阿波学会研究紀要 |
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郷土研究発表会紀要第20号 | |
宍喰町とその周辺の民具 |
民俗学班 中野幸一(徳島工業高校デザイン科) |
《目 次》
1.ハコゼン(箱膳)
古くから用いられ大体江戸末(近世中期)から明治にかけて盛んに用いられ食膳といえば箱膳に決まっていた。そのご、昭和の初め頃チャブ台(食卓)の出現によってその姿を消した。材料は主にヒノキで作られこれに紅春慶のウルシを簡単にハケ塗りしてある。大抵の場合宍喰の町内で購入したが中には手作りのものもあった。なお、この種の箱膳には二種類あり一つは下端に引き出しを作り両側に取っ手の穴をあけたものと、ただ箱だけのものとがある。概して前者は家長など一家の主が用い、他のものは平の箱膳であった。食事の座の位置もはっきり決められていた。こうした食事の道具の面からも当時の生活様式が伺われ貴賎や個人の格付けを民具を通して見ることができる。ふつう、この膳の中へは箸、飯椀、汁椀、小皿、湯呑などを入れ食事のときにはふたを裏返して箱の上に置き、これに食器を並べて食事をとる、ちょうど現在の食卓の役目をも果たした。こうした膳の発生は「和漢三才図絵」によれば、はじめ折敷(おしき・白木のへぎ板)と称する脚のない膳から、クルミを二つに割って膳の脚としたクルミ膳、懸盤(かけばん)という台のついたものなど次々に変化して来た。また膳の文化は形態的にも機能的にも多様な展開をして四脚膳、両脚膳、平膳・箱膳などになり、祝い事などハレの日の食事のため、本膳・二の膳・三の膳などで行事の性格などによってその種類を使いわけた。 2.スシオケ(鮨桶)
直径60センチ、高さ85センチの木製の臼で主として正月などに餅を搗くときに用いられる、材料は手山のよく肥えた松の幹の部分を輪切りにして準備しておき、日当を打って大工を雇い大体三人工程度でこれを作らせた。もっとも器用な人は自分で作った。また、石臼もあるがおいしい餅はやはりこの木臼に限るそうである。(石臼に比べ保温効果がよいためだろう)また、こんな行事がつい最近まで残っていた。それは厄年に当っている者が数名集まり餅を搗き、この木臼を搗き割ったら厄払いができるという風習があり、力の入った餅搗き風景が展開されたそうである。もうこうしたことも姿を消した。主として木臼は山間部に多く平地部や海岸部ではやはり石臼の分布が殆んどである。
4.トビツ(斗櫃)
日本人の主食である米・麦の類を入れる容器で、これを民俗事典にはゲブツ・ゲビツ(近畿)、コメガラト(北陸)などいろんな呼び名が残っている。さて、この斗櫃は長さ1メートル、幅50センチ、高さ70センチのもので約二斗余りを収容することができる。材料はスギの一寸板(3センチ)を五枚に組み接ぎしホゾ先を外に出して組みそれぞれ鉄製の飾り鋲を打ってある。実に堅牢そのものといった形をしている。また蓋はケンドン式になっており簡単に開閉できる。古来より家族制度の中では斗櫃の管理は主婦の権利であり勝手に他の者には自由にさせなかったそうで、斗櫃を預かることは“主婦権”の象徴であったろう。こうした斗櫃であるためかどことも実に豪華なものが見られる。なお、この付属品としてヒサゴ・マスなどがある。
5. ドンザ
これは一名サシコ(刺子)とも呼び質を丈夫にするために木綿の着物を糸で細かくていねいに刺したもので根気のいる手仕事の作品である。風の強い海で、また雨降りの寒中などに着用したもので雨や風から身を護る護身の術であり、更には仕事着であると同時に働らく人々の晴着でもあろう。殆んどこの付近の漁師町に分布していた。たいていの場合主婦の仕事の一つとして男を海に出したあと、あげ店(だな・この付近の建築様式の一つ)などに皆が集まって世間話に興じながら縫ったそうで暇が出来たら殆んどこうした縫い仕事をしていたそうである。さて、こうした累系のものに東北地方のコギン(庄内・津軽)を挙げることができる。これは藍で紺染めにした木綿を重ね白い木綿糸で入念に綴ったものでいろんな文様を出している。例えば図6.のような山刺し・柿の花ざし・かぎ刺し・菱ざし・桝刺し(三合(嫁用)・五合(青年用)・一升(壮年用)などがある。
