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目次
はしがき
1 脇町の概観
2 交通網の発達
3 脇町の商業的機能
(1)中心街の生活圏
(2)商店街の現状
(3)脇町の商圏
4 地域的変化
まとめ
はしがき
都市集落で最小のものは町である。町は農村地域の中にあって、農村集落に対するサービス機能を発揮する集落で一般に商業機能が卓越し、商業地区が存在している。この商業地区の存在が村落と区別される最大の理由である。町は地域に密着ししているから土着性が強く、それゆえ町は
Local Town
であり、地方町(ジカタマチ)とも呼ばれている。また「郷村集落」(1
)という呼び名が与えられたこともある。すなわち、町には背後の地域の特性が強く表現されてくるのである。町では人と人、人と集団、集団と集団の接触があり、人々の日常生活の中で、最も大衆的かつデイリーな買物行為が行われる。買物行為は主として商業核で行われるが、商業核は商圏と商店規模の大小によって顧客吸引力に差異を生ずる。買物行為にはムードを買う行為も含まれ、これが満たされる商業核ほど活気があり、吸引力があり、商圏は広域となっている。
我々は地方町の商店街“脇町”を対象として商業機能を調査するわけであるが、ここは昔から商業の盛んな地域であり、一応商業核も形成されている。しかし、近年交通網の発達により、旧脇町に集中していた商業、行政機能が散在性を見せはじめ、それに伴って商業機能の内容も複雑な変化を見せはじめている地域でもある。このような脇町周辺の生活圏、商圏等を調査し、脇町のもつ特性を考察してみたい。
1 脇町の概観
すでに述べたように、町はその地方を集約した顔である。その地方の産業構成、成立の諸条件、発達史、風土性などによっていろいろのタイプが考えられよう。脇町の歴史については他学会の研究におまかせすることとして省略するが、ここは吉野川中流域に位置し、阿讃山脈に接した農村地帯である。北は香川県に隣接し、面積110平方キロメートルで県下46ケ町村のうち、日和佐町に次ぐ10番目の広さを有している。戦国の昔から城下町として繁栄した性格上、その色彩が強く残存しているが、特に商業面から見た場合、阿波藩主蜂須賀家政の家老稲田稙之が城主として入城して以来、商業を奨励した為に交易も盛んとなり、遠く讃岐、備前などからも商人の往来が絶えなかったといわれる。以来、地の利を得て廃藩置県後も美馬郡役所が置かれ、美馬郡東部の政治の中心地として、また経済的にも「藍」の集散地から「養蚕」の町へと変貌し、商業面でも西阿の中心地として繁栄した。昭和33年には脇、江原、岩倉3町が合併し、新脇町となり今日に至っている。
次に商業機能を見る場合、マーケット・インデックス(marketing
indica-tors)として人口、所得、産業等がおおよその特徴をとらえるのに便利とされているが、脇町の商業機能を見ていく上で、まずこれらについて概観してみることとする。
1 人口の増減
脇町の人口は現在19,096人で県下の2.4%を占め、人口密度は173人となっている。図1により年次別変化を見ると戦後のベビー・ブームを頂点に男女とも急激に減少傾向を見せており、昭和45年以降、戦前以下となっている。一方世帯数は人口の滅少にもかかわらず、維持ないし漸次増加の傾向を見せて除々にではあるが核家族化を示している。昭和30年を100とした場合、昭和45年の人口伸率は80.0、一方世帯数伸率は101.8がこれを裏付けており、今後もこの傾向は進行するものと考えられる。人口の減少を分析して見ると、図2で明らかなように、同じ減少を示す美馬郡全体と比較すると脇町の場合はそれほどでもないが生産年令人口(15〜64才)が大量に流出する典型的な農村型を示している。しかし、これも昭和35年の73.1、同40年の61.9、同45年の53.5と生産年令人口比が次第に若返りの数字を示していることは注目されよう。だが20〜40才の滅少は児童、生徒数の滅少にも反映し、今後人口減少が続くことを示している。社会移動では昭和43年を契機に転出が減少し、昭和45年には42年の5分の1以下の減少率となっている。
昭和44年、人口減少の歯止めとして江原、脇町、岩倉の三地区に一工場ずつの工場誘致に成功して以来、県外に就職していた若年労働者が帰郷して、これらの工場に再就職する例も多く見られる。この点で工場誘致は大きなカンフル剤になっている。しかし、これら三工場のうち二工場はほとんど女子の職場であり、生産年令人口で女子が男子よりも1,031人も多い女の町となっていることは、脇町にとって一つの問題点といえよう。

