阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第19号
幕末・維新史上における脇町

地方史研究班 小笠泰史・高橋啓・板東紀彦・松本博・三好昭一郎

目次
第1部 脇町およびその周辺地域における商品流通と在郷商人の動向
  ―天保期考察の前提として―
第2部 天保期における領主的危機と「世直し状況」
 (一)飢饉・物価騰貴と「世直し状況」
 (二)他国米移入と米価調整策
 (三)納米麦の払い下げにおける領主的意図
 (四)救助銀制と村落支配の危機
 (五)「上郡一揆」と脇町周辺の動向
第3部 明治維新と猪尻侍

はじめに
 美馬郡脇町およびその周辺地域は、われわれ近世・近代史ことに徳島藩幕末・維新史の構築をこころざすものにとっては、きわめて興味深い地域である。幕藩体制国家から明治天皇制絶対主義国家への移行期における徳島県の歴史の全体像をうかびあがらせようとするとき、幕藩体制下においてすでに形成されていた本県の産業経済構造上の地域性(すなわち吉野川下流域を中心とする藍作地帯・中上流および山間後進地域・那賀・勝浦流域を中心とする南方米作地帯)を前提としつつ、そのそれぞれの地域において展開される基本的階級関係の矛盾・対立を把握し総括することがなによりも肝要である。しかし、この視角からの研究成果は、これまでのところ残念ながら貧しいというほかはない。
 本稿はそうした現状と問題意識を杖としながら、脇町およびその周辺地域における幕末・維新期の動向を探ることにより、上の課題にアプローチしようとするものである。徳島藩内におけるこの地域のもつ特異性は即徳島藩の特質となり得たその重みをわれわれは痛感しないわけにはいかない。
本稿においてそれをどこまで説得力をもって論を展開し得ているかは諸賢の批判をまつよりほかはないが、ともかくこれまでの徳島藩幕末・維新史を再検討するための糸口にでもなればそれに過ぎるものはない。
 本論の展開は、いまだ史料収集の過渡にあることと、共同討議の成果に未成熟な部分をも残しているために、便宜的に1.2.3部に分かち、現段階での成果を発表することにした。残されている部分と問題点がきわめて多いことはいうまでもない。大方の批判を得て今後の補完に資したいと思う。なお本稿作成にあたっては主として三好・板東と松本が討議を行ない作業を進めたが、いまだ合意に達していない問題点も多い。したがって本稿執筆上の責任は松本が負うべきものである。

第1部
 脇町およびその周辺地域における商品流通と在郷商人の動向
  ―天保期考察の前提として―
 美馬郡脇町は吉野川中流北岸に位置し、古くから「讃州・予州之通路中国九州江之海道へ相続他国之便宜半日壱日ニ相聞半途街之場所ニ而御座候(1)」といわれ、商品流通の発達は藩制成立以前にさかのぼるが、長宗我部氏の阿波侵攻を機に戦乱のため一時荒廃に帰した。
 その後蜂須賀氏の阿波入部によつて藩内の支城下町(2)・郷町としての再興が許可せられ、「町屋敷之義、地子諸役御免許」となった。そして「追々賑敷罷成、猶又町□賑月ニ六ケ度三七之市相建右市ニハ猶以諸方より諸人相集甚賑敷罷成」という状況を呈するにいたった。しかも右の市には「御国内ハ勿論讃州予州備前抔よりも追々聞伝諸商人入込候ニ付市押之義五人組共順番ニ相勤候ニ付右役人共数人ニ而相勤申候(3)」
として郷町の商業的機能が整備され、農民的商品生産物の集散地としての性格をそなえるにいたった。
 こうした成立・発展の経緯をもつ脇町は、周辺の岩倉・猪尻などとともに藩制初期においては国老稲田九郎兵衛の知行地として存在したが、寛永年間稲田氏が淡路洲本城代として赴任する(4)におよんで藩の蔵入地に編入されるとともに地子御免が解かれた。
 さて、元祿・享保期以後における農業生産力のたかまりとそれにともなう商業的農業の発展、また貨幣経済の進展は、在来の郷町およびその周辺農村の流通機構・社会構造を変質せしめた。
 いうまでもなくそうした農民的商品経済の発展は、領主的経済構造と矛盾するものであった。幕府および藩権力は、特権商人の掌握とそれによって獲得される集中的利益の温存をはかるとともに全国的な市場構造の厳格な統制および領内流通機構の領主的支配を常に志向した。
 しかしながらそのような領主的商品経済の構造は、やがて農民的商品経済のたかまりに圧倒され、衰退し分裂へと向わなければならなかった(5)。

郷出店御究御触之写(6)

郷中諸商売之義古来より之被仰出を相背猥ニ相成候故近年稠敷御指留被成候、右ニ付迷惑之運又ハ指支之趣等申立願書指出候ニ付各存寄相尋候処熟談之上先年郷中より品書を以商売之義願出候ケ条之外猶又日用入用之軽品相加へ書付被指出被申出候趣共承届候随而此度郷中より商売願出候者共へ向後別紙書付之品々市中ニ而相調置商売仕義御免被成候条此段可被申付候、此書付之外不依何ニ商売仕義一向御指留被成候、勿論此後商売人新ニ不相増様ニ可被申付候、若相背候もの有之ニおゐてハ急度曲事可被仰付候、且又先年より商礼を置候者共之義も猶又此度詮義之上外ニ一向渡世無之分■改商礼可被指出候、尤郷中より目代差出義と伺之通可被指留候、前段之趣市中之者共へも被申聞郷中ニ而右被仰付を相背猥成義有之候得ハ先達而被仰付置之通其段早速可申出旨可被申付置候 已上
 宝暦拾弐午年閏四月廿日
  森平馬

   郡御奉行中
  御中ニ而商売御免之品左之通
 一、茶、塩、煙草 ともし油 但請売小売
 一、草履 木履 草鞋
 一、墨筆
 一、鉄もの鍋釜
 一、箒
 一、傘 簑 笠
 一、薪 炭
 一、茶碗 ■子 柄■
 一、けんと 水納
 一、苧 地布併嶋山布併嶋
   但染地かた付御停止
 一、燈心 附木 ろふそく
 一、はし
 一、も綿併嶋木綿
 一、古手着もの
   但質屋之外古手商売御停止
 一、酢 醤油 味噌
 一、鰯
 一、油元結
 一、葬送道具
 一、きせ類
 一、丸薬 散薬
   但其餘薬種類ハ御停止
    已上
  宝暦拾弐年

 上の史料は、宝暦12年(1762)にいたり、それまでの領主的指示に基づく商品流通の統制が乱れ、農民的商品経済の高まりとともに郷町としての脇町の流通機構が変質をとげはじめたことを如実に示すものである。そこには、商品流通を通しての生活文化の高まりと生活圏の広がりが進行しつつあることがうかがわれ、そのことがとりもなおさず領主的市場経営に矛盾を生む要因となっていることが知られる。また新興商人層の出現の禁止そのものが、在来の領主的商品経済がすでに侵蝕されつつあることを示すものである。たゞいかんながら、上の史料のみによっては、茶・塩・煙草その他藩の専売制にかかわる商品の請売・小売の流通機構と数量的実態はつかみ得ない。しかしながら同じ宝暦12年6月に美馬郡内の与頭庄屋中にあてられた達書に「脇町役人共方より此度郷中商札之義ニ付郷中出店併商札持伝候者無之譲請候者願立候趣訴出申候其方共相約候節右筋目之者ニ無之義ハ其段相糺商札取上可指出候(7)」とあることからして、明かにこの期の商品流通の動向の中には藩内特権商人と直接・間接につながりのあった郷出店商人層の経営状況に可成大きな変動が生じつつあったことは推測することができる。
また新興商人の中には「商札御免之札を以宅におゐて商売仕もの有之趣不埓之至ニ候(8)」として厳重取締の対象となるものが出現していることは前述の領主的商品経済が侵蝕されつつあることの一端をとらえている。
 領主権力の市場統制の強化にもかかわらずこうした傾向は年次的に進行し、しかもその規模と質は拡大し深化していった。すなわち安永6年(1777)曾江・岩倉・太田の各村組頭庄屋にあてた達書の中に
急度申遣候、其郡中於村々商札所持不仕候者ハ商売仕候義不相調旨兼而相触置候処、近比商札所持不仕候者共猥ニ商仕ニ候、脇町難相立旨願出候、先年より度々御触有之候処右様心儘ニ商売仕候段別而不埓之仕合ニ候(9)(後略)
とあり新興の周辺農村商人の出現が、在来商人の存立を危ぶましめるという状況さえ生んでいる。
 これがさらに下って寛政年間にいたると上方より相当数の商人が入込み、それまでの近郷農村を対象としたいわば孤立的小規模商業圏のワクがはずされ、畿内商業圏の商品流通の影響を直接にうけるという事態が生ずる(10)。
そのことが、在郷商人たちの経営を一層窮迫せしめる結果となる。
 なかには、上方商品の直仕入れによって在郷商人たちの流通機構を攪乱する者も出現した。このことはすでに領主的商品経済そのものが、全国市場に依然大きな影響力をもつ上方経済圏の翼下に陥ったことを裏書きするものであり、したがって藩内に存在する郷町のすべてが等しくその影響をうけ、領民の経済的逼迫はそこからも始ったということができる。それまでの農民的商品経済の発展による農民層の分解現象とともに右のような状況を通して郷町々人層の分解がこの期に加速度的に進行しはじめたと考えられる。
 こうして領主的商品経済の侵蝕が進められつつ、やがてそれは領主的体制的危機へと発展してゆくことはいうまでもない。
 つぎに掲げる史料は、寛政期における前述の特徴的傾向を裏づけるものである。