6.オシヌキ(押し抜き)
箱ずしを作る道具で材料はヒノキ、トガ、ケヤキなどを用い器用な人は手作り、また梅花や扇などは町で買った。ふつうにぎりずしを作る要領で飯に酢を加え適量をこの箱の中に入れ指先で平らにしたところへ紅粉(米の粉末)豆(黒豆)人参の千切りなど配色を考えて並べ上から蓋で押しつけ長方形のすしをこしらえるものである。このすしは大抵の場合ヒナ祭り、祭礼・結婚披露のときなど必らず作る。特に婚礼の場合など盛大で部落の主婦連が手伝いに集まり可成りの量を作り折り詰などにして提供する。こうしたしきたりは古くからこの付近の慣習となっている。
7.ポンプ(喞筒)
当然、自家消防のために購入したもので一つは真鍮でできている。操作は手押しで送水距離4〜7メートル程度実用価値はあまりなかった。これには「国民消防義会(軽便喞筒)甲大正五年式12)」と記されている。しかしこのポンプは付近一帯にあるといったものではなく裕福な家庭だけが阪神方面から購人したそうである。当時としてはビックリするような値段であった。もう一つのポンプはこれよりも時代が更に古く、これは「竜吐水」と称し明治初年大阪より購入、これも前者と同様、実戦に用いられたことはなかった。家の道具として保管したもので古くから土間の中の梁に掛けるのが常套となっていた。これには焼印を次のように押してある「竜吐水師、東京浅草花川戸、山口屋久兵衛」製作者のサインであろう。なお、この竜吐水は民俗事典に、天明年間(1781〜89)オランダから輸入、大阪の人が買い時計師に製造させ、水抜きや非常用に広めたとある。
8.ゼニバコ(銭箱)
ゼニ(銭)を入れるための長方形の箱で、ヒノキ・ケヤキ・カシなどの硬木で作り周りに鉄製の縁金や鋲を打ちつけてちょうど城門の扉を連想させるような趣きがある。また、錠前も極めてガンジョウなものを取りつけどっしりとしたデザインとなっている。これらの形状や構造については図のように櫃のものやまた一部を傾斜に作り銭をすべり込ませるようにしたもの、小判隠しと称し箱の下に引き出しを作り箱の妻板が上下してこれを外側から見えない構造としたものなど生活の知恵がこんなところにも生かされている。これらの銭箱は江戸時代に多く用いられたが明治に入り手提金庫の出現により実用の世界からその姿を消した。
9.メンパ(モッソ(漁場))
メンパは直径18センチ、高さ6センチ大のものでこれに底と蓋がついている。材料はヒノキ(唐桧)の板をへいでうすくして工作する。熱湯で蒸し曲げ、そくいで貼り山桜の皮で綴じたいわゆる曲輪細工である。塗りはウルシのハケ塗(春慶など)殆んど農山林の作業時(炭焼き・木こり・山の下草伐りなど)の弁当箱として用いられた。容量は約五合、二食分あり昼食(アサハン10時)午後二時頃のヤッチャ(お茶づけ)時に用いる、また、同じ目的に使用する竹製の三重子のものがある。これもやはりメンパと呼ばれ秀れた繊細な工作がなされた工芸品としての香りの高いものもある。一方漁師町(竹ケ島)では沖へ持っていく弁当箱にモッソといわれるものがある。これは、しかし飯を入れるものではなく米を二合程入れて持参、沖で炊飯しこれに飯を入れて食するといった、ちょうど飯椀の役目をするものである。材料はスギで桶細工と見てよいものである。
10.ヤダテ(矢立)
携帯用の筆記具、構造は墨壼と筆入れのケースをセットしたものである。(形状には多種ある)、材料には鉄をはじめ銅、陶器、木竹など、また上等品には金や銀の象嵌を施こした芸術品と呼ばれるようなものまである。インキや鉛筆などのない時代にはこれが随一の筆記具として重宝がられた。各家庭にも一つや二つはあったが現在ではもう紛失して殆んど見掛けない。さて、この矢立の語源はどんなものであろうか。百科事典(平凡社刊)によると、矢立の硯から転じたもので、やなぐい((胡■)矢を盛り背に負う用具)の箙の矢立に入れて軍陣に携え用に備えた硯箱……後の懐中硯の類とあり、こんなところから出てきたものであろう。墨壼には綿・スサ・パンヤ等を入れ墨汁を含ませ、柄に筆を入れ帯にさすとある。 11.タイショウキン(大正琴)
12 カナバシ(金箸)