 
2 産業
産業別人口構成を見ると第一次産業の占める割合は毎年減少している。そして、第三次産業が大幅に増加の傾向にある。
しかし、1970年の第一次産業の占める割合は県下全体では31%、鴨島町では27%などに対し、脇町は46%とこれを上回っている。これらのほとんどは農業従事者であるが、農家総数2,756世帯のうち専業農家は15.5%で大半が兼業農家となっている。
経営規模では、1町以下が全体の69.3%、1〜1、5町が19.7%、1.5町以上11.0%で7割までが1町未満の耕地所有者である。
 
図5の土地利用率では、1960年以来、水田が増加して畑地が減少しつつあり、また二毛田が激減して一毛田が多くなっている。
主要作物では、米作が主力で麦類が後退という一般的パターンを示している。一方、樹園地は増加傾向にあり、これはブドウ、うめなどの増加によるが、ミカンは横ばい、カキは大幅に減少している。さらに一部宅地化、道路化が進み、総利用面積も1960年以来377ha減少している。農業以外では、特に有望な産業も見られないが、表1.によると、それまで総数で50余であった製造事業所数が昭和45年度には64に増加している。この中には皮革、ネジ、電気器具を扱う誘致三大工場も含まれており、それぞれ大きな労働力を吸収しているのに対して、脇町に存在するかつての有力製糸会社が本年3月末まで閉鎖されたが、脇町が養蚕の町として栄えた象徴であっただけに今昔の感がある。

2 交通網の発達
商店街の盛衰は主として交通機関に左右される。特に脇町では顕著にこのことが実証されている。幕末(文政時代)の絵図で見ると町筋は大体できており、明治、大正時代とほぼ変わらない。明治時代までは南町と本町に商店街が多く富豪もこの地区に集中していたようである。南町は上下の街道からはずれていたが、当時貨物の運搬はほとんど船に頼り、人の往来も川船に便乗していたので、吉野川に近い南町が商店街として発達したのは当然である。この繁栄を支えた川船には脇町渡船(A点)・猪尻渡船(B点)の二つがあった。前者は二隻の船が大正初年まで使用されたが、大正7年から岡田式渡船に切変えられ、以後は次第に交通機関の主力から遠ざかり、潜水橋の完成によって姿を消した。後者も盛んに利用されたが、明治31年5月、議会の決定により、一足早く廃止された。昔はどこでも廃船を利用して土蔵の腰張りにした、いわゆる舟板壁が到るところに見られたが、現在も突抜町に往時の名残りを留めている。この川船の後退をもたらした原因は大正3年、鉄道が船戸―池田間に延長敷設されたことと道路網の発達である。

大正2年、現在の穴吹橋北詰―天王下―脇町線が脇町街道として改修されており、穴吹駅と脇町が結ばれることになった。これに拍車をかけるように昭和3年には穴吹橋が完成し、脇町ではこの前年中央橋が架設され(明治19年ごろから存在し、北橋と呼ばれていた)、さらに南橋が昭和8年、北橋も昭和29年には架設された。大正8年以降、自動車の発達により交通機関の革命がもたらされ、それに並行して商店は漸次街道沿線に集まり、南町は商業の中心地から離れてゆく。その後、県道鳴門―池田線(昭和29年)、多和―脇町線(同)が完成し、国道徳島―高松線も昭和32年舗装された。現在脇町は道路網が再整備されつつあり、特に江原地区、岩倉地区ではバイパス建設の進行、対岸では新しい穴吹橋架橋問題が調査段階に入るなど中心部と周辺部を結ぶ交通機関や道路の発達は地域住民の生活様式や社会意識の面での近代化をも引きおこすこととなり(2
)旧脇町の商店街は残された自らのバイバス問題と共に、経営感覚を問われる時期である。
 
