阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第19号
脇城および岩倉城とその遺構の実測調査

郷土班 藤岡道也(班長)・石川重平・田中善隆・大住好雄・福田憲■・柿原国隆・河野幸夫(報告書総括)

1、はじめに
 予備調査6月20日藤岡、河野で実施、この調査によって、脇城についての実測予定地域は、一面に雑木と竹が繁茂しているので、そのままの状態ではとても所定の調査活動は不能であると判断した。そのため、次のような事前作業をおこなうことにした。
 事前作業、脇城本丸跡の中心部への進入路をつくること、中心にキャンプ設定に必要なスペースを確保すること、この2つの作業はどうしても調査当日までに実施しておく必要があった。幸にして、この難作業を在地の美崎氏が快よく引き受けてくれ、炎暑の候、且ご高令にもかかわらず、美崎氏の献身的な奉仕作業によって、調査団の活動が容易にできた。ここに美崎氏のご労苦に感謝の意を表しておきたい。

2、脇城とその遺構の実測
 A 脇城の歴史
 1、名称(別称)
 脇城、別称虎伏(とらふす)城、大字脇町の北方に連なる一帯の丘陵は、その形状から古くは虎伏山とよばれ、したがって脇城は一名虎伏城とも呼ばれた。
 2、位置
 脇町の背後に連なる段丘(城山と呼ばれている段丘)は、東を観音山、西を佛日山、その間に虎溪山(こけいざん)という山がつらなっている。その段丘の西南隅の突角部(字西城山の一部)に、脇城の本丸があったとされている。ここは標高100メートル、南西部は吉野川平野に急崖をもって臨み、西北面は城の谷で後方山塊と遮断され、東部だけが、台地続きで東方へ広がっている。
 本丸を中心として、東方に大木の丸、北方に国見の丸、西方に田上の丸を持った範囲を一応、この城の城域と考えたい。
 (図1参照)

 なお、これらの山城に対し、里城(城主の平常居住した館(やかた)のあったところ)は、西城山の麓にある「丸の内」とよばれる地域、すなわち東は貞真寺、西は城の谷 南は脇人神社とその横に現存する水壕に囲まれたところで、その中心は「大屋敷」という字名をもったところであったと想定される。
 (図2参照)