 在々出店併他国商売人諸代品物指下商売之儀兼而御制禁之処追々猥ニ相成郷出店繁昌上方より大勢入込令商買市中之者共困窮ニ及候懸を以町御奉行江相窺候処、撫養四軒屋南方富岡之義ハ市中ニ類令商売候事故指除其餘ハ先往古通之一向ニ御指留被成候間御下知有之由之達し町御奉行より申来候去ル戌年相触候処郷町と相立候場所ハ四軒屋富岡同断商売仕来候由願出其餘よりも一向ニ商売御指留被仰付候而者迷惑之旨先規之通宜を以願出候ニ付讃談中之事ニ候、然共郷出店等今以猥ニ上方より直仕入仕者多有之候由甚如何之仕合ニ候、当年崎ニおゐて郷町と相見候ハ四軒屋・八幡町・脇町・池田町・林崎筋共指除其餘者三判渡置有之市中目代之者共併制道人共指出不埓之者急度召捕候趣町御奉行より申来候不弁之者も可有之候ニ付先達而此段相触置候条不埓之仕入不仕様組村屹と相触奉畏旨村々役人共請書取置可申候此状承知印加へ相廻留村より早々可被指戻候 以上
    福岡今左衛門
  寛政六年寅五月廿日
   美馬郡
    与頭庄屋中(11)

 やがて化政期をむかえると、当時の世相の反映もあって郷町における商品流通はさらに大きな変動をとげ、いよいよ領主的商品経済はその機能を失ないはじめる。
 すなわち、宝暦以来の領主の商品流通上の統制力は実質的にその効力を失ない、日用品をはじめとして領主の許可した商品以外の品が流通のルートを形成し、事後承認のかたちで仕入・販売が黙認されており、しかも、その間隙をぬって衣類・装飾品をはじめとする「驕之品」が流通しはじめる。
 つぎの史料がその状況をよく表現している。

 近来南北共何ニよらず心儘ニ令商売、郷出店盛ニ相成第一御法度之絞類を始驕之品等商売せしめ自然於郷分驕令増長不弁之者共ハ御制服等も相背候様相成候様之義ハ右様不心得之者多故之事ニ候、
其上上方表より直々仕入等も仕者有之万事郷分ニおゐて事足り候様仕成候段往古御条目ニ令相違別而如何之事ニ候、依之古来之通急度御究被仰付義ニ候へ共不心得とは申なから右之御究等も中絶之義ニ候ヘハ唯々稠敷指留候而ハ郷分之者共之内犇と迷惑之懸来可有之ニ付明年正月より御掟之通申付義候条右様相心得絹類を始金銀細工類銀□てふがい■甲櫛ニふかい□之類或ハ日■奈良草履是等之義ニ相引合諸道具婚礼葬式之義ハ猶以華美之品有之義ニ候得ハ(中略)
於郷分右様華美之品を商売候段ハ相用候□之族多有之義と相見へ甚不埓之事ニ候(12)
 そして上の史料にもあるごとく寛政期以来の上方よりの商品の流入は一段と増加し、質量ともに郷中出店の商品流通を支配することとなる。
 しかもその上方商品の流入が、脇町およびその周辺村落の領民たちの華美な生活への欲求をあおることとなり「郷出店ニおゐて一品として指支無之自由相叶候所より民家之驕日々ニ相増(13)」という状況を呈するにいたった。
 その反面において、藩内流通機構の中枢にあった徳島市中商人が郷町向け卸として仕入れる商品が不足し経営困難をきたし、そのことが「市中より郷分へ売候義者往古より屹と御停止ニ候処、町方之者共御作法相背出店之者多近年者山分■も入込商売せしめ候段不埒之仕合ニ候(14)」という事態を招いたのである。
 これらの動向に対する領主層の対応として、まず「郷分ニおゐて他国懸合直仕入等仕者屹と相咎候(15)」として上方経済圏との遮断を通じて領内商品流通の領主的機能の回復をはかろうとしている。
 しかしすでに領内の市場構造は大きく変質をとげ、とくに郷町周辺の農村構造の変質は町方商人の出入によって一段と進行しつつあった。領主権力はそれを極度におそれた。
 根元郷分之者耕作第一之心得有之度儀ニ候処、近年売躰之風俗ヲ見習農事相衰困窮之基ニ相成已後之義ハ相背者屹と御取調子被仰付候、小百姓ニ至■不相洩様可
申聞候(16)
 まさに商品経済の波に農村があらい流されようとしていることを領主自らが告白している。農民的商品経済の拡大・深化こそ領主権力にとっては、農民を対象とする年貢収奪の体系および経済外強制の体系の崩壊を促進せしめる重大な要因となるという領主的認識がそこに示されたといえよう。
 そうした農民的商品経済の進展にともなう領主的危機が次第に顕在化しつつある過程において、郷町としての脇町は幾度かの大火災にみまわれる。
 ここに文政12年(1829)12月晦日における大火の状況と事後にとられた町人たちの群借銀にみられる郷町の危機状況を紹介しておこう。
 この大火は脇郷町のうち北町・中町の大半を焼失せしめるという大規模なものであった。「脇町成行諸事記録」によると、焼失した惣家数169軒(内居宅129軒、土蔵4ケ所、納屋29軒)間口都合302間余、居屋敷畝合1町8反9畝26歩8厘、高合24石5升5合4勺、代積合161貫700目、なお焼失居宅129軒のうち家持は63軒であった。
 右の大火は、前述してきた宝暦期以後の郷町における商品流通の変動にともなう町人層の苦境を一層深刻なものにした。その状況は翌13年3月に脇町与頭庄屋・五人組の奥書付きで提出された群借銀の願出書の中によく示されている。その主要部のみを抽出する。
 一、群借銀惣高拾三貫目
 (前略)地盤困窮人手元ニ而御座候処、火難ニ付売物始家物不残焼失仕小屋懸等難相調犇与迷惑仕居候ニ付(中略)右居屋敷居内質物ニ可奉指上候間、御銀拝借被仰付候様奉願上候処、御時節柄容易ニ拝借者難被仰付、然とも地盤困窮之上売物ニ至■悉焼失仕至極難渋之次第被為召上先年之御引合も御座候旁御慈悲を以壱間口ニ銀壱枚宛之御積ニ而惣銀高拾三貫目拝借被仰付旨被仰渡難有御義ニ奉存候、且又右御銀返上之義者来卯年より来ル子年■拾ケ年賦ニ而壱ケ年ニ壱貫三百目宛年々夏秋両度ニ返上仕候様被仰付右年中前顕居屋敷居内共質物被召上旨被仰渡奉畏候(後略)
  文政十三年寅三月
 群借人 山本屋秀蔵(以下屋号を有つ町人56名。医師1名。来り人4人。その他2名略)
 美馬三好御郡代生駒彦吉様御手代
  高畠覚二郎殿
  諏訪理久郎殿(17)

 この史料から、これら群借人たちの経済事情は大火以前においてすでに窮迫していたことが理解できるとともに、「御時節柄容易ニ拝借者難被仰付」の表現が示すごとく領主権力の財政事情も大きく破綻へと傾斜しつつあったことを知ることができる。
 さてこうして繰りかえされつつ、しだいに深められていった体制的経済構造上の矛盾とそれにともなう領主的危機は、やがて天保期を迎えるに及んで、ますます深刻化し、階級関係の対立が激化するなかで、領主層はその体制的危機をいかに克服すべきか諸般の模索的手段を弄するにいたるのである。


(1)脇家文書「美馬郡脇町先年より之成行諸事記録」(以下「脇町成行諸事記録」とよぶ)
(2)天正13年(1585)蜂須賀家政の阿波入国後、領国経営策として国内に九城を定め、それぞれに重臣を配したが、脇城には稲田氏が支城主として送られた。
(3)前掲「脇町成行諸事記録」
(4)徳島県史料第一巻「阿淡年表秘録」によると寛永8年に「淡洲へ引越被仰付」とある。但し稲田氏の洲本城代職の成立の時期については異論があるが、ここでは前掲「脇町成行諸事記緑」に従っておく。
なお松本博「淡路城代の成立をめぐって」(「史泉」第34号所収)を参照されたい。
(5)大石慎三郎・津田秀夫他著「日本経済史論」参考
(6)前掲「脇町成行諸事記録」
(7)・(8)・(9)同上
(10)前掲「日本経済史論」参照。大坂市中を中心として存在していた既存の商品流通機構及び手工業の弱体化により、農民的商品経済の成果を掌握し、大坂資本の特権強化をはかるために周辺地域の市場を制圧しようとする動きは、すでに明和期から活発化しはじめる。そして明和〜天明期を通じて幕府の市場統制策が強化され、なかでも大坂を中心とする中央市場に特権を与えることによって、幕藩体制社会を維持し、強化しようという政策が試みられた。寛政期はそうした幕府の市場統制策がかえって階級関係に矛盾・対立の激化をまねき、それまでの市場統制を否定し商業資本に規制を加えようとする動きが現われる時期である。
こうした全国的市場情勢を考慮するとき脇町周辺の寛政期以後の動向は、明和期以来の大坂市場・上方資本の周辺地域への拡大・浸透のあおりを受けていることはたしかである。
(11)前掲「脇町成行諸事記録」
(12)・(13)・(14)・(15)・(16)・(17)同上

