阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第19号
東林寺庭園考

徳島造園学会 福原健生・阿部聖治・柳本強

はじめに
 これまでに脇町とその周辺部で古庭園の掘りさげた研究や調査がなされた例をみない。
 このことは、徳島県全体についても言えることであるが、特に、この地方を指顧したのは、脇町とその周辺地区が歴史的にみて、日本庭園が最も発達をしめした中世期に、阿波から都にのぼり室町幕府の管領となった細川氏に仕え執事として畿内に勢力をのばし、のちには主家をも凌いだ戦国大名三好氏の発祥地であるからである。
 それだけに、県下における古庭園の調査研究では、他地方にさきがけて注目しなければならない。
 ところが、これまでの研究では、昭和33年に隣町郡里町の願勝寺庭園について徳島庭園鑑賞会の鈴江弥太郎氏が新聞の社会面で談じた一例をみるのみである。この庭園については、その後、数氏が多少の紹介はされたが、そのいずれも、ただ庭園の中央部に組まれた枯滝の手法が京都の金閣寺や天竜寺の庭園にみる竜門瀑という鎌倉時代の滝組手法であることから推理して願勝寺の庭園の築造年代が鎌倉時代〜南北朝時代であるといった程度の感覚的な鑑定にすぎない。
 なお、これを脇町地区についてみると、徳川期以前のものでは、昭和33年に笠井藍水氏を中心に編さんされた『脇町誌』に東林寺と与頭庄屋家の脇亀太郎氏の庭園について、つぎのような、いささかの記述がみえるだけである。
 『庭園めぐり 脇亀太郎家、北町、旧組頭庄屋、北町火災後に再築したと言われるが古い様式を伝えているものと思われ庭石には見るべきものがない。面積20坪位で中央に泉池を設け背後を築山としサツキを多く植えている。縁先には秋海堂が茂り自然の趣が深かい。右隅には梅モドキがあり庭園に必ず植えるものと言われる。
 東林寺、大工町北詰、書院に面した方形の平庭で60坪余あり、中央に泉池を設け小島を囲んでいる。サツキ、牡丹その他多数の植木があり背後にはタラヨウ、ホルトノキなどの大木が茂っている。石組は少なく皆小さい。恐らくは古い庭園であろう。』
 『寺院各説 東林寺、宗派山号、浄土宗、虎渓山清雲院。所在地 大字脇町字北島1210番地、境内684坪 ……中略……
 境内、前庭に菩提樹、彼岸桜あり、書院前の庭園は平庭で泉池があり、或は創立以未のものか……』
 以上のような町誌の記述内容では、町内の庭園については、特にみるべきものがないので、書きながしたとしか思えなかった。
 したがって、今回の阿波学会の調査においても、われわれ造園学班としては、この地方の古庭園の遺構調査を第一義としながらも、その成果に期待することは少ないとみて、調査テーマの主題も『脇町とその周辺にみる集落と広場の研究』として、その方面の調査に多くの日時を費した。ところが、この調査で東林寺を訪ねみて、夏草の生い茂る裏庭に、わずかに頭をのぞかせた古い石組の配置と全体の地割りが、整ったものであることを知った。しかし、当時の状態ではどうすることもできず、細部についての調査と実地測量は、雑草の枯れた冬期に再訪して行なうこととした。
 そして、本年1月、調査測量の結果、われわれがはじめに期待していた、この地方の中世期の庭園文化の手がかりを得ることができた。そこで、われわれの思考する研究の一端を発表して将来の研究へのステップとしたい。


1.東林寺の開創
 東林寺が浄土宗(知恩院派)の寺院であって、山号を虎渓山、院号を清雲院と称することは、さきに掲げたとおりであるが、本編では、この寺がいつできたかについて、かかわりのある史料で紹介する。
〔史料1〕東林寺歴代記(東林寺旧蔵 原本紛失 脇町史所収)
