阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第19号
脇町猪尻役所の稲田筋目書

猪井達雄

 脇町誌によると稲田家御家中筋目帳外、稲田役所の書類を猪尻の奥坂虎男家(徳島市在住)が所蔵している旨記されているが、奥坂氏のお話しによると、「この書類は一家臣の家が私蔵するものではないと一旦、東京の稲田家へお送りしたが、稲田家から家臣の書類だからと送りかえされたので考えた末、県立図書館で保存してもらうことが適当であると金沢治先生を通じお願いした」ということで同氏の卓見に敬意を表する次第である。
 筆者は、金沢治先生の指導により、難解な事項を解明しつゝ筋目帳を読解し、国見辰雄氏(愛知県・医師)が出版をひきうけてくれ発行中である。藤岡道也氏、蓁原源一氏など稲田家中の関係ある方にご指導を仰いでいることはもちろんであるが、国見氏も筆者も関係者で、貴重な史料を活字化し、100年、200年まえの先祖とかたらいをしてもらおうというのが最大の願いである。
1.まえがき
 新書太閤記(吉川英治著)の矢矧川の項をみると「布令がまわった。家長の蜂須賀小六の名をもってである。―集まれ!というのだ。晩方までに、土豪蜂須賀の丘の住居は、門の内外、野武士で埋まった。『合戦か』『何事だろ』『何が起ったのか』集まって来た者はみなこれ、物の具を取れば、一くせある面だましいの者ばかりだったが(中略)そのうちに『お庭へまわれ』『静粛に―』『中門をくぐって』と、小六の腹心、稲田大炊助、青山新七たちが出て来て指図した。」矢矧川で日吉が舟で寝ているところを小六の一党が、槍の石突で胸を小突く……この太閤と蜂須賀小六との出合いはあまりにも有名である。
 蜂須賀氏と稲田氏は、この時代より兄たり弟たり刎頚の交わりを結び、行動を共にしてきた。
蜂須賀小六正勝――家政(蓬庵)――至鎮(義伝)――忠英……
(大先祖) 第1代 第2代 第3代
稲田大炊助――左馬亮(稙元 宗心)――修理亮(示稙)九郎兵衛(稙次・秀関)……
とともに代々続いていくが、稙元は、太閤秀吉が正勝を播州竜野五万石の城主とし稙元を河内二万石の城主たらしめんとしたが、小六正勝と兄弟の義を結んで共に相助け働かんと約せしとて河内二万石の城主をことわり蜂須賀氏の客分として竜野にいったという。家政、阿波に封ぜられるや脇城代となり蜂須賀氏の筆頭家老となって蜂須賀氏と終始行動を共にしてきた。そして後、淡路城代となるのである。
 この稲田稙元宗心が脇城代となり兵300を配したとか、一説には脇城のみ500を配したとかいわれているが、とにもかくにも上郡(かみごおり)の押(おさ)えとして阿波の西部をおさめることになるのである。この稲田家御家中筋目帳というのが、脇町猪尻の稲田役所にあり、それが残されている。
 太閤による高麗の陣(文禄〈1592〜93〉慶長〈1596〜98〉)の両度にわたる戦争に、肥前名護屋に出陣、稲田家家来は、戦死した者あり、無事に帰陣した者ありで、幼いこどものころ思いもよらなかった日本歴史の中に、たくさんの稲田家家来が参加しているのである。また江戸城、名古屋城の御普請、日光山、大井川御普請など阿波の山河からみれば他国のことのみと思っていたが、これまた予想だにしなかった稲田家家来が加わっているのである。
 大坂冬の役、穢多崎博労渕の戦功により慶長19(1614)年12月24日徳川家康より住吉営において蜂須賀至鎮に対し恩賞あり、なお家臣のうち稲田左馬亮稙元(宗心)70歳、林図書助能勝(道感)80歳に対し特に賞讃あり、つぎの7人に対し各感状および賞賜を賜わった。
 稲田修理亮示稙(稙元の子)稲田九郎兵衛稙次(稙元の孫15歳)山田織部、樋口内蔵助、森甚五兵衛、森甚太夫、岩田七左衛門、これは阿波の七感状として有名であるが、稲田氏の親、子、孫と三代にわたる武功は武士の亀鑑として名をとどろかした。この役にも稲田家家来は多数参加しているのである。
 そして、また西阿を鎮圧したこと。阿波の山々、村々でおこったことなどいろいろ語り、つがれているが、西阿の人々、牢人、百姓との出合いの歴史を克明に1軒ごとに記されたのが、この筋目書である。
 幕藩制の支配構造は
 (旗本・御家人)
将軍―大名―藩士―家来。士・農・工・商ということになっている、大名は将軍に忠誠奉公をする。即ち軍役を課される。そのかわりに大名は領地を与えられる。大名は藩士に拝知を与える。藩士は家来に扶持を与えたり土地を与える。そして忠誠奉公を約させる、そして住民には安全を確保し、そのかわり夫役を課する、いわゆる封建関係の階層(ヒエラルフィ)がはっきりしていたのである。
 一方住民は組頭庄屋、庄屋(年寄・肝煎)―助役―五人組―本百姓、町人といった階層で、大名あるいは藩士の支配をうけ百姓には二夫役、町人には見懸銀をかけ平和を維持してきた。