第2部
  天保期における領主的危機と「世直し状況」
 天保期は幕藩制社会の構造的矛盾の深化が幕藩体制解体への必然性を顕在化せしめた時期である。したがって、それが革命的であるか改良的であるかのいかんにかかわらず幕藩体制の克服がひとしく全ての人びとにとって当面する現実的な政治課題となっていった時期であるということができる(1)。
 すなわち、これまでに述べてきたことからも明らかなごとく、宝暦期以降における商品流通の構造的変化とそれにともなう市郷商人層の生活基盤の変質は、全国的な農民的商品経済の進展の趨勢をうらずけるものであり、そうした変化が領主権力による市場統制や、藩の専売制をやがて破綻にみちびき、領主的商品経済は衰退から崩壊へと向う。
 そこに領主的危機の経済的必然性をみいだすことができる。
 そうした幕藩制社会の経済構造上の矛盾こそがそれ以後の階級的対立関係の激化とその質的転換を導き出す根源となっているということができる。
 つまり領主的経済構造の、矛盾から破綻への必然は、領主層の権力構造そのものを危機にいたらしめ、それが幕藩制国家の政治的矛盾を激化せしめたのであり、そうした経済的矛盾の政治的矛盾への転化の過程にこそ、右の階級関係の矛盾の深刻化と質的転換を誘引する基盤が形成されたのである。天保期はまさにその意味において、基本的階級関係の転換の時期であり、豪商農=寄生地主を中心とする社会構造再編成の動きがはげしく展開される時期なのである(2)。天保期を維新変革の起点とする論拠も、そうした変革への条件を検出し得てはじめて成立するものであるといえる(3)。
 さて、天保期に対する以上の視角を前提として、脇町およびその周辺の動向を検討してみたい。

(一)飢饉・物価騰貴と「世直し状況」
 天保期以前における農民的商品経済の進展が脇町およびその周辺農村を侵蝕しつつあった状況については、さきにもふれたとうりであるが、天保期に入るや全国的に連年にわたる凶作が続き、その結果米麦をはじめとする諸物価が急激に高騰し、すでにそれまでに進行しつつあった農民層の分解現象をなおいっそうおしすすめるとともに、領主的市場構造をますます破綻へと導き、崩れつつもなお領主的権威によって維持されてきた商品流通の機能はいよいよ麻痺していった。
 脇町の郷出店商人にとってはそれまでの上方商人の郷町侵蝕、そして文政十二年の大火による傷あともいまだ癒えず、借財負担の重圧に追いうちをかける事態となり、その危機的状況は年々つのっていった。
 当時の脇町における代表的豪商吉田直兵衛の記録、佐直家「家録」によってその状況を考えてみたい。
 天保三辰年六月十七日より八月十五日頃■照り詰諸作物相損シ山分ハ勿論郷分■も多ク飢渇相及候者有之、右ニ付御上より御手当有之候、然所当町(脇町)之儀ハ面々より乍聊心付指シ遣シ候(以下略)
 上の事情によって、脇町では富豪の堤、湯浅、木村、上田、吉田が米各一石ずつ 林、武田、藤兵衛、次助が米各壱俵ずつ拠出し、困窮の36軒127人を救済するというてだてを構ずるにいたっている(4)。
 また天保7・8年における凶作は、藩内各地に所在する史料のことごとくが示すごとく(5)天保5年時以上に、領民を飢饉のどん底におとし入れたが、米麦の騰貴はことのほかはげしく、天保8年の夏にいたっては同6年夏の3倍を越えるというはね上りようを示した(6)。
 すなわち
  天保七申年四月廿日頃より雨天相続土用中三日与相続候天気無之八月中旬■彌降続依之諸作物一切殊外不作ニ而米麦高直其上綿作別而凶作ニ而夜着綿抔抜売仕位之次第ニ御座候、相場左ニ印
  申冬より酉春相場
 一、篠巻 一丸百廿五匁位
 一、実綿 八月中旬拾〆ニ付百五拾目位之所追々高直相成十月中旬より拾〆ニ付弐百廿目位ニ罷成候
 殊ニ綿高直之儀古来稀成儀与考へ被申候
 一、米 酉二月初より追々引上ケ四月初■高弐百三拾目也、四月十日頃より追々引下ケ弐百目位
新米百目位之処追々高直ニ相成十月中旬相場百廿七八匁位至、酉正月凡弐百日ニ相及候
  小豆百九拾目 砂糖大相場
一、麦相場 酉三月末より四月初■高弐百拾匁也、十日頃より天気□新麦出来宜布百六七拾目
 新麦五月中旬六拾目位之処、是亦追々引上リ十月中旬ニ而ハ百三四匁之相場至酉春百五拾ニ相及申候 以上(7)
という状況を呈し、当時の全国相場を上まわるほどの暴騰ぶりであった。
 そのため「米麦莫太之高直故下々困窮人格外難渋ニ相及野山草木之根種々無量艱難仕漸凌飢候次第誠ニ難述言話」というほどの事態を招き、ついに天保8年2月岩倉山の百姓「五七百人致表裏忽飢ニ相成申ニ付脇町大家へ参受養申度旨ニ而已井口谷■発向仕候(8)」と困窮救助を叫び脇町豪商農への強訴を惹起せしめるまでに状勢は緊迫化した。
 この岩倉山百姓による強訴は、単に凶作飢饉にともなう困窮のみに起因するものでないことはあきらかである。すなわち、宝暦期以来の農民的商品経済の進展、また上方商業圏の流通ルートの中に包摂されつつ侵蝕をうけた脇町周辺農村の経済基盤の危機状況を鋭く表現するものであったといえる。それゆえに百姓たちの強訴の対象として郷町脇町の「大家」が選ばれたのである。
 そこには、脇町近隣農村の商品生産物が商人的収奪にあうことによって、農民の全剰余労働までもが、搾取されつつあることへの根強い怒りがあったといえる。それはまさに商業的ブルジョアジーへの発展を指向する郷町商人への惣百姓一撲としての抵抗であった。
 天保8年2月のこの岩倉山百姓たちの強訴は、その情報をうけた村力町方役人層の取り鎮めによりほどなく治まったが、こうした「世直し状況」が、やがて脇町周辺に一般化しうるもう一つの条件があった。
 天保8年2月、大坂において大塩平八郎の乱がおこった。天保8年のこの期を前後とする時期における脇町およびその周辺農村の動向が、大塩の乱と全くかかわりがないといいきれぬ理由がある。
 前掲「家録」には、大塩の乱についての情報がかなり詳しくたち入って記されているが、その一節はつぎのごとく記す。
 元来天満与力大塩平八郎与申者当御国当郡(美馬郡)新町(岩倉村新町)ニ而稲御大夫之位真鍋市蔵与申者家より出祖父平八郎大坂表ニ而与力ニ相成居申当平八郎■御用相勤居申処(後略)
 ここで大塩平八郎の出身地を詮索しようとするのではない。してもそれはさほどの意味をもつものではない(9)。重要なことは、脇町およびその周辺の当時の民衆が、右の「家録」の記述のごとく平八郎は美馬郡新町を郷里とすると認めていたという事実であり、そのことが乱後の脇町周辺の動向と全くかかわりなしとなし得ない諸状況である。
 大塩の乱後、彼の逮捕を目的として各地にその手配書が流布されるが、阿波にもいちはやく手配書が通達されている(10)。したがって前述のような「世直し状況」下にある在地の動向にはおのずから反映するところがあることはなんら不自然としない。ましてや彼の郷里なりと認識する領民たちにとっては、彼の行動は直接的に彼ら自身の問題でなければならなかった。
 のちに詳述するが、困窮人救助を目的として、「納麦」の払い下げが実施される段階における、領主権力に荷担する村役人や豪商の動向と、それに対応する困窮人たちの動向のなかに、大塩の乱の起因と乱の経過を熟知した上でとられたと理解しうるものがある。
 その意味において、大塩平八郎の乱に対する領民の認識の度合いは、脇町周辺における「世直し状況」の醸成を一般化させるにたる条件となり得た。
 ところで前掲「家録」のうち、大塩の乱の記述の末尾に「但右騒動党類候者早々御召取ニ相成、無程太平ニ相鎮リ目出度」とある。そこには、岩倉山百姓の強訴の対象となった脇町の「大家」の商業ブルジョアジーの領主的側面を代弁しているものがあるといえる。
 さてこうした、天保前半期の飢饉・物価騰貴、そして「世直し状況」の進行に対して、領主権力はいかに対応したであろうか。

(二)他国米移入と米価調整
 これまでに述べてきた諸状況は、明らかに幕藩制社会における構造上の矛盾であり、それらの量的拡大と質的深化は、おのずから領主権力の危機につながるものであった。したがってその領主的危機を如何に克服するかは、天保期における領主層の最大の課題でなければならなかった。しかるに、すでに領主的商品経済が崩壊への道を加速度的にたどりはじめていたこの期の領主権力にとって、困窮人救助のてだてが、あくまで経済的側面から加えられなければならないことを了知していたがゆえに、その施策は領主層自らの矛盾を拡大・深化させる結果に陥らざるを得なかった。そこに体制的危機の到来があり、ますます階級的矛盾を激化させる根源があったといえる。
 さてこの天保期における領主的危機回避の手段として、暴騰をつずける米価の調整を志向して、他国米(麦)の移入策が構じられることとなる。まずつぎに掲げる史料(11)をみてみよう。
(A)
 昨年柄ニ付御国内米不自由ニ相聞候事故御救引当之ため曾我部半右衛門元取申付其方共彼是相働余程相調候趣、然所此節ニ至脇町筋売米不自由相成直段も引上ケ候由右様有之候而ハ下々迷惑之儀も可有之ニ付是■相調候分共夫々其方共手元ニ引取可申諸々之処ハ先買方相見合町筋売米融通成候様了簡可仕候、尚追々致融通相場相ゆるミ候場合相見合候而下売買筋ニ不相障様程能買米可仕候、此段申出候
 以上
   三間勝蔵
 (天保八年)
  酉正月 脇町壱領壱疋 吉田直兵衛とのへ
   拝原村庄屋 浅野彌左衛門方へ
(B)
一 御買米被仰付拝原村浅野彌左衛門相調候内四拾石折目伊世蔵・手元(吉田直兵衛)両人へ廿石宛当町貞光村ニ於而御売払被仰付、則白米百六拾匁、唯米百五拾五匁ニ而、酉二月廿一日朝より売出し廿五日朝■ニ村役人指出し持参之困窮人共へ売遣シ申候
  但帳合方 次助 銭取 太吉
    兼帯
  升取 角兵衛
(C)
左之通讃州ニ而米六拾石相調之分
一、米弐拾石 百五拾弐匁五分替
  代三貫五拾目 仏生山 野江氏調
一、同拾石 上林 岡次郎
  代壱貫五百三拾目
一、同拾石 仏生山 百合屋相郎
  代壱〆五百四拾八匁三歩
一・同拾石 同村上町 酒屋
  代壱〆五百七拾目
一、同拾石 中村仁三郎
  代壱〆六百目
外ニ六拾目 六拾石分問屋へ口銭
〆九〆三百五拾八匁三歩
   (中略)
(売払い高・口銭・諸入用)
指引弐貫百拾八匁八分八厘 御利潤
 此金弐朱ニ而三拾弐両弐歩ト指上
   さ七匁六分八厘
 右米六拾石酉正月番頭貞兵衛出張ニ而讃州田中村佛生山辺ニ而相調有之何卒当御国へ取寄度様ニ懸合候得共何分讃州表御制道厳布其上百姓共押取ニ相成候事故不得止事御郡代へ相窺三月末出張ニ而四月十日頃■ニ売払石御利潤中嶋御滞留三間勝蔵様へ指上候処大ニ御苦労之旨御賞美ニ預リ安心仕候

