阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第20号
宍喰町のブチヨウと民家

郷土建築学会 四宮照義

1 宍喰町のブチヨウ
 i ブチョウという語
   手許にある「大言海」、「広辞苑」、「日本民俗語彙」、「全国方言辞典」などの辞典類にも見当らないし、「阿波言葉の辞典」にもまだ収録されていない。然し「日和佐郷土誌」を見ると、その民家の項には採録されていて、明治時代まで此の地方における表口の戸締りは、これが普通であったと記録されている。
 ii 阿波のブチョウについて
  a 北方のブチョウ……阿波藍作地帯の農家は「オブタ」のついた大きな家より、軒家の少ない「四方下」(シホウゲ)の家や、草葺屋根の方が数多く見られるが、このような中農以下の民家では、藍の収獲期や、藍こなしに備えて豫めブチョウを用意している。いつ頃から使用しはじめられたかは明らかでないが、阿波の「北方」(きたがた)に広く分布している。急雨の場合に、これを取付けて軒や庇を延長し、或は下して刈取った藍草または、「藍こなし」中の藍草を雨から防ぐもので、その構造は図1に示したようなものである。(図1参照)


  b 南方のブチョウ……阿波の「南方」のブチョウは同名ながら北方と構造様式が全然異なっている。大平洋岸に面した日和佐、牟岐、海南、宍喰などの民家は雨戸代りになっていて、上と下とから上げ下げする仕組みで、中央できちんと合する。従って「北方」のように軒や庇の延長したものとはならない。また、村の神社境内にある人形芝居を演ずる「舞台」(ブタイ)のそれは、下のみで上がなく、ブチョウをあげた場合その上端に敷居がついていて、雨戸が入るようになっている。又、このブチョウを下げた場合は、ブチョウの幅だけの床が出来て丁度エプロンステージの役割を果している。(写真参照)

 

  c ブチョウの構造……図2に就いて説明する。見らるゝように主屋から下屋が出て下は土庇になり、主家の側柱に上げ下げの板戸が吊られ、上部(「上戸」または「上店」と呼ばれている)は突きあげられて、端は下屋桁内面に止っており、下部(「下戸」または「下店」)は開き落されて縁側代用となっている開口部の形式である。即ち家の前面開口部の柱間に、床と水平に無目敷居を取付け、これから5尺7寸(173cm)あがって無目鴨居を取付け、双方の取付ている仕口の箇所の外面に、軸木受木を大釘打ちとし板戸の軸木を入れ込み、軸木の廻転によって上げ下げ開閉する仕組みである。(海部方面では軸木のことを「クルル」と呼ぶ)板戸は長さ六尺(190cm)、幅5尺7寸(173cm)を半折したもので、前框に横框を小根■留に組み、後框へは■差しとする。この■差しの仕口から左右の両端は伸びて丸く削られ軸木となる。「上戸」は中間に入れられる横棧の両端に■を作り、框に■穴を彫って■差しとし、その上に厚さ3分(1cm)の杉板を打つ。下戸は前後の框の内面を欠いで横棧を落し入れ、厚さ5分(1.5p)の板を打つ。「下戸」の場合は横棧といわず、根太というのが正しい。これは開いて下した時に縁側に利用する床の部に相当する。床束の代用として前框内面から、三寸(9cm)後方によって横框に堅木で軸木を作り、自動廻転する仕組みにして脚を取付けその脚に当る部に脚石(束石)を据えている。板戸をおげると、脚は自然に板戸裏(下端)に密着する。「下戸」の框は丈(背)二寸(6cm)、幅一寸三分(4cm)根太は一寸五分(4.5cm)角、脚は二寸(6cm)角となっており、「上戸」の框は丈(3cm)角である。
 「軸木受木」は簡単な曳角材を打ったものから、「持送り」形式を型取ったもの一寸二分(4cm)の厚板で造った意匠に富んだもの等があるが、壺金物や蝶番で吊ったところもある。戸締りの方法は柱の側面に打った肘金物に、板戸框に打ちつけている壼金物を掛けるのみで、錠は不用としている。「下戸」は開けておろすと縁側となるが、「上戸」は庇代用となり、下屋桁の横面(内部)に栓差して止めるのは僅で、多くは■に打った「引掛木」とか引掛金物に吊る。

 