 稲田家筋目書をみていくと、稲田氏は入国後、脇城代となってから、これら本百姓と友好関係を結び、兵農未分離のままの状況においてその采地の軍役支配を上手に扱っていることがわかる。支配構造からいえば武士と百姓の2系列になるものであるが、庄屋五人組本百姓を家来として起用していったのである。稲田氏は筆頭家老であり淡路城代ではあるが、藩士であり、稲田家家来は蜂須賀氏(大名)の陪臣(またげらい)である。そういった意味から庄屋―本百姓、あるいは牢人、御蔵百姓の藩への結びつきよりも、稲田の拝知のものが上手に結びついていけたのであろう。
2.筋目書は現在の戸籍・履歴書
 筋目書は、明和5〜6(1768〜1769)年ごろ役所まで「申上ル覚」を家来から申告させ、それに、明暦、延宝、享保の棟付写しを「付け紙」としてつけ、先祖からの由来を役所の家来に書かせている。
 武田信玄にちなんだ家柄、安宅の関で義経を見逃がした富樫氏の子孫、源平合戦後、故あって浪人来国した者、阿波の住民は、忌部族、海部族とばかり思っていたが、この筋目書を一読すると、その感を訂正せざるを得ないのである。讃州、豫州、土州、備州、播州、摂州、甲州、伊豆の国等々といった国々から入国したという具合いで、由緒ある家柄名門の家々がかなり入っている。もちろん御国出処といった阿波の人々も多く、先祖、相わからずというものもある。
3.稲田筋目書の形式
 では稲田筋目書は、どのように記されているか、つぎに一例をあげてみると
 「い壱 東山庄屋六郎左衛門弟
 上納銀三百五十六匁七分五リン
 寅七月迄皆納 後藤田政次郎 断絶
 米五石六斗代
 延享弐丑年御歩行格被召出拾ケ年相勤
 宝暦四戌年以来病気ニ付在処養生仕
 罷在候
 明和六丑十二月御郡代所へ御達
 左之通 四十七
  後藤田政次郎
 此者東山庄屋六郎左衛門弟延享弐
 丑年より於須本召仕歩行格ニ申付
 在之候処近来其侭ニ而在処へ相引せ置候」
 上記の筋目をみると、まず出所生国がわかり戸籍、住民台帳、兵籍簿といった役目がある。上納銀をみると、当時の米代がわかるとともに貢租台帳の役目がある。延享弐丑年以下をみると履歴書、勤務状況がわかり軍歴の役目を果たしている。「明和6年12月御郡代所へ御達左之通」以下は、明和に行なわれた棟付下調べの際、稲田役所においてこの筋目をつくるについて申告をさせたということがわかる。
 以上筋目の外、明暦棟付、延宝棟付、享保棟付を半紙4分の1大の大きさに書いたものを最初に「付け紙」にし、筋目本紙には、先祖名を書き、その肩書に生国(先祖、出処)を記し、本文1行目から先祖由緒書、稲田家との関係、各陣、各地御普請御供、淡路、寺嶋、猪尻などにおける戦功、勤務状況を克明に記されている。つぎに養子暇証文、■(かせぎ)証文、申上ル覚などの覚書が、折紙としてつけられ、これは筋目本紙にはられたものと、括(くぐ)りつけたものと2つになっている。自分の実子を蔭(かげ)におき、養子をして家督相続を願い出ている者もあるし、自他国10か年の■を願いでて支配からその間放たれている者なども記され、また切支丹宗門御改といった意もあり「寺請状真言宗山崎村金勝寺」といった記載もみられる。また御家来といえども不将(ふらち)不届きのあった場合のおとがめのことももちろん記されている。
 武士といえば、刀を抜き、チャンバラを連想するが、それは、「平家物語」や「天と地」や「太閤記」のテレビや小説ではみられるが、その時代とちがった徳川泰平300年の武士の身上が、この筋目から十分読みとることができるのである。
4.稲田家と地侍との結びつき
 「いの壱」と筋目番号を書いたが、この「い」の字を冠したものが1冊と、何にも冠せない「壱」「弐」といった筋目番号を記した分が25冊現存し、各、100軒程度ずつが1冊に記入されている。
 この「い」の字は「結(ゆ)い」の転訛の「い」か、あるいは「家柄」の「い」かと思われるが、江戸の火消し組のごとく、「い、ろ、は、に」……といった組のようなものはみられず、ただ1冊だけ「い」を冠した筋目書があり、そういったことから「家柄」と解するのが妥当でなかろうかと思う。というのは蜂須賀小六を「土豪」と吉川英治著、新書太閤記には書いているが、この「土豪」という文字は稲田筋目書はじめその他の古文書の中には、みえない。古くは名主(みょうしゅ)、政所、庄屋、五人組、本百姓といったもので阿波の山々、村々で細川三好時代に刀や槍をもって土着した地侍の家々であり、いわゆる兵士の血脈のあった家々のことをいったので「い」の字を冠したのではなかろうか、いわば阿波での土豪とはいえないものだろうか。
 三河から、あるいは竜野から入国のお供をしてきた家来は、ごく少数であったことがこの筋目からも推察される。そしてそれらの者には、割屋敷を与え、高(拝知として田畑)扶持を与えなければならなかった。
 しかし、これら土着の本百姓は、土地をもち、夫抜きと称して為替所へ冥加銀を出させ夫役を免除するという家格が与えられるのである。庄屋の弟や本百姓の者が、庄屋の支配から脱け出し、夫役を免除されて武士の系列に入ることは、階層制の強い封建社会では、またとないチャンスである。庄屋の小家(分家)が歩行格(徒士格)に駈出される、本百姓が、家来に駈出されることは、当時としては銭金にかえられない名誉であったにちがいない。