 上史料(A)は、天保8年正月、美馬・三好郡の郡代三間勝蔵が、藩内はさることながら脇町筋において米が不足し価格に騰貴を生じ流通上支障をきたしていることを理由に「餘国米(他国米)御買上」げを、脇町・拝原の豪商農吉田・浅野両家に対し公的に命じたものである。この他国米の買上げ移入については、藩制初頭以来「他国米入候義兼而御法度被成候(12)」と密輸入は勿論のこと体制的にも厳禁されていたことは周知の通りである。しかるに天保期におよんで飢饉にともなう困窮人救助を前提として海部郡内等において同4年「此節摂州兵庫表において他国米御買上に相成(中略)其浦村御米蔵に囲置就被仰付浦々廻船磯葉船所持之者彼地へ罷登リ(13)」と、公的に禁制が解かれている。したがって史料(A)にみられる脇町豪商に命じた他国米買上げ策も上の例に並ぶ領主的手段であったといえる。しかしその手段のもつ意味はそれまでの他国米制道の基本方針を単に放棄したということのみにとどまるのではなく、史料後段に表現されるごとく、当時の物価・流通状況を監視しつつ融通すべきことを命じている事実は、領主権力が政策的に豪商農およびその経済力に吸着することにより、崩壊しつつある領主的商品経済の活力回復に一縷ののぞみを托そうという領主政策の矛盾のあらわれであるということができる。
 そして史料(B)は、その他国買上米がいかにして困窮人の手に渡されたかを示すものである。ここでの「村役人指出し」とは村役人の指定する困窮人登録証のごときものと考えられるが、それを持参する者に対し、米1石につき銀160〜155匁で売り渡されたわけであるが、天保8年2月の相場としては決して安いものではなく、むしろ全国市場におけるそれよりも高い価格である(14)。前年同期に比し約2倍の高騰価格である。しかしながら、それでもなおかつ40石の米が僅か5日たらずで売りつくされたということは、当時の脇町およびその周辺地域の経済状況を如実に示しているといえる。これらの事実から、さきの史料(A)に関連して述べたごとく、領主権力は、困窮人たちの米に対する購売欲を誘いかつあおりつつ、米を買い占めさせた豪商農に吸着し、自己の活力回復を策そうとしたことは明らかであるといえる。
 さらに史料(C)は、そのような他国米移入策の実態を暴露したものであるといえる。すなわち脇町豪商によって60石の讃岐米が購入され、藩権力の吸着に応じようとしたものの米制道にあい移入を果し得ず、ついに購入先て売り払われ、その利潤銀2貫118匁余はそっくり郡代の手中に納められた。
 この事実はまさに他国米移入における領主権力の政策的意図を雄弁にものがたっている。
 凶作・飢饉にともなう物価騰貴、そして商品経済に侵蝕をうけた郷町周辺村落、そこに年々生活苦を訴える困窮人の増加、そうした社会情勢の中で領主的危機がいよいよ深化するが、実はその社会情勢の矛盾を領主権力は逆用し、他国米移入という困窮人救助と米穀流通の円滑化を標榜しつつ、豪商農への権力からの吸着を果し、実質的収奪の強化を実現するとともに、あわせて領主的権威の温存をはかろうとする姿勢が、そこには明白に露呈されている。史料(C)の末尾にある「御賞美ニ預リ安心仕候」という他国米移入に従った豪商の認識もまた問題であるが、領主権力への接近により自己の経済力の培養と身分的上昇(15)を果してきたこの期の商業ブルジョアジーのもつ体質をきわめて明確に表現している。そのような体質の中にこそ前述した周辺村方百姓たちからの要求をうけなければならない可能性が潜在していたということができる。
 しかしながら、脇町在郷商人のこれまでみてきたごとき米仲買商人的存在こそが、直接生産者である農民に密着しているがゆえに、在郷の米価を決定しうる権能を有したし、それまでの幕藩制的「全国市場」から分離独立せる在郷の農民的市場を形成しうる市場構造転換の力を有したといえる(16)。そのことは天保期が領内市場構造の転換期たることのゆえんでもあるといえる。
 そうした在郷商人の存在形態は、つぎの「納麦払い下げ」制の動向のなかにも検出することができる。
(三)納米麦の払い下げにおける領主的意図
 「御払米麦」とは、藩の蔵に年貢として一旦収納された米麦が、凶作・飢饉を機に米麦価格の調整と困窮人救助を目的として、領内において払い下げられるというたてまえの制度である。したがって前述の他国米移入策と相通じた側面をもっている。しかし以下に述べるごとくそこに生じる多くの矛盾を考えるとき、他国米移入以上に重大な体制的矛盾を表現するものであるといえる。
 まず脇町を考えるまえに天保4年11月海部郡牟岐浦等において実施された「御払米」の「取扱心得方通達書」の内容をみておこう。それによるとまず浦人達の飯料とすべく、同年秋の年貢米の払い下げを郡中与頭庄屋どもが願い出、1200石が許可せられた。そして払い下げにあたっては当浦に居住するものに限って売渡すこと。米価調整が目的でなく困窮人救恤を目的とするため、売さばきについては、「売人に相渡させ売払」いをさせるが浦の「役人共手自ら取扱候同様相心得」ること。売払い価格については領主より特に指示しておらず「売捌候売人共戸口に米一升に付何匁何分替と相認其浦役人共印形加へはり置可申」として形式的指示にとどまっていること。「売人」においてすでに所有されている売米と区別すべきこと。浦人は飯料を余分に買込んだり、年貢の準備米としてはならないこと。相場により他所より買米に来る者があっても売ってはならない。但し漁船商船で停泊やむなき事情で飯料払底の者へは、御分一所において事情聴取の上、役人が懸合い土地相場をもって売渡してもよい、相場値段によっては可成の利潤が出るが、それは役人が預り置き追てその員数を申し出れば、その節取扱方を指図する。役人より売人への米引渡方は厳格に記帳し不正なきように、売捌方については日々1人前1斗以下とし、その売高・名面を売人店帳に記し置くこと。以上が海部郡で実施された「御払米」売渡しに関する取扱い綱目の概要である。ここで上の海部米の藩内に占める地位および米商人とのかかわりについて立ち入って追究するだけの裏付け史料をもちあわせていないのが残念であるが、上の「御払米取扱心得方通達書写」のなかに示された領主的措置を当時の商品経済の動向と市場構造の転換という局面からとらえ直すとき、そこにはつぎのような領主的危機の実態が浮きぼりされているといいうる。
 すなわち、(1)困窮人救助を目的としつつも、その売払い米価の基準を当時の地相場に求めたことのなかには、明らかに農民から収奪したその年秋の年貢米の貨幣化の意図があること。現物地代の貨幣地代へのすりかえ策であること。
(2)その他相場の決定を「売人」の恣意に委ねていることは、「売人」による農民経済の支配を可能ならしめることにほかならないこと。このことは「御払米」の本来的主旨に逆作用するものであること。
(3)払い下げの対象を当該地の居住人に限るとしつつも、例外規定を設け他地域への売渡しの許容部分を残し、かつその利潤に期待する姿勢があることは上の(1)(2)の傾斜度をいっそう深める意味をもつこと。
(4)売渡し量を1人1日1斗と制限しつつも、買人の買上総量に何らの制限を加えていないことは、領民の経済的格差をいっそう拡大させる必然性をもつこと。
 このように「御払米」そのもののもつ矛盾を指摘するとき、それが領主的商品経済の崩壊過程において領主自らが体制的矛盾の深化と拡大を手伝い、農民的商品経済の領主権力への圧倒的侵蝕を助長する役割りを演ずる結果を招くものであったということができる。天保期全期にわたる農村経済の危機的状況を考えるとき、なおさらに、そこにもたらされる領主的危機は深刻たらざるを得なくなるといわなければならない。したがってこのような領主的危機回避策の矛盾の中から浮び上ってくる豪商農、そしてそれに対置される貧農(半プロ)層との対立関係は、領主的危機が深化すればするほど激化し、それはやがて「世直し状況」醸成の基盤となるのである。
 さて、つぎに前掲「家録」により脇町およびその周辺における「御払麦」実施の状況を検討してみよう。まず史料(18)を掲げる。
(A)
 新御蔵納麦困窮人共へ左之御直段ニ而御払被仰付則近在当リ五石三斗割付左之通
  以手紙貴意然ハ御払麦左之通村々へ割付仕当郷分ハ請取ニ罷出候様村々役人手元へ申遣シ御座候而ハ請取ニ罷成候得ハ引渡方御了簡可被成候、且代銀之義も時々御請取置可被成□へ右之段為被仰付候 如此御座候 以上
 (天保8年)  曾我部半左衛門
   酉三月朔日  住友悦蔵
     郷司直吉
    吉田直兵衛様
 一、壱石九斗弐升 曾江山 一、弐斗壱升 北ノ庄村
 一、五斗弐升 拝原村 一、五斗四升 猪尻村
 一、四斗弐升 脇町 一、壱石五斗七升 岩倉山
 一、四斗四升 岩倉村 一、八升 小嶋村
 一、八升 舞中嶋村 一、五升 三谷村
 一、壱斗七升 穴吹村
  〆五石三斗
 右御払代壱石ニ付銀八拾壱匁
  ニ有之ニ歩相
   同三匁八分四厘 運賃蔵出賃
   同三厘 水主賃
  〆八拾六匁七分六匁
   右直段ニ而代銀御請取可被成候
  右納麦五石三斗
   代四百五拾九匁弐分三厘
(B)
 酉二月廿一日より御売払被仰付当郡折目伊勢蔵・手元両家ニ而廿石宛
  一、米弐拾石
   白米百六十八匁 此代先ニ而□六拾石御買米ニ立用成
    代三〆拾四匁
   唯米百五十五匁
    右委布申上一服慥ニ御払米究有
  一、酉三月廿一日より赤麦 三拾弐俵 困窮人共へ御売払被仰付百七拾六匁がえ但地相場弐百目位
   右同日より売出
  一、稗拾六俵 但地相場七拾目也
     五拾目替へ代
   右代ニ株中嶋へ相送ル 使唯走
(C)
 三月廿五日より晦日■売済
  一、納麦三拾五石 但村役人切符ニ而弐升宛一日二六七百人買人参候
   百拾弐匁九分がへ
    代
   但地相場百六拾目位
(D)
 酉四月十一日売出
  一、納麦廿五石
   百四拾八匁五分 代
   右者酉三月末何分雨天続ニ而当処殊外米麦不自由ニ付五人組■屋安蔵市中へ指遣シ荒井幸次郎聞相及候内、右員数麦四月十一日より林善右衛門・手元両家ニ而売払申候、併当月三日より天気打続快晴仕ニ付出来麦相応ニ宜布人気餘程相寛、赤麦当月五六日■弐百五六匁之処、一日拾匁程宛引下ケ十二日相場百六拾目位
   右ニ付当納麦買人無数ニ付中嶋表御出張之御請持御郡代へ相窺候処成程唯今赤麦引合より高直ニ有之候者引下ケ売遣シ可申筈ニ候得共万一天気模様ニ而直段引上売込店万へ出不申時ハ因窮人迷惑ニ相成申ニ付、先地麦売込沢山ニ有之候得ハ先其儘指置不時之手当ニ可仕旨被仰聞候