3、城主
(1)脇権守(ごんのかみ)仲房
 藤原鎌足第12代の孫、中御門中納言家成が、保安年間(1120〜23)に讃岐守となり、阿野大領貞宣の女を娶って、藤大夫章隆(讃州藤原家の始祖)を生んだが、その子孫が鎌倉中期に脇町に移住し、後にここに築城して代々居城とした(阿波志)この仲房は、文明年間(1469〜86)に事情があって伊予に去った。
『異本阿波志』―阿波雑記
「抑、此脇城地は往昔藤原仲房の後裔(えい)、脇権守と云う人土居構のカキ上をして居ける地也」
『南海通記』―讃州藤原家系図
 家絞 二ツ笠並根篠
『脇町誌』
「仲房の拠った脇城は、今いう脇城とは別で、郡誌では上野に想定したが、之を改め脇町東林寺附近に想定したい」とある。
(2)三好 三河守 兼則
 天文2年(1533)三好長慶は脇城を修築して、三河守兼則を城代とし、これを守らせた(阿波志)。しかし、この兼則に関する伝記は明らかでない。ただいえることは、この脇城を守護して北方鎮護の重任を負い、在城20年間、よく長慶の志を承けてその任務を果たしたことからも、当時の三好氏家臣団中の第一級の人物であったと考えられる。
 なお、今日の脇町の基礎を築いたといわれる三好長慶は、筑前守元長(海雲)の長男で幼名千熊丸、天文3年(1534)ころ京都に出て、中央で活躍し、同18年には父の仇三好政長を摂津江口城(北中島東北端)に滅し、ついで同21年、将軍義輝と和して、細川氏綱を管領に立て、京畿の兵権および幕府の実権を握った。まさに阿波の三好氏は、長慶にいたってその全盛を謳歌した。彼は智略兼備の武将であったが、一面また学問を好み、風流を解する雅人でもあった。
(3)武田 上野介(こうずけのすけ) 信顕(のぶあき)
 弘治2年(1556)3月、三好長慶の計によって、大和から入城した。武田大膳大夫信虎の庶子で、有名な武田信玄(晴信)の異母弟であった。
『阿波志』―「信顕、駿河に生れ、今川義元の家に養わる。童となり、来りて脇城に居る。元亀2年(1574)、源(注・三好)長治に侍任す」
『古城諸将記』―「脇城 武田上野亮、源氏、150貫、紋割菱也。武田信虎今川家ニ寄宿ノ時ノ子也」注・紋割菱は俗にいう武田菱。
 天正6年(1578)信顕は岩倉城主三好式部少輔とともに、土佐の長曾我部元親に降り、翌年12月27日、岩倉・脇城外の奇襲作戦で、三好方を大敗させたが、天正9年、織田信長に属していた三好笑岩の説得によって、元親と縁を断った。同10年6月、本能寺の変はこの形勢を一変した。このようにして、長曾我部親吉の率いる3000名の土佐勢は、同年8月、脇城へ押しよせた。城兵よく防ぎ容易に抜くことはできなかったが、遂に僧仙光を捕えて、間道の秘密を聞き出し、包囲作戦を展開したため、さしもの武田方も、退路を遮断されて、8月22日脇城は落城した。
 この時、城主信顕は、讃岐に逃げたが、大川郡白鳥附近で敵に捕捉されて戦死した。遺体は同郡大内町東照寺に葬られた。法名、恵命院仙室等庵居士。長男信定(幼名千松丸)16才は落城の際捕えられて自殺した。のち脇人神社にまつられた。
『古城跡御答向一巻』
 脇人神社由緒
「武田上野介公嫡子千勝丸公十六才ニテ長曾我部新右衛門方へ虜ニ相成リ家老吉田六郎左衛門子息孫市同佐野筑後守子息善左衛門湯浅志摩助三人当地ニ相成リ軍中聞合ヒ見合セ千勝丸取返シ度所存ニテ相残リ申ス所千勝丸切腹相成リ御霊所古城跡丸ノ内ニ御座候其後所ノ氏神ニ勧請仕リ唯今神号ヲ脇人大明神ト相唱へ候」
(4)長宗我部 新右衛門 親吉
 親吉は元親の甥(一説に叔父)、一書には新左衛門とあり、長宗我部一族中、屈指の雄将といわれている。天正10年(1582)8月に脇城を攻略して以後、ここを守備していた。
 天正13年(1585)、秀次を主将とし、蜂須賀家政を先鋒とする豊臣勢約3万の攻撃を受けたが、城兵は3000の土佐勢と2000の土豪の兵、合わせて5000人余でこれを迎えて戦ったのであった。
 攻撃の第1日は足軽戦で終わり、第2日は仕寄(塁を築いたり、濠を掘る等の手段で敵に近よる戦法)を用いて、外郭を打ち破り、第3日目以後は水の手を断つなど、攻撃の手をゆるめなかったので、さしもの親吉も糧食欠乏のうえ、隣接の岩倉落城の報も入ったので遂に降伏開城した。この土佐勢は本国に引きあげる途中、一宇山都賀橋で、土豪の小野源六、養子八蔵父子の待ち伏せに合い、親吉は落命した。
(5)稻田 左馬允 稙元(たねもと)
 幼名、亀之丞、長じて太郎右衛門、また左馬允と称し、晩年は宗心と号した。永祿元年(1558)、尾張国海東郡蜂須賀村(一説に尾張国岩倉)に生れた。父は大炊助貞祐といい、播州赤松氏の一族で、流浪して尾張に至り、ここ稙元を生んだ。母は尾張岩倉城主織田伊勢守の家老前野彦四郎康知の女で、後に貞真大姉といわれた人である。
 父の死後、蜂須賀正勝によって育てられ、成長後は正勝に従して戦功をたてた。家政が阿波に封ぜられた際、稙元は家臣団の首位にあり、脇城の城代(手兵500)となり、所領は1万石、郡内で多数の采地を有し、民政に力をつくし、また、朝鮮、関が原、大坂の各役に出陣して功があった。
 寛永17年(1640)8月18日、83才の高令をもって脇町で逝去、貞真寺に葬る。
法号、瑞祥院殿印鉄宗心大居士。
 稲田家紋 蛇之目矢筈。
 なお、脇城は寛永15年(1638)、「一国一城の令」で廃城となった。

