阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第20号
宍喰町およびその周辺の構造地形発達史

地学班 地学団体研究会吉野川グループ

まえがき
 a.地形地質概観
 b.問題点の所在
  1.地殼変動について
  2.海岸線と地質構造
  3.各種の海食地形
1.地 質
2.海岸線と地質構造
3.海岸段丘・海食痕と地殼変動
 a.海岸段丘の記載
 b.各種の海食地形・海食痕
 c.地殻変動
まとめ  文 献

まえがき
 §1には宍喰町竹ケ島を中心として、当地域の地質の紹介をふくめる。§2地質構造と海岸地形、§3海岸段丘・海食痕と地盤運動において、室戸半島西岸のネオテクトニクス(現在の地形の形成された新しい時代の地殻変動)を論ずる上での問題点を述べる。§2・§3で記載した成果は今回の調査によるところが大きい。
 a.地形・地質概観
 室戸半島の東岸は、徳島県の蒲生田岬から高知県の室戸岬までの間、直線状に約80kmにわたってほぼ東北―南西方向につらなる岩石海岸である。宍喰町は、この海岸線のほぼ中点に位置し、徳島・高知両県の県境に接している。

*阿子島 功(徳島大・教育学部)、久米 嘉明(阿南市伊島中)、近藤 和雄(徳島市千松小)、東明 省三(富岡西高)、祖父江 勝孝(城南高)、須鎗 和巳(徳島大・教養部)、寺戸 恒夫(阿南高専)、古谷 尊彦(京都大・防災研・徳島地すべり観測所)。ABC順

 室戸半島の地質は、西南日本規模での地質区分上の四万十帯(仏像構造線;那賀川―物部川の線;以南)に属し、海部町を境にして北半部には中生界、南半部には古第三系が分布している。海岸線は詳細にはモザイク状を呈すが、その概形は牟岐町を境にして北部は北東―南西方向、南部は北北東―南南西ないし南北方向をとり、北部は基盤岩の地質構造の走向方向に一致するが、南部は斜交・直交している。河川は、北より日和佐川・牟岐川・海部川・宍喰川・野根川・佐喜浜川などであるが、流路は北東―南西(または東西、いずれも地質構造の走向方向)、南北のいずれかをとる部分が長い。これらの河川の河口にごく狭い河口平野・砂浜海岸が分布している。
 室戸半島の山地は北部で干数百m、南へ高度を低下させ、南端では500m程度となる。半島東岸でも海岸線より5kmの範囲では500m以下、高くても800mである。室戸半島の西岸には、海岸段丘が良く発達しているが、東岸では発達が悪い。
 b.問題点の所在
  1.地殼変動について
 室戸半島西岸には、海岸段丘地形がよく発達し、南海地震(1947年)に伴う地殻変動をはじめ歴史時代における地殼変動量も大きい。そのため海岸段丘面の高度より推定できる地質時代の地殻変動と水準測量より知られる最近の地殻変動とを比較できる恰好の地域とされ、古くから多くの研究がなされた。従来の報告では段丘面の「南東上り北西下りの傾動運動」が述べられていることが多い。
 吉川ら(1964)は、氷河性海水面変動(気候変化に対応する海水面の昇降)に注目しつつ段丘面の時代決定を行い、旧汀線高度を、水準測量結果より明らかになった段丘面の南東上りの地殻変動量と海面変動量の両者をもって総合的に説明した。そして1947年の南海地震をはさむ約70年間(1897〜1965年)の水準測量データより知られる地殻変動速度と旧汀線の高度と時代より知られる隆起速度とを比較することによって、第四紀後半(少くとも15万年前以降)における地殻変動の等速性を推定した。
 すなわち、南海地震などの地震の際には、半島先端部が大きく隆起、平時にはわずかに沈降がみられ、約120年間隔で起る地震をふくむ1周期の間に、半島は先端が隆起することになり、過去の海水準を示す段丘面も半島先端にむかって高くなる(隆起量大)とされ、しかも、その速さは半島先端においては段丘形成期を通じて一様に2mm/年であるとされた。
 吉川(1968)は、四国全域について、前述の期間の水準測量成果を検討し、甲浦〜高知〜須崎〜土佐中村〜宿毛をむすぶ線に沿って、地震の前後には隆起軸、地震の際には沈降軸となる特徴的な運動を認め、これを hinge line(蝶番(ちようつがい)の軸線)と命名した。この部分の運動は、室戸岬付近の運動と丁度、正反対の運動である。
 いっぽう、須鎗ら(1966・71)は、室戸半島西岸の段丘面の対比に古赤色土の色相・段丘礫の赤色風化の程度を指標とし、従来いわれている「南東上り・北西下りの傾動運動」を否定し、「全体的には水平的隆起」であるとした。したがって、室戸半島東岸についても、段丘面や海食痕の高度・形成時代を検討し、地殻変動の様相をあきらかにする必要がある。