 まず上の史料(A)にみられることは、新御蔵に納められた年貢麦を困窮人救助を名目に、脇町周辺の村々に割付け、その売払い方と代銀の収納を与頭庄屋を通じて、豪商吉田家に命じていることである。この史料に関する限りその割付け高そのものは少量ではあるが、ここで指摘できる重要な事実は、「御払麦」が領主権力によって村々に強制的に割付けられ、豪商に2歩(2%)の手数料を支払い売渡しをさせていることである。
 また史料(B)によると、払い米については、前述の他国米同様の売り値で、赤麦・稗は地相場よりやゝ値下げして相当量が売り渡されていることがわかる。たゞこの場合赤麦1石あたりの売り値か白米のそれより高いことは、麦の需要度がきわめて高かったということを示すのみにとどまらず、慢性化した領主の過重な年貢収奪による農民の生活困憊が、この天保期の飢饉を機にこうした異状現象を現出せしめたといえる。そして実はその異状現象こそ前述の海部郡の御払米における領主的意図を脇町およびその周辺において実現・達成しうる格好の社会的条件となったのである。
 史料(C)は、その事実を端的に裏付けている。年貢麦としてすでに領主の手に帰した、35石の納麦が2升宛とはいえ1日に600ないし700人の買い手がつき、6日間にわたってその購入を競ったということは、当然その払い下げ麦さえも絶対量が不足したことをものがたるとともに、この領主的対応がすでに「世直し状況」醸成への政策的役割さえ演じているといえるのである。そしてまた、「村役人切符」を発行し、それによって食糧危機をあおり、かつそれに対する領主的恩情を示威したことは、その払い下げ麦によって地域領民の生活苦が解消へと向かわない限りにおいて、それはかえって領主層およびそれと結ぶ豪商農への反感として逆作用する結果を招いたといわなければならない。
 この「村役人切符」発行の背景には、同年2月の大塩の乱における大塩の救恤手段の領主的模擬の意図がなかったとはいいきれないが、もしその模擬的手段としての性格が与えられるとしても、本来的に権力関係の立場を逆にする村役人の手段であるかぎりにおいて、本質的にはそれは領主権力による救恤のみせかけにすぎなかったのである。したがってさきにも述べてきた、大塩の乱と脇町周辺村落の動向とのかかわりについて、あえてそれを肯定する立場にたつならば、「米切符」による救恤策をみせかけとして先取りした村役人層の領主的手段は、それがあくまでみせかけに過ぎないという本質を暴露せざるを得ない手段であっただけに、かえって脇町周辺の困窮人・貧農・半プロ層の反感を買う結果となり、そのことによって、むしろ大塩の思想と行動の本質は、それら貧農・半プロ層によって正当に継承される結果となったといえる。この屈折した諸状況こそ天保13年の上郡一揆波及時の脇町周辺村落における「世直し状況」形成の重要な波動力となったのである。
 さらに史料(D)をみると、納麦払い下げに対する領主的意図をきわめて明確に読みとることができる。米麦の需給関係および市中相場の変動を監視しつつ、実質的貨幣地代の収奪という「御払米麦」策に仕組みこんだ領主的目的の達成にきわめて意欲的であったことがよく示されている。
 以上、納米麦の払い下げのもつ矛盾を指摘し、そこに示された領主的商品経済の危機の実態を検討してきたが、天保期における領主的危機をいまひとつ表現するものに、救助銀制における体制的矛盾の問題がある。つぎにそれを検討してみよう。
(四)救助銀制と村落支配の危機
 これまで述べてきた他国米移入策および御払米麦制は、いずれも領主権力が米麦の流通機構に直接的に介在することによって、領主経済の危機を回避しようとしたものであった。それに対して救助銀制は、在方豪商農に困窮人救助を名目に拠出させた銀(銀札)をもって右の目的を果そうとしたものである。それらは、ともに領主的危機を表現するという意味においては同質性を帯びるものである。しかし、その危機回避のための手段が、村落支配形態の動向に、より深いかかわりをもっているという意味において救助銀制は、より本質的な体制の矛盾を表現するものであるといえる。
 前掲「家録」によると、天保8年2月段階において、まずつぎのような領主よりの指示が下されている。
 郷分御手代中出郷ニ而郡之豪家併村々相応相暮候者へ困窮人為救金銀或米麦味噌之類御上へ指上村々へ夫々御割付被仰付(19)
 右の指示は前年来の飢饉による困窮人の救助を目的とした領主層の対応を示したものであるが、郡内の豪商農および「相応相暮候者」(実はこの表現が問題なのであるが)より救助銀を拠出させるべく、村ごとに割り付けがおこなわれた事実を知ることができる。
 それに対して吉田家においては
 去ル申節季町内困窮人へ手当遣候、尤町役人方へ指出候
 一、銀百目也
 一、金七両也
 右困窮人為救(天保八年)二月六頃指出候(20)
として拠出に応じている。
 こうして実施された救助銀制は、その後の飢饉の慢性化と、領主的危機の深化にともなう年貢収奪の強化という社会的矛盾が、悪循環することにより、領主による臨時的措置の段階をこえ、領主的危機回避のための恒常的手段としての性格をもつものとなっていたのである。
 つぎに掲げる史料はその事情を端的に示すものといえる。

 天保十一子秋山田五郎左衛門、阿部亀三郎、御役所へ被召寄、去ル申酉凶年下々難渋ニ相及候旨趣、別而五拾年月位ニ風飢饉之振合有之御趣、左候得ハ此後迚も難斗ニ付右飢饉之砌窮民御救助向広キ御下之事故中々指当御行届難被為在ニ付、郷位之者不限何者相応相暮候者□窮民五人七人十人養之積リ御国恩為冥加為指出右御引当被為在候ニ付、於当郡教諭方、手元(吉田)・湯浅源十郎・折目武之丞大久保為三郎・鎌村惣吉へ被仰付、則左之通
  銀札
 一、七百弐拾目 但拾人養 脇町 吉田武之丞
 一、七百四匁 但七人養 同 湯浅乕兵衛
  外ニ金壱両弐分宛
 一、五百四匁 但七人養 同 林源左衛門
  外ニ金壱両宛
 一、五百四匁 但七人養 同 武田伴蔵
 一、五百四匁 但七人養 舞中嶋 佐友九郎右衛門
 一、五百四匁 但七人養 脇町 堤与三郎
 一、弐百拾六匁 但三人養 同 木村高次郎
 一、弐百拾六匁 但三人養 同 吉田卯之丈
 一、七拾弐匁 但壱人養 同 □屋次郎
  外ニ金弐分
 一、七拾弐匁 西口山村 小野寺武左衛門
  外ニ壱両宛
 一、七拾弐匁 脇町 井筒屋新吉
 一、七拾弐匁 同 増井惣三郎
 一、七拾弐匁 舞中嶋村 大塚金太夫
 一、七拾弐匁 同 大塚初五郎
 一、七拾弐匁 三谷村 久保与三左衛門
 一、七拾弐匁 同 仁木幾蔵
 一、七拾弐匁 脇町 嶋屋平助
 一、七拾弐匁 同 上田官兵衛
 一、七拾弐匁 舞中嶋村 住友牧蔵
 一、七拾弐匁 舞中嶋村 貞右衛門
  〆四貫五百丗六匁
   金四両
 一、弐百八拾弐匁 舞中嶋村組合
 一、百七拾四匁 三谷村
 一、三百五拾六匁四分 西口山村
 一、七百廿六匁 脇町
  〆壱〆五百丗八匁四分
 合六貫七拾四匁四分
 右之通四ケ村手元へ取都メ候様被仰付則取約メ子十二月廿三日湯浅源十郎方へ相渡(21)

