阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第19号
脇町とその周辺の地形発達史

地学班 吉野川研究グループ

1.はしがき
 脇町とその周辺地域、阿波町・川島町は吉野川谷の第四系の標式地とされ、吉野川谷の形成史を編むにあたって重要な地域である。本地域の第四系については、地学団体研究会吉野川研究グループにより、1962年より調査が行なわれ、第四系の層序・分布が明らかにされ、気候変化・海水面変化の影響に注目して編年・対比がなされ、中央構造線に沿う新期の構造運動が論ぜられた(須鎗・中川ほか8名、1965)。その後、この成果の一部に反論が唱えられた。すなわち、中央構造線に沿う新期の断層運動は断層地溝をつくるような運動であるとしたのに対し、吉野川谷を通じてどこでも等しく右横ずれ運動であるとする岡田(1969)の考えである。その後これに対する反論、新たな解釈も公にされている(須鎗、1971)このような背景のもとに、今回の調査は脇町・阿波町の範囲を中心とし、前回の成果を確認することに重点がおかれた。また新たに、阿波の土柱の形成過程を論じた。
 本論は吉野川谷の地形発達史・第四紀地史の考え方の紹介をかね、§2.においては、地質区分の概略と前回との相異、反論に対する討論を記し、§3.は脇町とその周辺の地形発達史、§4.は阿波の土柱の成因として平易にまとめた。したがって、入門者は、まず§3.§4.より読み始め、その根拠を§2に求めて欲しい。また§2を参考として野外見学ができる。
2.脇町とその周辺の第四系の区分
 中央構造線は、北側の阿讃山地をつくる和泉層群(後期白亜系)と南側の四国山地をつくる結晶片岩類とを境する。現在の吉野川北岸岩津に結晶片岩が露出するから、これより北側の扇状地の地下を走ることになるが、第四系におおわれてみえない。
 和泉層群分布域内に、数条の東西性断層があり、土柱の岡の背後の急斜向より父尾の谷に連なるものは父尾断層、土柱の岡の南斜面を限るものは土柱断層と呼ばれている。断層破砕帯露頭は、土柱の岡付近では、父尾断層が名東ノ岡〜栩ヶ窪道路に沿って、土柱断層が土柱遊歩道沿い(第3・4図)、土柱の波涛嶽(第6図)、レストハウスヘ登る新道沿いに数多くみられる。波涛嶽の支谷中では、南北性の小断層もみられる。


*阿子島功(徳島大・教育学部)、久米嘉明(石井町高浦中)、近藤和雄(徳島市・千松小)、東明省三(富岡西高)、須鎗和巳(徳島大・教養部)、祖父江勝孝(城南高)、寺戸恒夫(阿南工専)、古谷尊彦(京大防災研・徳島地すべり観測所)。

また芝生谷奥では、父尾断層よりも北側に数条の東西性断層がみられる。
 第四系の区分は第1表の通りである。またその分布は第1図に示される。


 吉野川谷が形成され始めた時に堆積した、第三紀鮮新世後期の森山粘土層は吉野川南岸山麓にあって、粘土層を主とし、亜炭層を挾む湖沼成の堆積物である。

 高位段丘礫層Hは、吉野川南岸、川島町岡山南方の高度80〜100mの平坦面に分布するものが標式とされ、麻植礫層と呼ばれている。吉野川北岸でも、土柱の岡の背後の山稜(高度180m)に分布するものがこれに相当する。ここでは円磨のすすんだ砂岩・泥岩礫よりなる厚さ数m程の細礫層である。著るしく赤色風化されており、色調はマンセル表示により10R4/8の赤色である。マトリックスは粘土質である。結晶片岩礫は認められないので、北からの支流によりもたらされたと考えられる。
後述の土柱礫層はこの礫層におおわれる稜をとりまくように埋めているとみられる。

 切戸礫層K・馬場礫層Bは、長峯〜名東ノ岡を構成する砂礫層であり土柱礫層におおわれる。それぞれ切戸・馬場を標式地とし、切戸礫層は吉野川本流の生成、馬場礫層は北より流下した扇状地の生成であり、両者の関係は馬場の王子神社裏で標式的に観察される(第2図)。


