阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第19号
脇町とその周辺の民具

民俗班 中野幸一

<目次>
 1 民具調査のねらい
 2 脇町とその周辺の民具
 3 おわりに
1 民具調査のねらい
 「民具」とは何か。このことばは今日ようやく一般的に用いられるようになったが、その概念ははっきりせず人によって可成り違った解釈をしている。
 民具という用語をはじめて提唱されたのは渋沢敬三先生で、丁度大正中期のことである。初め同先生が主宰したアチックミューゼマム(Atticmuseum)(俗称屋根裏美術館)の同人達の間で使用されたもので、それが最近学術用語の一つとして広く学会に用いられるようになった。
 最近出版された日本民俗事典(昭47年、大塚民俗学会編)の中に民具とは、民衆(常民)が日常生活の必要から製作・使用してきた伝承的な器具、造形物の総称と述べている。しかし、これら民具をはっきり規定したものはやはり文化財保護法(昭25年 法律第215号)の制定で、この中の第2条第1項第3号に次のごとくうたわれている。
 「衣食住・生業・信仰・年中行事等に関する風俗習慣および、これに用いられる衣服・器具・家居その他の物件でわが国民の生活の推移の理解のために欠くことのできないもの」となっており、このうちの物件が主たる対象となり、生活文化の全分野にわたってわれわれ同胞が日常生活の必要から製作使用してきた伝承的な身辺卑近の器具、造形物の一切のものということができる。
 このように民具はわれわれの身辺や周囲にあり身近かで親しみ深い文化財である。そのため、実用の生活道具であるという本質から実用価値を失うと“弊履”という言葉通りに惜しげもなく捨て去られてしまう宿命にある。所有者自体がその価値を充分に自覚して保管に努めなければ散逸してしまうものである。今回の調査でもつくづくこの事は感ぜられた。つい昨日まで裏の畑に捨ててあったとか、家を新築したので邪魔になるので焼き捨てたなど生活様式の変化によって失なわれる運命にある文化財といえる。
 さて、こうした民具はなぜ重要であるか、それは、法の中ではっきり述べられているが、これを具体化すれば結局、民具を通してその背面の生活を知ることに大きな意義があり、更に、民具の物語る文化伝播の様相や地域的特性を探ることによってそれぞれの土地の基盤をなす文化の本質をさぐり、それらを他の地域のものと比較対照してその相関々係や特殊性を究明し伝統文化の特質やその変遷推移の跡を明らかにし将来のあり方を示唆するところに本当の意義がある。
 しかし、これら民具をただ一つだけ取出して直ちにその結論を下すことはできない。どんな種類の民俗事象にしろすべていろいろな要素の複合文化であって、その複合体としての生活様式全般の中でとらえていかなければならない。こうした意味からも今回の調査については断片的な収集で、民具調査の真意の報告が困難でその緒についたといったところである。今後の研究を俟ちたい。
2 脇町とその周辺の民具
 民具は既述のように人間生活の全分野に亘る諸用具その他で、その範囲は極めて広く、種類も無数といってよい。そこで、今回の調査は、新脇町全域を地域的に次の3つに区分し、その地区における特殊性を探りつつ民具について探訪した。
 1  山地部
  平帽子・栗野・横倉・大滝・大谷・暮畑地区における生活と生業に関連した民具
 2  平地部
  北庄・土井・拝原地区における生活、生業に関連のある民具
 3  旧町内
  猪尻・北町・本町等、県道沿いの町家で商業等に関連した民具
1  山地部
 過去におけるこの地域の生活の主体は、自給自足であり、これらに類する民具が多く、また道路事情の改善、整備、電灯の導入などが大きく生活や生業に変化を及ぼしている。道路の拡張整備によって都市や街との流通が激しくなり新しい用具の使用や、あるいは運搬機構にしても一変し、農耕具についても大きく変革している。また電力の引込みによって照明、採暖など、あるいは、ラジオ、テレビなどいちじるしいコミュニケーションの伝播がある。
 次に山地部における火災に対する考慮で探訪した多くの家庭では災禍に遇ったと話された人々が多かった。これら火災の消防手段についても他の生活と同じように自家消火に大きな命題があった。
 生業の主体は農耕で煙草の栽培、養蚕、山林等でこれら農耕具についても主として手作業が主であるが、最近ではエンジン等の機器類が多く導入されている。
 こうした生活壌境における民具には、どのようなものがあるか列挙し、その用法や時代などについて述べよう。
(1)トウフバコ(豆腐箱)
 自家で豆腐を作るときに用いるもので、自製、殆んどの家庭に1組はある。
 材料の多くはスギでできているがヒノキ製がよい。すべて材料は手山(持ち山)から伐って準備する。このハコの要部は側箱、底、蓋からできており釘で打ち組立てられている。
 この箱で一度に8個の豆腐ができる。最近では殆んどの家庭でこの箱を使って豆腐を作ることはなくなったが数年前までは、正月、祭り、法事等には必ずといってよいほど豆腐をこしらえた。
 豆腐の作り方は、まず、1大豆を水にかす 2ヒキウスで碾く 3大釜で炊く 4豆腐袋(白木綿)で搾る(こしかすはオカラ(雪花菜)と呼び牛馬の飼料にする) 5汁(ご汁)をニガリ(苦塩汁)でよせる 6トウフバコに白い布を敷いてシャクで汲みこむ 7おもしをふたの上に置いて水分を箱の横や底にあけた穴から出して固まらせ 8箱から取出してできあがる 大体以上のような方法によって、この附近の家庭では同じように作られていた。