 この史料にみられる領主層の姿勢には、この天保期の飢饉を契機として、村方領民各層より救助銀を供出させることを常態として定着させようとする意図があり、その実現のために、郡内の最有力豪農層をその「教諭方」として指名したのである。
そこには明らかに豪商農が領主的危機回避のためのテコとなっている実態をみることができる。
 こうした領主的施策は、脇町およびその周辺村落の町人および農民の分解現象の加速度的進行に歯止めをし、近世村落の原型を温存しようとする目的があったことはいうまでもないが、救助銀制が年々恒常化し、それが実質的に領主による年貢収奪体系の一翼をになうという実態をさらけ出すにおよんで、その領主的目的は実効があがらないばかりか、かえって村落の支配形態そのものを危機的状況においこむという役割をさえ演ずるのである。
 つぎの史料は「教諭人」らに救助銀の連年取り立ての催促をした郡代からの指令状である。
 (天保12年)
  八月廿四日着御書覚
 窮民救助銀之儀当年共此節より九月中旬■ニ取都方申付候条諸事昨年取都候節之通相心得無滞取立可指出候、猶元取与頭庄屋へ茂申談程能可遂了簡候 以上
    三間勝蔵
 八月廿日
  貞光村小高取格惣領
   折目和太蔵とのへ
  脇町小高取格惣領
   湯浅源十郎とのへ
  同 壱領壱疋
   吉田武之丞とのへ
  同
   谷幸三郎とのへ
  半田村小高取小家
   大久保為三郎とのへ
  穴吹村先規奉公人
   佐藤安兵衛方へ
 尚以鎌村熊太ニ者其方共より本文之通可申候 以上

 ここに示された重要な事実は、救助銀徴収という名目の新たな収奪の体系が成立しつつあったこととともに、その領主権力による収奪の指示が、村役人層をさしおき豪商農によって形成された「教諭人」に直接おこなわれたということである。
そこには領主権力の豪商農への吸着の実態をみることができる。
 さらにつぎの史料をみてみよう。

救助銀之義拾ケ年之間相納滞有之ニ付兼而規定之通年々取立成人別之通相渡有之事ニ候、然処右出銀人共之内致皆納其段証文被遣候得共子孫相残置度、又身代之盛衰難斗ニ付手許相旋候内後年之分共皆済候得ハ証文被下度願望候者も有之趣ニ相聞候
随而右之類ハ心得宜尤之次第ニ付十ケ年限ニ不相■出銀目皆済成候上ハ我等一統連印ヲ以証文差遣義ニ候条右様相心得夫々申聞方可遂了簡候 以上
   赤川三郎右衛門
 (天保13年)
  寅十二月廿一日 三間勝蔵
   美馬郡中元取与頭庄屋共方へ
    教諭人共 方へ(23)

 これは、救助銀の前納催促に関する郡代からの指令である。さきにもふれたが救助銀を上納するもののうち「豪家」と称されるものは右の「教諭人共」をのぞいて美馬郡内においてはそう多くはなかったことは、前掲史料および後年の調達金関係史料(24)からも明らかである。したがって右の史料にみられるような「後年之分共皆済」を「願望」するものがどれだけあったかは大いに疑問である。それは領主による、「村々相応相暮候者」への収奪の強化策であり、競争的前納を期待する領主的挑発が意図されているといえよう。
 本来的な年貢収奪の体系の崩壊がすでに顕在化するとともに、藩財政の危機にも直面していたこの期の諸状況から推して、救助銀制の実質年貢へのすりかえ、ないしは調達金制への転化を策するものがあったことが理解できる。
 こうした救助銀制は、これまでに述べてきたように領主自らの政策的矛盾をはらみながらも、それが豪商農への吸着関係を維持させる限度内にとどまるかぎり継続されていった。そしてそのことが村落支配の形態を一層変質せしめる条件ともなり、いよいよ体制的危機は深められてゆくのである。
 つぎに掲げる史料は、領主権力が「教諭人」=豪商農に吸着し、執拗に救助銀制による利得を追い求めたことを示すものである。

 其郡中昨年分救助銀今以皆済成不申村方も有之趣随而其方共昨年も申談相勤候通地盤之受持村ニ不■両三人宛不出いたし候者共方へ罷越村人別支配外之無差別親敷懸合、尚懸合向之義人別ニ尚相違候向も可有之ニ付当番与頭へも篤与申談教諭ニ及候上免角不出いたし候者候義ハ右子細委曲書付を以早々可申出候 以上
 (弘化2年)巳四月十三日
   三間勝蔵(25)

 右史料は、前掲史料と同様の五人の「教諭人」にあてられた未納救助銀徴集の督促状であるが、ここに見られるごとく村役人層を中心として維持された近世封建村落の支配秩序が、「教諭人」たちの動向を通して崩されてゆくという現象が生じている。しかもそれは、実質貨幣地代としての性格をもつにいたった救助銀の収納という村落支配の本質にかかわる部分への、「教諭人」=豪商農の介入を許すとともに、彼らは藩制成立以来の「村切り」を前提とする庄屋の在来の支配圏を逸脱した方途によって救助銀の督促を実行しているのである。
 こうした事実をみるとき、本来飢饉による困窮人救助を目的として制度化されていった救助銀制ではあったが、領主の財政的危機と在地豪商農の農民的商品経済支配力の拡大を背景として、それは実質的には体制的矛盾をますます深刻化せしめる要因としての役割を果すことに結果しているということができる。
(五)「上郡一揆」と脇町周辺の動向
 これまでに述べてきたように、天保期における領主的危機回避のための数々の手だても、結局は領主自らの体制的矛盾を拡大・深化せしめる施策としての意味しかもたないものとなった。しかもそのことは同時に、大多数の領民にとっては階級的利害関係の重大な矛盾を意識させることとなり、やがてそこに反封建的民衆闘争を展開させる素地が逐次形成されていったのである。
 そして天保12年から翌13年にかけておこったいわゆる「上郡一揆」は、まさに徳島藩における反封建闘争の典型としての性格をもつものであった。
 この一揆は、三好郡山城谷の農民631名が、藩の煙草の専売制における階級的矛盾と、指紙相場の暴騰に抵抗し、伊予今治領へ越境逃散したことにはじまるのであるが、これがやがて武装蜂起に発展し、またその後急速に連鎖反応を呼びおこし、三好・美馬・阿波・麻植の各郡に波及し吉野川上・中流沿岸一帯を席捲した。
 この上郡一揆は、藩の専売制の末端役人としての組頭庄屋が襲撃されたこと、高利貸・酒屋などの豪商が打ちこわしの対象になったこと、稲田家の貢租徴収などに当たっていた山奉行などが打ちこわし寸前の状態にたたされたこと、太刀野山・加茂山・重清村など山間部から一揆が発生したこと、一揆の鎮圧のために派遣された藩役人と正面から対決したこと、徳島城下まで押し出そうとする動きがみられたこと、などの特質をもっていたことが指摘される(26)。それは後進的な山間農民の、煙草栽培などの商業的農業展開の過程で、急速な商人資本による収奪と、藩からの小商品生産農民の再生産を否定する全剰余収奮的農政への反抗として激発した。もはや寛政期以前に多発する狭少地域の闘争形態、すなわち、山間農民を圧迫していた共同体的規制をゆるがせた村方騒動のワクを越えて、広範な階級闘争一藩の流通統制の末端に位置する豪農=高利貸資本を主敵として、壮大な打ちこわし一揆が戦われたのであった。
 「上郡一揆」については、すでに多くの紹介がおこなわれている(27)ので、ここでは詳しく立ち入ることはさけ、当時の脇町および周辺における動向をとらえた史料を中心に、体制的矛盾の帰結するところを考えていきたい。
(A)
 (天保13年正月)十一日美馬郡重清村郡里村両山百姓共御給人九郎兵衛様御給知所年貢下ケ之義に付訴訟ケ間敷騒立候得共押御役人御出張早々相謐り候由、其外毛田山北山半田山岩倉曾江山等少々宛浮立、然処廿一日夜重清山里再発百姓八百人斗浮立鐘太鼓竹貝をならし同村庄屋河野文平方へ押行居宅土蔵等打潰夫より惣勢同村九郎兵衛様御家来山方奉行城松五郎方へ押行少々相潰候処へ御郡代高木真蔵様其外御役人御取押被成候而御利害被仰付相治リ申候、又廿二日夜郡里山百姓共右村之宮へ相揃同村御取立人郡文兵衛五人与中与頭庄屋曾我部道右衛門を目当打潰可申旨に而相揃候処是も真蔵様御取押に而先相謐リ申候(中略)
右之懸リ美馬三好両郡蜂起仕候訳は近年御年貢米麦上納指掛高直其上御給人様方御取立向も右に准し其上諸種之其取究厳敷御運上別而煙草杯は昨年御取究に成犇と難渋候由相聞へ右与頭庄屋五人之者共煙草御取行惣裁判之名目に而御国中一牧迷惑候唱セ候不相弁義に候(28)
(B)
山城谷百姓共寅正月三日之夜より再応騒動仕出候ニ付、同四日七ツ時徳嶋へ御注進仕候飛脚之者罷通候 翌五日七ツ時御手代舞中嶋村御通被成候砌当町(脇町)役人共へ罷越候様御申遣ニ付、同六日之夜五ツ時脇町発足仕候、松村仲助・脇源左衛門・寺田政蔵・武田叶助・石井浅蔵併郷鉄炮吉田宇之丈・尾関亀五郎・長岡民右衛門・増田五郎右衛門、翌六日之五ツ時池田村へ着仕候而北嶋屋文兵衛方ニ而旅宿故御手代旅宿松屋栄太郎其砌御手代竹内栃之丈殿・諏訪理久郎殿・岡助七殿右三人相窺候所先旅宿ニ相扣候様被仰聞候事
三間勝蔵様暮六ツ時池田村へ御入込被遊候内加茂山より百姓共相起候様申ニ付一統御陣屋へ相詰居申候
然所追々御注進罷越候五番手之御注進中野庄村より二タ手ニ相成下へ押テ参リ候様御注進申出候ニ付一番二番三番之おさへ役人御指出被成候
   江口出張役人
    脇源左衛門
    桑原藤右衛門
    賀川秀之丞
    折目茂八
     道右衛門
 此者半田村へ即刻罷帰リ申候
    折目嘉兵衛
    篠原茂三郎
  半田村へ罷帰申候
 此者義ハ半田山百姓共も寄合仕候様之御注進ニ茂三郎召仕弐人早馬ニ而炭焼辺■罷越候ニ付直様右山へ罷帰居申候(29)(後略)
(C)
  覚(30)
 当春一件之節相勤候運委曲申上候様被仰付候御趣左ニ相印申上候
 一、正月騒々敷砌、早速参上可仕処忌中ニ罷在相扣居申候内、加茂村乱妨之様子承知仕、同九日忰卯三郎池田御陣屋■参上仕奉伺上、翌日御暇被仰付罷帰申候
 一、当町割場脇康左衛門・野崎増蔵相勤居申ニ付、私共乍忌中右場処■罷出色々申談候儀ニ御座候
 一、二月五日、高木真蔵様郡里村安楽寺御出張処より御呼懸被仰付候処、其節病気ニ罷在候、忰卯三郎参上仕御場処詰被仰付日数五日相勤御暇被仰付帰宅仕候右之通勤方相印御座候間可然様御認上可被下候 以上
   寅十一月晦日 吉田武之丞
  尾形徳十郎様
  郷司直蔵様
  曾我部道右衛門様

