阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第20号
文化九年宍喰浦棟附帳

古文書学班 猪井達雄

〈はしがき〉
 宍喰町公民館に蔵せられている近世史料を拝見する機会があり、その中で大部と思われる棟附帳を研究させていただくことにしました。この大部な棟附帳は表紙に「文化九申年海部郡宍喰浦棟附人数御改帳」と墨書され、たて30.2センチよこ22.5センチ厚さ6.0センチ和綴であります。筆者は、これを解読し、家数三百三拾四軒を一表にまとめ各面から解読をこころみました。宍喰浦の昔を語りかけてくれる古文書との対話をしていただきたいというのが筆者の願いであります。


〈本 文〉
 棟附帳の表紙をめくりますと一枚目に「御蔵加子」というのがでてきますが、これは、御蔵地(藩直轄地)に住む加子という身居を示します。加子は、楫子(カヂコ)の略あるいは櫂(かい)の原語カにコ(子)を付けたとかいわれ、一説には応神天皇が淡路島で狩りをしていた時、鹿の皮の衣を着た人達が舟を漕いで来たのをみて彼らを鹿子(カコ)といったことから加子といわれたともいわれますが、加子、水手、水夫とも書き、本棟附帳には御水主とも書かれています。つぎに一壱家、基右衛門歳弐拾七とでてきますが、これは、イッカとはいわずイッケと読み独立した一軒前の意であり、それとともにここの戸主は基右衛門という人であり年齢が弐拾七歳であるということを表わしています。つぎに「此者本家平右衛門儀先年死絶エ相成候ニ付此度壱家ニ付上申候」とあり壱家にどうしてなかったかということを記載してあります。つぎに「壱人基右衛門妻はる同弐拾五」「壱人同人継母たか同五拾」と書かれ、基右衛門の家族構成を表わしております。
 つぎの項をみますと御蔵加子小家基右衛門叔父和吉歳六拾、此者前書基右衛門父基平二弟ニ而文化元子年別家仕候(中略)牛壱匹と書かれています。これは、さきの壱家の分家である家の状況であり家族構成とともに、牛壱匹を保有していることを示しています。
 以下このように壱家、小家と順序よく集団として一族ごとに記載されています。そこで御蔵加子は身居欄に、壱家小家の別欄、壱家小家の成立を生国出所欄に、戸主を筆頭者欄に、別家養子その他の欄、奉公(稼)先、牛、馬、船などの欄にわけて一表につくりますといろいろなことがよくわかります。
 身居に郡付浪人壱家田井久左衛門歳三拾五というのがでてきますが、これは浪人のうち高級な職をもつ者に与えられた身分で苗字帯刀を許された村役人支配外の身居であります。またつぎに御鉄砲小家田井恵助歳三拾八があり、また小高取格壱家与頭庄屋百々伊之丞四拾六があり、その家の下人があります。また御蔵加子順兵衛影というのなどがあります。この下人は家来の意、影というのは壱家の小家にはなっているが貢租については壱家が負担しているので、その疵護下、すなわちその影でくらしているというのが、その意であります。つぎに見懸人というのがありますが、これは夫役がかからず見懸銀という貢租が課せられるもので、その村へ移住してきた紺屋とか鍜治屋とかの職人がこの身分であります。また来人というのがありますが、移住してきても籍がない者という意であります。そのほか御蔵巫女というのがありますが、神に仕えて神楽祈祷を行い、神意を伺って神託を告げていた者であります。
 つぎに郷村浪人壱家斎藤彌助四拾九がありますが、これは、村役人支配下の浪人のことで、御判形人であった人であります。
 これら身居を、棟附末尾に集計してありますが、それを記しますと、
「家数合 三百三十四軒
   内三百拾六軒 自分家
   同拾八軒 市中他郷稼並借宅
    加宿人共当浦ニ家無御座分
内壱軒 大師堂
同五軒 寺
同壱軒 部屋
同壱軒 小高取
同弐軒 右下人
同弐軒 郡付浪人
同壱軒 郷付浪人
同壱軒 巫子
同弐百六拾八軒 加子
同四拾弐軒 見懸人
同拾軒 来人