B 脇城遺構の実測
1 本丸(通称)
 城山段丘の西南端の突出部、標高約100メートルのところが、通称脇城の本丸とされている。
 ここは現在、個人の私有地となり、管理されないまま雑木の繁茂するままに放置されている。中央部よりやや北寄りに松の大木が3本そびえ立っているあたりが、旧本丸の中枢部と推定され、現在そこに、この本丸唯一の人工的遺構である大井戸(楕(だ)円形で長径2.5メートル、短径2メートル、・地面より水面までの深さ3.3メートル、当日の水深1.8メートル、底泥の深さ0.3メートルと測定)があるほか、地上の遺構は東部と北部に人工的切割(つまり空堀(からぼり))がある。
この本丸の実測は、はじめ平板測量によって正確な測図を作ろうと考えていたが、現地の状況はとうていそれをゆるさず、やむなくテープを樹間に通して(それも切開きながら)やっと概要の計測ができた。
なお、この脇城本丸の築城様式は、空堀によって後背地と絶縁しているいわゆる「丘先式チャシ」の類型に属するものといえる。

2 本丸東側の空堀(からぼり)(通称大堀(おおほり))
 本丸の部分を後背地より切り離すために人工的に掘り割った、いわゆる空堀は大小2つあり、大きい方が深さ約4メートル、巾は底部で8メートル、長さ約43メートルにもおよぶ大規模なもので、中間に巾2メートルの掘残しをつくって通路としたようである。
 小さい方は、大堀の北に続いている。通称「たて堀」と呼ばれているものである。

3 本丸北側の空堀(通称小堀)
 本丸の北方斜面(城の谷斜面)は、傾斜度が、西部および南部斜面に比して、緩勾配である。この自然地形の不利を補うため、人工的に掘割って、つくったのがこの小堀と呼ばれる空堀である。巾の割に深さがあるので、いわゆる「ざんごう」といった感じのものである。
(図5参照)

4 大堀の北続きにある空堀(通称たて掘)
 大堀と小堀が、いずれも掘割りの方向が、台地の等高線と平行するのに対し、この堀は傾斜度30°に山頂部から山麓へかけて、自然的な谷と同じ方向、つまり等高線と直角に交わる方向に掘り割られたもので、たて掘とよばれるのもそのためである。
 (位置・図2参照)
5 井戸(図AおよびB参照)
○ 本丸中央の大井戸
 城に絶対不可欠なもの、それは飲料水である。この意味から、山城の脇城にこれだけの水量豊富な大井戸をもつことの意義は大きい。海抜100メートルの高地、しかも三方に急崖を持つ丘陵の先端部、周囲から流れこむこともなければ、湧き水も考えられない。ただ1つ、東方台地から何等かの工作の手を加えて、地下に水路(送水路といった方がよいかも知れない)でも構築されているのではなかろうか。そう考えるより外にない。とにかく晴天続きの盛夏の候に、直径2メートル余の井戸に1.8メートルの水深をもって水を湛えていることに、深い興味を感じた。
 この井戸の構造の究明は、今後ぜひしなければならないものと思われる。
○本丸東の台地にある小井戸(通称化粧井戸)
 これも、小規模ながら、良質の飲料水が得られる。