以上、脇町の産業、交通の変化等を述べてきたが、商業機能を生活と商圏の両面から考察することとする。ここでは、脇町のサービス(機能)の及ぶ範囲を調査するのであるが、アンケートを実施して地域住民の考え方、また反応の仕方を検討してみよう。
3 脇町の商業的機能
(1)中心街の生活圏
(イ)誘致三大企業を通して
図7は脇町内に誘致された松下寿電子工業K.K. 八代商事K.K.
ミナト工業K.K.
の従業員数を出身町村別に表わしたものであるが、全従業員の約50%にあたる556人が脇町の出身である。過疎化のすすむ美馬郡各町村にあって、脇町は昭和44年これら三大企業の誘致以来、人口滅少を持ち直しつつある。これは脇町が過疎町村としての指定をまぬがれ、「人口を減さない行政」をモットーに地場産業を含めた職場の開拓に力を入れた成果であろう。また隣接の阿波、美馬、穴吹、山川の各町からの通勤者も多く、全体の41%を占めている。それに比して貞光町、半田町は併せても10%未満にとどまっている。次に男女比を考えて見た時、従業員の80%近くが女子であることも注目されよう。これは企業の業種形態の多くが女子の繊細な手先を必要とするものであり、必然の結果である。表2では30才未満の従業員が全体の70%強となっており、しかも21〜25才の年令層が男女共全体の40%を占めている。このことは若干労働者の職場に不足する県西部にあって企業の発展と共に地元脇町にとっても活気を与えている。企業の誘致は公害等の関連もあって難しい情勢にあり、一概に言えないが、江原地区の清水にも仏壇工場が進出し、操業を間近にひかえて労働力を吸収するなど、脇町の場合これらの企業は生活圏から見た時、大きな勢力を持っているということができよう。
  
(ロ)病院の利用を通して
さらに病院の利用によって生活圏を見てみた。「あなたの家では入院するぐらいの重い病気の時、主にどこの病院に行きますか」という設問に対して、図8のような結果となった。すなわち、脇町では68%の家庭が地元の病院(医院)を利用している。脇町には病院数も美馬郡の他町村に比べて多く、その診療内容も多岐にわたっている等が穴吹町の40%近くを勢力圏としている理由でもあろう。なお、ここで注目すべき点は総合病院を持つ半田町が郡西部に強い勢力を持っていることである。進んだ医療器械、診療科目の多い総合病院の優位性があらわれている。地元半田町の92%は別としても、辺地一宇村の50%、比較的病院の多い貞光町でさえ25%の利用率となっている。また美馬町も青石潜水橋やさらに完成によって半田町との往来が容易になったことと相まって約40%の家庭が半田町の病院を利用している。したがって郡内においては病院・医院の多い脇町と総合病院をもつ半田町が二大生活圏を形成しており、脇町民にとっては地元、次いで徳島市内の病院を利用していることが明らかとなっている。


(ハ)意識を通して
この調査は意識的に現在はどの町村と最も関係が深いか、また以前にはどの町村との関係が深かったかをアンケート調査したものである。図9、10の両図を比較してみると、橋のなかった頃の吉野川南岸の住民と北岸の住民との関係はそれほどでなく、吉野川を挾んで交通が遮断されていたため関係が余りなかったと意識している者が多く、いわば川の流れに並行した結びつきを意識している。吉野川南岸においては半田町と貞光町とは非常に近い距離であること、一宇村と貞光町では貞光町を経ずして鉄道沿線に出られないという点から今も昔も深い関係がある。現在美馬橋をはじめ、数多くの潜水橋ができ、南岸と北岸の往来が容易になった。その点で変化の顕著なのは美馬町である。以前と比べて脇町との関係が非常に弱くなり、脇町の生活圏から離れつつある。しかし阿波町は現在も結びつきを強く意識している。
これらのことから美馬郡は住民意識の中に貞光町を中心として美馬町、一宇村の西部4町村と脇町、穴吹町の昔から深い意識をもつ東部2町と阿波町を併せた生活圏があることが窺える。なお穴吹町、貞光町の関係が余り見られないのは距離的問題(鉄道でも江口―半田間に次いで長い)や、国道192号線の未整備などが大きな原因であろう。
本調査においては変化の理由は自由記述形式をとったため無記入の者も多く、「以前」という概念もかなりの幅があるが、結びつきが変った理由としては、架橋、バス・鉄道の便、道路の整備等交通事情をあげる者が多く、現在と以前という区分をこれらの要素で区分している者が多かった。次いで町の発展、商店が多い、品物が豊富等を理由とする者が多かった。
 