となっております。ここで部屋というのは、お寺の部屋、浄土宗願行寺の尼恵明をさしていると思われます。本来的に部屋といえば、壱家の中で、伯父とか伯母とか弟妹とかを棟附中に示し本棟附帳の中にも若干ありますが、この集計にはあがっておりません。大師堂は、真言宗真福寺の大師堂守観随のことであります。そうしますと、御鉄炮があがっておらず大師堂と部屋があがり、加子は私の集計したのは270になり記載の268とは二軒の差があります。御鉄砲を加子の中にふくめ、大師堂と部屋をのぞき合計しますと334軒になり、私はこれを一表にしたわけであります。ところが、この加子の中に御水主、御船頭というのがあります。
「御水主 壱家 勝五郎
 御船頭 壱家 浜田儀之亟
 御水主 壱家 百々久和作
 御水主 壱家 吉蔵
 御水主 壱家 嶋村楠之丞
 御水主 壱家 鹿蔵
 御水主 壱家 秀八
 御水主 壱家 新八郎」で
これらの家は、安宅御水主として召出された家々でうち七軒は安宅に一軒は沖洲に住んでいたことが書かれています。
 安宅役所で御船手方を勤めるのは中老の森甚五兵衛・森甚太夫の両家であり、戦時には水師となり水軍を指揮することになっていました。そしてその系列に加子をさしずする船頭三十数人があり、苗字帯刀を許され、安宅、沖洲に屋敷があったということであります。加子役はおよそ四百人ほどあったといわれますが、御水主は関船を漕ぐ率であり、特別の訓練がされ、そのため安宅には胴高けいこ船五隻が常備してあったといわれます。阿波水軍のにない手が宍喰浦からもでていったことがわかります。
 予備軍である加子が御水主に召し出されますと、御水主壱家嶋村楠之丞歳三拾弐というようなことになるわけであります。この家の項をみますと、先年安宅御水主に召し出されて安宅御奉公しているが、その間は加子役銀安宅役とも免除し、退身すると加子役をするよう申しわたされています。また沖須にすんでいる御船頭、壱家浜田儀之丞の家をみますと、先年安宅御水主に召し出され只今は御船頭になっているが、勤中は加子役銀、安宅役とも免除し退身の際は所並の加子役を仰付けるということになっています。御水主、御船頭とも苗字を許されている者と許されていない者がありますが、この苗字を許されていた者は勤中帯刀が許されていた者と思われます。御水主より御船頭が上級のようですが、棟附記載にはかわったところはみあたりません。
 これら水軍の出身地である宍喰浦に船はいくらあったかを帳末にみますと、
 「船数合  五拾九艘
   内   三艘廻船
   同   五拾六艘漁船」となっております。
 この廻船は、江戸時代では、江戸大阪そのほか諸方の海上で運送を専門とする船で二百石積以上のものを大型、それ以下を小型といっていましたが、本帳には、
 御蔵加子小家しち忌外正八 拾三反帆廻船壱艘
 御蔵加子壱家平兵衛 八反帆廻船壱艘
 来人  壱家嘉市郎 八反帆廻船壱艘
となっております。拾三反帆、八反帆などという反(端)は船の帆を数えるのに用い筵一枚の幅三尺を一反といったということで帆掛船は、これら帆の大きさによって石数を知ることができます。八反帆廻船は廻船仕様覚書によりますと百石、十三反帆は二百五十石程度と推定されます。ちなみに千石船は二十三反帆が定形で、いかりは百石積で三個、千石積以上は八個であったようで、航海には地方(じかた)を見つつただ方位盤によってわずかに方位を知るだけで進行方角は占いによったということですから海難も多発したことが考えられます。
 これら廻船の所有者はそれぞれ廻漕のしごとをしたと思われますが、その中の来人嘉市郎は小谷村からきて稼ぎ小谷村へ夫役銀をさしあげていたということであります。つぎに漁船でありますが、本帳には漁船何艘という記載で大きさがわかりません。穴喰風土記(中島源著)によりますと「昔は押船といって八挺櫓をたてた大型漁船に二十人乃至三十人が乗り組み、朝早く港を出て一日中カツオを追った。しかし、その行動範囲は陸地から四十キロ以内であった。」ということできびしい漁業の一面があらわれているともいえます。
 古来、漁業は専業化されておらず農業に従属していたようであります。延喜式の主計式に調庸として諸国が貢進した魚貝類をみますと阿波からは鰒、海藻が貢進されたことがみえます。江戸時代になり漁獲高に応じて貢租を徴収することになったわけであります。しかしこの棟附帳からは単に漁業を旋せたということと漁船の五十六艘の数と加子役としての貢租しかわかりません。棟附から漁業をはかりしることは無理でありますがこの棟附帳から漁船の所有者をみてまいりますと必ずしも本家である壱家が船をもっておりません。小家、影などがもっておるのが多いのをみますと、宍喰浦は、御蔵地であり当時の状況としては壱家は農地をたくさん所有して農耕に従事し、小家影などが漁業に従事していた。棟附帳面上は、すべて水軍の予備軍としての御蔵加子としての身居にさせられていたもののいわゆる古来のとおり農業を主とし漁業を従としていたことがいえるのではないかと思います。
