勝浦川上流の婚姻習俗

民俗学班 岡田一郎

1 はじめに
 世相の変貌によって、婚姻習俗は大きく変りつつある。このことは、長い歴史の展望によって考察すると、さらに明確にその変革を知ることができる。
 そして、私たちは、その過程において古くから変らぬものと、変ってしまっているものに気づくのである。
 また、婚姻習俗は、地方によってかなり大きなちがいがある。徳島県下においても、北方と南方、都市と農村のちがいがみられるし、吉野川上流と那賀川の上流では異なるものがある。
 私は、徳島県下の婚姻習俗を数年前から調査しているが、本年度は、勝浦川上流にスポットをあててみることにした。


2 調査対象地域
 徳島県勝浦郡上勝町八重地


3 八重地部落の考察
 八重地は、勝浦川上流の高丸山(1438m)の山下にある。ここへの道は、徳島市論田町から県道を勝浦川にそって約40kmのぼる。みかんの本場勝浦町をヘて上勝町にはいり、旭小学校から更に上流へ約4kmのところにある。
 八重地の集落は、県道から約60m、標高約100mの河岸段丘の上にあるので、うっかりすると通り過ぎて後にもどることが多い。
八重地には、現在45戸があり、その95%が農家である。そして、この村にしては大きすぎると思われる菖洞寺院長楽寺と薬師堂瑠璃殿がある。寺には、文明5年(1473)の記銘のある鰐口が保存されているが、寺の建物は江戸後期のものである。


 また、西の山手に氏神神社がある。この二つの社寺は、ゆきとどいた管理ができており、村の人々の信仰心の深さをうかがうことができる。
 八重地集落形成の特色を最もよく物語っているものは、井地と株内の組織である。


 河岸段丘を利用した水田耕作において、命のつなは水である。この地には、竜王権現をまつる、いわゆる水神さんが三か所あり、その湧水池を中心に、日日井地、西井地、下井地の三つの小集落が形成されている。そして、同じ湧水を飲む者はすべて親族であるという観念がある。
 また、株内の組織は、祖先神(若宮さん)を中心に、上組、ばこ組、田中組、喜田組、岡組、中氏組、西名組と7つの株内があり、昔から、八重地7組45株という。

 
 これらの株内組織の風習は根強く、昭和30年代まで続いたといわれる。村祭や部落の行事などは、株外の者は正式に参加できなかった。他町村からの移住者(来り人)や分家人は、部落総会においては指定席が与えられなかったのである。また、1年に一度水飲料として2円(大正時代)を総代におさめなければ村内在住は許されなかった。そして、株内にはいるためには、株保有者が他町村へ転出するときに株を買って仲間入りする以外は方法はなかったのである。
 このようにして、水田20町、畑8町歩の田地を基盤として自給自足の生活が守りつづけられた。そのためか従来から戸数の変化は少なく、きわめて閉鎖的、封建的な部落共同体の組織が維持されてきたようである。
 また、この地は、「八重地牛」で全国に知られている。旧教科書にかかれていたほどである。
このように、山深い八重地は、勝浦郡でも特色の多い地域であるといえよう。


4 婚姻習俗
 以上述べてきたような勝浦川上流の八重地部落にどのような婚姻の習俗がみられるか、それをさぐってみたい。
 1 婚姻の形式
 阿波の婚姻形式で最も古い形であるといわれる掠奪結婚の奇風がとの地でもみられる。古老の話によるとこの風習は明治年代まで続いていたといわれる。
 掠奪結婚のよび名は、「嫁かつぎ」とか、「嫁かたぎ」とか、また、「嫁さんぬすみ」、とかいわれていた。
 2 若連宿
 若連宿は、若いし宿ともいう。この地域では、15歳になるとフンドシをしめ若連の仲間入りをし、25歳で退役する風習があった。
 若連は、村の祭事をはじめ、警備にいたるまで大きな役割を果していた。このようなことから若連が村の原動力となっていたともいえる。「よばいの風習」や、「嫁さんかつぎ」の風習も村の若連の特権として古くからうけつがれてきたのである。
 この地の若連の常宿は、村の薬師堂や氏神さんの舞台であった。人々は、この若連宿を「よばいやど」とも呼んでいた。