 また稲田氏にとっても、三河から少数の武士を伴って、脇城へうつり、阿波国の大半、ことに豫、讃、土という三国の国境の押えとして大役を果たすためには、どうしても地元の山々村々の、人望あり資産ありその山々村々の名主として、古くから在住した家々と結びつきをもたなければ、到底うまくいかないということを感知したのであろう。
 稲田修理から淡路城代となって歴代当主はほとんど淡路で在住し、たまにしか脇町へはこられなかったようであるが、稲田九郎兵衛の家臣であることをほこりとしてきた人々は、西阿を中心として住む、土着の牢人、土着の本百姓筋を中枢とした家々で支えられていた。
 譜代の三河以来の家来と、こうした新来の家来とを何の区別もなく、才あるものはその才を生かし、適材を適所に使い、うまく配慮した人事行政というものは、稲田300年の泰平と稲田当主をたてて、庚午事変にまで発展させた素地をこの筋目から見出すことができるのである。
5.国境防備と君臣の情
 讃岐境で、寛永18年3月、讃岐の者が、阿波へ大勢押し入り御林をあらした。笠井吉兵衛の項には、その者たちをとりふせ、ほとんどが退散したのでゆるしてやったが、随分手荒い防戦をしている。そして遂に江戸から上使がこられ、両国の裁判となり上使のまえで対決し、「御国の御利運に」と、勝訴した旨がかかれている。
 三宅関太夫(せきだゆう)の条には、讃岐から無礼者が来たので、3人のうちの1人を殺し1人を半死にさせ、国境まで送り捨てたが、1人が帰りこのことをつげ阿波と讃岐の両国の事件となり、讃岐では関太夫の首をもってこなければ許さぬと公儀からのお仰せがでる。稲田修理はどうにかして関太夫を助けたいと思い才覚をめぐらし、「相生」へにがし、ついで「紀州」へにがすが、どうしても公儀がゆるしてくれない。遂に切腹沙汰となる。「尚々事ノ外大キニ公議より被仰出候間不及是非候……」からはじまる修理が、関太夫に切腹をいいわたした奉書文はまことにあわれである。切腹後、子孫に香料として1人扶持を与え、君、君たるべき情がしのばれ、涙せざるを得ない筋目書中の1エピソードが記されている。
 稲田修理の家来への思いやりはもちろん、稲田家は幕末においても山林などを家来にはらいさげたことは語りつがれている。美郷村などへいくと刻印松というのがあり、稲田の御林のあとがありその昔がしのばれる。
 修理のあとをしたって殉死した者があることは脇町誌にも入っているが、この筋目にもみられる
 「生国尾州
  青山又右衛門
 又右衛門子
  青山与一右衛門
 右両人共、宗心様御入国御供仕高ヲも
 被遣相勤候与一右衛門義ハ
 修理様御逝去被遊候刻殉死仕候」
となっている。
 また、西村吉右衛門は
  (注、太郎右衛門は修理のこと)
 「太郎右衛門様御逝去後剃髪仕在郷へ引込居申
 候得とも切米ハ前之通被遣候後 杢右衛門様江
 為御雇被召出相勤候」
となっており稲田当主の死にあうと、殉死や剃髪をしなければならないほど、その人徳をしたっていたことが忍ばれる。

 筋目は明和年間に記されたことはまえにものべたが、その記されている内容は古い。今テレビでしている「平家物語」の義経(よしつね)もでてくるのである。
 「尾州御随士 始右仲
  佐々式部
 右式部元祖富樫権助後但馬守重純鎌倉
 (頼朝)(義経)
 右大将へ事(つか)ヱ於富樫新関 九郎殿を見遁(のが)シ
 通シ候咎(とが)メニ預り浪々之次第 達 九郎殿ノ聴ニ奥州へ
 招キ秀衡ニ請ヒ前野三千町ヲ賜ヒ前野庄九郎
 と相改九郎殿へ随従(中略)大炊助様へ被召抱候其子
 当佐々式部相続被召仕 天正十三年
 左馬允様阿州へ御入之刻右式部供奉於脇御城
 相勤元和元乙卯七月七日死」
となっている。かの謡曲や歌舞岐で演ずる「安宅関」にでてくる者の子孫が阿波へもきていることがわかる。
また武田信玄の子孫も家来の中にいる。
 「大谷与助
 先祖武田信玄弟右馬之助生国甲斐国より
 阿州美馬郡小嶋村へ相越馬之助子源助
 宗心様より為御合力と拾人扶持被遣又
 源助子与助宗心様へ被召抱弐入扶持五
 石被遣大谷と氏相改候」
また織田家の末葉というのもある。
 「津田忠左衛門
 此者尾州より宗心様御供罷越所之
 御陣等相勤候、尤織田家ノ末葉与申伝
 子孫男女共定紋五葉瓜更(ごよううりかへ)不申様ニ与申次
 右忠左衛門小嶋村ニ住居男子弐人在之嫡子より
 馬之亟稲田左近右衛門殿先祖之由」
また「尾形孫七郎
 此者元祖豊後国尾形惟義源平兵乱後
 以後当国へ罷越、未孫尾形孫七郎其子
 甚兵衛其子彦十郎迄三好織部へ相仕候美
 馬郡貞光村之内加路うと名一宇山之内
 樫地赤松鈴目地以上四ケ所領知仕候所土佐
 乱之刻三好家美馬九郎ニヒ討候節右
 彦十郎戦死仕候、其子当弥七郎蓬庵
 様入国以後祖谷山之義、御国
 相随不申ニ付為御打静(うちしずめ)宗心様貞光
 村迄御発向之所土佐より加勢御座候而御難
