阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第19号
脇町の民家について

日本建築学会 佐野浅夫(徳島県住宅課)

はじめに
 昭和47年8月1日から7日間、脇町について阿波学会の綜合学術調査が実施された。私がこの調査に参加したのは、郷土史に多少の興味を持っていたせいもあるけれども、それよりも現今のめまぐるしい社会の進展によって、古い建築遺産としての民家などが次々に失われて行く様子を見て実に忍(しの)びなく思い何らかの形でこれらを保存したいと願望したからである。さいわい本年度の調査テーマが自由に選沢出来たので建築部会としては、全国的にも珍らしく、様式の古い民家の集落である「脇町の民家」について調査することとした。
 さて、初日は午前9時脇町体育館に於て結団式が挙行されたが、医学、栄養学、地理学、歴史学、風俗建築学などなど県下の学会を代表した人達約50名余が参加し盛大な発足となった。
 その日午后早速調査に着手したのであるが、丁度真夏の太陽は舗装道路と狭い町並みを焼きつけて1戸1戸と訪問をしてその家の老人などから昔の話などを聞き乍ら遺物や古器などを見たりその写真をとったりしていると多くの時間を要しその後の調査にも予想以上の日時を要することとなった、そのため今回は先づ中間報告程度のものとなった。
 さて脇町の民家について論ずるには先づ第一にその地名と先祖の起源などについて述べなければならないと思う。

(1)脇町の地名の起り
 脇と言う地名は全国的にも珍しく、先づその地名がどうして起ったかを調べて見ると、古くは脇邑、脇村などと記し、また単に脇と呼ばれていた。この「ワキ」と言う地名の原義は物の傍らという意味であって、鎌倉時代に発達した井尻部落の隣接地(大谷川を隔てて西隣)に位置する部落として生れたようである。脇という地名が文献に見えたのは、天正13年(西紀1585年)豊臣秀吉が羽柴秀長に与えた文書に「脇城」とあるのが最古のものである。この城名は地名によって名づけられたものである事は間違いないようだ。
(2)脇町の祖
 中世以前も豪族が住んだであろうけれどもその史料はない。中世になって脇町の領主として居館した豪族は讃岐の藤氏の一族で、その最后は脇権守(ごんのかみ)仲房である。美馬郡東部は清水峠の交通路によって古くから讃岐文化の影響を多分に受けており、このようなことから讃岐の名家の子孫が脇町に移って豪族となった、これが脇町の先祖のようである。
(3)脇城
1.脇城の起源
 字(あざ)脇町が脇城の城下町として発展したことは今更いうまでもないが、まずその起源について調べて見ると。
 当時讃岐の国守、中御門中納言藤原家成の子、章隆が脇町に来たのは鎌倉時代で、以来鎌足の12世、藤原仲房まで脇城主であった。この間に脇城が築かれたようである。
2.脇城の修築
 その後脇城の修築は、三好氏によって行なわれた。
 三好氏は源氏の一族で北條氏に属し、承久の乱の戦功によって阿波の守護に任ぜられた小笠原氏のことであり、一時阿波を征服した。代々三好郡の大西城(池田)にいたので三好姓を称したものである。三好長慶は天文2年阿波北方鎮圧の根拠として脇城を修築して阿北の名城たらしめたのである。


3.稲田氏の脇城入城
 阿波を征服していた長曽我部元親を降した豊臣秀吉の家臣、蜂須賀家政は天正13年阿波国の城主となり、その第1家老の稲田太郎衛門尉稙元(えもんじょうたねもと)が脇城に入城し、以后300年にわたる藩政が続いた。稲田氏は脇城に入城すると直ちに城郭を修理強化した。
4.脇城跡
 蜂須賀氏は阿波9城に重臣を配置して国内を鎮定していたのであるが、徳川幕府は元和元年豊臣氏を滅すと共に全国を統一して一国一城の令を出し、諸国の大名(藩主)の居城以外の城郭はすべて破棄せしめた。その時脇城も取除かれ今は山上(さんじょう)の3本松と空井戸がその跡を留めているのみである。
(4)城下町の復興
 天正13年脇城に入城した稲田植元(たねもと)(宗心(そうしん))は、打続く戦乱のために荒廃した城下町の復興に意を注ぎ、家臣、年寄に計って、かかり事一切御免としたため付近の住民は続々と集り、城下町が阿北第一の繁盛街となり、現代脇町の基礎が置かれたのである。かくして脇城下は四国、中国地方の商人まで移住し来って、当時としては珍しい一種の商業都市として繁栄し、今も主要街路となっている本町、大工町、北町、突抜町、南町、中町等の町並もこの時の都市計画によって構成されたものである。