 関東では、五人組が相互連帯責任をもっていましたが、阿波では壱家小家のいわゆる本家、分家の一団が本家を中心とした連帯責任をもって関東の五人組の役割を果していたように思われます。そして生国出所をみますと、壱家、小家の成立過程がよくわかります。本家が死に絶えますと、その小家が壱家となります。またその家に子がないときは養子をします。そしてその村浦に家がへらないようにつとめていることがわかります。いわゆる貢租負担者がへらないということになります。
 各家の当主の生国出所をみますと、阿波国外27軒、那賀郡7軒、当郡木頭上山村4軒、当郡村浦52軒、当宍喰浦244軒、合計334軒ですから、およそ3分の1が他国他村から転入したことがこの記載からわかります。
 宍喰浦で往古からいたという与頭庄屋の百々伊之丞家などではめずらしい家で、言い伝えとはいえ、記録上では一番この浦では古い家です。たいていは、他国からきたか、近々に本家からわかれたものが多いようであります。つぎに、くわしくその生国出所を申しあげますと、
〈生国出所一覧〉
浪人 2軒
摂州大坂 2
淡州津名郡塩尾浦 2
 〃 広石中村 3
 〃 沼嶋浦 1
土州 竹屋敷 1
他国 8
出処不分 3
 計 27

那賀郡 椿村 1
 〃 下福井村 1
 〃 鮎川村 1
 〃 築ノ上村 2
 〃 百合村 1
 〃 今津浦 1
  計 7

那賀郡木頭村上山村の内折字村 3
 〃 西字村 1
 計 4

当郡 木岐浦 1
   牟岐浦 1
   中 村 1
   浅川村 1
   浅川浦 3
当郡 大里村 3
   多良村 1
   平井村 1
   小川村 1
   鞆 浦 1
当郡 奥 浦 9
   野江村 3
   芝 村 1
   櫛川村 1
   宍喰浦之内那佐村 3
   久保村 8
   日比原村 2
   尾崎村 7
当郡 久尾村 1
   塩深村 1
   広岡村 1
   小谷村 1
   計 52
当浦  計 244
合計   334軒
であります。
ではその転入の年代はいつごろであったかをしらべますと、この浦のひらけてきた状況がよくわかります。神代の昔から人々は住んでいたのでしょうが、この棟附からみますと、永録年中がいちばん古く、一五五八年ですから文化九年(1804)からさかのぼること二百四〜五十年、昭和四十八年の現在から申しますと、四百十五年まえになります。というわけで年代順にみますと、
永録(1558〜1569) 1
享保(1761〜1735) 3
元文(1736〜1740) 4
寛延(1748〜1750) 1
宝暦(1751〜1763) 2
明和(1764〜1771) 4
安永(1772〜1780) 3
天明(1781〜1788) 8
寛政(1789〜1800) 21
享和(1801〜1803) 6
文化(1804〜1812) 10
    計     63軒
であります。
 くわしくみますと、永録年中というのは、郡付浪人田井久右衛門の項に「此者先祖田井伝兵衛儀浪人ニ而永録年中当郡久保村ニ住居仕其後当浦へ罷越住居仕三代目伝兵衛儀寛文年中より年寄役並御境目御用とも被仰付相勤罷在代々御目見仰付……」とあり、小高取格与頭庄屋百々伊之亟の項には「此者先祖往古より当浦ニ住居仕宗兵衛代ニ至当浦之内那佐村開基仕候様申伝其後代々年寄役土州御境目御用とも相勤御城内御目見役仰付来……」とあり以下歴代の事績を書き、両家とも浦の役人としての重みをのぞかせるものがあります。