 渋ニヒ思召候所当弥七郎御呼出し彼山ノ義
 御尋ニ付申上候ハ嶮山ニ而入口三ケ所ならは無
 御入込之上ハ右三ケ所取■イ申趣承知仕旨
 申上候ハ小野寺和佐与申者私不遁者ニ而
 御座候彼者ト両人一先祖谷山江被遣候ヘハ……」
と宗心の家来の祖谷山鎮圧のことが記され、宗心より智謀御手柄(がら)の旨のべられ地高を遣され、大坂御陣へも御供している。
 右、宗心入国当初天正13年祖谷山の武力抗争のことであるが、名西郡大粟山一揆鎮圧にも稲田家が加わって、上郡の押えはもちろん、筆頭家老として重きをなしていることが伺われることが筋目にもみられるので、つぎに半平山庄屋尾形八郎太からの申上ル覚を紹介し、多数ある名門の筋目は紙面の都合上割愛さしていただきたい。
「申上ル覚(抜キ書)
一、私義刀指之義先祖代々末子迄御入国以前より指(さし)来り申候、先年 蓬庵様御入国以後、至鎮様御国廻り被為遊候節池田村迄御趣ヒ為夫より南地御廻郡ヒ為遊御趣之所、名西郡大粟山百姓共壱騎企(ママ)麻植郡川嶋植桜ニ出向居申工(たくみ)之由、木屋平村松家新左衛門方より申来り私先祖尾形孫右衛門早速夜道ニ美馬郡脇御城江罷下り稲田修理江右之趣相紹(つげ)申候得ハ修理池田村江右之趣ヒ申上候処早々御船ニ而御下候御帰城ヒ為遊候、修理ニハ大粟山江右徒党之者共為討約(つづ)メヒ罷越候ニ付半平山へ罷越私先祖尾形彦六郎孫右衛門父子共ヒ召連大粟山へ罷越右徒党之者共ヒ討約(つづめ)帰城ヒ仕候其以後御国中帯刀御調部(べ)ヒ為遊候節も右之仕合私先祖義ハ刀御赦免ニ而侍与御立置御免書ヒ為下置頂戴仕居申候(中略)
  丑九月 半平山庄屋 尾形八郎太
6.朝鮮の役、大坂の役その他御陣
 つぎに稲田家中が朝鮮の役や大坂の陣にどのように活動したかを述べる。
 「先祖佐藤新左衛門
 (一代)
 宗心様被召出高麗両度御陣御弓ニ而御供江戸
 本丸御普請之時小奉行青山与一右衛門
 船越亀之助御手元へ罷越壱人扶持加増
 (注 二代修理のこと)
 大坂陣江戸より天外様御弓取被仰付後於須本
 (ママ、養徳院カ、修理の妹カ)(賀嶋家)
 久々相勤 養成院様共御前様へ御入御供
 (三代九郎兵衛のこと)
 其子六兵衛秀関様御持弓高十石
 武人扶持被遣其子伊佐衛門於郷中相在
 後御暇被遣候」
 「野田孫太夫
 此者生国尾州より罷越 宗心様(一代)ヘヒ召出
 高麗陣御供仕於彼地討死仕候」
 (一代)(二代)
と、宗心、修理の御供とし朝鮮の役をつとめているが、この筋目書にはこの役のことを高麗御陣としている。
 忠臣蔵で有名な47士の中の武林唯七は中国帰化人の孫である。この陣のとき、明より援兵として来た者に孟二寛というものがあり、その者が遂に日本軍にとらわれ日本に帰化し医者となり武林次庵と称した。武林というのは彼はもと南支那の抗州地方の武林(ぶりん)という処の人で、その故郷の地名をとって武林という日本姓にしたそうで彼の子の代に浅野家に仕え、その子がすなわち武林唯七である。新撰姓氏録の諸蕃の條や大日本史の氏族志の蕃別の部などにも知られるとおり帰化した人々は、多く、この陣の際、川島城の林道感のつれかえったという朝鮮女の墓は有名であり、関東地方には、高麗という名称、地名がのこっているようであるが、筋目中にも高麗陣のことが散見される。
 また大坂御陣には
「三宅久助
修理様
大坂御陣御供於軍中働之躰 御感思召御側
近クヒ召仕御凱陣之刻病気ニ付郷中養生
願出候処快気之上ハ早速出勤仕候様被仰付
養生仕罷在処ヒ仰付候ハ久助義御陣之御供
無慈相仕舞其上於戦場粉骨之働御満足
思召候仍之先御知行高弐拾石美馬郡上野村
ニ而御充行ヒ遊候猶又病気随時養生仕候様ヒ
仰出追付快気出勤之所無程病死仕候」
等々、各筋目には大坂陣の功労や討死のことが記されている。
 「森藤弥吉 弟平兵衛
 修理様大坂御陣弥吉、平兵衛兄弟とも
 両度御供御帰陣後御墨附並御刀一腰
 ヒ遣」
また嶋原一揆征伐(1637)を仰せつけられ家来が御供をしたことが書かれている。
 美郷村東山古土地後藤田佐一氏蔵する古文書によると
 「嶋原之節稲田修理御備(そなえ)定左之通
 但し此時先手鉄炮ハ外々御家老不罷出候故
 修理先手残御但付ヒ成候
  先手
右 鉄炮二百五十挺(中略)
 先手
左 鉄炮二百六十挺(中略)」
となっており、稲田修理、稲田九郎兵衛をはじめ、家来の出立が記されている、兜、羽織、指物、旗、一番指物、船印などが書かれ、武者姿を想像され近代戦へのにおいをさせる古文書である。
 宗心につかえ竜野からきたということをくわしくかいた筋目には
 「美濃祖父江産
   祖父江助右衛門
尾州江罷越、宗心様ヘヒ召抱播州龍野へ御供仕天正拾三年龍野より脇御城へ御供仕罷越相勤高麗御陣御供仕御帰城之上知行百石地方ニ而ヒ遣美馬郡太田村ニ住居、慶長十九年大阪御陣■(せがれ)忠助一処二御供仕候」