 以上の史料は当時の情勢の一端をとらえるにすぎないが、これらによっても脇町およびその周辺地域において、すでに封建村落の支配構造が破綻し、階級的矛盾の激化が打ちこわしをともなう反封建闘争にまで高められるいわゆる「世直し状況」が一般化していたことが知られる。それらは単に山城谷一揆の波及ということのみにとどまるものではなく、史料(A)にも表現されているごとく、領主層の財政難とそれを克服すべくとられた貧農(半プロ)層への収奪の強化と圧政、そして領主的商品経済の破局からくる小商品生産者への経済的重圧が、体制の基礎構造そのものを解体寸前にまで追い込んでいたことを物語るものである。また史料(B)が示すごとく、上郡一揆の端緒となった山城谷一揆を鎮圧すべくかり出されたはずの脇町およびその周辺地域の村役人層が、自らの支配村落の不穏なる形勢を知らされ、とんぼ返りに帰村したという事実は、天保13年この期の脇町周辺地域の一般的状況を端的にとらえているといえる。さらに史料(C)は、豪商吉田家の対応の状況を伝えるものであるが、そこには領主的側面が表現されつつも、あくまで情勢認識に敏感な特権的在郷商人としての対応姿勢がうかがわれる。この対応ぶりは、前項までに述べてきた領主的危機回避策への対応ぶりにまさに照応しているといえる。
 いずれにせよ、こうして吉野川中・上流域一帯を席捲した「上郡一揆」は、徳島藩の領主的支配構造をその根底からゆさぶることとなったのである。しかしこの、「世直し状況」が、ただちに吉野川下流域の藍作地帯および南方米作地帯にまで及び得なかったことは、幕末・維新期徳島藩の全体像を規定する上での重大な特質となった。そのことの理由を解き明かすことは、徳島藩明治維新史構築に課せられた最大の課題であるといえる。


(1)前掲「日本経済史論」参照
(2)松本博「徳島藩幕末・維新史の研究」参照
(3)池田敬正「天保改革論」(「講座日本史」4・幕藩制社会 所収論文)参照
(4)吉田家文書「家録」の記録による。
(5)「阿波藩民政資料」参照
(6)中沢弁次郎編「日本米価変動史」参照
(7)(8)前掲「家録」
(9)大塩平八郎の出身地について論じたものに、たとえば「洗心洞剳記」(岩披文庫・山田準訳註)、「大塩平八郎伝」(石崎東国著)などがあるが、いずれも阿波国美馬郡脇町(岩倉村字新町)説を否定している。筆者自身もそれらに同調するものであるが、ただし稲田家の臣真鍋氏を通して、脇町と大塩平八郎との間には何らかの交流があったことは否定されるべきでないと考える。
(10)たとえば武田家文書「御触控」(徳島県立図書館蔵)参照
(11)(A)・(B)・(C)ともに前掲「家録」
(12)「阿波藩民政資料」1036〜38頁
(13)同右 422頁
(14)前掲「日本米価変動史」参照
(15)前掲「家録」によると、吉田家は屋号「佐河屋」を称して寛政4年脇町において藍玉・米麦の仕入販売を中心とする商業を始め、たびたびの冥加金の上納により、享和元年宗門別帳二字帯刀無役人を仰せつけられ、文化7年には五人組役となり、天保元年にいたって壱領壱疋の身居を獲得している。
(16)畿内の摂津地域でも、18世紀後半には農民余剰の小量取引から出発した在郷の米仲買商人の活躍がめざましいことが検出されており、また18世紀朱からは多くの在郷商人が都市商人を圧倒して郷払米の取引に進出している数多くの事例がみられる。前掲「日本経済史論」203頁参照
(17)「阿波藩民政資料」420〜423頁
(18)(A)・(B)・(C)・(D)ともに前掲「家録」
(19)・(20)・(21)・(22)・(23)同右「家録」
(24)「南北郡々調達金員数相都帳(安政6年2月)」(徳島県立図書館所蔵復製文書)参照
(25)前掲「家録」
(26)三好昭一郎「阿波の百姓一揆」参照
(27)前掲「阿波藩民政資料」・「阿波の百姓一揆」その他「山城谷村史」など関係郡町村史参照
(28)前掲「阿波藩民政資料」333〜334頁
(29)脇家文書「天保十三寅年・三好郡百姓正月六日之夜騒動仕候筆記」
(30)前掲「家録」

第3部
  明治維新と猪尻侍
 幕末・維新期の徳島藩について、その政治的動向を明確に把握しようとする場合藩内における武士層の維新への対応の仕方が多岐に分かれていただけに、それを評価するにあたっては可成り困難な問題点が内包されているといえる。しかしそれゆえに、その内包された問題点にこそもっとも注目しなければならないといえる(1)。
 具体的には、徳島藩士と稲田家臣、藩士内の上層と下層、稲田家臣の上層(洲本居住)と下層(猪尻侍)という具合に、それぞれの間には、質的に相当大きな差異が認められる。
 本稿ではそのうち猪尻侍について検討を加えたいと思うが、まず猪尻侍で注目しなくてはならないことは、在村的性格がきわめて強いということであり、その多くのものが、農業経営を基礎とした存在形態を示していることである。これは「稲田家御家中筋目書」などの史料で明らかであるが、天保13年(1842)の家臣866人のうち、約76パーセントに当る659人が先規奉公人(百姓身分)から上昇したものであることからも理解できるところである(2)。
 さて前項でみた上郡一揆は、美馬・三好という稲田家の給地を含む広範な山間地帯(藩の経済的後進地)で発生したはげしい打ちこわしであった。とくにこの一揆は、稲田家の在地家臣である猪尻侍、ひいては稲田家の動向に大きな影響を与えたのみでなく、その動向は明治3年に発生した庚午事変と称する藩内騒擾事件の遠因ともなった。そしてまたこの事件は近代徳島県の後進性を運命づけた要因ともなったものであり、歴史的にきわめて重要な研究課題である(3)。
 この打ちこわし一揆が、山間零細農民による猪尻侍への抵抗ともなったことについては、すでに一部に論証されている(4)ことでもあるので、ここでは捨象するが、それに加えて外圧のインパクトが、猪尻志士層の形成と、稲田家の討幕派としての行動とを決定づけた意味は実に大きいものがある。
 藩は文久3年(1863)正月に、稲田九郎兵衛に宛てて「淡州者皇国之要地ニ候間、攘夷御一決ニ付而者、尚更警衛厳重ニ相整候様被思召候、同州防禦之儀者兼而稲田九郎兵衛被申付置候趣尠又厚ク相心得、守備充実候様専尽力可有之候、且爰元御警衛之儀も周旋有之候様被申付候様、内々御沙汰之事(5)(下略)」と命じているように、徳島藩の海防策を淡路については稲田家に分担させている。
 こうして稲田家は、淡路の海防のために、洲本居住の武士団だけでは賄いきれず猪尻侍が交代で警備の任に就いたし、それだけではなく給地の先規奉公人を譜代家来に上昇させて、絶対数を補完するとともに、冥加銀などを取って武士身分を与えている。稲田家のこうした家臣層の補充は、すでに藩政中期以降の伝統的政策であるが、それは給地における農村分解と、稲田家の財政窮乏とそれにともなう家政改革の一環として実施されたものであることを十分に考慮しなくてはなるまい。
 いずれにしても、猪尻侍の指導的立場にあった尾方長栄、南薫風、先川牧之進らをはじめ、赤報隊の支隊を率いて飛騨の高山陣屋に君臨した竹沢寛三郎(新田邦光)なども、上郡一揆、淡路海岸防備などの客観情勢の大きな変化と、稲田家のそれへの対応という体験のなかから、社会変革への思想的成長が見られるのであって、徳島藩明治維新史の研究にとって欠くことのできない緊要の課題となっている。