3 岩倉城とその遺構の実測
A 岩倉城の歴史
1 位置および地形
 岩倉の西田上(にしたねえ)にある。真言宗大覚寺派の寺院、真楽寺の南方およそ200メートル、台地上に孤立した小丘上が、岩倉城の本丸であった。そこは現在、くにぎ林となり、北側の台地とは空堀で絶縁されている。城地は南北に長く、ゆるやかに南の方に傾いている。中央に1本の老松があり、西南隅に旧城主の墓所がある。
 里城(城主の居館)は、真楽寺(三好笑岩の香火所)の別坊といわれ、また、出丸が望楼の役目を果たしていたと思われる、いわゆる岩倉城の6坊は、
 1  北の坊 現在の真楽寺か(現住職は否定)
  あるいはその付近にあったとされている。
 2  西の坊 一名宝冠坊 現在無住の小庵とその庭園の一部が残存、附近の一枚の田地が地籍図では「宅地」となっていることから、あるいは、かって「宝冠寺」があったとする説を裏付ける史料かとも思われる。
 3  東の坊 一名観音坊、現在東田上(たねえ)の台地上に「観音庵」があるが、多分これであろうと思われる
 4  南の坊 山麓の固めとして、新町か、または馬木あたりにあったのではないか。
 5  丹波の坊 現在小屋の建っている本丸南端の鼻を、古くは「丹波の鼻」と呼んだといわれている。
 6  久保の坊 本丸東側の一段低い台地にあったものと推定される
 (図6参照)

2 城主と戦史
(1)三好 式部少輔 康俊
 岩倉城は河内国高屋城主三好山城守康長(笑岩)の築城によって、本格的な城郭としての規模をもつようになったとされている。
 康俊は築城者である康長(幼名孫七郎、後に治元。之長の4男)の長男で、幼名を徳太郎、はじめ名を元存(もとまさ)といい、城代としてこの城を守備していた。
 『古城諸将記』
 「岩倉城 三好徳太郎 小笠原氏 1000貫文または300貫とし、家紋三階菱、山城入道笑岩の長子云々」
 『阿波志』
 「岩倉塁 岩倉山に在り、永祿中 源康俊、此に拠る、従弟横田内膳宰たり、東に甕城あり、坂道300歩、険甚だし、西に谷あり、勢谷という、壕2相距る18歩・・・・・」
 この横田内膳宗昭は康長の甥で、家老職をつとめ、塩田左馬允入道一閑(三谷城主)とともに、康俊を補佐したという。
 『故城記』
 「横田殿 千葉平氏 月星の丸」
 天正6年(1578)2月、三好郡の白地城を抜いた、長宗我部元親は、この城を侵略拠点として、同7年夏に重清城を奪取、その勢をもって、美馬、三好両郡の押えである岩倉城に迫って来た。元親はまず扱いを入れて降伏を勧める。康俊も抗戦しても及ばぬことを知って、実子を人質に出して降伏した。同年12月27日康俊らは三好方の森飛弾守らを岩倉、脇城外で奇襲し、勝利を収めた。
 ところが、天正10年(1582)5月、織田信長によって、三好康長を先陣とする四国征伐の軍を起し、康俊らは三好方に転じた直後、本能寺の変がおこった。元親はこの機を失せず、同年8月2万3000の大軍をもって、阿波に侵入、9月阿波の本拠地勝瑞城を攻略した。
 一方、親吉を主将とする土佐勢は、8月22日脇城、9月9日には上野城を落としつづいて岩倉城に攻め寄せた。しかし、城は要害堅固であり、城兵も頑強に抵抗したので、さしもの土佐勢も攻めあぐんだ。
 これを聞いた元親は、さっそく本隊を岩倉城に差し向け、強攻したが依然落城しなかった。
 元親は遂に扱いを入れて、かねて康俊から預っていた質子を返して、情義をもって開城を勧告したので、康俊も遂に城を明け渡して讃岐(一説に河内)に去った。
(2)長宗我部 掃部頭(かもんのかみ)
 岩倉城の開城によって、元親は阿波の全土を平定し、重要な拠点には一族の家臣を配置した。岩倉城には長宗我部掃部頭(一書には比枝山掃部助親興)に、兵5000をつけて配備し、脇城とともに北方の重鎮とした。
 天正13年(1585)6月、豊臣方の秀長、秀次(秀吉の養子、三好山城守の子)を将として6万の大軍をもって撫養に上陸、まず木津城を抜き、秀長は一宮城、秀次は山城守の旧領岩倉城に迫った。時に、黒田孝高は3万の兵をひきいて、讃岐から馳せ参じ秀次軍を援けた。孝高は城の険要を見て、木材を積んで、高楼をつくり、これで城中を見透し所々から大炮を打ちこんだと伝えられている。(実際に、城地の標高からみて、城と同じ高さの高楼をつくることなどは、ほとんど不可能なことと思われる)
 よく守った城将掃部頭も遂に城を開けて降伏し、土佐へ退去した。
 ちなみに岩倉城は、蜂須賀入部後は近接の脇城が阿波九城の一つになったのにつれて、廃城となったものと思われる。