 東林寺 永正中照誉上人、応檀越脇氏之請所創、専修浄業之霊場也、脇氏之先、中御門藤黄門家成、大職冠十二代之裔也、出爲阿讃刺史、築脇城而居焉、爲其裔中房、改姓脇氏、其後氏族衰残、去之伊予州云、其後百有余歳、堂宇廃頽、清規疎荒、正保中△(けい)誉信徹上人董席、而規制始備矣、爾後法燈連綿、至今不絶、略記梗概以附後嗣、爾云
  寛政辛亥春二月十二(?)日 鏡誉誌焉
  開基源蓮社照誉上人天文元年壬辰歳四月十四日寂
  至寛政三年辛亥二百六十四年
〔史料2〕性鉄居士画像賛(東林寺蔵)
 阿州美馬郡脇之郷虎渓山清雲院東林教寺者、源蓮社照誉上人所創営、而六時礼讃修淨業之徒、逓代住持也、其境接乎故城之丘■、山古間曠境高爽麗也、昔日間亦有謹律息心之士絶塵清信之賓、不期而至者遠擬於廬山之精舎、夫宜哉、爾来世降人微而、代有興廃不可得而詳知也、及常誉愚暁上人董席之時、山林田産悉爲酷吏取、而所属乎官府歳、隨民例入其租税、既延覃四十稔也、粤上人毅然有恢復之志、雖東走西馳、屈力殫慮、訴与乎有司、不幸而未逢公正人、爲世愛憎引而因循、垂念歳余矣、偶有稲田氏性鉄居士、則脇之郷前城主之嫡裔也、非止経緯干文武而権衡干邦家、深信仏乘優入祖域、上人恭造托居士之館第、以情訴之居士恵然而肯許之、輙就于当職蜂須賀宮内而請邦君之命、復寺域山林永令官税免、且賜券文、設綿■表堺内、其震位者至小麦谷、其兌位者尽畳谷、其離位者画地境、其坎位者堺道、而永以所寄附也、鳴呼懿乎哉、憑居士雄断之沃手、而剔扶多年下吏之横議如披昏霧而観青天、皆是出于居士護法之念確乎耳、其功豈不銘佩乎哉、于是百廃倶興、衆事悉弁、実夫居士者再世開基、上人者寺門中興云乎、非其名不当也、一日請使老憎記其顛末、余嘉能幹其蠱而、不敢固辞、輙記梗概筆居士之写真上、而以伝有永云爾
  維時宝永三丙戌年臘月穀旦前丈六瞳眠子天桂誌焉
〔史料3〕藩撰 阿波志(文化12年 佐野山陰著)
 東林寺 釈照誉創地接古城閑曠高爽天文二年源長慶重修除租隷智恩院

 史料1では、東林寺は永正年中(1504〜1521)に檀家脇氏の要請で照誉上人が開基した浄土宗の寺であるとしている。なお、この脇氏の家系は遠く藤原鎌足からでた中御門藤中納言家成の末裔であるという。家成は平家討伐を計画した藤原成親の父であって大治4年(1129)に左馬頭から讃岐守になり翌5年に播磨守に遷り、正二位中納言に進み仁平4年(1154)に48才で没している。この家成が阿讃の刺史(太守)とあるのは讃岐一国だけの誤りである。このことは、南海通記の香西伊賀守佳清伝にくわしい。以下は関係個所の抜萃である。『讃州香西氏の事は、当国に相続し来て天正13年羽柴氏四国征伐に至りて終る。年久しく廃衰せざる姓氏なり。……中略……鳥羽院の御宇に、中御門藤中納言家成卿の讃岐守たりし時、綾大領貞宣の女子を納(いれ)て、男子を産す。是を藤大夫章隆と云う。是より藤家を本領として、讃岐の藤家と言うなり。家禄は綾の所帯を請次来るなり。元暦年中に源平の争あり。藤家の氏族、平氏を捨て、鎌倉殿に候し、建武年中に足利将軍(尊氏)に属し、応仁の乱の時、細川管領勝元に随身し、三好天下を制する時は、三好家に属し、松永が変に依て……』とある。
 また、〔史料2〕の宝永3年(1706)に丈六寺の前住天桂和尚が書いた性鉄居士(旧藩家老職稲田氏4代目九郎兵衛稙儀の隠居号、元禄13年隠居、亨保15年89才没)画賛では博学の僧源蓮社照誉上人が創建した寺で山号と寺号は共に中国の江西省北部の九江の南にそびえる名山で、仏教の霊跡として有名な盧山(さん)の精舎白蓮社のうちの虎渓山東林寺に擬したものとされている。また虎渓の名は盧山の東林寺に隠居した晋の慧遠法師が虎渓は渡るまいと誓ったが客の陶渕明と陸修静の2人を送って思わず虎渓を過ぎ三人共に大笑をしたという有名な伝説『虎渓三笑』で古来日本でも画題となったり、謡曲でとりあげられたことから良く知られている。