 すなわち、ここでは円磨のすすんだ結晶片岩礫をふくみ、砂がちで、礫の配列から西より東へむかう流れであったことを示す部分(K;すなわち本流性)と、大きく円磨されていない亜角礫を主とし、礫の配列から北より南へむかう流れであったことを示す部分(B;すなわち扇状地性)とがみられる。いづれも赤味を帯びた褐色を示し、やゝ風化している。これより北へ上る道に沿って、これらの上位にある風化のすすんでいない扇状地性の大角礫層が区別される。これは後述の土柱礫層である。
 切戸礫層の基底は、結晶片岩の露出する岩津付近では地表面上にあるが、他では認められない。また伊沢谷川の吉野川との合流点よりやゝ上流(阿波病院西方)の河床では、現在の河床面をつくる新鮮な礫層(1m厚)の下位に切戸礫層が露われている。すなわち切戸礫層堆積前に海面低下があったことが考えられる。また切戸・馬場礫層の厚さは20m以上あり、その堆積は海面上昇に対応したと考えられる。

 土柱礫層 土柱の岡付近を模式地とし、土柱断層以北で厚さ80m、断層以南で30m以下であり南へ厚さを減じる。大きな亜角礫を主とし、土柱の岡(第6・7図)では10枚以上の砂・シルトの多い層準があり、中位に1枚の火山灰層(50cm前後)、最下部に植物遺体を含む厚さ2〜3mの粘土層がある。砂・シルトの多い層準にやゝ円磨された礫を混えるが、大きな亜角礫がほとんどである。礫種はすべて和泉層群由来の砂岩・泥岩である。礫の配列は北よりの流れを示す。層相・層厚の変化から父尾断層崖下に生じた扇状地の堆積物である。ほとんど風化されていない。


 土柱断層以南、五明谷の奥(第1図×地点)の開析谷の谷壁(地表下約5m)に露出した粘土層中の木片の絶対年代はC-14法により28,400±1700年B.P.(GaK-386)である。
 土柱の岡の最下部の粘土層中の花粉はトウヒ・モミ・マツの針葉樹を主とし寒冷期を指示している。(高知大・中村純教授鑑定)。

 沖積層 瀬詰大橋の橋脚の基礎地盤調査の試錐資料によれば、沖積層は最も厚いところで15mである。
 土柱断層について 岡田(1970)は土柱礫層を土柱断層以北に分布するものに再定義し、これは古期のものであり、断層以南にあるものは別の、より新期の堆積物であるとした。その根拠は土柱の岡の南を限る比高70mの急斜面は断層崖そのものとは考えられない――すなわち、崖は開析されていて新しいとはみられないこと。また下側の平坦面が断層を越えて北へ(土柱の岡の南東側)連らなっていること――とした。また、下側の平坦面を長峯面・市場に連らなる面・両者の中間面に3分できるとした。
 しかし、急斜面に沿って断層破砕帯露頭があること、土柱礫層は風化の程度において、土柱の岡をつくるものと、長峯〜名東ノ岡に分布するものが区別できないこと、断層線の北側に入り込んでいる下位の面は断層崖形成後の新しい面であって名東ノ岡の面よりは新しい(五明谷のC―14年代測定資料採集地点でも、開析谷中に小さな段がある)として差しつかえないことに基づいて、土柱断層による断層崖は否定できない。約30,000年以降70m以上の落差であるから、断層変位速度はわが国で最大級である。
 なお、前記の王子神社裏より北へ上る道に沿って土柱礫層があると述べた地形面は、岡田(1970)により長峯面(中位段丘面)とされている。

3.脇町とその周辺の地形のおいたち
 吉野川に沿う東西方向の断層谷が第三紀末にはすでにでき上っていた。これは鴨島町周辺の森山粘土層(上部鮮新統)の分布から明らかである。
 脇町付近の地形はその後の構造運動および海水面の変動に関連して形成されたと考えられる(*)。土柱を中心とした付近の地形発達史を第8図によって概説する。
1.約4.6〜3.0万年前。これ以前に土柱北方の父尾断層が活動しており、阿讃山脈側が相対的に隆起し、大量の砂礫が山麓に堆積し、扇状地が形成された。長峰・北庄・脇町城趾付近の砂礫(馬場礫層B)がこれである。なお東に流れていた古吉野川によって、阿波町切戸付近その他に散見される結晶片岩まじりの砂礫層(切戸礫層K)が堆積していた。切戸礫層はとくに厚く、おそらく約7.2〜4.6万年前の寒冷期の海面低下にともなって堀り下げられた谷が、その後4.6万〜3.0万年前の海面上昇にともなって埋積されたためと考えられる。この海面上昇期は温暖でもあったことは、高位段丘礫層(HまたはOe、おそらく8万年前頃の温暖期(海進期)に堆積しその後の7.2万〜4.6万年前の寒冷期(海退期)に段化した。)が赤色風化していることから推定できる。