B 本丸遺構の実測
1 本丸
 海抜100メー卜ルの南北に細長い小丘上にある。南方にゆるやかに傾いたこの平地は今、くにぎその他の雑木におおわれている。後方(つまり北方)の要害を固めるため、空堀をつくって、後方台地と絶縁させている。前方(南方)は吉野川流域の平地に臨み、極めてけわしい急崖をもっている。本丸には、この空堀のほかに、人工的な構造物は何1つ遺っていない。

ただ、西南隅の一段低いところに、旧城主三好徳太郎の墓(というより、供養塔と呼ぶべきか)が、新旧2基とその他に2〜3基の墓があったようだが、墓石はくさむらの中へ倒れこんで散乱し、墓銘もほとんど判読不能の状態になっている。

  三好徳太郎の廟所の二つの墓
右(旧)五輪塔
 天正七巳卯
(種字)棟屋善梁大禅定門
 八月十四日

左(新)方柱塔
 天正七巳酉年
(種字)棟屋善梁大居士 三好山城守嫡男三好徳太郎廟所
 八月十四目

(写真参照)


2 本丸北側の空堀
 この空堀は、図のとおり、脇城の大堀に比すべくもない。規模は小さいが、はっきりと構造をみることができる。
(図8参照)


3 本丸の東側と西側の遣構
 本丸の東側は、3.5メートル下がって、第1段の平地が、巾6メートルで広がっている。さらにその東に第2段、第3段の平地をもっている。
 本丸の西側は、約4メートル下がって、第1段の平地がある。北の空堀の開口部付近には、さらに第2段の平地をもっている。
(図9参照)