 さらに〔史料3〕の阿波志では、釈照誉創建ののち、天文2年(1533)に三好長慶(ながよし)が営膳をほどこし寺領を免租としたことが併記されている。この年、長慶は12才で、元服して孫次郎または伊賀守利長を称したのもこの年とみられている。また、前の年の6月に父の元長(32才)が細川晴元と本願寺光教による一向一揆のために堺の顕本寺で殺された。長慶ら兄弟は翌々8月に父の菩提を弔らうため勝瑞の見性寺に上郡山本分の土地を寄進している。
 この3史料を総合すると、東林寺は藤原氏からでた中御門中納言家成の庶流で、ながらく讃岐中部に勢力をはった香西氏の支族が、この地に来住して脇氏を称した。その脇氏が浄土僧の照誉上人を開山に請い一寺を建立して虎渓山東林寺と名づけた。その後、脇氏が仲房の代になって、この地を去ってから三好長慶の庇護をうけ、次いで藩政時代には稲田性鉄の合力を得て法灯連綿して今日に至ることになる。
 ところが、開創年代については東林寺歴代記は永正年中(1504〜1521)とするが、浄土宗大年表(昭和19年藤本了泰編・脇町史引用)の蓮門精舎旧詞24に『大永2年(1522)是歳、照誉阿波美馬郡脇町に東林寺を起立す』の記事がみえる。どちらかといえば、このほうが信じられそうである。そうかと思えば、藩選の阿波志巻5、美馬郡氏族の項に『藤原仲房称脇権頭相伝中御門中納言家成之裔、家成保安中(1121〜1124)任讃岐守娶阿野大領貞宣之女、生章隆之後来居脇町相襲至仲房文明中(1469〜1487)去適伊予又有備中守、所謂阿波藤氏是也』とあって、まったく年代が喰い違ってくる。
 しかし、これらの史料からみて、讃州藤原氏の支族が脇の地に居館をかまえ、壇那寺として東林寺を開創していたが、仲房の代になって阿波の守護細川氏の被官であった三好氏の権勢が三好氏代々の居館地である三好郡から、次第に脇氏の支配地に及んだが、何らかの理由で保身の地を伊予に求めたであろうことが推察できる。
 また、東林寺が属する浄土宗が、この地に伝えられたのは、開祖である源空法然上人が弟子の住蓮、安楽のことに連座して、建永2年(1207)に讃岐に流され、4年間讃岐に滞在したことから讃岐地方にひろめられていたものを讃岐守藤原家成の子孫によってもたらされたものと思われる。
2.作庭手法からみた築庭年代
 東林寺は、脇城祉のある虎伏山の東南山麓に位置する。そして、現在も境内地684坪をもつ大寺である。寺から南へのびる道筋には、古くから人家が軒を連ねて門前町を形成している。このことは、文政元年の脇町分間図で明らかなところである。
 ところが、この寺は、たびたびの火災で堂宇を失ない、現在の本堂が建立されたのは、明和9年(1772)の火災の後に当山12世の鏡誉上人によって再興されたものである。
 庭園の遺構は境内の東北部に位し南面しており、その様式は座観式(観賞式)の枯山水である。
 結論からいえば、築庭年代は作庭手法からみるかぎり室町時代末期のものである。
 まず、庭園の現況を概観する。裏山の虎伏山の山麓から庭園に至るまでの間、約■0mが墓地である。墓地と庭園とは、往古土堀で界したあとが、ところどころに残っている。土堀の内側、つまり築山の最深部には常緑の樹木を植込み、土堀を遮蔽して虎伏山を景色にとり入れている。借景である。
 築山は、墓地から寺地にむかって南へ傾斜する扇状地に約3mの高低差をつけて築造されている。その中央には枯滝を落し、随所に石組を配置する。また、滝組は3段に落したいわゆる竜門瀑型式で、奥行を深くみせるために滝の左岸を張りだしている。
 また、池中の右よりに中島を配置して石橋を渡す。庭石は全体に小さいが役石には重清あたりの緑泥片岩(青石)を使い、あとは地方(じかた)の砂岩を用いている。池は、もともと涸池であったから高低差は、ほとんどなかった。それを後世に改造して泉水にするため堀り下げて池底をタタキぎめにしている。