 室戸半島西岸には段丘面の発達が悪い。吉川(1968)は室戸岬より佐喜浜間の室戸岬I面(ほぼ9万年前の海進期にあたるとされた)の高度Hm(単位m)と大地震1周期の間の垂直変動量Dv(単位mm)とは良い相関を示し、Hm=0.28Dr+113 として表わせるので、これを北へ延長すれば、室戸岬で190mの旧汀線は、野根で85m、宍喰で65m内外となりこれに対応する段丘面がみられるとされた。
 一方、大地震をふくむ1周期における地殻変動速度は、室戸岬で約2mm/年、hinge line の軸にあたる宍喰では約−1.5mm/年と計算されるとも述べているから、9万年前の旧汀線(現在より約10m高かった程度。室戸岬では180mの隆起)は、宍喰では現海面下125mになければならない。このくいちがいについては説明されていない。
 2.海岸線と地質構造
 須鎗ら(1971)は室戸半島西岸において、基盤岩の地質構造が段丘面の発達におよぼす影響について検討し、段丘面の分布・広がり・変位が基盤岩の岩質や地質構造によく対応していることを明らかにした。すなわち半島の海岸線や海食崖の原形は新第三紀初期の基盤岩の地塊運動により形成されており、一たん第三紀中新世・鮮新世の地層におおわれたあと、第四紀後半の海岸段丘形成期にふたたび差別的に堀り出されたものである。直線的な、東西性・南北性の海食崖は、基盤岩(中生界・古第三系)の断層線に一致している。基盤岩のつくる地形がもともと急峻であったところには、幅のせまい段丘面しか形成されず、軟らかい鮮新統を切って段丘面が形成されたところは面が著しく広い。中新統・鮮新統の分布は基盤岩を切る断層による地形に支配されている。室戸半島西岸の海岸線の地形は、基本的には「断層海岸」である。同様のことは室戸半島東岸の当地域についても予想される。地域の地殻変動を論ずるにあたっては、断層線の意義が明確にされなければならない。
 3.各種の海食地形について
 当地域の海岸には、さまざまの種類・規模の海食地形がみられる。すなわち、海食洞・海食痕(ノッチ)・波食棚・(しばしば、ストームべンチと呼ばれる)・波食棚よりわずか高い台・蜂の巣状風化構造などである。これらは海水準付近で形成されるため、離水・化石化したものがみつかれば、地殻変動・海水準変動を知る手がかりとなる。しかしながら、それぞれの形成機構は必ずしも明らかにされていない。たとえば、ストームベンチと呼ばれるものは、暴風時に形成される波食棚と解釈されているが、過去の海水準によって形成された疑いをぬぐい切れない。その解釈によって、地殻変動・海水準変動の解釈に差を生ずる。
 蜂の巣状風化構造(ハニカム・ストラクチャー)と呼ばれる特異な侵食模様は、しぶきのかかる範囲で形成されるもので、これを指標として中央構造線の活動を検出(阿子島、1972)されたこともあるが、その形成機構は十分に明らかにされていない。
 海食地形は普遍的であるため、世界各地で注目はされているものの、未解決の問題点は以外に多い。
  1.地 質
 那賀川―物部川をむすぶ線に沿って走る仏像構造線を境に、その南側は四万十帯と呼ばれ、高知県の四万十川流域と等しく、中生代白亜紀および新生代古第三紀の地層が分布している。
 徳島県では、海部川の河口平野を境に、その北側には中生代白亜紀後期の地層(白亜系)が、その南側に新生代古第三紀の地層(古第三系)が分布している。四万十帯では、時代を示す化石の発見がとぼしく、永い間、時代未詳層群と呼ばれた。古第三系のうち、宍喰町において国道から国民宿舎水床荘へむかう分岐点の崖より発見された二枚貝化石は古第三紀漸新世を示すとされている。
 地域の北半部に分布する上部白亜系は、泥岩の卓越した泥岩・砂岩互層であり、凝灰岩層をはさんでいる。全体に破砕をうけて成層状態が乱れている。部分的に弱い変成作用をうけ、千枚岩化している。
 南半部に分布している古第三系は、砂岩の卓越する砂岩・泥岩互層であり、破砕をうけておらず成層状態は乱れていない。また変成作用もうけていない。束西軸の褶曲構造か発達し、海岸線にはリズミカルな砂岩・泥岩互層(単層の厚さは10cmオーダー)のくりかえしが露われている(写真1)。層理面には、これらが堆積した当時の海底面の状況をそのまま伝える各種の「流れ跡化石」(写真2・3、水床荘へ行く旧国道沿いの「漣痕化石」も同様である)、海底面を生物がはい歩いた痕を示す「はい跡化石」(写真4、いずれも竹ケ島海岸)がみられる。