*海水面の昇降は海岸線の位置を変化させる(海進・海退)だけでなく、上流の河床面もこれに対応して昇降し、堆積・侵蝕(下刻)が起る。地盤が昇降しても同じ意味をもつ。海面の上昇・下降は気候の温暖化・寒冷化によく対応すると考えられている。

2.約3万年前より、2.0〜1.8万年の間に、小海進期をはさみつつ海水面の低下があり、古吉野川による下刻が激しくなり、以前の谷底面あるいは扇状地の末端が浸蝕され、中位段丘が形成された。
吉野川南岸では川島段丘・旗見段丘(山川町)がこれに相当する。
 図2は3万〜1.8万年間に地盤運動がなかったものとして描いたものであるが、現実にはこの間に父尾断層の活動・土柱礫層の堆積・土柱断層の活動といった事件があり、図3〜4といった変化をたどることになった。

3.約2.8万年前。海面低下によって中位段丘が形成(段化)され始めたころ、父尾断層の活動が再びおこり、上昇した北側の山地から大量の砂礫が流下し段丘面などを覆った。現在の土柱構成層(土柱礫層D)がこれである。なおこの時期の中ごろに、飛来した火山灰が雨水に流されて凹所に堆積している。この後、2.7〜2.6万年前にやや温暖な時期があり、高位段丘礫層は再び、中位段丘の切戸・馬場礫層はこのとき赤色風化をうけた。この温暖期の海面上昇に対応するとみられる堆積物は脇町周辺にはないが、池田町付近に標式的に発達する低位段丘構成層 L1 がC-14年代測定値によって、これにあてられる。

4.約2万年前。父尾断層の南側に中央構造線に関連した同様の動きを示す土柱断層が活動し、北側が上昇して、現在の波涛嶽南側に見られるような東西性の崖が形成された。(第3・4図)。上昇した北側は急速に浸蝕されはじめ、土柱(悪地)の形成が始まった。またこの頃大規模な海水面の低下が再びみられ、吉野川による下刻が進んだ。阿波町岩津の堀り下げもこの時期と考えられる。

5.その後海水面の上昇がおこり、下刻された谷底は下流から次第に堆積されていった。海面の上昇は約6千年前最高潮となり、その後わずか下がってからは変動は少ない。このようにして谷底の埋積により沖積面が形成され、支流から運ばれた砂礫は谷の出口に現在のような扇状地(脇町市街を流れる大谷川にそう税務所のある面など)をつくった。
 低位段丘 L とした段丘面の形成はこのときか、あるいは前述 L1 に相当する。現河床との高度差が小さいので L2 とし、新しいものと考える。

 図5は現在の地形である。 
 


4.阿波土柱の成因
 阿波の土柱とは、阿讃山地南麓の断層崖(父尾断層)下に約3万〜2万年前に堆積した扇状地性の厚い砂礫層・粘土層の互層(土柱層)がその後の断層運動(土柱断層)によって(絶対的に)隆起し、また海面低下によって(相対的に)隆起したため、ますます強い侵蝕力の働くところとなり、芝生谷(土柱の谷)・橘谷・五明谷のような谷に刻まれ、その谷の支谷の谷壁に特異な侵蝕地形を生じたものである(第8図3〜5)。
 くずれやすい礫・粘土層が高さ数10mの急斜面をつくり、これに深い谷が密に発達した、このような地形は、通行が困難でありよじ登ることも出来ず、そのため“悪地 bad land”地形と呼ばれる(第5図)。
 この地形を構成するひとつひとつのひだには礫層・粘土層が露出し、さながら土の柱・壁のごとくであり“土柱 earth pyramids”と呼ばれる(第7図)。