 ところが、これでは水を湛えることはできず、その後うちすてられていたものであろう。結果的には、水がたまらなかったことが幸して、池畔の石組を狂わすことなく今に伝えることができたのである。
 ただ、惜まれるのは築山の枯滝部分の石組が崩れていることである。
 しかし、これも復原は可能であるし、全体的にみても作庭当時の遺構をよく伝えている。枯滝部の石組を復旧し、植栽を整え、涸池をもとになおせば、名勝として国の指定が得られるだけの要件は充分に備えていると思う。
 つぎに、この庭園の築庭年代を室町時代末期とみたことについて、作庭手法から考察する。紙面に都合があるので、ここで庭園の歴史的変遷について詳述するわけにはいかないが、この庭園にみる座観式の枯山水の様式が完成されたのは室町時代、それも応仁の乱(1467〜1477)の後とされている。そして、この頃の庭園は、寺院の方丈や書院などの小室に面する小区画に築造されたものが多かった。
 このような庭園文化は、当時の有力な武家の嗜好と結びついて、都から領国へ伝えられしだいに地方に広まった。この庭園も、そのうちのひとつとみられるが、それも、地形に順応した石組をしていたおおらかな初期の築庭法にくらべ、造園表現が人為的かつ積極的な末期のものである。
 また、力感のある石組は戦国武士の好みであるが、庭石は全体に小さく桃山時代(1573〜1614)の豪華絢欄たる表現にうつる以前の手法であることがあげられる。
 枯滝周辺の石組は、この庭園のみせどころであるが、これを引立たせているのは、築山の頂上部の小さな石組集団の配石である。臥石と立石とを効果的に組合せたこの石組は平安時代末期の著述で、日本最古の造園書である作庭記(一名前栽秘抄)の上巻に『すべて石は立る事はすくなく、臥ることはおほし、しかれども石ふせとはいはさるか』といった手法がよく表現された結果である。
 また、涸池を後日堀り下げているのは、池畔や中島の石組に根石がないことで見分けられる。普通、泉水の護岸の石組をするときは、根石を2〜3個敷込んで挟み立てるか、鼎立させて据えるが、ここでは、それが全然見受けられないことから後世の改悪であることが判然とする。
3.築庭年代の歴史的考察
 四国の有名庭園で室町時代以前の築造であることが、記録によって確認されているのは西条市の保国寺庭園のみである。
 県下では、郡里町の願勝寺庭園が古庭の名乗りをあげているが、もっか作庭手法以外にこれを立証する決定的な史料が得られていなかった。
 東林寺庭園についても、本稿の1と2で一応の考察はしたが、願勝寺同様、これを確証する絶対的な史料はない。
 しかし、本項では、この庭園が造られた周辺の事情を歴史的に概観して論考し、できるだけ正確な築庭年代に接近してみよう。
 まず、庭園史のうえで阿波の人の名が、はじめてあらわれるのは、阿闍梨静空という僧侶の名である。この名がみえるのは、加賀の旧前田候爵家に伝わる『園苑源流考』一名山水並野形図である。この巻物は『作庭記』とともに平安時代末期から伝わる、わが国最古の作庭の秘伝書であるが、これを伝承した46人中22人目に阿闍梨静空の名がある。
 なお、静空の名は、その弟子静玄が鎌倉幕府の執事二階堂氏の池庭に立石をしたとか、建久3年(1192)に源頼朝が建立した鎌倉の永福寺の庭造りをしたとかの記述が東鑑巻12などに見えることから、静空は弟子の静玄が活躍した鎌倉時代初期以前、すなわち平安時代末期に世に出た人と思われる。
 阿闍梨とあるので静空は天台か真言の僧侶であろうが、秘伝書に仁和寺心蓮院の朱印が押されているところからみて、平安時代から室町時代にかけて約400〜500年間、日本の作庭界をリードし、支配した仁和寺ゆかりの石立僧の一人とみられる。