  

(2)ヒキウス(挽き臼)
 ウス(上臼と下臼)と台とからできており、ウスは誂品を購入(大抵の場合、脇町内か讃岐から購入)石はテジマ石、アジ石等でこしらえてある。直径は大体30センチ前後である。台はスギかまたはヒノキを用い、器用な人は手作りであるが、土地の大工を常雇して作らせることもあった。
ほぼ1人工(にんぐ)程度でこしらえた。
このヒキウスは各家庭に一基は必ずあり、その置場所も略一定で玄関を入った土間の一隅に据えてある。このヒキウスの用途は、豆腐の大豆をつぶしたり、そば、米麦などの製粉、コンニャクのつぶしなどに多く使われた。ヒキウスの使用法は1人で挽いたり2人掛ってするときなどがあり、いずれにしても立作業で、婦女子の仕事であった。かなりの労働がともなうので歌などをうたいながら作業した。
こんな歌が今も残っている。(暮畑、西条さんの話し)
 うすよ早ようまえ
  早ようもうてしまえ
   外でとのごが特ちかねる
 なお、このヒキウスに付属した用具として、テボウキ(わら製)スイノがある。
 なお、このヒキウスと共に重要なものにカラウスがあるがもうこの付近には見られなくなった。僅かに道路端などに支柱の石製のホロロが捨ててあった。
(3)ウドンツクリダイ(うどん作り台)
 この部落でのなまえでこう呼んでいるが他の地方では別名があろう。いずれにしても、ウドンを自家でこしらえるときに用いるもので87センチ角の板(スギ)で裏側に棧を2本釘打ちしてある。この上にウドン粉の練ったものを木綿布に包んで置き足で踏んでねりあげる。次にメンボウ、これはカシの木でこしらえた棒で、直径2.5センチ長さ90センチ程度のもので回しながら薄く延ばす。これを細くナタで切って、熱湯でいでる。大低の場合この仕事は男子の持ち分である。よく来客のあるときや祭り、正月等に作ることが多かったという。
 なお、いでる時には、オオイカキや、また食前に湯で温めるときには、ヌクメイカキを用いる。
このほか、粉(うどん粉)を挽くとき煮沸などにはそれぞれに付属した民具がある。

  