 ここに土州御境目というのがでてきましたが、国境としての宍喰浦には捨子も多かったようでありまして、四国辺路に連れ来たって親がおきざりにし、当浦の養子になったものがあり、また、生国他国、出処相不分というものがあり、こうした人人も養子になりその後立派に壱家小家の戸主として生活をしております。男手のいるというカツオ漁業では、労働力として宍喰浦は受け入れ体制ができていたのであろうと思われます。カツオ漁業のしきたりとして、漁獲高の配分方法があり十七歳以上の男子は一人前、十六以下の長男八分、長男以外五分、小さい男子三分…というように男子全員に配当したということは、男子を主権とする原始共産的なものでこれらは北方の農業圏ではみられないところであり、こどもを捨て去った親もここなら食べていけるということで安心して捨て去った、当世のコインロッカーと大きな違いであります。
 各家の別家、養子その他の記載事項をみてまいりますと御蔵加子は、御蔵地に田畑をもっていたということが推定され、その末尾に船数や牛馬の数が書かれていますが、総数は、
 馬数同拾八匹(筆者計十七匹)
 牛数同 四匹( 〃  五匹)
であり、農耕あるいは陸上輸送に使用されていたものと思われます。北方とくらべて牛馬の少ないのは、浦として当然かも知れません。
 御蔵加子の中に先祖鍜治三軒、先祖船大工一軒、先祖紺屋一軒、先祖定行キ二軒というのがありますが、これら職人は、見懸人であって見懸銀を上納していたが、代数を経たから御蔵加子になったという経過が書かれています。先祖定行キの家は、享保御帳ニハ「定行キ」享和ニハ「触使役」であったが、このたび文化棟附には本家、小家とも御蔵加子に御居ということで御蔵加子になったということがわかります。その外見懸人がありますが、これらは、代数を経ない諸職人かと思われますがその職務の記載のないものが多く、何職かはっきりしないものがあります。
 郡付浪人、野々村玄叔歳四拾八がありますが、市中において医師をしており、元文年中に当浦へきて医業を行なっているということが書かれており、同人継子野々村三折同弐拾八は、文化七午年より医術修行として長崎へいっております。この家は医者の家であります。
 こういうよりに当浦から転出している者をみますと、
 江戸一、大阪九、高野山一、長崎一、市中大工町一、安宅七、沖須一
那賀郡石塚村一、当郡四方原村一、野江村一、久保村一、久尾村二、当浦金目三、と計三十件にのぼります。もちろんこれは稼手形をもらって転出した家あるいは人でありますが、走人というのがあります。これは行方不明者でありまして帳末に走人名面があり、「一壱家 加子役小太郎」というように記載され、享保九辰年棟付御改之節走人拾弐人その他走人拾七人が記載され、これらは北方とくらべると少ないようです。
 つぎにお寺でありますが五か寺があがっております。
 浄土宗  壱ケ寺  願行寺選旭(部屋あり)
 真言宗   〃   真福寺泰亮(大師堂あり)
 真言宗  壱ケ寺  円頓寺寛海
 真言宗   〃   大日寺帰空
 一向宗   〃   正法寺深亮
でありまして、願行寺には尼さんの部屋、真福寺は大師堂守りをかかえ、大日寺は下人五軒があります。正法寺の先住の弟二軒が別家し御蔵加子小家になっております。このうち円頓寺は駅路寺として有名で、駅路寺文書をコピーで拝見いたしました。入国当時の蜂須賀公の駅路寺の定め書が書かれていたものであります。当時の寺はかなり権威があり、寺下人いわゆる寺家来を五軒ももっているのですから、法用などにいくにしても弟子とか家来などもつれていったものであります。浄土宗願行寺選旭の弟子の選澄歳十九は、「此僧法用ニ付江戸本山へ罷越申候」とあり、真言宗大日寺先住智燈弟子泰殿歳三十三は「此者法用ニ付高野山へ罷越候」とあり、棟附に記載するというくらいですから、かなり長期の法用、いわゆる本山での修行ではなかったかと思われます。
 帳末に
「人数合千四百弐拾四人
 内拾人 僧
 同壱人 道心
 同壱人 尼
 同五人 小高取格
 同七人 右下人
 同四人 郡付浪人
 同壱人 郷付浪人
 同壱人 亟女
 同百人 見懸人
 同弐拾人来人
 同六百七拾人 女
残而六百四人
 内壱人 加子役御免之者
 同拾人 病人支離者
 同弐百弐人六拾壱歳以上拾四歳以下之者
 同三百九拾壱人拾五歳より六拾歳迄御役負之者」
となっています。