蓁原家文書
 脇町拝原の蓁原家文書は、こうした課題を追究するためには、不可欠の史料である。同家文書は数千点におよび、ごく一部のものを除いて未公開のものである。
 蓁原家は幕末まで先川姓を名のり、広範な農業経営をしており、豪農的側面をもちつつ稲田氏の側近として、その財政的パトロンとなり、また猪尻侍たちの指導的立場にあり幕末・維新には征東軍・高松征討にも兵員を引率して従軍し積極的役割を演じた。したがって同家文書には、徳島藩の事大主義的藩士層(それは多分に日和見主義であった)とはおよそ異質な猪尻侍の動向が記録されている。
そのうち南薫風が先川牧之進にあてた書翰の検討を通して、その概要をつぎに述べてみよう。
南薫風
 彼は天保7年(1836)美馬郡拝原村に生まれ、その家系は代々稲田家家臣であった。安政年間に工藤剛太郎・尾形長栄とともに京都に上り志士と交わり、後に江戸に出て幕末の時局の動向を観察した。そして元治元年(1864)禁門の変の後、稲田植誠に勧めて勤王を唱えしめた。慶応年中、京都で新選組に捕縛されたこともある。さらに後、戊辰戦争においては西宮表に出兵、高松征討に従軍、征東に際しては鷲尾氏の護衛を勤めた。また維新後は政府に出仕したがやがて帰郷、西南戦争に際しては立木兼善らと阿淡両国の義勇兵を募るなどした(6)。
書翰にみる猪尻侍
 南薫風は、幕末に京師探索を仰せつけられ、洲本派の内藤彌兵衛と同道して「東西江奔走」し、広範に志士と交わり情報を収集している。そして薩長土芸因備宇和島越前の諸藩の兵および各藩脱藩浪士の決起討幕の動きを察知するとともに、談判の志士よりは「御家(稲田家)も早々御人数御差出被成度事」と稲田隊の出兵を要請されるにいたっている。それは稲田氏への討幕派としての要請であるとともに、稲田氏が城代職を勤める「淡州之所ハ皇国咽喉之地」という政治地理的条件に対する攘夷実行への軍事的要請でもあった。そこには徳島藩内における稲田氏の異質性に期待されるものがあったといえよう。したがって「若本藩之嫌疑有之候得者弓引之外無之」として強引に出兵をせまられたのであり、「詰方人数差登報国赤心相顕他藩へ取結事肝要ニ候」という要請にいたっては南薫風の予期するところ以上の急進的勤王派として期待されたことが知られる。
 これに対して南薫風は、「於私共者難心得儀共存候」と即答を避けたが、一方同道の内藤彌兵衛は「鷲尾殿ヲ始某々ニも示談且須本ニ而申談之廉も御座候間御人数為差登帰国仕候様申聞候」と要請を受け入れる姿勢を示した。
 南薫風は探索の結果から、この時点での挙兵討幕の可能性を論じている。
 すなわち、「於今人望御失之幕府ニ候得共暴策堂上浮浪之術中ニ而一時幕滅勝算無覚束奉存候、根元今ニも開兵瓦解之様申者近頃浪人者之口癖ニ而」と軽挙盲動を戒め、かつ「談判之諸候ニ統御之無諸候鷲尾殿ニ者未タ奉謁候得共是も数万之人数指押之御方トハ不奉存、軍ニ無盟主無将師議(ママ)拳致し勝算者無之」として討幕派不統一、機運の熟さざるを理由に稲田隊の出兵には時期尚早論を展開している。
 もちろんこの南薫風の状況分析には、上記の理由のほかに、本藩の政治姿勢との対立事情、さらには洲本派の動向にも多分に懸念するところがあったことは否めない。すなわち、洲本在住の主家(稲田家)を慮り、「御幼君(稲田邦植)様之御儀故暫御城代御断被仰上、猪尻表江御引取被遊五・七年之間練兵積財」をなすべきことを告げるとともに、これらの建言は、稲田家の「興廃ニ相■大事言上仕万々一他ハ申■も無之御家中内(本藩直臣)へ相洩候而者内変之端共相成候」とあくまで密議として「死罪者覚悟」の上で述べられたものであったことからも推論できる。
 こうした情勢認識のもと諸般の画策を通して、猪尻侍はやがて積極的対応をめざしたのであるが、これ以後においても猪尻侍の前には前述した本藩上層家臣層との異質性および洲本派との対応姿勢の差異等からくる対立的問題が横たわっていた。そのうちの具体的事実を、南薫風の書翰の中から捨い上げてみるとつぎのごとくである(7)。
 1  武士帰農論の立場に立ち、「一町か二町之田ニ生ヲ領ケ候様相運可然奉存候」
と述べていること。(洲本派はあくまで士族昇格を望んだ(8)。)
 2  稲田家の給地を猪尻と洲本に二分し、猪尻派の結束をより強固ならしめようとする強い意志を示していること。(洲本派は「稲田藩」の分藩独立を企図した(9)。)
 3  給地を猪尻と洲本に二分するにあたり「正邪曲直ヲ正シ無用人門閥論を取置キ其御役ニ可立者斗リヲ御登庸相成候様」と旧弊門閥を打破し、人材登用主義を提唱していること。(洲本派高禄陪臣層の守旧的姿勢とは対立する見解である。)
 4  藩内の日和見主義に訣別し、「今日難有朝命ヲ相蒙リ候得者早々力ヲ尽シ奏功ヲ遂御家禄も不遠内返上被遊程之御功不相立者満天下之人ニ対シ何ト申分ヲ相立候哉」として旧体制の温存を拒否していること。(本藩上層家臣の事大主義的感覚とは真向うから対立する見解である(10)。)
 5  その他、長州奇兵隊の動向およびそれらに対する風説と時局回転の客観情勢の把握に目敏いものがあり、また戊辰戦争時において猪尻派の鉄砲購入に関する情報を流すなど、すくなくとも本藩上層家臣に比し、主体的に対応し得る姿勢の確立がみられること。

 以上は、厖大な蓁原家文書のうち、南薫風の書翰の解読を通して検出された断片的見解であり、それらは未開部分の多い徳島藩幕末・維新史のほんの一部を堀りおこしたに過ぎない。蓁原家文書の中には、尾形長栄をはじめとする志士たちの書翰が多い。それらの解読と相互の比較・検討は、わたしたちの今後に課せられたきわめて重要な課題である(11)。
 また同時に、それらにみられる藩内武士諸階層の維新変革への対応状況の原点を明確に把握するために、その基礎構造たる稲田氏の給地に分析のメスを入れなければならないこともまた当然である。しかし目下のところ時間的制約もあって、本稿にその問題点を具体的に提示できないことは何としても残念なことであるが、いずれ稿を改めて、それらの分析事例を発表できる日もあろう。大方のご叱正を得られるならば望外のよろこびである。


(1)徳島地方史研究会編「史窓」第3号所収の松本博・三好昭一郎の両者による誌上討論「徳島藩明治維新史の評価をめぐって」を参照されたい。
(2)三好昭一郎「徳島藩における稲田家陪臣団の存在形態―美馬郡猪尻侍を中心として―」(「史窓」第3号所収)・猪井達雄編著「稲田家御家中筋目書」参照
(3)かって発表した松本博の論稿「蜂須賀藩にかける庚午事変稲田騒動とその諸環境」(「日本歴史」第175号所収)はこの課題にアプローチしたものであるが、その後、前掲「史窓」第3号の紙上討論等において新たな問題提起がおこなわれ、その再検討を追られるにいたった。本稿はその意味で共同討議を経て右の論稿のもつ限界を克服すべく取り組んでいるその成果の一部である。
(4)三好昭一郎「幕末阿波の政治状況―討幕派の形成をめぐって―」(「史窓」第2号所収)及び前掲三好論文参照
(5)蓁原家文書
(6)飯田義資「徳島県政治経済史上の人」(「誇りの阿波路―人物篇―」)参照
(7)いずれも蓁原家文書による。
(8)・(9)・(10)庚午事変関係公文書参照
(11)松本博「徳島藩幕末・維新史の研究」参照。同家文書の一部を紹介しているので参考にされたい。

参考資料
(表1)脇町の町屋構成
町人 136軒
商人 27
日用人 21
紺屋 5
髪結い 2
大工 2
鍛治 1
瓦焼 1
医師 1
百姓 1
浪人 1
待 6
奉公人 22
行き 1
年寄 4
五人組 5
寺 5
山伏 1
不明 22
合計 264
(注)延宝2年(1674)「美馬郡之内脇町棟付人改御帳」(脇町役場蔵)による。


脇町全戸数 264軒
 「売家」 222軒(その内「借屋」36軒)
 「小家」 15軒
 「一壱家」 27軒
 その内、他所よりの移入戸数82軒(移入率31%)
(注)1.美馬郡の項、カッコ内は「奉公人」で「当村百姓ニ被仰付」とある。
 2.棟付帳の「家数都合」は237軒とあるが、同居の「一壱人」も一軒として計算した。
 3.延宝2年「美馬郡之内脇町棟付人改御帳」(脇町役場蔵)による。

<付記>
 このたびの学術調査にあたり、脇町教育委員会・蓁原源一氏・脇吉人氏・吉田泰雄氏には、史料提供の上でことのほかお世話になったことを記して感謝の意を表する次第である。また県立図書館阿波学会事務局の方々には手続上のことで多大のご迷惑をおかけしたことを深くお詑び申しあげたい。


徳島県立図書館