(4)キネ・ウス(杵・臼)
 キネは、ふつうテギネと呼び自家製でサクラ・ツバキの類が用いられる。ウスはキウスと称しケヤキやマツを使用するが、この部落ではマツの古木を使ったものが多い。ふつう家の者が作る。用途としては、味噌・醤油・■こなしなどに用いるが、最近では製粉機やミンチ器等を数軒が共同で購入し現在では使っていない。
(5)竹製品
 竹を主材にした民具類にはかなり多くのものが見られる。これら竹製品の購入については“農具市”(八幡神社の農具市が有名)でまとめて買う場合が多いが、つい五.六年前までは、五月前後に竹細工屋が棒でかついで家々を売り歩いたそうである。最近ではこうした姿は見られず、農具市についても昔時のようなおもかげはなくなってしまった。また、明治の中期頃には、原料の竹を持ち山から伐採して準備し、竹細工職人を家庭に招き、いろんな竹製品を作らせたそうである。大体1日役いくらといった勘定にし、また食事も1日に1 朝げ 2 メシ 3 お茶 4 夕げと四回与えたそうである。
 もう、このような職人や行商人はいなくなった。現在では、竹に代ってプラスチックの竹製品のイミテーションが各家庭に犯濫しつつある。
 さて、この地区の竹製品を収集してみると、次のようなものがある。
1 ツギガキ(衣類の補修布を入れるカゴ) 2 メシイカキ(飯を入れる) 3 テイカキ 4 ドジョウグチ 5 チャワンカゴ 6 シダカゴ(しだで編んだもの) 7 テミ 8 ツチミ 9 オオミ

(6)セツキシラズ
 土製の貯金箱で柱などに掛けるようになっている。正月の初参りのときに氏神の屋台で購入した。形がエビスになっており、この頭の部分に銅貨や銀貨を入れる穴をあけてあり、日常生活のうち小銭や釣銭などを入れて貯えるといったものである。
金の必要なときにこれを壊わして金を取出し使用する。ちょっと変ったものでその頃のほのぼのとした生活状態が伺われる。これは壊わさないと中の金がとれないので一度しか機会はない。

  

(7)フイゴ(鞴)
 フイゴは吹子(吹革)とも呼ばれ、これは自家製でスギを主材として作られている。小規模の野鍛治用として主に農道具の“サイ”をする時に使い、燃料として木炭(松炭)を火床(ヒドコ)に入れ約1300度C程度まであげるのにこれを使う。サイのしかたは主人の話しでは土佐打刃物の系統に属していること、自給自足の一つの典型ともいえる。また、このフイゴに付属したものとして、カナトコ・ツチ(ムコウヅチ・ヨコザヅチ・サキテヅチ)・ヒバシ・ミヅブネなどがある。
(8)ヤネフキドウグ(屋根葺道具)
 かや葺屋根の葺替仕事の時に使用する道具である。ふつうこの部落の屋根の葺替えには付近の若者が殆んど集まり手伝い合って仕事をした。この中の数人がこの道具を使用する。1 ヌイバリ 2 シブカキ 3 テイタ(ガンギ) 4 ヤネバサミが一組となっている。
 最近の建物は殆んどが瓦葺となり、もうこうしたカヤブキ屋根は数える程しかない。したがってこうした道具を必要としなくなりつつあり、またこの道具の使用法を知った人も姿を消した。この道具は屋根裏にくくりつけてあったものを取出して採録した。

  

(9)クルマビツ(車櫃)
 このクルマビツは約200年程前に作られたもので、当時における製作の様相は、地元のマツ(特にコエマツを最良とする)を用い、部落の大工職人を常雇として作らせた。釘や金具の類はやはり近くの鍛治屋(常鍛治というのがあった)で釘を打たせ用いた。
 ただ、ここでちょっとめずらしいのは使われている金具の紋が、どの家庭のものも同じで五三の桐紋となっており、おそらく金具は多数作られたものを使ったのでないかと考えられる。
それぞれ各部材の組合せや加工など余程の腕達者の職人が心をこめて作ったものであろう、非常に堅牢で且つほのぼのとした美がある。
使い途は、夜具や衣類を収納し、火災などの場合外に引き出せるように下端に木製の車を4個処つけてある。つい最近まではこの付近の家並に最低一つは見られたが、家屋の改造や新築により無用のものとなりつつある。
(10)ナガダイ(長台)
 一名ギチ(長さ90センチ程度のものまで)とも呼び農耕における運搬用具である。このナガダイの製作は器用な人は自分でこしらえたが、大抵の場合大工職人を雇い作らせた。大体1人工程度かかったそうである。材料は手山のスギを伐採して使う、特に腕木の曲った形が得難い(これを二つに割って使用)車輪はケヤキ等の硬木を使用しこれを円形に作り(また中には丸太を輪切りにして使ったこともあるとの事)鍛治屋で鉄輪を嵌めた。このナガダイを多く使用したのはやはり昭和初期以前のことで、その後は道路事情もよくなり、この必要がなくなった。昭和30年頃からはトラックやその他の機械にとって替わられた。このナガダイも道路脇に放置してあったものを取材した。
  