 こういった筋目から伺われるように(一代)宗心―(二代)修理―(三代)九郎兵衛とこの三代は阿波へ入国してからの稲田家草創の時期であり多難多事の時でもあったが、元和元(1615)7月24日、大阪軍功により阿州麻植郡の内にて高千石余、寛永3(1626)御加増淡州三原郡の内にて千石、板東、阿波、三好の三郡の内にて2千余石、正保4(1647)3月朔日御分国阿波淡路処々にて4千石余、本知1万石都合1万4千石継目の御判物一紙にて下さるということで、地方の小大名にも比しておとらない蜂須賀氏の筆頭家老、淡路城代として名実ともにそなわっていくのである。
 蜂須賀至鎮が淡路一国を加封されたのが元和元年大阪の陣の功によるものであり、蜂須賀氏が幕府の内命によって、その城代に稲田氏を任命したといわれるが、それは稲田氏が三代にわたって出陣し、その戦功の著しいものがあったので、幕府もまたこれをみとめ特に稲田氏を推薦したのであろう。
 九郎兵衛が15歳で感状を賜わったことについて家康は、人の名前は、気をつけて命名しなければならない。もし九郎兵衛でなくて、何々丸とか何々若であらば、九郎兵衛の戦功は一躍天下に喧伝されるだろうにといわれた伝説は有名であり、この子孫ならばと、軍事的、海防的要地である淡路一国の城代、大名にも比すべき栄格と、重要な軍役を課したであろうし、阿波の家来が淡路で奉公するということにもなったのである。
7.筋目書から家系の研究
 筋目書をみるのにイロハ順索引というのがある。
姓氏研究家の太田亮先生が、「慶長ぐらいまでは家系をしらべることは可能である」ということを戦前に歴史関係の雑誌に書かれていたのを記憶しているが、私は、家中筋目単位に、あるいは美郷村史用とか、川島町史用に俗地的にこの筋目を単念にうつしとってきた。そうするとかなりのことがわかるのであるが、筋目に相互関連性があり、最近、全筋目に目を通さないと完壁を期し得ないことを痛感している。特に最近、筋目書を系統だてて研究された国見の筋目をここでは紹介することにし、そしてこれを契機に稲田氏の家中と伝えられる方々の家系研究をおすすめしたい。
 戦後系譜に関する研究をする人は多く、これらの出版物も多い。ところが、徳川時代に系図書きに書かせたものや、名門にあやかりたいためにこじつけたものもかなりあるように思われる。古文書、過去帳、墓、位牌などからさかのぼっていくと、太田亮先生のいわれたごとく徳川初期前後までしかさかのぼれないのが、ふつうではなかろうか。それはともかくとして現今、家系を研究する人は多く家系の研究から歴史家となった人は多い。国見辰雄氏(愛知県渥美郡田原町東大浜、国見診療所長医博)は、国見という姓にとりくみ、電話帳、各種名簿などをくり、各地と郵便連絡をし全国国見会をつくり研究の手がかりとした。そして国見氏が阿波(徳島県美馬郡脇町)土佐(高知県中村市国見)相模(神奈川県小田原市早川)にその大部分の発祥をみることができ、それが、東京、京阪神、四国、九州の一部ならびに北海道に分布をしていることを知った。近くは富山県、三重県にもその発生を知り得た。
 阿波の国見氏について、特に同氏は関心をもち、系譜考日本の「国見氏」の第七巻「国見孫三郎吉忠と400年に亘るその子孫たち」第八巻「稲田家御家中筋目書より阿波国見氏各流とその諸系譜」として2冊の書物にまとめ阿波国見氏、ことに稲田家中筋目の国見氏の全ぼうを展開している。
 第七巻、八巻とも筋目書を各家ごとにあげ、原文、現代文訳、系図をいれ一目瞭然としている。例示すると
 「国見孫三郎
宗心様御入国之節尾張より御供仕り弐人扶持ニ地高拾五石支配被遣脇村三百石分先年従公儀御検地御座候節も御直キ御名負如何敷思召孫三郎と仕居並右之分請持下々へ申付御茶園畠御定品々御作せ納方共ヒ仰付旁御意ニ而一生之間相勤候……中略」
この現代文訳として
 「国見孫三郎
 稲田太郎左衛門稙元、号して宗心様が天正13年(1585)阿波へ入国の時、尾張(愛知県)より従って、2人扶持と15名支配を命ぜられた。脇村300石分が先年幕府の検地を受けた時、宗心様の御名負ではどうかと思召され孫三郎の分として右の分をうけもち下々へ命じ、お定めの品々をつくらせたり茶園、畠の作物の納入も命ぜられたりして一生、宗心に仕えた(中略)
 国見孫三郎を大先祖とし国見辰雄氏で第11代目とされている。
 国見孫三郎以外の阿波国見氏各流については、1 国見六之助2 国見孫之亟3 国見賀兵衛4 国見善四郎5 国見樫右衛門6 国見大蔵の6系列にわけて、これも原文、解説、系図をつけられている。
 思うに脇城の北方700メートルに国見丸(岩倉山分261メートル)があるが、脇町誌によると「国見山は諸国にあるが他国を望見できる、この小丘を国見丸というのは無謀で或は、クニギ丸の転訛か……」という一文があるが、宗心入国後、国見氏をここへ住ませたので、自然、国見丸と称するようになったということはいえないであろうか。阿波山岳武士の住居として名高い徳善家や木地屋が集団生活していたという西岡部落の人々が山麓に住む国見山(1437メートル)は、中国、九州、四国、近畿の13ケ国が望見できるといわれ、また大鳴門架橋地点の展望台でも七州がみえるといわれる。そういう意味から国見丸の麓に国見氏の屋敷跡があるを思えば、宗心入国後に国見丸と小丘を名づけたというのが妥当で、クニギ丸の転訛とは少し飛躍しすぎるように思えるのである。
