阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第21号
上勝町の民家

郷土建築学班 四宮照義

1.はじめに
 四国山脈の東の高峰、剣山地より紀伊水道に注ぐ勝浦川の上流地域に上勝町がある。西は高丸山を隔てて木沢村の沢谷に、南は信義峠を越えて名西郡神領の山々につづく、山間の地域文化性に富んだ小文化圏を形成している。
 此の地に民家調査に入ったのは、昭和28年と29年に広浦貞男氏が「阿波南部の農村建築」の表題で、昭和33年には藤目正雄、平野芳男両先生が「勝浦川上流民家平面を見て」と題して、福原村(現上勝町福原全域)の民家調査を行ってこの地の地勢、産業、生活状態等、民家に関連附随している事柄を詳細に民俗学会誌に報告している。
 次に昭和48年8月、文化庁の民家緊急調査があり、奈良国立文化財研究所の宮沢智士先生の調査団に私も随行して調査した。
 昭和49年8月、阿波学会勝浦郡総合学術調査には、徳島県住宅課の正木義一氏と共に参加した。
以下これらの調査の概要をまとめてみることにした。


2 上勝町の民家編年表
 阿波の民家は各家々に棟札が必ずと言ってよいほど棟木に取付けられている。これは全国的にみて珍しいもので、阿波民家の一つの特色となっており、年代を経た家では、修繕した年にもその旨の棟札が古い棟札と共に残されている。
 多いのは4枚も保存されている家もあって、最古のものはその年代がはっきり読めない状態である。家相を考慮して間取り図を書いた「絵図面」も多く保存されている。
 又、建築の際の記録として、見舞、金銭記録をしたためた「普請帳」も大切に残されている。この年表は調査した民家の棟札に記入された年代をもとにして、古い順から並べたものであるが、一覧表にしてみると、間取、構造等その時代の特徴と発展過程がよく表われてくる。


3 間取呼称について
 江戸時代における日本の民家の基本間取りは、各地方に於て少しづつは異なってはいるが、一般には土間→居間→座敷→寝室と発展しているのが普通であるが、徳島県の場合も同様に次の4つの基本形があり、その発達過程においては幾分変化している。
i 横一間取・・・土間と床上一室をもつ間取りである。この間取りが見られるのは、吉野川平野地域の藍作民家と、阿波漁村民家に昭和35年頃までは見られたが、現在は取りこわされているものが多い。


ii 横二間取・・・土間と床上2室を桁行方向に並列する間取りで、徳島県の剣山周辺の祖谷、木沢等の山地村落の古い民家に多く見られる間取りである。従来は「三つ間形式」の平面構成と呼んでいたものであるが、宮沢先生は、これを新に「横二間取」と呼称した。
 この間取りは、独立したネマをもっておらず、ザシキやオリマのユルリの廻りで寝るのが普通であり、この形式は江戸時代を通じて維持されて来ている。元禄7年に建てられた峰家の間取りが代表される。(年表参照)
iii 中ねま三間取・・・横二間取りの土間に接する室の後部に寝室に区画したネマを独立させた間取りであり、宮沢先生は「中ねま三間取り」と呼称した。この間取りも「横二間取り」と同様に剣山周辺地域に分布している。宝歴元年に建てられた笠松家の間取りが代表される。
iv 四間取り・・・床上の部分が、ナカノマ、オモテ、ダイドコ、オクの四室からなる間取りである。この間取りは山間部では不整形四間取として分布している。整形四間取りとしては、吉野川流域の平野地に19世紀頃よりの民家によく見られるものである。上勝町では寛政年間に建てられた坂口家、文化15年に建てられた大上家の間取りが代表される。
 その他武家では接客部分の部屋、シモノマ、カミノマの二室が加えられて「六つ間取り」も表われてくる。


4 県下最古の医師の家
 勝浦郡上勝町福原の月ケ谷温泉保養センター前の県道で車を降り、小さな谷川に沿って杉林の急な山道を30分程登ると、ポツンと一軒屋が見つかる。一見山間の農家の構えであるが、家の中に入って驚いた。この家は江戸時代末から明治の初めにかけて、五代にわたり医者を開業した山崎家である。医者をはじめたのは周平(初代)で漢方医だった。周平には子供が三人いた。長男の隆庵が21才で亡くなったので、次男の主膳を幕末の外科医としてその名をはせた和歌山の華岡青洲(1760〜1835)に入門させた。青洲門でもトップクラスの成績を修め、3年間の修業の後、文政11年(1828)記念として恩師の肖像を絵師に描かして持ち帰った。(写真参照)


 帰郷後、漢方、オランダ医学、さらにこれらを折衷した外科医学を、弟の光益へ、光益の子市原へと受けついだが、どの人も短命で、「医師をしていると早死する」と市原の没後、弟の源太の代になって医者をやめて農業を営むようになり、その子繁蔵、そして現当主の久雄氏(75才)に至っている。


 現在の家は、嘉永5年(1852)に光益が建てたのを、文久2年(1862)に現在地に移築したといわれる。切り開いた山を背に、ウシヤ、オモテ、ナヤ、ドゾウが建ち並ぶ。オモヤは、木造平屋約80u、寄棟造りの茅葺きで、四方下の庇は杉皮葺きで、いかにも山間民家らしい趣であるが、中に入ると式台をもつ玄関構えで医者の家らしい格式がある。上ると、昔は患者の「待合室」になっていた玄関の間の六畳には、近くの人は勿論、遠く那賀奥あたりからも、高名を頼って治療を受けに訪れた人々で満ち溢れたという。右手の四畳の間は「診察室」であったという。この部屋には格子の出窓が付いている。ゲンカンの左手には、マエノマ、オモテの座敷があり、トコ、書院の整った書院造りの構えで、青洲の65才のときの肖像画が飾られている。床の間の横に上下二段の戸棚があり、これを鏡戸といい薬を入れておいたという。年代を経て黒く光っているのかと思ったが、よく見ると漆塗りである。
 また「ナヤ」には手術器具や、青洲の教えを口述筆記した医書、オランダ語の本など珍しい書物約50冊が大切に保存されている。平面図及び配置図は次の通り。