 また、冬は部落の前にあった小山(現在は水田になっている)に番小屋をつくり若連宿としていたときもあった。これは、火の用心と村の警備をかねたもので、よばいが盛んなほど村の警備が強力であったといわれる。
 男女交際の場は、土用の入り前後のみそ,しょうゆうを作るときの粉ひき場、もみすり場などが盛んに利用されていた。交通の不便なところであるが、それでも峠をこえて、福原、落合、相生、沢谷方面からも若連がやってきたという。
 このようにきれいな娘のいる家や村へは自然に若連が集まってきたので、粉ひきも楽であった。そこで、娘のいない家では、近所から娘をやとってきて粉をひいてもらうという状態であった。
 若連が集まると麦粉と湯茶がだされるもの普通であるが、もみすりのときなどには、カユかごもく寿司のでることがあった。
 この地方では、みんなが食物をもちよって飲食することを「メオイ」といっているが、「メオイ」の風習は今ものこっている。
 若連がよると、こひき歌やもみすり歌(おすがた節)がよくうたわれ、歌合戦に興じることもあった。
 3 通婚圏
 きわめて閉鎖的な地域であるだけに、村内婚が主で長く続いていた。そして村外婚、遠方婚へと広がりはじめたのは近年になってからである。
 その他、通婚の傾向として特色のあるのは、那賀奥から八重地にくる嫁はあるが、八重地から那賀奥へ行く嫁はなかったことである。これは、八重地の米を那賀奥へ移出していたためと思われる。
 また、比較的日和佐や橘から嫁にくる者が多かったのは、干魚の行商人の出入があったためと考えられる。
 4 ななの制度
 この地方では、嫁入前に半年〜1年間相手方に住みこんで働いてみるという風習があった。「なな」とは、女中のことで、一度女中奉公をしてみて、相手方の両親に気に入られたら正式に結婚をするというもので、いわば嫁入試験制度のようなものである。
 普通、「なな」の期間は、盆から正月までの間で、その給金は6〜8円(大正時代)であった。
 嫁をもらうことを、手まをもらうというが、この地方では近所に嫁をもらうと、そのよろこびのあいさつに「お手まをもらいまして、おめでとうございます。」といっていた。
 5 嫁入仕度
 嫁入のこしらえは、はりばこ、鏡台で1さお、はさみばこが加われば2さお、長もちで3さお、かさね戸棚で4さお、というようにかぞえられていた。普通は3さおであったが、その家の経済力によって4さお以上のところもあった。
 この地方でタンスを持参するようになったのは、大正以降のことであり、それまではかさね戸棚を持参していた。このかさね戸棚は、おくを通して2人でかけるようになっていたので狭い山道を運ぶのには便利であった。
 このようなかさね戸棚のほかに、ふとん入れを持参するものもあった。


 6 結婚式と披露宴
 ・たのみ
  明治のころまでは、一般農家においては、「たのみ」のしるしとして、前かけ、じゅばんのえりなどをもって結納がわりにしていた。お金になったのは大正以降である。
  式の日取りは、節分日みずといって節分の日がいちばん多く、そのほか、正月の前後、農閑期がえらばれた。
 ・おくり火,むかえ火
  嫁が生家を出るときに、わら火をたく風習はあったが、茶わんを割る風習はない。
  村の若連たちは、嫁さん行列を村はずれの峠まで送り、道で火をたく、これがおくり火であるが、先方の村では、峠まで迎えにきて火をたく、これがむかえ火である。このような風習が明治のころまでおこなわれていた。
  嫁さん行列は、嫁と仲人夫婦、かみゆいさん、かいぞえ、嫁の里のあととり、おじ、おば、たるもち、ふんどしもち(荷物のことをこの地方では、ふんどし持ちといった。)人数は、偶数になるよう構成しなければならなかった。
 ・嫁さん見
  この地方でも嫁さん見はにぎやかであった。嫁さんのみやげは、きざみたばこが多かった。見物人のだれかが、いんろうをあつめて縄でしばり式場にほりこむと、きざみたばこをつめてかえす風習は昭和の初期までつづいていた。ていねいな家では、外にむしろをしき、にしめと酒を出してもてなしをした。こんなとき、見物人が酒に酔って内より外がにぎやかになることもあったといわれる。
 ・料理
  披露宴には、すいもの、さし身、すがたずし、なます、こんにゃくのしらあえなどがでる。山深いこの地方では、海の魚は入手困難であるため、養殖の鯉がつかわれていた。そして、料理方は村の器用な男がうけもっていた。
 ・あそび酒
  あそび酒は宴席でよくおこなわれた。これは、酒場の余興である。方法はあそび酒道具を用いておこなうもので、数人の者が輪になって、なかの1人が目かくしをし座頭となり、松、竹、梅、鶴、亀、歌のついたサイコロをふる、すると座の者が、「ザトウサン、ザトウサン、サイタサカズキドコエイク、ココカエ、ココダヨ、ソコダヨ」とはやして当てさせ、大、中、小の盃をのみほすか、歌をうたうのである。このさまは、いかにものんびりした酒宴風景であったといわれる。