 加子役御免之者というのがありますが、加子役は、加子が領主の船を漕ぐ義務のことで百姓の夫役にあたるものであり、本役として一家に銀二十匁、半役は十匁、毎年九月代官が徴収していたものであります。加子はこの加子役銀をおさめる外に安宅役として百姓の小役に相当する役を課されていました。但し安宅役には賃銀と米とを支給されていたようであります。これらの役、いわゆる貢租を免除されていた人々が御免の者、病人支離者あわせて十一人になっております。
 つぎに盲の人々は三人ですが、これは座頭仲間に入ったことが書かれています。
見懸人九兵衛兄城久歳四拾八の項をみますと「此者盲ニ而御座候ニ付内分座頭仲間入仕居申候此度棟附御取調ニ付右不行着奉恐入有躰申上候処御詮議之上御聞届被仰付候」となっています。座頭は検校の支配下にいる盲人のことで坊主姿であんま、はりを業としたり、楽器を奏したりしたそうであります。
 つぎに御蔵加子壱家幸助五拾歳の項をみますと記載事項中に「右幸助義妻子共文化元年内分いわ看坊ニ相成届申候」とあります。いわ拾四歳というこどものみになった御蔵加子の家へ、幸助五十歳の家族がいりこみ看坊をしたということです。看坊は禅寺の留守居の坊さん、または寺を守る坊さんの意ですが、ここでは親権者後見人のいない家庭のこどもを見守って、その後見をしてやるというものではないかと思われます。
 この加子役のかかっている者は、拾五歳より六拾歳まで御役負之者として三百九拾壱人があがっています。
 右人数の集計をみますと三百九十一人の男子、いわゆる貢租負担者ないしは水軍予備軍としての者に重点がおかれています。そこで人口統計としての面から棟附をみるため、各歳ごとに男女別に人口をくぎり、つぎに五歳間隔で集計し男女別年齢階層別に表にしてみました。

男767人、女675人、計1,442人(帳末人口との差18人)ではるかに女子の少ないことがわかります。ことに0〜4歳の人口が男63人女39人と少ないのは、棟附帳に1歳の者は記入しなかったものと思われます。また、15〜19歳の男子は93人、女子は77人でこの階層が男女ともに最多となっております。25〜60歳にかけて男子が女子より多くなっています。70歳は古来稀なりということでありますが、これから年上の人々になりますと女の人が多く男子は少なくなります。最年長は男子の御蔵加子文五郎父清吉九拾壱歳、女子では御蔵加子慶次郎継母らん八拾五歳であり、かなり長生をしていたということがわかります。
 当浦には御蔵百姓が全くありません。そこで各棟附をみますと百姓が当浦へやってくると住替ということで百姓が加子にかわっていたことがわかります。御蔵加子壱家三之助歳弐拾の項をみますと、此の者の祖父三平事彌次兵衛は、淡州津名郡広石中村御蔵百姓の伜であったが沼嶋浦へ奉公稼にきてその後宝歴年中船稼をし、当浦へきて家を建て当主三之助まで三代相稼いでいる。このたびの棟附御取調で小家をはなれ住替を願い、津名御郡代棚橋茂平様外の住替御証文を頂載し当浦加子になったと書いてあります。
 他村の庄屋小家、百姓小家ともこのようなケースで住替を願い出、当浦の加子となっていったのであります。住替をした人の中に御蔵加子壱家新右衛門歳四拾二がありますが、この人の先祖は、享保棟付では当郡奥浦の加子人三次兵衛の弟でありましたが、潰人すなわち財産を全部売りはらって当浦へやってきて御蔵番をあいつとめたということが書いてあります。鞆浦には御蔵屋敷がありましたが、当時当浦にも、御蔵いわゆる藩主への貢租米を入れる蔵があったようであります。庄屋かどこかの家の蔵がその蔵としての役をつとめていたか、とにかく、その蔵番をしていたということであります。当浦の藩とのかかわりあいは、予備水軍としての御蔵加子が、その中心ではありますが、棟附をみますと、その所有する廻船、漁船、牛馬その他にも、いろいろの役割があったのではなかろうかと思われますが、この棟附外の資料によって研究しなければならないところであります。
 さきに那佐村は小高取格与頭庄屋百々伊之丞の先祖宗兵衛が開基したとのべましたが、この那佐村は、諸役御免地になっていたことがわかります。御蔵加子小家又吉の兄庄七の項に「此者当浦之内諸役御免地那佐村喜四郎親惣右衛門五弟ニ而御座候処寛政三亥年又吉親又助漁業家族内分仕分養子ニ仕御座候」とあり、那佐村は諸貢租が免除になっていたのであります。
 このように棟附は、その記載から隣接町村のこともいろいろ教えてくれます。