 

 四万十帯の地層は、南北幅60km以上の広がりを持ち、大陸棚斜面の海底で堆積したものであり、地震の時に海底で生じた乱泥流によって粗い物質が運ばれることと、地震の間の静穏時に泥が堆積することによってリズミカルな互層が生じたと考えられる。
 中生界の破砕の受け方が、古第三系に比べて著しいことから、中生代から古第三紀にかけて一連の沈降運動があって一様な堆積が行なわれたのではなく、その間に大きな変動があったことを考えさせる。

  2.海岸線と地質構造
 海岸線や山麓線に沿っていくつもの規模の大きな断層が認められる。断層線は2系統以上あり、互に斜交している(第1図)。


 主な断層露頭としては;
 牟岐・浅川間、加島西方国道わき: 泥岩層に生じた破砕帯の幅50mの断層。走向N50°E、南落ち80°。
 海部川沿い、海南町吉野:後述3a
 奥浦。国鉄海部駅西方:泥岩層が幅30mにわたって破砕され、住宅裏では幅1mの断層粘土(黒色)もみられる。走向EW、北落ち60°〜70°。地形図上この線上にならんで丘陵の山麓線がくびれているのが明瞭にあらわれている。
 那佐・宍喰間、那佐西方1km国道わき:幅70mにわたって泥岩層が破砕をうけている。断層の走向はN75°E、70°〜80°北落ち。
 宍喰川沿い、宍喰町尾崎:幅100mの泥岩層の破砕帯。走向80°E、65°北落ち。

 これらの断層線と海岸線・山麓線とは非常に良く調和しており、浅川湾の鋭い三角形の湾入、海部川下流、宍喰川下流のラッパ形に開いた平野いずれも、断層線に両側をはさまれた部分にあたる。また、溝状の那佐湾の深い湾入は断層破砕帯に沿って形成されている。
 浅川湾、海部川下流平野、宍喰川下流平野などは、断層線にはさまれた部分が相対的に沈降したか、あるいは断層にはさまれた部分が侵蝕によりはやくとりさられたかを考えさせる。