 国見氏が筆者と、否筋目書との出合いは、庚午事変百年にあたり、徳島市中央公民館が発行した市民双書「庚午事変」の稲田筋目書の拙稿をよまれたことに端を発し、筆者との文通のみによって国見氏をここまでまとめあげられたのである。この書物の内容をみると、「国見孫三郎が淡路須本で稲田修理の屋敷に勤務を命ぜられていたが、病気になったことが殿のお耳に入り、ていねいに医師を何度も派遣され、治療に専念することができた。その後容体が悪くなったので医師1人を付き添え、在所(脇町)へ送られた」などと、いろいろなできごとが克明に解明され、ここにも稲田修理の君臣の情がしのばれる。
 こういった記事もいれた家系の状況を解明し、科学的に処理しておくと後々の代までもたいへん参考になるのではなかろうか、古文書と伝説とを検討し、寺院の過去帳など墓碑銘をたより、丹念に実地調査し作成した国見辰雄氏に敬意を表するとともに好個の史料といえるのではなかろうかと思われる、ぜひ一読をおすすめしたい。
 市民双書「庚午事変」稲田筋目書には、備前(出処)三宅関太夫(切腹)、豫州牢人南孫左衛門(南角太郎)山下壬生右衛門(俳句宗匠)の筋目などをあげたが、最近筋目の外に南氏の系図が三宅家から発見され、筋目書の正しいことが立証された。また、庚午事変の政治的解決として稲田九郎兵衛同人家来北海道移住の際、和歌山県周参見浦亀岩で83名が遭難したことも記し、藤岡道也氏発見の83名の名簿もいれておいたが、とにもかくにも庚午事変は、たいへんな事故を誘発した事件でもあった。
 最近小著、国見辰雄氏編で稲田家御家中筋目書を発行しているが、その3冊目のあとがきに、国見辰雄氏は「明治3年5月13日、この日は阿波の人にとって今でもふれたくない傷口のある日であろう、然し、この事件のためにこそ父は北海道へ渡る因となり秋田生れの母との間に私が出生したのだから、私にとっては複雑な想いである。そんな複雑な、もつれた毛糸の毬(まり)をほぐすねがいが私をして阿波の歴史に興味を持たせてくれた……」とある。
 蓁原筋目をみてみると、先は妻鳥(面取)―先川―蓁原とかわっている。
 「妻鳥弥兵衛
此者豫州浪人後六右衛門名改候宗心様へ御奉公仕罷在候」とあり、六右衛門子、先川孫八郎……とつづいている。そして褒美の旨の「此者儀御納戸入柴札沼井池口銀取立受持相勤苦身仕候、依之銀三両被遣候明和八年卯十月」と付け紙があり幕末先川時之助まで記入されている。同家は、三宅、山下氏などと親類筋にあたり、かなり古文書を蔵している。
 また三宅民助、藤田弁左衛門、梶浦種助などは「申上ル覚」などのあて名になっているところからみると、これらの人は猪尻役所の要職についていたものと解される。三宅民助は「榕(よう)庵日記」をのこされ俳句の名人である。
8.偉大な人物
 つぎに稲田家臣の中から偉大な人物といわれる筋目を紹介しよう。
大塩平八郎
 大塩中斉は、阿波国最近文明資料、神河庚蔵著(大正4)、にも阿州脇町岩倉村新町稲田家々臣真鍋市郎の出とするとなっている。
 要約すると「塩田喜左衛門」という名はよく筋目書の中に出てくる名であるが、塩田鶴亀助の長男で文武に達し、稲田家に大いに用いられ権勢が甚しく、稲田家に初めて検見役をおいたとき喜左衛門がこれをつとめた。天明度故あって稲田家を暇となり大坂天満へゆき、そこに住し親族美馬郡真鍋市郎、次男3歳なる平八郎を養子とした。稲田家日帳格岩倉村新町真鍋市郎は文武に達していたという。そこで平八郎成長するに及び、才覚あるをみて大坂天満与力大塩政之亟の養子(株養子)としたというのが概要である。
 塩田喜左衛門は棟付下調べにかなりでてくる。一例をあげると
 「享保棟付、高壱石 来人 一壱家 西村三太夫
此者同郡東岩倉村より当山へ田地ニ付参り居申候尤、彼村塩田喜左衛門並ニ岩倉村庄屋六郎兵衛弟相糺申候処延宝御改之節左書ニ此者先規奉公人ニ而九郎兵衛様代々奉公入に居申候と相付居申趣相違無御座候旨申来ニ付証文取置来り人と付上申候」となっている。天明度暇となったのか、塩田喜左衛門そのものの筋目は見当たらない。しかし、塩田の筋目はかなりのこっている。真鍋市郎家の分は、立派にのこっているのでここに紹介しよう。
 千弐百六十三
   真鍋長門
此者生国与州真鍋城より浪人仕尾州相越宗心様御入国之節御供仕罷越高拾石弐人扶持被遣東岩倉村割屋敷被遣所々(中略)(……吉左衛門、忠太夫、陸右衛門、喜三右衛門、元右衛門、市郎、光右衛門、三知蔵とつづき)
  真鍋助蔵
此者義国見亀八■(せがれ)之所真鍋三知蔵亡跡相続之養子に被仰付被下度旨川村新右衛門野田万太夫より願出之通養子被仰付家督相続無御相違被下置小頭役被仰付候也
  天保九戌四月」となっている。