(11)ミツグリ(三つ繰)
 これは、ワラナワを三本より合わせて太い綱を作る作業用具でこの名称がある。写真のように穴を3つあけた15センチ角のマツ板とクリの丸太を切って作ったコマとからできている。
なお、この板には2種類あり綱の太さによって使いわける。使用法は板に繩を通しその一端をコマに結び、他端を高所にくくりつけコマをぐるぐる廻しながら繩をより合わせ、よりの進むにつれ板を動かして三本の繩がうまくまとまるように調節する。
 現在では丈夫なロープができたが戦前までは井戸の太綱や手馬に荷をひかせるひき綱などワラ繩、シュロ繩などをより合わせて太い綱にしたから、ミツグリは大切な用具であっただろう。
(12)アミダイ(編台)
 アミダイは、タワラ(米用)コモ(煙草・カヤのコモ)フゴ等を編むために使用した道具である。材料は主に山林に自生するネムの木(この木は写真のように二又が得やすい)やケヤキなどの天然木の二又(フタマタ)を用いこれを2つ割にして脚を作る。横木はサオと呼びヒノキなどを長さ約120センチにし、両端を脚に■差しとする。またサオの上部に切込み(これはコモやタワラによって寸法がちがう)を4〜7個処作る。また、細繩を巻きつける、コマワシ(一名コママワシという)をサクラの丸棒を切って作る(ずっと古くは棒状の石を用いたこともあるとの事)。使用法は、コマワシに細繩を巻きつけサオの切込みの上にたらし、ワラ、またはカヤをこの上に数本置く。次にこれを片手で押え他手で前後にコマを移動し順次編み進めていく。ふつうこの作業は婦女子の内仕事で一日にコモであれば10数枚編む。またフゴを作るときはこの編仕事ができると男性が引継いで折曲げや綴じをして完成する。

  

(13)チンカポンプ・スイノウ(鎮火ポンプ・水嚢)
ともに消火用として設備した道具である。チンカポンプは大正の中頃行商人より購入したもので、近辺の資産家が整えた。当時の金額で相当出したそうである。しかし、実際に使用できなかった。それというのも、水が清水でなければ屑がポンプの吸水口につまるし、水量が少なくまた飛散距離も10メートル程度しかなかった。
また水の便が悪いとかえって手間がかかるためであった。しかし当時からこうした消防手段として意を用いたところに山地部における火災に対する人々の心掛けが伺える。
次にスイノウは布製の一種のバケツで、これは各家庭に常備している。
(14)照明器具
照明器具として、1 アンドン 2 コトボシ 3 ショクダイ 4 チョウチン 5 ランプ等電灯以前の照明器具としてあげることができる。それぞれ購入したり、自家製など各種のものがある。