4 両城に関する戦記とその検証
(1)天正7年脇城外の戦闘
 脇城主武田信顕、岩倉城主三好康俊ともに土佐の長宗我部元親に降伏し、その勢力下に入って、天正7年12月27日、脇・岩倉両城に攻め寄せた三好勢を奇襲して、大敗させた戦闘である。
 従来の記録によると、岩倉方の謀略によって、おびき寄せられたところ、後方を脇城の武田勢におびやかされ、やむなく退くところ巧みに脇城外の湿地帯に追いこまれ、人馬共に足をとられて混乱しているところを脇城から鉄砲、弓の射撃を浴びて、ほとんど全滅したとある。
 ところで、脇城外の湿地帯とは、今も脇人神社東側一帯にそれらしい地形を認めることができる。真楽寺住職の話によると、昭和初期に、貞真寺前方の田の中から、墓石と思われる大石を多数掘り出して、供養をたのまれたという。
 また、昭和46年、岩倉別所の大楠の東方500メートル、現在揚水場のある「吉御堂(きちみどう)跡」から、凝灰岩の五輪塔13基を発掘した(現在、大楠下の小庵にまつられている)。
 以上の墓石は、いずれもこの戦闘で戦死した勝瑞方(三好方)の将兵のものではなかろうかと推定される。
 なか、東林寺墓地にも、この時の戦死した三好方の部将たちの墓があると聞いたので、調査したが発見できなかった。
 この戦闘で、脇城から鉄砲の射撃を浴びたとあるが、当時の鉄砲の射程距離はせいぜい100〜120メートル、弓は50メートルといわれ、現地でこの距離を測定してみると、脇人神社の位置が山麓から、180メートルある。このことから、射撃したのは山上や山麓ではなく、もっと近距離というと里城の中からではなかったかと推定され、山上よりという説は否定される。
(2)天正10年 脇城攻略戦
 長宗我部勢が脇城攻撃の際、背後の国見丸(標高260メートル)から、大砲で脇城をねらい射ったとされている。
 しかし、両高地間は標高差にして160メートル、直線距離にして約1000メートルもあるので、当時の大砲ではとても有効な射撃はできないと判断される。むしろ、脇城の全容を見下すことのできるこの高地を占拠することによって、脇城唯一の退路を断ったことと、ここを射撃指揮所(弾着観測所)として脇城の北方を限る城の谷の対岸から砲撃したものであろうという推定が成立するようである。
(3)天正13年 脇・岩倉両城の水攻め
 豊臣勢が、長宗我部勢のこもるこの両城攻撃に際して、吉野川を本楽寺(今の国鉄小島駅の西方丘陵上にある)の下で、せき止め、これを吉野川左岸の遊水地帯ともいうべき両城の山下へ流しこんだといわれている。
 第2室戸台風の際、吉野川の洪水で脇城山麓の貞真寺の門前まで浸水したという記録があるところから(現在、別所附近の吉野川左岸に堤防がつくられたが、それまでは無堤防、いわゆる吉野川遊水地帯と呼ばれていたぐらいであった)、上記の水攻めは必ずしも不可能でなかったように思われる。まして、吉野川の当時の河道が、現在のような南寄りではなくて、北寄り(両城の山下に近い方)であったことも考えられるので、可能性は大きい。
 ただ、当時の工作技術が、あるいは工作期間がその大工事をゆるしたかどうか。この点は疑問である。攻撃開始の期日と終戦までの正確な日数を確認することが必要だが、今回はそれをすることができなかった。

付、真楽寺 阿弥陀如来坐像の胎内銘文
阿彌陀如来坐像

 ○像高 131センチメートル
   半丈六の坐像
 ○1木造 耳後で材をたてに矧(は)ぎ合わせ、背面の材は当初のものでなく、後補のもの、左手は肩から材を矧いである。膝前は主として横 )2材を用い、裳(すそ)先には別材を用いてある。
 ○漆箔 肉身は、漆の上に金箔をはり、着衣の部分には彩色が施されている。
 ○胎内銘文
(腹面)
 建久八年 丁 巳 三月二日南淡■阿波国三好■奉造■
 帰命■方■
 仏身■広相好無辺功■
 大慈大悲四十□□度■
 その左側に
 「寛政元丁酉年八月 大坂堂嶋田崎川上口 織田伊兵衛 奉再興作之 花押」
(背面)
  掩月松按菩提也 宗月妙栄菩提也
 梵字 奉再興阿彌陀仏願主田上山住持造為六親誉属七世父母 権大僧都 快勢立法界諸性霊也 寺中生霊菩提
   干時 承応乙未三月五日
  権大僧都法印法真十七歴忌也
 □□
  権大僧都法印快真菩提也
  真楽寺住持権小僧都法真謹修覆
梵字 梵 字 為六親誉属法界也
  文祿 二 二 乙未年七月七日■壱円尉
 ○造立期
  以上の銘文によって
  建久八年(1197)の造立
  文祿四年(1595)
  承応二年(1653) の3回修理
  寛政元年(1789)
  このほか
  年月不明の修理1回

5 むすび

 今回の調査の主眼が、脇・岩倉両城跡の遺構の実測であったので、この面では一応の成果をあげることができた。
 しかし、実地に接してみて、従来の文献や記録にとりあげられていないことが、あまりにも多くあることに気づいた。
 ただ、限られた人数と期日で、そこまで手をのばすことができなかった。これを機会に関心をもつグループで、この調査活動を続けて行きたいと思っている。(河野)


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