  d ブチョウは阿波の方言である……ブチョウは阿波独特のものでなく、広くこの形式は全国に分布していて、ブチョウは阿波の方言であると言いたい。宍喰の隣の東洋町(土佐)から安芸市まで見られる。室戸岬附近ではこれを「ブッチョウ」と呼び、中村市、宿毛市方面も同名であり、ブッチョウの最も多くある東洋町白浜では、ウハミセ・シタミセとも呼んでいる。又、愛媛県の内子町にも多く見られるし、宍喰の町家(写真参照)のようにミセに商品を陳列して所謂、店を開いているところが現に見られるのは最近珍らしいものである。熊本県の天草、牛深市にも多見される。山口県の久賀町大島にも僅かに残っているが、ここ,では播磨地方の称呼同様シトミといっている。また京阪方面では茨木市に最も多く見受けられ、その呼び名は「アゲミセ」又は「アゲエン」である。考えて見るに、ブチョウは古く平安時代からある蔀戸からきたものであると思われる。
 「信貴山緑起絵巻」、「年中行事絵巻」、「源氏物語絵巻」などに描かれている民家や町家を見ると、このブチョウ形式の蔀戸が描かれている。穴喰ではこの蔀戸を上下にわけているので半蔀の形式に当たる。阿波北方の藍作地方のものは、ウハミセのみで京都御所などの一枚の蔀戸形式に近く、南方の「農村舞台」に見かけるものは、半蔀の下半だけが残って上半が雨戸式に変化したものであろう。阿波北方の長大な一枚式蔀戸形式(図1)と南方の上下二枚式蔀戸形式(図2)とは、何れが古いかは断定しがたいが、農村舞台のものは新しい形式として生まれて来たものであろう。要するにブチョウは、納屋が「ネドコ」に進展したのと軌を等しく、蔀戸も用途によって工夫されて変化して来たもので、阿波ではこれをブチョウと呼ぶ。

 


2 宍喰町の民家
 i 山の手の民家(図3)


   海岸地帯から少し山の手に入ると、図3のような平面構成をもった民家が見られる。土間の庭から入り、奥に炊事のための場所「カマヤ」があり荒神様を祭っている。「ナカノマ」は居間とし、「オモテ」は接客用として、「ネマ」は寝室として、「イタマ」は食事の場所として使用している。特にナカノマの前にある「イッキャク」は冬の日なたぼっこ、夏の夕涼み台:仕事場として使用される。
 ii 町中の民家(図4)


   宍喰の街中を歩くと、前述したブチョウのある民家が数多くみられる。何れも「トノグチ」が向って右にあったり(右勝手の家と呼ぶ)、左にあったり(左勝手の家と呼ぶ)して、トノグチを入ると土間の「ニワ」があり、ニワの奥に炊事用のクドがある。ニワの横にはブチョウ付の「オモテ」があり、神棚を祭っている。奥には寝室としての「オク」と食事室としての板の間の「ナイショ」がある。平面構成としては、図4のような家の間取りが一般的であって、屋根は平瓦葺が多い。
 iii 庄屋民家(図5.6)

   昔時の宍喰浦を治めた組頭庄屋、庄屋の民家の二つを調査した。何れも正面中央に「ゲンカン」構えを設けた立派な民家で、ゲンカンの部屋を中心軸にして、接客用と家族用の部屋が左右に分離して設けられるのが一つの特長である。


 聞き覚え
 1 組頭庄屋  曽々父の時代から
 2 御本陣が南側に太鼓橋を通じてあった。
  御成御殿と言った。
イ 庄屋の家としての間取、屋敷構えをとどめている点に於て建築学、民俗建築学から貴重な資料であると思う。
ロ 建築構造学の点から屋根裏ヘ上って詳細に調べて見たい。
  又、棟礼もあると思う。
ハ 建築年代を調べたい。

1 庄屋であった。名字帯刀を許されたと言う。
2 宍喰では一番古い家であると言う。
3 石垣囲いの屋敷
4 屋敷内に、インキョ(北)くら(北)ナヤ(西)、ウシヤ(西)屋敷神(北西隅)井戸屋形(南西隅)門(南西より)ひょうたん池(北)を備えた立派な家構え。
5 式台を備えたゲンカン東は、多田氏宅とよく似ている。
6 少し改造をしているが、昔時の面影をとどめている。
7 棟礼あり、オモヤ2枚あり1枚は割板で作られ年代読めず棟礼の作りから約200年位前と思われる。1枚は明治7戌12月吉日、大工常平、周平、弥七、字作、実平の名見える。棟12cm、足元10cm、身丈70cm
  ナヤ1枚あり、明治3午年11月吉日、大工宍喰浦、多田常兵エ、岩手弥右衛門、小倉周平の名見える。
  クラ1枚あり 明治廿有三庚寅蔵、棟梁 宍喰村 安部、市松、高治
     工匠 小倉祖父吉、正一
     小工 岩手政吉の名見える。
   内、小倉祖父吉の子孫は代々大工をしているとのこと。又この棟礼の表には
   戸主  岡部清平の名も見える。
8 土佐との国境の辺境の庄屋屋敷構えをとどめるものとして民俗、建築学の資料として価値あるものと思う。

 


3 結 び
 阿波の南方から土佐の漁村にかけてブチョウが多く見られるが、特に宍喰町の街筋の民家には、今も尚数多く見られて、改造されたもの少なく維持保存されて来ていることは、恰もブチョウの展示会場のようだ。急速な社会変化に住生活も変りつつある今日、これらブチョウも段々と消えゆくことだろうし、次の再調査に行く頃には半分位にもなっていることかと思うと、此の際、郷土民俗建築の特色ある遺構の1つとしてのブチョウの典型的なものを選んで、保存したいと願うものである。尚、本調査に際し、宍喰町当局、教育委員会、多田、岡部両氏、県立図書館、並びに宍喰町の皆様方の絶大な御協力に深く感謝申し上げます。


徳島県立図書館