カナバシは一名“センバコキ”とも呼ばれ麦の穂をすごくときに用いられるものである。長さ約60センチの横木に鉄の歯を24本並べたものである。使い方は下方の横桟へ重しの石を置き麦束を両手に持ちこの穂先を歯にかませて力を加え手前に引くと穂だけがくびれてとれる。大体1日に3・4俵の脱穀ができたそうである。もう、最近ではこうしたものはなく機械にとって代わられた。当時としては名のように千束(センバ)もこげると驚いた程である。また、この道具のまえには竹で歯が作られたものであり、更に古くは、指先につけてすごく“コキバシ”があった。
13.ユリ・オロシ
カナバシで脱穀したあとの麦をカラサオで打ち、モミとガラを選別するとき使うのがこの道具。これを紐で吊り下げ取っ手を両手に持ち前後左右に揺り動かしより分けるものである。使用に当ってはちょっとしたコツがいる。オロシは“ケンド”とも呼ばれ目に大小があり、これに入れて前後にゆするとモミは目を通過して落ちるといったものである。これはこの付近では山に自生しているツルを切り乾かして編んで作る。自製たり、町から購入するそうである。ところによっては竹や金網を用いたものもあるが、ここでは殆んどツルでできている。
14.バイ・ヨコヅチ
バイはシイの木の如き硬木で作り自家製。田の畦や土間などのつき固めに用いる。大体一戸に1・2個は常備している。長さ約40センチ。ヨコヅチは直径15センチ、長さ40センチ程の木の1/3位いを細く作り把手としたもので農山漁村などに広く分布している。杭打ちや藁細工などには欠かせないものであった。材料は硬木であればなんでもよいが適材はヒイラギがよいとされている。それは割れない点もあるがこんな俗信が残っている。それは魔除けの意味があり、「年に二人の葬式が出た家では三人目の分としてこのヨコヅチが使われる」という。(日本民俗事典)
15.オオアシ(大足)
たて40センチ、幅32センチ、厚さ8センチの大きさのもので、材料はスギ(軽くて水に強い)を用い自家製。またこの名称については“タゲタ”等と呼んでいる地方もある。作り方は板を四つに組み箱をこしらえその内側に桟を横に四枚渡し、その上に足置きをつけこれに鼻緒をすげたものである。なお、箱の四隅には長い縄を通してある。大体鼻緒や縄は手山のシュロの木から皮を剥いで用いる。このオオアシは主として湿田(深田)に用い田をならした後、柴草・藁などを散布し堆肥として土中に踏み込んだり田面をならす代掻きなどに使用したものである。使い方は両足にこれを履き四隅の縄を両手に持って足の動きと共に上下して操作する、簡単なようであるが土中にこれが沈みなかなか抜けず可成りの労働をともなう。娘っ子などは家の庭先でリハーサルを重ね実施したそうである。大体終戦後二・三年続き消滅した。
16.ミノ・カサ(蓑・笠)
ミノは現在の雨合羽。材料によって何種類かある。これは“スゲミノ”で自家製、手山に自生しているスゲラン(オニスゲ)を土用の終る頃に伐り少しの間天日で乾燥したのち風呂桶でゆでる。これを川原で水洗いし十分に乾燥したものを一本ずつぬいつけて背・胴・袖などじゅんじゅんに編む。裏側は細縄状にして網に作る。もう最近ではこうした技術の保持者はこの付近にいない。この他、藁を用いた“ワラミノ”シュロを使った“シュロミノ”などがある。カサにもいろんなものがあるがこの笠は竹皮と竹ヒゴを材料にして作ったもので“バッチガサ”と呼んでいる。これはミノと違って手作りではなく土佐の白浜から購入、日除けや雨傘として用いた。この笠で面白いことは笠の頂部に桜の皮を編み込んであることで、これは雷除けのまじないであるとの俗信がある。なるほど土用の雷はびっくりする。田の草取りなどのとき突如として鳴る雷には身の置き所がなくなる。こんなまじないを考えたのであろう。暮しにおける一つの知恵であり民俗信仰などと合わせて粗放な心情が伺われる。
17.ヤマドウグ(山林用具)
この地方は高温多湿で樹木特にスギの生育の適地、山林の植生も非常に豊潤、山林での生業者も多い。この付近で採録した用具には次の如きものがある。時代の変遷は緩慢で長足の進歩は伺えない。しかし、少しずつ新しい道具が導人されつつある現状である。