 この阿闍梨静空が直接仁和寺にかかわりをもつかもたぬかは別としても、阿波出身の僧侶が当時の作庭界で活躍したことは明らかである。また、仁和寺僧を始めとする。いわゆる石立僧が鎌倉時代を中心に作庭界を支配するほどの活躍をしたことも明らかな事実である。前おきが長くなったが、つぎに述べる願勝寺についても東林寺庭園にかかわりを持つのであらかじめ説明する。
 願勝寺は佐野山陰の阿波志に『源長房捨二十貫慶長十二年命管郡中諸寺元和八年賜二十石修真言』とあるように源長房、すなわち、三好氏の祖小笠原長房の帰依をうけた、この地方きっての名刹で、古義真言宗御室派の寺である。
 したがって、仁和寺とは本末関係にある願勝寺の庭園の作庭年代を様式手法から鎌倉〜南北朝期とみるだけでなく、鎌倉時代を中心に活躍した本山仁和寺の石立僧一派によって築造されたとみたいし、また、そう考えて差支えはないと思う。
 このように見ると当代一派の庭園文化が京の石立僧によって直接願勝寺に導入されたことになり、当時としては随分と話題となったであろうことが想像できる。
 願勝寺も真言宗であるが、四国地方は、弘法大師の出生地であるだけに総じて真言の寺院が多かった。脇の周辺も、その例外ではなく、上野に西明寺、大滝山に大滝寺、岩倉に真楽寺があって、民衆の多くも真言宗に帰依していた。
 讃岐の香西氏の支族が来住して町づくりをはじめた脇は、ちょうど、これらの寺々の中間に位する未開の寒村であった。
 この町づくりは、東林寺を中心に浄土宗をひろめることによって計画的になされていったと考えられる。
 この時期は、定かではないが、応仁の乱を前後する世上不安の時世であった。打ち続く乱世に乗じて疲弊した民衆の心を『釈尊の教えを守り、阿弥陀仏の本願を信じ、名号を唱えて、浄土の往生を得よう』とする浄土信仰の力で引きつけようとしたのである。
 新興宗教をひろめ、信者を集めて町づくりをするためには、どうしても在来の宗教勢力に対抗し、これを駆逐するだけの魅力が必要である。
 したがって、その根本道場となる寺院は、これを象徴するものとして細心の配慮がなされた。
 そのあらわれの一つが山号の虎渓山と寺号の東林寺である。
 この名称が唐土の名刹に由来することは前にも述べたが、これは、明らかに西明寺(現在の最明寺)に対抗して遜色のない寺名として名付けられたものである。
 北条時頼の法号に付会する最明寺は、このころも真言の法灯を伝えて寺運降盛であった。
 この最明寺は、阿波志や異本阿波志に西明寺とあり、当時西明寺と称していたことは野口年長の粟の落穂(巻1美馬郡大島郷)にも詳しくしるされているが、この寺名が唐の西明寺からでていることは白氏文集に見え、日本でも古事談などに記されている。さらに日本の大安寺は、この寺の一院を模したといわれるほどである。
 このような対抗意識を現世の景観に具現したのが東林寺の庭園である。
 すなわち、この地方きっての名庭であった願勝寺の庭園に対応し、優るとも劣らない庭造りが必要となり作庭されたものと思われる。
 しかし、必ずしも脇氏の計画通り事が運んだかどうかは疑わしい。これは、この土地に土着しようとした脇氏が、この地を離れたことである。
 風雲急をつげる乱世に京・畿内で活躍していた三好氏の本拠近くに来住して、事あらば取って変れたかも知れないが、三好氏が、ますます勢力を拡げ、長慶の代に至って、ついに主家をも凌ぎ天下に号令したほどの勢いを見せたので、終に脇の地を去ったのであろう。
 結論としては、この庭は脇氏によって寺の開創後に築造されたものか、脇氏の退出後に三好長慶らによってなされたものかは定かでない。
 いずれにしても、この庭園の作庭年代は天文2年(1533)の長慶修重を下るものではなく、古く脇氏の築造とみても、これより50年を遡るものではない。


徳島県立図書館