(ニ)脇町住民の生活圏
ここでさらに脇町民に関して調査してみた。

商店街で買物行為がなされる場合、単に買物をするために出かけることよりも通学、通勤先などで用を済せる場合も多い。表4は脇町住民の生活圏の調査であるが買物行為にも大きな影響を与えると思われるので、ここで調査してみることとする。
高校入学については、地元高校へ行っている者が約50%、次いで徳島市、穴吹町の16%となっている。高校については課程の問題もあり、一概に言えないが地元を選ぶ者が多く、美馬郡内四高校に大部分が通学している。
他方通勤先であるが、これは脇町に県庁の出先機関である総合庁舎や学校・企業・司法関係機関等もあり、60%近くが地元に勤務している。次いで約10%が徳島市へ通勤している。また江原地区では高松市への通勤が僅かであるが見られる。またいろいろの用事で他町村へ行く回数では、徳島市が月平均1.1回をかぞえ、距離的なもの、交通の便を考慮しても穴吹町が多いのは予想できよう。
(2)商店街の現状
小売商店は全国平均で一店当りの71.45人の常住人口により支えられている。(3
)したがって後背地人口2万人程度の脇町なら小売商店数は280ぐらいが妥当といえる。脇町の場合、中心商店街だけで1970年で法人53、個人416、計469の商店数を有しており、定住人口で1万人程度不足している。すなわち隣接町村に対する勢力圏が問題となってこよう。これを一店当りの世帯数で見ると全国平均は15世帯で本県の場合、石井町が平均規模に該当しているが、一店当りの売上高では劣っている。美馬郡内では貞光町が、一店当りの世帯数では劣るものの専業度で脇町を大きく上回り、後に述べるように脇町商店街に対する商圏を形成している。脇町では売場面積は1966年の10,626平方メートルから1968年には14,909平方メートルと拡張されてはいるものの、従業者規模別でみると(図11)、従業員1〜2人の商店が7割以上を占め、90%までが4人以下の小規模経営である。



近年商店の大型化、専問化が地方商店街でも目立っており、脇町でも萌芽のきざしが見えつつはある。また業種別商店数では卸売業、小売業の商店数が減少し、飲食業はここ1、2年増加している。しかし販売額から見た場合どうであろうか。全国的には小売消費に占めるシェアから見ると、百貨店が約10%、セルフサービス店が約6%となり、その他は生協と呼ばれる消費機関の約1%を加えても2割に及ばず、小規模店の集まった商店街は小売消費に占めるシェアが高いということが出来る。脇町の場合にも、かっての卸売業が販売額でも相当な比重を持っていたが、近年小売業のそれが急速に伸びており、同様の結果となっている。
6)脇町の商圏
脇町の商圏を日用品(菓子・酒)・中級品(金物・電気器具)、高級品(呉服・反物)に分類してアンケート調査を行った。図12は脇町内の人々がどこで買物をするか調査したものであるが、日用品についてはほとんど町内ですませているが、次によく行く所では徳島市が28%を占めて隣接町村を凌いでいる。これはすでに述べた生活圏調査にも表われているが、中級品、高級品を買いに行った時に、同時に購入することが多いためであろう。市部へ出かける機会が多くなるほど日用品でも地元で購入する割合が低下する傾向を示している。いわゆる大きな商業核のもつムード買いてある。
中級品については大部分が脇町で、残りは徳島市、穴吹町、高松市などとなっている。
  