 阿波の先哲、明治の漢学者福田天外先生は「我国陽明を学ぶもの中江藤樹、熊沢蕃山、三輪執斉であるが、最後にこの学に自家独創の見をもって輝したのは大塩平八郎である」といわれている。国見辰雄氏が、大塩中斉の研究家であるが、この真鍋家に養子として国見家から入っていることは何かの縁ではなかろうか。
新田邦光
 つぎに新田邦光であるが、筋目書には、竹沢平太嫡子、竹沢平一郎、弟寛三郎とでている。弘化〜嘉永にかけ勤皇をとなえ、諸国をまわり勤皇の志士と交わった人であるが、この先祖は御銀所目付役という役目で、金銭のよしあしを鑑定していた……ということが語りつがれている。
 大塩平八郎の乱は、明治の夜あけをつげる大警鐘ともいえよう。このことについては、阿淡年表秘録や藍商、百姓の日記にもとりあげられ、藍商の記録には大塩の評判、困窮人救いのことにて外国までもよろしくと記されている。また陪臣の身で志をたてた勤皇の志士が阿波の山河、稲田家臣の中にもいたということ。諸国の勤皇の志士と稲田家臣が通じていたということを、何かとわれらにかたりかけてくれる。稲田当主は、諸候との交友も多く筋目にも、よく使者を各地へ使わされているが、桜田門外の変で殺された井伊大老の家へもお悔みの使者を出されている。「尾形国之亟井伊掃部頭様御遠行之節御悔使者相勤候、其砌道中ニ而相果候」とお悔みの使者も死んでいる。
 東征御軍帳控(明治元年)には稲田九郎兵衛隊が萌黄錦旗とともに行軍している図がみられ、その名簿には南薫風、三田昂馬、工藤剛太郎、尾形力之進、先川牧之進などの名面もみられるのである。薩長土肥の下級武士にも共通する心境が稲田家中の中には見出せないものだろうか。
 また宗心入国後からこちらへ鹿狩り、鷹狩りなど阿波の山野でおこなわれていたこともみえ、幕末期には、銑炮による狩りのもようもみえている。
 「覚助子 平右衛門
親家督相続寛永拾四年拝原村江罷越地高七石ヒ遣御鷹部屋弐間ニ四間半御普譜ヒ仰付右奉行南平右衛門ヒ仰候、餌指役(えさしやく)相勤候」とある。半田村、毛田村などへ鹿狩りにいったことなどもみられ、また池田の三名士が鷂を蜂公へ献上したことは奉書に記されているが、この筋目にもみられる。
尾形彦十郎
 「明和三酉年御鷹御用之趣ヒ仰付鷂二居指上御満足ヒ遊旨ヒ仰出候此者家ハ従御先祖様御代壱領壱匹ニ而御立置ヒ成候」とある。鷂(ハイタカ)とは鷹の一種で小さいが、非常に狩りに適していたようである。
 筋目書を解読していくと、稲田氏と住民との主従の情誼を特に見出すことができる。入国当初、壱領壱疋で大坂陣に加わった家臣を帰国後、修理が庄屋を命じ、そのうえに御国境(讃州)の役目もさせている。
 また、「家督相続庄屋役相勤並竹木方楮方相勤上候様井尻江御越ヒ遊候砌指上物等仕父子共御目見江ヒ仰付候」と、いわゆる兵農未分離の状況で、その村の長ともいうべき庄屋を家来として取り扱っているところに特徴を見出すのである。
9.経済的背景
 願銀、上納銀
稲田家譜代家来は棟付支配外帳に記され、その他の家来は惣帳に記されているが、筋目帳1冊目に「明和五年子七月」と表紙に書いてあること、明和八年卯十月土井池悦兵衛の手によって筋目調がことごとく完成したということが記されていることなどから、明和度に、棟付下調べをした際、それをもとに筋目帳を作成しはじめたことはあきらかである。
 そしてこの各筋目には、願銀、上納銀というものが記されているが、貢租としての賦課帳の役目もみのがせない大きな筋目帳の役割りである。稲田家臣としての貢租を命によって上納させたものである。「明和元酉年御免」というようなところをみると、明和〜安永度のもので、2〜3年の分割納もみとめていたものとみられる。稲田1万4千石は、実質3万石にも比す石高といわれているが、寺嶋屋敷の焼失に伴う冥加銀、江戸御出府のための冥加銀、組一統からの武具武器の献上などは、こころよくうけいれ、それに応じて家格、格式、苗字帯刀袴着などを許可している。
 筋目帳をくっていくと、ほとんどの筋目に「上納銀」あるいは願銀高というのがあり、これは家格を願うという意味で壱家から分かれて小家が独立して壱家に成立するとき、相続するとき、あるいは苗字帯刀を許すときの願銀と解され、上納銀と書いたものと2つあるところから貢祖の1種とも考えられる。それは分割上納をみとめ、滞御免ということからも貢祖としての性格は強い。そしてその銀高を示すとつぎの表からもわかるように、資産の多い者には多額を課し、資産のない者は、全然課さない者もあったと解される、これが、明和のころから幕末にかけて、淡路を防備し、海防の役割りを演ずる稲田にとって重要な軍用金の役割りを演じたにちがいない。26冊の筋目帳の中から「い第一巻」のみの上納銀、願銀を参考までに十家をかかげるが軍用金の資金ぐりの上手さをくみとるとともに、筋目の役目がどのように変化していくか等々、その一端を推察してもらいたい。

10.借銀
 また借銀というのも大きな軍用金をうるための方途であった。御銀主とか、庄屋とか藍商、本百姓の資産あるものから借用するお金のことで、今でいえば、公債とか社債のようなもので、安い金利で、稲田家が借りあげる金員である。家来に命じ、方々へ借銀方を命じていることが筋目の中に散見される。