土柱
 植被の繁茂をゆるさず非常に深く切り立った谷をきざむ侵蝕力として、雨・流氷の作用が考えられている。
 従来このような地形は半乾燥地域(雨の降り方に季節的偏りがあり植被の繁茂をゆるさず、またまれに降る雨は豪雨のかたちをとる)に多いとされ、また湿潤地域でも、粘土・砂など雨蝕に弱い物質と岩塊など雨蝕に強い物質とがまじりあった地層(*)に生じやすいことが注目されている。とりわけ後者の場合には、硬い部分のまわりにある軟弱な部分がはやく取り去られ、硬い部分の下にある軟弱部分は保護されることになり、岩塊や礫などをいただく(cap rock)柱状物が林立することになる。
 阿波の土柱は他の例と異なり、侵蝕に抵抗し保護作用をしている部分(cap rock)はひとつひとつの礫・岩塊ではなく、土柱層のそれぞれ数枚ずつある粘土層と砂礫層との互層のうちの砂礫層の部分である(Fig.7)。
 地学教科書のうち、阿波の土柱を例示したものがいくつかあるが、この点を明記していないものがあり、初学者の誤解を招きやすい。
 なお、このような地形が半乾燥地域に多いことから、阿波町を半乾燥地域であるとするような説明は本末転倒である。もちろん、阿波の土柱の生ずるあたりは植被が少ない点で半乾燥気候地域に近い条件にあるとはいえるが、雨量がここに少ないという事実はないし、この狭い範囲に気候区名をあてることも賛成できない。両者ともにスケールに混乱がある。
 したがって、瀬戸内晴美の記述(流域紀行、「吉野川」8、朝日新聞1972年11月)にある「……土柱は半乾燥地帯の悪地が、長い歳月をかけて雨水に侵蝕され、いわゆる雨谷を生じ、その雨谷が大雨の度に、いよいよ……」という文章は誤りを招きやすく、惜しいかぎりである。
 砂礫層部分が保護層となる理由として、砂礫層が鉄分・粘土によってこう結されているためくずれにくく雨蝕に抵抗することが考えられる。
 したがって、砂礫層部分のみが稜をつくり、その下位の粘土層部分が侵蝕されて始めて不安定となり、落下するという過程を経るように考えられる。

悪地
 悪地・ガレ地はすべて谷の西向き斜面(すなわち、芝生谷本流・長谷・橘谷・五明谷のそれぞれにはさまれる丘陵の西側斜面)に集中している。これらの丘陵は西側斜面が急傾斜で東斜面は比較的緩い、非対称形をとっている。
 土柱が谷の西向き斜面にのみ発達する理由として、従来の説明に「地層の裂罅はその傾斜面および走(等?)高線に対し直角の方向に並列してできるので、地層が東または南東にゆるく傾斜しているために西側に崩壊・侵蝕を容易ならしめる」とあるが東側斜面に谷が生じない説明はなく、その意味は不明である。また「西方からの雨風に弱い」ことも「東南風の害をうけず、そのために西に保存が良い」こといづれも考え難いことである。

*氷河成堆積物の tilite/永河のはこんだ岩塊モレーンと氷河のすりつぶした粘土ティル,風化花嵐岩/風化して土壌化したマサ土と未風化の岩塊,集塊岩・角礫凝灰岩/凝灰質細粒物質と火山岩塊,また淡路島海岸でみられる鮮新更新統の砂礫層。

 土柱層の基盤岩の和泉層群の構造が北東―南西の走向をもち南東に傾いており、おそらく土柱層堆積前の地形はこの傾きをもった非対称(北西に急、南東に緩)のケスタ地形となっていたため、土柱層の厚さに不等を生じ(西・北西斜面に厚く)、これが刻まれていくとき南西に流下するものが地下のケスタ地形に沿って(南東側)へ偏ることになり、尾根の北西斜面が急となり、この斜面に土柱層が厚いことと相まって崩壊地の分布に偏りを生じたとも考えられる。
この様子は1/25,000地形図で読図されたい。

参考文献(一部)
金子史朗(1968):中央構造線は生きている?科学朝日、v.28、No.7、p.89〜93
湊 正雄(1970):氷河時代の世界、築地書館
中川衷三・寺戸恒夫・増田英俊(1968):徳島県美馬郡山川町〜麻植郡川島町間の後期第四系、徳島大学学芸紀要(自然科学)v.18、p.7〜3
岡田篤正(1970):吉野川流域の中央構造線の断層変位地形と断層運動速度。地理学評論、v.43、No.1、P.1〜21
須鎗和巳・中川哀三・大戸井義美・久米嘉明・東明省三・寺戸恒夫・日野雄一郎・細井英夫・山口昭典(1965):徳島県土柱・川島地域の第四系。徳島大学学芸紀要(自然科学)、v.15、p.14〜22
須鎗和巳(1972):吉野川北岸の第四系とその運動。岩井淳一教授記念文集、p.309〜318
寺戸恒夫(1967):四国吉野川下流右岸の地形。地理科学、No.8、p.28〜38


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