 当郡赤松村御林下見青木源五郎小家御蔵百姓小家から養子にきているというのがありますが、御林下見というのは林番人に附属する林制道役の下役で藩有林の監視をつとめる民籍の役人で夫役苗字帯刀が御免されていました。青木という姓があることでわかります。
 また、御蔵地の外に御拝知というのがありますが、御拝知は藩士の所領地をいいます。ここに住む百姓を頭入百姓といいますが、これもつぎのようにこの棟附の中にみえます。
 来人与三右衛門は那賀郡椿村森甚五兵衛様頭入百姓重右衛門二弟であったと書かれています。これはさきにのべました水軍の総帥であった森甚五兵衛家の所領の土地に住む百姓であったものの二弟が当浦へきて住み来人として付け上げされていました。もちろん夫役銀などは、椿村の方ヘ納入しておりまして当浦には家なく借宅して日雇稼をしていたようであります。つぎに上知先規奉公人の家筋があります。
 上知先規奉公人小家が住替をし御蔵加子壱家善三郎になっているわけですが、これは、領地が藩に召しあげられて御蔵地になっている領知のことで、藩士が何らかの都合で藩主に領知をかえすか、とりあげられたところにすむ先規奉公人という意であります。奉公人は藩士につかえた家来で、先規というのはまえまえからつかえていたという原意だそうですが、先規奉公人というのは必ずしもそのとおりではなく、実態はいろいろあるようであります。
 以上いろいろのべてまいりましたが、この棟附をつくった人々はだれかということが帳末に記されています。
「右者海部郡宍喰浦棟附人数老若歳数支離者病人等且先年棟附御帳に洩居申者於有 之者今度書載可申候並御領知頭入之者又者御譜代者等御給人御主人江相断小家下人等筋目違帳面ニ相記候儀右彼是其外相違之儀相仕上追而於相顕者相改候庄屋年寄
五人与屹与曲事可被仰付旨重々被仰渡奉畏誓紙之上全無相違相改帳面指上申処如件」とあり、「文化九申年十月、海部郡宍喰浦組頭庄屋百々伊之亟、同浦年寄田井久右衛門、同浦五人与膳兵衛と膳右衛門」の四人の村役人の名が連名されています。
 組頭庄屋は、庄屋や肝煎のうえで、十か村ぐらいに一軒あり、各村のとりまとめ役であり、年寄は庄屋に準じた村役人で待遇は庄屋と同じであります。五人組は役名で、庄屋の補佐役で四〜六人がおりましたが、ここでは二人ということになっています。そしてこの指出したあて名として、速水善右衛門様外三名の藩士の名が記されています。そして、つぎに文化九年に御帳をさしあげたが、御見分の後に役人共のうち死亡した人もあるので、よくしらべて清帳を指しあげるという次第で嘉永五年子年十二月の日付があり村役人として、
  同浦組頭庄屋 田井久右衛門
  同浦同上 百々伊之丞
  同浦同  田井瀬兵衛
  同浦五人組 八十助、直平、幸兵衛、野田兵助、多七
の名がみえ、あて先は高木真蔵様外二名の藩士の名がみえ、最末尾には、
「右者海部郡宍喰浦棟附御改被仰付文化九申年生駒彦吉西尾氏之助彼地へ罷越棟数人数逸々相改置今度帳面相認所如件」とあり、嘉永六年丑年十一月の日付があり高木真蔵、外二名の藩士の名が書かれています。
 これら末尾には嘉永の日付のところの村役人、藩士のところに押印のあるところをみますと、きたるべき棟附帳作成を予定して清帳したものと思われます。
 そしてこの棟付帳の中につけ紙がしてあり絶家、絶人というのが十五軒ほどでありますが、これは嘉永につけ紙をしたものと思われます。嘉永といえば幕末、ここに記された浦役人はじめ浦人が風雪急をつげる激動期をいかに生き抜いたかが想像されるようであります。
〈あとがき〉
 宍喰浦棟附帳それも文化九年という一時期の史料を使って解読をこころみましたが、宍喰浦にも隣接の村浦があり時代的にも前後の古文書があることを忘れてはなりません。これら隣接の村浦の棟附帳各時代の古文書を解読しあわせ考えますともっともっといろいろなことがわかるということを記して筆をおきます。
〈付  記〉
 その後、日比原村、尾崎村、久尾村、塩深村、角坂村、芥附村、小谷村の文化度の棟附帳を解読しました。久尾村の身居は見懸人等ときめられ特徴あるもので、各村のものもいろいろなことを教えてくれます。棟附帳の活字化をお願いし付記とします。


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