  3.海岸段丘・海食痕と地殼変動
 a.海岸段丘の記載
 阿波土佐国境周辺の臨海部の段丘については、吉川(1968)が甲浦付近で、高度30m・40m・65mおよび80mの段丘を、また寺戸(1972)が海部川下流で15〜20m・30〜40m・40〜50m・60m・70m〜80mおよび110〜120mの段丘の存在を指摘している。これらの段丘は地形面の広がりが小さく、段丘礫層の保存が悪いばあいが多い。礫層が良く保存され、海成であることが明確な段丘は、東洋町相間付近の高度20m〜10mのもののみである。しかし数km内陸部に入ると、礫層をのせた平坦面の保存のよい河成段丘が散見される。
 東洋町相間の高度20〜10mの海成段丘は、国道沿いに相間の坂、相間川南岸などにみられ、国道から松下ケ鼻へ通ずる道のかたわらでは、相当固結した陶汰のよい礫層がみられる。層厚は面に沿って数mで、高度20mあたりを上限とする。基岩の割れ目に沿って、豆粒大の円磨された礫が深さ5m位まで、割れ目を充てんしているのがみられる(その好露頭は相間坂にもある)が、堆積性の段丘面ではなく、波食面である。大豆・小豆大の礫層の部分にはラミナも発達している。段丘礫層は赤色を示し、マンセル表示で2.5YR5/8〜6/8の赤味を示すが、礫は風化しておらず表面がうすく赤く染まっている。礫層の団結度と赤味が強いのは背後の赤色風化殻を有する斜面から、赤色土が流れ下り、これに汚染されたためと考えられる。礫の風化程度を指標とすれば、室戸の低位段丘面に相当する。
 海部川沿いの河成段丘面は前記の通りであるが、このうち海部町富田および海南町若松にみられる、現河床との比高40mの段丘面が、最も面の広がりが良く、連続もよい。礫は赤色風化をしており、礫の赤色風化殻の厚さは室戸の段丘面のうち中位の中・下段(M―2・3面、高度150〜70mに数段あるものを二群にまとめた;須鎗ら、1971)に相当する。また、海南町吉野(富田の下流1km)には高度40m(河床との比高25m)、高度30〜20mの2段の段丘面があり、いずれも厚さ10mの砂礫層に構成されている。いずれの面の礫層の礫の風化は、白色を示す風化殻はそれぞれ最大7mm、10mm程になるが、表面の赤色風化殻は1mmに満たない。ごくまれに、下位の面の上端、すなわち上位の面よりずり落ちたと考えられる位置にて3〜4mmの赤色風化殻を示すものが認められた(完全にクサリ礫となるものは測定しない)。しかし、礫の多くは厚い赤色風化殻を示さず、室戸のM―3面に対比しうるかは未だ決め難い。また、吉野の40m面(河床との比高25m)と前述若松の70〜80m面(河床との比高40m面)とが対比されている(寺戸1972)けれども、富田に70m面、40〜50m面との2面があることからも、両者の間に30mの高度の急変を直ちに結論できない。吉野の40m面の北側の斜面に一致して、N80°E、垂直の砂岩を切る断層(落差は認められない、破砕帯の幅は1m程度が2箇所)がある。海部川の下流平野部分が断層によって地溝状の変位をしたと考えられても、単純に室戸半島の一様な傾動は結論できない。
 宍喰川流域でも小面積ではあるが、各所に段丘が存在する。大野東方(対岸)の26mの平坦な岡には、畑中に径3cm以下の泥岩の亜角へ円礫が散在する。一部の礫には表面が赤く染まるものがみられる。この岡の南方、馳馬(はせば)の35m孤立丘も頂部に厚さ3m以上の礫層を有する段丘である。径30cm以下の砂岩礫を主とし、亜角〜亜円礫のなかにわずかに円礫が混じる。層相や位置などから海成礫層とみられる。マトリックスはしまりのやや弱い砂質シルトで赤色化や粘土化は認められない。室戸半島西岸の下位段丘・L面(須鎗ら、1971)に相当すると考えられる。上流では広岡、落合その他に礫層が認められ、段丘面も明瞭である。本流の角坂、塩深、猪の鼻では2〜3段に分れているが、主要な面は河床との比高が10m内外である。
 宍喰川河口の北岸では、鈴ケ峰南東麓の40m内外と60m内外に礫層がみられる。共に50mと70mを頂点とする緩斜面の一部を構成している。亜角礫を主とし、北からの水流による斜面堆積物であろう。礫は低位段丘の中上位程度の風化をしている。野根川中流では久尾付近に低位段丘がみられる。この流域で注目されるのは、久尾あるいは船津西方の稜線上の平坦面(河床よりの比高150m)である。堆積物を欠き、かつての段丘であるかどうかもさだかでない。ただし周辺の山地に対して、川沿いに分布するので、段丘面の可能性もある。すなわち、室戸半島東岸でも、半島東岸にみられる高位の海水準と対応するものがあって、それは傾動沈降したため高所に段丘面がないのではなく、単に保存が悪いため認められない可能性がある。
 b.各種の海食地形・海食痕
 海崖に沿って、各種の海食地形がみられる。今回の調査範囲は牟岐町より室戸市鹿岡(かぶか)まで約40kmの範囲であるが、とくに宍喰町水床荘の下の海崖には、各種の海食地形が標式的にみられる(第2図)。