高級品になると徳島市が大きなウェートを占めてくる。次によく行く所では徳島市が50%を占め、高級品は市部の占める度合が強く出ている。1つの商店街を1つの売場として考えた場合、商店街の売上げに影響を与える競争関係は一般的には、他の商店街とするもの60.8%、つぎに百貨店とするもの19.4%、小売市場12.3%、生協の9.1、スーパー・マーケット5.4%の順となっている。しかし、徳島市のような百貨店を持つ商店街と脇町などではこの数字も大きく異ってこよう。百貨店にやってきた消費者はその3分の2までが、その地域商店街の消費者ともなっており(大分市の例(4
))、地方の商店街にとっては19.4%以上の脅威となってくる。
次に隣接町村の脇町商店街に対する商圏調査を行った。一般的に購入率70%以上の絶対圏は品物にもよるが商店街より0.5〜1.0km(徒歩で7〜15分)の距離である。また70%〜50%の中間圏は1.5〜2.0km(20〜30分)までの範囲であり、それ以遠は30%か、少なくても20%ぐらいの急減ぶりを示し、商圏の外縁部(外圏)を形成している。ここでは最寄品は省略して、中級品と高級品のみ商圏を表わしてみたが、中級品については穴吹町が29%を示し脇町の外縁部となっている。一方貞光町が半田町(44%)、一宇村(38%)、美馬町(32%)を商圏としているのがわかる。高級品については貞光町は中級品と同じ傾向を示しているが、脇町は穴吹町、阿波町、美馬町を外縁部としている。従って美馬町は脇町、貞光両町の競合地域となっていることがわかる。

以上の結果から、高級品では脇町商店街の顧客吸引力が強いことがわかる。元来美馬郡南岸の商店街は谷口集落的な性格を強く持っているものだが、貞光町の場合には対岸にも及んでいる。
4 地域的変化
脇町においては道路網の整備、市部の顧客動員力の増大などにより、商店街の機能も変化しつつあるが、特にここでは商店の地域的な動態を把えてみた。表7に見られるように過去5〜10年間に開業した商店は42店にすぎないが5年以内の開業は141店にのぼっており、ここ数年で商店数が急増したことを示している。これを業種別に七種類に分類してみると、一般性商店が最も多く、次いで飲食性、事業所性施設が多くなっており、特に石油、自動車関係のものが目立つ一方、娯楽性、旅館性施設も少数であるが現われている。これらの商店、事業所の分布状況は江原地区、脇町地区に多いが、特に国道192号線(穴吹―高松線)では、穴吹橋北詰―拝原間、鳴門―池田線では曾江谷橋―拝原間のバイパス沿線や脇町商店街さらに岩倉のバイパスの沿線に増えつつある。しかし現地で調査した結果、純粋の開業は意外に少なく、全体の24.6%にすぎない。その理由は岩倉地区のほぼ全域、江原地区の拝原、北原、曾江、落合などでバイパス完成により、旧道となった商店が新道に進出したにすぎない店が多いからである。


次に廃業を見ると脇町地区の商店街に多く、70%までを占める。これらは営業不振が直接の原因となったものは少なく、後継者がない場合が最大の理由といわれる。
以上、地域的な変化を見てきたが、現在のところ新しく店舗が建設されている所は道路にそって分散的であって商店核としての機能を果すまでには至っていない。したがって既存の脇町商店街に対する脅威となっていないが、広い道路(駐車場をもつことも可)の周辺に急速に形成される商店は、特に拝原地区などは商店核となる可能性も強く、東部にも小型の核が出現しそうな情勢である。脇町の商店街は中小企業が多いことはすでに述べたが、ここで地域的変化による商店街出現の動きと共に、商品販売の上でスーパーストア(Super
store)―衣料品主体、スーパーマケット(Super
market)―食料品主体の進出等も考察の必要があろう。商店経営において人件費を10%節約すれば価格で20〜30%安に出来るといわれているが、スーパー店は人件費をできるだけ節減し、豊富な商品を出来るだけ安価に提供しようとするためにアメリカで出現したものである。老舗やデパートが高級品を扱うのに対して、主として最寄品を扱うところに特色があろう。脇町でもスーパー店はよく利用されており(表8)、その理由として庶民性が第1にあげられている。これに対して商店街ではディスカウント方式を採用したり、大安売を行ったり、土曜市、謝恩奉仕、季節大売出しなどの宣伝で対抗している現状である。一部の人たちの意見によれば、現在スーパーの商況は反省期に入ったとも伝えられるが、それにしても店内を見たところ主婦や学生などを中心に相変らず活況を呈している。現在脇町のスーパー店では強引なロス・リーダー商法(Loss
leader)―目玉商品―をやっていないが、これらが実現すればもっと利用率は上昇しよう。さらにその上に、脇町にも新しい商法の波が現われんとしている。デパート形式をとるボランタリー・チェーン(Voluntary
chain)である。これは中小企業の横の系列化で中小企業の新しい販売方式とされており、既存の商店街にかなりの波紋を投げかけることが予想される。
 