5 民俗建築用語
 民家調査には、その土地々々について家屋の各部の名称は独特の呼び名がついている。上勝町民家調査で拾ったものを書きとめておく。
◎ナゲシ(長押)・・・上勝町の格式ある旧家では、主だった部屋に上部に廻している。それには「釘隠し」も打ってある家も多い。長押の大きさは普通厚さ1寸1分、成3寸5分の平角材を用いている。(例.上勝町福原山崎久雄氏宅)最近の長押は長押挽き材を用いるのが普通であるが、上勝地方の様に木材の豊富な所では、製材機のなかった昔、原木を角材に落とし、さらにそれを平角に割った程度で使用している。
◎カヅライシ(蔓石)・・・主屋建築の際、地均しする時の目安として主屋の周囲に、その地方で産する石を使用して、平均地盤を構成するものであり、屋敷地より5寸程盛り土した土止め石の役目をしている。山間部は屋敷内の敷地は、すべて水平にするのが難しいので、屋敷地の高低差により主屋と付属家(牛屋.納屋)との「カヅラ石」の高低は異なっているのが普通である。
◎カソウズ(家相図)・・・敷地の方位的地取りの要素を確認する為、敷地の形態を方位により地割りし、主屋の位置、付属屋の位置方向を決定するために作成する配置図的なものである。古くは建築する場合に、ほとんどこの家相図を作成し検討したものであり、現在も各家々に保存されている家が多い。家相図には12支により敷地にそれをあてはめて、建物の位置方向が決定されているものが多く、特に鬼門、裏鬼門は重要視され、真方向(東西南北)について特に便所、井戸の位置が検討されていた。
◎イズミ(泉)・・・山間部の民家には井戸はない。岩から湧き出る水を利用して飲料とする。普通裏山の岩場から出る水を利用するのであるが、中には遠く離れた泉から筧を通して水桶まで運んでくる。泉には不純物の混入を避けるため、その位置、覆等が考慮されている。
◎ダイコク(大黒)・・・主屋の心柱のことで「大黒柱」とも言う。材質は欅、椎、栗等の堅木を用いるのが普通であるが、その他檜材も使われている。特に木沢村の古い家では「オオビ」と言う木を使った家もある。大家では大黒柱、小黒柱を一対に使っている。徳島県の民家では、18世紀初め頃より大黒柱らしいものが表われはじめ、19世紀世になると殆んどの民家に大黒柱を用いるようになる。大黒柱は内庭と座敷との境界に位置し、大きさは6寸角位が普通であるが、なかには1尺位の大材を用いるのもある。大黒柱の基礎作りは、先づ土地を掘り下げて、石又は大真棒胴付で搗き締める。これを「ベカ■」とも言う。その上に角石又は円平石の経2尺以上の大石を置く。大石には柱の心に当るところに太柄をうがっている。ところによっては、この太柄に味噌をのせる。これは防腐と柱と石とのなじみをよくするためと言われている。ダイコクに対して小黒は「ムコウダイコク」(向大黒)とも言う。その家に長男が生れると、命名札紙を大黒柱に貼るのが慣わしであるが、その場合、入口に向う側に貼るのが常である。


◎ドマツチ(土間土)・・・民家の主屋の「ウチニワ」に敷きつめる土を言う。山間地方の民家では、その土地の山土をそのまゝ敷きつめて固く打ち均しただけのものである。上勝地方の赤土(山土)は石灰分を含んでいるのでよく締ると言われている。
◎コウリョウ(虹粱)
◎イシグチ(石口)
◎ザナラシ(座均)・・・山間民家の古い家の床組構造材の名称である。その構造を図にすれば右の通り。
◎レンヂ
◎デンヂ
◎ゲンヂ・・・約200年以上経た古い山間民家のナカノマとオモテの間仕切の上にある大材の粱を言う。古くはデンヂと呼び、鴨居と梁を兼用したもので、その上にもう一つ梁が二重に渡されている。
時代が下ってくると、深く出した軒を支えるため粱を前に出すことになるが、この場合、向って左の梁を「源氏」、右の梁を「平家」と呼んだり(那賀郡の民家)「太郎」「次郎」と呼んだり(海部郡の民家)する。
◎オニ天井・・・寛政頃(BC1790)までに建てられた古い民家の部屋の天井の張り方である。厚さ2cm〜3cmの天井板の下に5cm×8cm角位の根太のような鬼■を45cm位の間隔で受けている。勿論、天井裏には屋根裏の部屋として藁等を置いた物置代りに使用している。
6 おわりに
 上勝町の各民家には、建築年代を確かめる棟札が大切に保存され、しかも各時代の棟札が次々と見つかったので、年代による平面構成や、建築構造等の変遷が明らかになったことは大きな収穫であった。勝浦川上流に何時の頃からか住みついて、営々と幾百年、山間の生活をして来た人々が残してくれた文化遺産を大切に守って次の世代に引継いで行かねばならぬ。上勝町は徳島県民家の宝庫として素晴しいところである。又、この度発見された山崎氏宅は、徳島県医学史研究の資料として貴重なものと考える。今回の調査に際し、上勝町役場、県立図書館、奈良文化財研究所の宮沢先生、県教育委員会文化課の生野先生の方々から御指導、資料等提供下さったことに厚く謝意を表したい。


徳島県立図書館