とりつきやすいこともあり自然観察コースとして観光コースヘ組み込まれれば幸いである。ここでは、海面上、1.5〜1mの高度で幅6m程の広い台があり、この台に立つと海面下にやはり浅く広い棚(幅5m位)があることがわかる。この棚は一面に海草におおわれているが、現在の海水準のもとで形成されつつある海食台である。干潮時には一部が空中にあらわれ、海草におおわれた岩盤に小さな丸い穴があり、中に二枚貝が見い出された。穴は貝があけたものであり、この貝は穿孔貝と呼ばれる。海面よりわずか高い台の基部には、深さ数十cmのくぼみが平均海面高度に一致して波に洗われており、これは海食痕(Notch)と呼ばれる。海面上1.5〜1.0mにある広い台は、満潮時にも水没することはない。大きな波しぶきによって、ときどき表面が洗われる程度である。したがって、平常の海面下で浸食されて生じた平坦面ではない。暴風時の波浪の作用を重視して、ストームベンチと呼ばれることもあるが、その実証はない。平常は、波のしぶきにより乾湿がくりかえされ、平坦面形成に乾湿の交代による風化作用が重視されることもある。風化物質はすぐ洗い去られるため岩盤の表面はごくなめらかである(写真11、砂岩中にとり込まれた泥岩礫のまわりが周囲より一段と高くなっている―elevated rim―のは、泥岩礫のまわりの割れ目に鉄分あるいは塩類が浸み込んだため、かえって周囲より堅くなり、起伏が逆転したと考えられる)。すなわち、地盤の隆起あるいは海面の低下によって、かつての海食棚が陸化したとも考えられる。また、この台の部分は立っている厚い砂岩層の部分に一致しており、浅川以北の泥岩の海岸ではこのような台はごく少ないことと対照的である。

 この台の背後の海崖表面には、蜂の巣状の凹凸模様がみられる(写真7―9)。

 

 

蜂の巣状風化構造と総称されるが、規模は大小あり、蜂の巣穴状のものから、これが連結した数十cm単位の骸骨状のものまである。海面上24m以高まで認められ、わずかにしぶきのかかるところで形成されると考えられるが、その機構とりわけ、岩盤表面に穴があきはじめる作用が未だわからない。前述の穿孔貝の痕などもその説明のひとつになるであろう(写真5,6)。

 穴の成長したものは、穴と穴との隔壁が岩の割れ目によく一致しており、まず割れ目に鉄分・塩類が浸み込んで堅くなり、かえって起伏の逆転を生じたことを考えさせる。
 地殻変動またストームベンチとされるものの成因をとらえるため、牟岐町―室戸市鹿岡の範囲で、現在の波食棚・海食ノッチ、波食台、海食洞(その内部にノッチがあることもあり、また小さいものは底の高さが海面を示すこともある)、海食痕(ノッチ)、浜堤などの相互の高度関係を簡易測量(標尺とハンド・レベル)によってもとめた(第3図)。