 7 あるきぞめ
  結婚式がおわると、むこの母親が嫁をつれて近所や、親せきのあいさつまわりをする。これを、あるきぞめ、または、はつあるきという。
  あるきぞめは、戦前まで正装のままであるいていたが、最近は衣裳がえをしてあるいている。
 8 主婦のあかし
  人妻となったしるしとして、おはぐろをつけることと、まゆ毛をそりおとす風習があったが、この地方では、その風習が大正のはじめまで続いていた。
 おはぐろつけの方法は、ヌルデの木につく五倍子虫の巣を粉にし、タンニン酸(鍬の先のさびたものを使う)にまぜて、おはぐろわかしでとかし、筆で歯にぬりつけるのである。


 おはぐろつけは、1ヵ月に一度ぐらいおこなうが、とくに旅行や外出時にはていねいにおこなわれた。それで、おはぐろつけの道具箱は、主婦にとっては欠くことのできない化粧道具であったといえる。
 このようなおはぐろ道具は、常におくどさんの裹におき(道具箱がはいるような穴をつくってある)のこり灰であたためて保管していた。これは、あたためるだけさびがこくなるからである。
 おはぐろをつけることは、一見不衛生にみえるが、昔の人は、歯の健康のためによく、歯が丈夫になると考えていたらしい。
 まゆおとしは、かみそりでていねいにそりおとすことである。
また、おしろいは、おしろい花の実をとってつけていた。
 べには、常にべにちょくにつけておき、必要なときに指先でつけた。「べにさしゆび」の名は、そこからき たものである。
 9 隠居制
 親は、息子が嫁をもらうと別棟に住む風習がある。これを一般に隠居制とよんでいる。
  この地方でも隠居制は古くからおこなわれていたが、祖谷の隠居制のように、別棟を建てて隠居する家は稀であった。しかし、各部屋にはいろりが切られ、いつでも世帯を別にすることができるよう準備されていた。
 家の大きさは、普通5間×2間で、6間×3間の家は少なかった。間取りは、茶の間・中の間、奥の間、表の間があり、それぞれの部屋にいろりがきられていた。

 
 そして、隠居の場合の部屋の使用割当ては、例えば、もし、家の中に3組の夫婦ができたら、若い夫婦が茶の間と奥の間をつかい、父母は表の間・祖父母は中の間に住むという風習があった。
 隠居した場合の財産の分配は、普通隠居地は4/10とされていた。
しかし、水田耕作などにおいては、引きづくり(牛で荒田をひくこと)は、若い者がやり、その後の手入れを年寄がすることになっていた。
 10 その他
  (イ)出産について
  出産については、大正の中頃まではとりあげばばにより、とりあげていた。
  産気づくと、奥の間の産屋に入り、わらむしろの上にすわり、天井からつるした産の綱につかまってじんつうをこらえ、とりあげばばの手によって出産するのである。このように、産婆の出現までは、産婦は座って子を産むという時代が長く続いた。寝て産むのは近年になってからである。
  出産の無事を祈願するため、伊予の子安地蔵や、奥州の塩釜神社の信仰がとりわけこの地方では厚いようである。
  産忌に、火を別にすることは他郡市と変らない。
  へその緒と産ぶ毛をとり、生年月日をかいて袋にいれて保存しておき嫁入りのときもたせる風習は、名地でおこなわれていた。しかし、一命にかかわる重病のとき、それをせんじてのむと必ず一命をとりとめることができるという信神はめずらしい。この地方の人々のなかには、今もこのようなことをおこなっている人がある。
  (ロ)幼児の健康法
  この地方には、幼児の健康法として、ななはた子(七機子)というものがある。これは、7人が織った布切れをもらってきて、つぎ合わせて着物をつくり、それをきせると丈夫な子に育つというものである。
  また、健康な母のおこしや、じゅばんの布切れをもらってきて、身につけておくと健康な子になるともいわれる。
  また、「ひろい子の親」になるというものがある。これはうまれた子が病弱なとき、あらかじめ健康なよその親にたのんでおき、道端に子供を置き、ひろってもらって名をつけてもらうと丈夫に育つというものである。この場合、ひろい子の親には、生涯礼をつくさなければならないことになっていた。このような風習は、昭和のはじめごろまでおこなわれていたという。


4 おわりに
 この調査にあたり、上勝町の香川 甫教育長をはじめ、亀井宏紹氏、井上善夫氏の格別の指導とご配慮をいただいたことを記し、深甚の敬意と感謝を申しあげて稿をおわりたい。
 S49.8.5


徳島県立図書館