最後に地元の住民は脇町商店街に何を望んでいるのだろうか。アンケートによれば、楽しいムードをあげる者が一番多かったが、これは1商店の努力では解決できる問題でなく、商店核の大小(商圏)を決定する要因であるだけにブラブラ歩きの出来る商店街としての創意と工夫が望まれよう。最近の国民生活白書でも消費の動きとして1
内容の高級化、2 大型化、3
レジャー支出の増大という3つの特徴をあげており、個人消費も変化しつつある今日である。脇町商店街においても、数量的な調査のみでなく、内的要因を中心としたモチベーション・リサーチ(motivation
research)なども実施し、例えば「包装は沈黙のセールスマン」といわれるように
Packaging
にまで洗練さを要求される時代であるだけに、販売促進のための一層の努力が必要と思われる。

まとめ
これまで脇町の商業機能について考察を加えてみたが、以下要点を列記する。
1
脇町においては、昭和44年工場誘致が行なわれて以来、人口減少率が横ばいいとなり、若年労働者が女子を中心として定着している。また産業別人口構成では、第3次産業が大幅に増加している。
2
交通網の発達に伴ない、商店の中心はかつての南町から鳴門―池田線沿いに移り、内容的にも藍、養蚕時代の卸売業中心から小売業中心に変ってきている。
3
住民意識も以前は吉野川北岸、南岸同志の結びつきを強く意識していたが、現在では橋、潜水橋などの完成によって対岸との結びつきが強くなっている。特に美馬町は脇町の生活圏から離れつつある。
4
美馬郡の生活圏は谷口集落として発達した貞光町と城下町として発達した脇町が核の中心になっている。
5
脇町商店街は中小企業がほとんどであるが、常住人口の割合に比べて商店数が多く、販売を伸すためには個々の商店だけでなく、シナジー(Synergy)効果(2+2=5)をもたらすような脇町商店街独自の魅力づくりに努力すべきである。
6
脇町住民は、日用品のほとんどを町内で購入しているが、中級品や高級品は徳島市などの購入率が次第に高くなって、日用品もムード買いしてくる傾向が見られる。
7
町内におけるバイパスの完成によって、新しく商店が出来ているが、開業した店のうち新規の商店の割合は少たい。旧道となった場所から移転したものが多いのが実情である。しかし、これらの新しい地域も商店街として形成されつつあり、特に拝原地区を中心にその傾向が著しい。
8 脇町においても Super store, Super
market,voluntary chain
などの出現も見られ、小売商店街では駐車場、バイパス問題と共に後継者不足が当面の問題点としてあげられる。
おわりに
論文をまとめるに当り、御指導下さいました徳島大学高木秀樹教授、資料を提供して下さった脇町役場、脇町商工会、八代商事、松下寿電子工業、ミナト工業の方々、さらにこのたびの研究には多くのアンケート調査を実施しましたが、御協力下さいました江原、脇町、岩倉の各中学校の先生方、生徒の皆さん、穴吹高校生ならびに御父兄の皆様に心より感謝いたします。
参考文献
1 富田芳郎:社会科教材としての郷村都市、新地理2巻、3号
2 山鹿誠次:都市地理学(1964)P118
3 服部■二郎:草加市における商業機能の研究、地域研究第15号、立正地理学会
4 杉村暢三:都市の消費と商店街、地理14巻、第9号 |