 現海水準として、波に洗われつつある波食棚の上限・ノッチをもって基準とした。海況を示す蜂の巣状風化構造の上限(県北では海面上5m位にほぼそろう)は、20mを越え採用できない。
泥岩の多い浅川以北では、現海水準下に波食棚が良く発達し、波はおだやかであるが、浅川以南の砂岩の多い沿岸では波食棚は幅せまく、波が非常に荒い。とくに鞆浦愛宏山の南海岸は、大岩塊が波食棚をおおい、現海面上4mまで木材がうち上げられている。
 一般に、浜堤(ほとんど礫よりなる)は現海面上+2m程度のものが多い。海食洞・ノッチは総じて、+2m前後のものと、+4〜5m前後のものとがある。
 +2mに底をもつ海食洞は、台風時にうちあげられたゴミをまじえる礫が底をおおっている。まれに角礫をまじえることがあるが、新しいものであり、陸化し、化石化された海食洞・ノッチは認められない。一方、+4〜5mのノッチ・海食洞については、暴風時のうちあげによるゴミなどは認められず、また八坂八浜福良では、小谷の出口に段丘化された谷底堆積物の露頭がみられ、これは浜堤より明らかに一段高い。すなわち、この水準は鞆浦愛宏山の南岸の例をのぞいては、現世のものではない。なお、南へ下ると、この水準に陸化した波食台(入木水尻の国道の通っている台、室戸岬付近の国道の通っている広い台)があらわれる。この水準の年代について、室戸半島東岸では未だ資料がないが、同西岸の室戸川の沖積面堆積物(高度5m位)中の腐植のC14年代が約6000年B.P.とされている(満塩他、1973)。
 +2mの海食洞については、ストームベンチ同様、暴風時の波浪にさらされるとしても、はたしてそのときに形成されるものか、あるいは過去の海水準で形成されたものが、たまたま現在の暴風時の水面に洗われることも考えられる。
 ま と め
 室戸半島東海岸、宍喰町を中心とした地域の地形発達史は概略次の通りである。
1.室戸半島東海岸も、西海岸と等しく、たがいに斜交する断層網によって、山地と水部・低地との境がなされている。この断層網が形成されたのは、西海岸では 中新世中期頃(約3千万年前)の変動である。
  このときに半島の概形が形成され、その後は断層による弱線に沿って侵食がすすみ、湾入や河谷が形成されていった。
2.百万年オーダーの地殼変動をとらえる資料は残されていない。しかし、従来いわれているように第四紀(200万年〜100万年以降)になって山地と平野(低地)および海底とが分化したとは上述より考え難い。
3.10万年〜数万年オーダーの地殼変動は、海成・河成段丘面よりとらえられる。未調査の部分が多いが、海部川流域を例にとっても、地塊毎に差別的運動をしている可能性があり、半島全体にわたる一様な傾動運動説は再検討の必要がある。なお、段丘面の時代決定の指標は氷河性海面変動仮説に基づく、海水準変化と気候変化それぞれの段丘形成におよぼす影響の対応であるが、現在のところ当地域は後者(かつての温暖期を示す赤色土の残存)のみであり、海面上昇を示す堆積型段丘は(沖積面をのぞいて)知られていない。
4.数千年オーダーの地殻変動は、海食痕を指標としてとらえられる。* 当地域では、現海面上4〜5mおよび2m前後のもの2つが認別される。前者は過去の海水準を示すと考えられるが、地域的にその高度が変化することなく、この期間における半島の隆起運動は水平的隆起であろうと考えられ、従来の傾動隆起説には疑問がもたれる。* 海食痕・海食洞などは岬などの突出部に形成され、岬と岬との間の河谷平野部と岬部との差別的運動はとらえられない。
 文   献
阿子島 功(1972):Honeycomb structure と海水準。徳島大学学芸紀要(社会科学)、v.21,p.9―21
甲藤 次郎(1969):高知県の地質。高知市民図書館。
中川 衷三(1972):徳島県の地質(1/20万徳島県地質図説明書)うち、P.67〜71
須鎗和巳・坂東裕司・小畠郁生(1967):徳島県牟岐町の四万十帯より白亜紀アンモナイトの発見。地質学雑誌、v.73,p.535〜536
  ――・阿子島 功・栗岡 紀子(1971):室戸地域海岸段丘の再検討(第1報)・徳島大学教養部紀要(自然科学)v.4,P.19〜33。
寺戸 恒夫(1972):徳島県海部川流域の地形。地理科学の諸問題(船越謙策教授退官記念論文集)、p.167〜172
矢野 忠夫・満塩 博美・川添  晃(1973):室戸半島奈良師付近の地質。日本地質学会関西支部・西日本支部合同例会(於徳島大、講旨印刷中)。
吉川 虎雄・貝塚 爽平・太田 陽子(1964):士佐湾北東岸の海岸段丘と地殻変動。地理学評論、v.37,P.627〜648
   ――(1969):西南日本外帯の地形と地震性地殻変動。第四紀研究、v.7,p.157〜170


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