(15)農耕・山林用具
 1、クマデ 2、サキテングワ 3、ビワザキ 4、シンコウクワ 5、ムツクワ 6、アゼケズリ 7、サントク 8、フタマタ

 1、カマ 2、トビ 3、エガマ 4、ノボリガマ 5、テオノ 6、ノコギリ 7、トンカチ 8、ヤ(クサビ) 9、カワムキ 10、マエビキ

2  平地部
 この地域において特筆すべきことは阿波藍の栽培、加工、販売に関する調査であるが現状ではすでにその内容を詳細に記憶されている人々が極めてすくなく、またこれら藍の栽培加工に対する民具類も殆んど散逸しその収集も極めて困難になってきている。
 一応原則的な藍関係の民具を挙げると次のごとくなる。
(16)藍の栽培用具
 1、アイカリガマ 2、ナタ 3、クレワリ 4、エブリ 5、ボウフリダケ 6、テバコ 7、カナ 8、アトギリクワ 9、テグワ 1O、マメカゴ 11、ハネツルベ 12、タマ
(17)藍の加工用具
 1、クマデ 2、ニナイ 3、ハネ 4、シヤク 5、トウシ 6、ネイタ 7、フトトン 8、アイダマウス 9、アイツキヅチ 10、タマキリガマ 11、ナタ 12、ナタガイ 13、三丁ギリ 14、アイムシロ 15、カリサオ 16、スリダイ 17、ヅキン
3  旧町内
 商業その他町家における民具類で、脇町発展の一翼をになっていたのは商業によってであり、歴史の上からも証明されている。また阿讃交通の基地の一つでもあったので豪商、富家が多く、商業に関する民具類び可成り保存されているのではないかと考えられるが十分な調査ができず、僅か数点の採訪に止まった、今後における検討を期待したい。
(18)ヤゲン(薬研)
 薬品などを作るもので漢法薬などを押し潰して粉末にする用具。
普通はこのように金属製であるが、さらに古いものは硬木をこうした形に彫ったものもある。これにはまた把手がついていないが円形の中央部の四角形の穴へ、長さ25センチ程度の木製の棒を通してこれを両手に持ち皿の中に入れた材料を前後に回転させて操作するものである。これはどの家にもあるといったものではなく特殊な家庭にあり、これを採集した旧家は明治末葉まで医業を営まれていたところである。現在では使用していない。

  

(19)ホカイ(外居)
 食物運搬用の木製容器で、外居、行器と書き、また外行(ホカユク)より転じたことばとも呼んでいた。角形、丸形木鉢、曲物などいろいろの形がある。内側が赤、外側が黒のウルシで塗られている。ホカイは元来は神霊をいれて持ち歩くものであったらしいが、現在では祭礼、婚礼、出産祝いなどに赤飯を入れて贈物に用いられる。普通このホカイの外側に更に黒塗りのカブセ箱があり二個で一対としニナイ棒でかついで運ぶ、またこのホカイと一緒に魚籠がありこれに魚を入れて贈るのが常となっている。最近ではめったにこうしたものは用いないようになった。
(20)ゼニバコ(銭箱)
 銭を入れるための長方形をした、ケヤキ、サクラ、マツなどで作った箱で、まわりに黒色の鉄製の縁金や鋲を打ったものが多い。普通これに錠前が用いられる。
 形式には写真のように上ぶたが米櫃式になったものと、口を大きくして朝顔型のじょうごになっているものとがある。またこれら銭箱でも、こったものになると小判隠しのついているものや小引出しのついているものなどがあり、いったん銭箱に入れた小銭は鍵であけなければ絶対にとり出せないものもある。
江戸時代に多く用いられたが明治に入り手提金庫の出現により商家の店先よりその姿を消した。この銭箱も今では電話台として使われていた。
  

(21)クサリジュバン(鎖儒伴)
 下着用のじゅばんの布を二重に作りその間に鉄の細線をクサリ状に編んだものを縫いつけたもので、明治の中頃まで商用で他国へ出るときに着用していたそうである。特に保身用としてこうしたものを使用するのは当時としてはあたりまえであったであろう。

3 おわりに
 民俗班に参加してこの地区における民具をテーマに調査に当ったが何しろ浅学のため断片的な取り上げに終った感がする。しかしこれをまとめるためには次の地元の方々に御協力やご指示をいただき、深く感謝しています。そのご芳名を記し謝意を表します。
(敬称略、順不同)
○藤重喜典 ○西条克義 ○森中 蕃 ○藤永 氏 ○藤本義美 ○政岡匡勝 ○藤本孝男 ○藤田金次 ○藤岡一郎 ○藤島 明 ○八木新市 ○宮本保市 ○脇田武夫 ○坂本文雄 ○堤 敏美 ○三宅正夫 ○笠井英佑 ○国安正行 ○南 一利


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