(5)脇町の商家
1.「うだつ」の起り
 蜂須賀の阿波入国以後、藍を奨励し阿波の特産として国益の第1位に挙げられ、吉野川沿岸の農地は過半藍畑で占められた。それで村々の豪農は皆、藍玉製造を業としたが、ことに他国売りすれば莫大な利益があるので、脇町の富商の多くは藍に傾倒し阿北の中心地となった、藍商のことを俗に「藍師」と言うのは製造も兼ねる意味を含んで居り、北陸、九州、讃岐等へ行商もした。明治以降漸次拡張せられその中頃が最も隆盛な時期であった。現在の南町が旧商家の本街道として最も繁華な通りであった。この附近の家屋は大半がその当時のまま残っており、土蔵造りで隣家との境界には「うだつ」と言う土蔵の防火壁がある。
この「うだつ」とは、時の稲田藩主が防火対策として奨励したものであるが、これを造るには相当な建築費を要したので、この防火壁の造れないことを「うだつ」が揚らないと言ったもので、この言葉が今も一部では使われている。


この防火壁は2階の壁面から1m位突出して居り、木舞竹も縄も全く腐しょくしておらず昔のままである。
2.富(ふ)商の吉田家(さなお)
 脇町南町「吉田泰雄」氏の家は(佐直(さなお))の屋号で、今から100年〜130年位以前の明治維新前後は郡内の大富豪として著名であった、同家の家系書は歴代の記録を伝えており、郷土史の好資料となっている。
邸宅は25室あり表8帖の座敷は「御成(おなり)」の間と言い、当時は家族20人、使用人50人位が住んだと言う、現在の建物は万延元年の頃「2代目吉田武之烝(たけのじょう)豊茂」氏が建築したもので家督繁栄の始めである。最近は不用の家屋は1部分除却しているが、まだ(860平方メートル)の家屋が現存していて当時の土蔵、藍ね床(どこ)なども使用している。

3.船着場
 商家に最も関係の深い船着場についてのべると、明治中期に最も繁栄した脇町の富商のすべては、吉野川を利用して商業農産物を運んだのであるが、その舟は「艦船(ひらだぶね)」と言う帆かけ舟で(平駄舟とも書く)、今も川岸にそのなごりをとどめている。


(6)武家屋敷のこと
1.稲田家の屋敷
 元和元年、大阪夏の陣のとき戦功によって蜂須賀至鎮が徳川方から淡路一国を加封された。その時幕府の内命もあって、その城代として稲田氏は脇城から淡路須本城に転任した。しかし釆地(領地)と土着の家来がそのまま残っているので、猪尻に役所を設けて管理した。これを「御屋敷(おやしき)」と称したが明治維新以後は「稲田屋敷」と言われた。現在は吉野川に北面して跡地が12,000平方メートルあり川添いに高さ1.5メートル、の石垣が残っている。


2.丸岡家のこと
 丸岡家の家系は桓武天皇の血筋につながり、初代の北条越前守(かみ)勝時から数え、現在当主は14代目である。(4代目から「丸岡」に改める)。初代の北條勝時は脇城の東にあたる西上野に上野城を構えたが、天正年代に長曽我部に追われて大谷川で討死した。その末えいが数代庄屋を勤め、古くから現在地に邸宅があり、家屋には300年余の歴史の跡が伺がわれ、そして歴代が使用し、うけついで来た諸道具、古文書など、数多くの物がのこされている。


3.武田家のこと
 猪尻浜にある武田晴夫家は歴代稲田家の家臣として、関口流剣道及び漢学の教授をし、(神全(しんせん)塾)と称した。同家には今も古文書数百点を蔵し、当時の土塀が昔を忍(しの)ばせる。


(7)民俗雑件
 屋号と家印
 昔は富豪や大商家にはもちろん、町人にも大抵(てい)屋号があり、一般に屋号で通用した。また藍商や駈馬などには家印の必要があり、家印を屋号として使用したものが多い。
 次に藍寝床には妻の白壁に黒色で家印を入れており、これは江戸で行なわれたものを真似たものである。



おわりに
 今回この調査を終えるにあたり、やはり第一に感じたことは、遺産保護の問題である。都市村落などの集落保存については、諸外国では既にその例が多く、日本でも愛知県の明治村などのように若干その処置のとられた所もあるが、この場合居住者の同意を得ることが困難なので実現はなかなかむづかしい。
 しかし我々の長い間に作りあげて来た有形の文化遺産を出来るだけ末長く残し、その地方の文化の正しい育成を計ることは、現代の我々のつとめであると思う、そしてこうした仕事をやっていかなければならない責任の一端は建築家にも負わされていることを思うとき、その任務の重大さをひしひしと感じるものである。
 それにつけても今度の調査は序の序と言う程度でほんの糸口をひき出しただけに終ってしまって、時間不足と調査要領の悪さ、表現のまずさをくやむものである。


徳島県立図書館