 一例をあげると、つぎの者は借銀に精出し、立身しているものである。
 「此者儀近年御借銀追々出精仕尚又先般津田半右衛門相果候、御借銀、甚、出精仕ニ付此後言上等ヒ仰付候
   安永五申五月廿五日 会所」
明和〜安永〜幕末にかけて、これらかなりの借銀の記録がみられ、幕末になると壱千両の借銀の記事や、講建による借銀の方法もみられるのである。稲田は非常に経済的にめぐまれていたといわれるが、それは、家臣をふくめ、その家臣が出身した主屋筋いわゆる本家が、藍を中心とする財閥であり、借銀にはことかかなかったであろうし、楮、蜜、漆(うるし)、竹木、藍など阿波の山間、吉野川の流域における質素と勤勉な住民の住む拝知あってこその豊かさで、そこから軍用金もでき、上納銀という貢租や冥加銀という寄付があっての上にたった経済基盤ではなかったかと思うのである。
11.筋目は隣接科学の研究に
 昭和45年10月発行の市民双書に執筆したときは、筆者はほんの少ししか筋目書をよんでいなかったが、今、筋目書26冊を読解書写し、その中から思いつくままに抽出して書いた。その当時書いた末尾に「解読、分析」ということをしなければ筆をとることは危険だ、と書いたが、またそれをしないままに筆をとらざるを得なかった。筋目書を一見したに過ぎない筆者。知識の足らざる点は各位の今後のご教示にまつということにしてお許しいただきたい。
 筋目書の中に「出奔」という語が、出てくる。今流にいうと「蒸発」というのにあたるのであろう。法律的にいうと民法第30条の失踪宣告にあたるものであるが、徒士(歩行格)以上の武士が失跡したことを出奔といったようである。
 文化13年の出奔においても6か年間、自他国をさがさせて「出奔」をみとめている。現行民法は、「生死ガ7年間分明ナラザルトキ」「戦時、遭難ハ1年間分明ナラザルトキ」失踪宣告をすることになっていることを思うと、筋目書の中にも、この民法の法源を見出すことができるのである。また、天保12年には、殿様の御昇進御祝儀により前科御免のうえ元身居へ復権しているのがみえ、明治元年には、朝廷大赦につき退身を御免されているのもある。これは筋目書が、単に稲田家家来の過去の記録のみならず、現代の隣接科学に生かしうるものであるという一例をあげたにすぎないが、こうした法制史から、民俗学から、歴史学その他の分野からつきこんでいくと必ずや興味がわき成果があがるにちがいない。
 武田信玄の系図をしらべていると、左馬助(典厩)というのが、でてくるが、この筋目では右馬助ということになっている。語りつがれるうちにこうなったものか、書記役がこう書いたものか、古文書のお家流に書かれたものをみると「右」にするか「左」にするか迷うこともしばしばである。甚しいのになると一方には右、一方には左をつかったものもある。役目にしても、○○役というものと○○方というもの○○目付、○○横目というがあり、この役目のみを分析しても到底、紙面は許されない。御蔵役、代官役、上紙銀拂役、小頭役、御普請役、楮方、蜜方、漆方、藍方、銅山方、竹木先御用、拝知山廻り、御庭方、御霊屋御用、勘定方、御下目付、蔵奉行、山奉行、御納屋方、須本楮方、御鷹匠役、御玄関奏者、銅炉番……と役職だけでもかなりの分量になり、これが全部とはいえないのである。
 筋目から、猪尻学校があったこと、医学研究を命ぜられる者、医者を志し暇をとる者、僧として弟子になる者、眼気相疼(いたみ)、疝癩(せんしゃく)、痢疾(りしつ)、中風とか病名にしてもいろいろ出てくる。庚午事変で徳島本藩とたいへん幕末には仲が悪くなるが、それらにふれたものは少ない。
 大谷屋敷(蜂須賀重喜公が建造し、この門は今、国府の井戸寺に移され、その当時の豪壮さがしのばれる)を建築したときに稲田家家来も手伝いにいっている。ただ猪尻武士といわれ、陪臣(またげらい)の身であるということを、大きく扱っている人もあるが、西阿の古老の話によると何等、武士としてかわることなく、稲田九郎兵衛譜代家来としてほこりをもっていたということである。服装なども明確に規定づける人があるが、私にはうなずかれない点が多々ある。
 それは筋目書の中に記された武士の名の使い方でもわかるし、「苗字帯刀」「誇着」といったこと、「上下一具ヒ遣」など筋目のはしばしにもあらわれている。
 筆者は今日もまた筋目書を研究している。中国からパンダが贈られたニュースがあったが、熊の膽と皮を家臣が州本へもっていくというくだりもこの筋目にみられるが、四国山脈でとれたツキノワグマかと思案している。地方史研究の裏方としての役目、地方史家はじめ各分野の研究家の解明をまつための読解であり活字化であるが、私は、古文書索引をつくり、コンピューターにかける日を待望している。

  

 

 


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