18.ホテ
民具とはいえないが深い関係がある。これは山林や農作業時ブヨやカなどを払うために使用するもので藁に木綿布を包んだもので、使用時に火をつけ腰にぶら下げて用いた。現在は金属製の円形の箱にカトリ線香を入れて腰に下げるようになったが、まだ可成り用いられている。農閑期に多数自製し保管しておく。
19.シュリョウヨウグ(狩猟用具)
山での狩の方法やこの用具類にはいろんなものがあるが、鉄砲による方法についてその用具を取材した。まず、火縄銃であるがもうこの付近には殆んどなく二丁■かけたが一丁は火縄の火皿の部分を改造して火打式の発火装置にしてあった。こ■図の銃は貴重なそのうちの一丁である。なお銃の付属品として1 焔硝入れ、2 タ■ガタ、3 弾丸入れ(携帯用)4 コシカワ(シキカワともよび腰をおろすときに下■敷くもので、いつもこれを腰に下げている。皮は狸を用い自製)
20.コオドケイ(香時計)
これは一名“ジョウコオバン”(常香盤)とも呼ばれ、抹香を炊くものである。下の引き出しの中にある枠を上部の蓋をとって置き、これに抹香をまくと枠の形にしたがって一定の量がまかれ端に火をつけると香の燃えるのにしたがい一定の時間が分かるといったものである。結局燃える時間にしたがって時計として利用できる。町の願行寺で取材したものである。もっとも香炊きは、小形のものは山村などでは各家庭にあり信心深いところでは毎朝これを仏前に供えたそうである、最近ではもうこうしたことは行なわれていない。抹香は自製。手山のシキビ■木の皮を取り乾燥させ粉末にして用いた。
21.スズリバコ(硯箱)
江戸時代、大福帳などと共に商人が使用した代表的なものである。材料はケヤキやスギを用い蓋は鉄打の丁双がつけられ片側に開きこの中に硯・墨・水指・筆などを入れておき、下側には大小の引き出しを三杯作ってある。また、蓋の一側にはツメをつけボタンを押さないと開かないしくみになっている。蓋の中程にさげ手をつけどこへでも持っていけるようになっている。商家などでは帳場格子・大福帳・机などと共に朝から晩までひっきりなしに使われていた必需品であった。
22.セイヤクヨウグ(製薬用具)
町内に漢方薬の製造販売所があった。「人参順栄湯」の名で製薬され全国に行商した。文書として薬の製造販売免許証などもある。
23.ハカリ(秤)
衡すなわち物の重量をはかるもので一般には古くから棹秤が用いられた。普通のもので棹の一端に片寄せて吊紐をつけこれに錘をつり下げたもので、取材した特殊なものとしては小型の“ヒョウタンチギ”などがあった。他の一つは天秤で棹の中心を支え両端に皿をつるし一方には、はかるものをのせ他の皿に分銅(大小あり)を入れてはかる特殊なものもあった。概して天秤は精密な測定に用い一般には棹秤が普及していた。現在では、もう通用しない。商家では現在台秤が殆んどで、山間部では僅かに棹秤が使われている。量すなわち物の容積を測る枡の類も若干用いられている。
24.ヒナニンギョ(カラツビナ)(雛人形)
これは五月の節供に飾る雛人形で相当時代的に古く由緒あるものである。なおこの付近の五月の節供は通例の3月3日や5月5日には簡単に行ない、ハッサク(8月1日)に盛大に実施するそうである。このときこの雛人形を飾った。その理由は祇園祭の先にしてはならないと古老よりの申し伝えがある由、このことについては、この度びの調査で発見された古文書“諸国風俗問状宍喰村答書”にも記載されている。
25.ショウメイヨウグ(照明用具)
明りをとる用具類には各種のものがある。しかしこの付近の山間部は、川の水量が豊富なため、これを利用しての自家発電がなされ、比較的電灯による照明が早くから行なわれていた。いま、取材した照明用具を記せば次の如きものがある。
26.ギョギョウヨウグ(漁業用具)
宍喰町の一部は海に面し、しかも豊富な漁場を控え非常に盛んである。漁業の方法について歴史的な変せんをたどればまたおもしろい民具の発見もできようがこのたびは海岸や漁家で発見した用具について現状を報告すると次の如きものがある。 |
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