阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第18号
松尾川流域の隠居制について

藤丸昭

 はじめに           
 祖谷地方の隠居制についての報告は、すでにいくつか公刊(註1)されているが、そのほとんどが祖谷川流域地方のものであって、今回調査の松尾川流域地方のものは少ない。
 今回の調査地域は、松尾川流域、特に中祖谷とも呼ばれる三好郡西祖谷山村の内、小祖谷・下名・坂瀬・瀬戸内・春木尾、この諸部落(註2)に加えて三好郡池田町出合の山風呂部落の合計6部落である。
 中祖谷は、古くは前祖谷とも呼ばれ、東祖谷への通路であり、その当時は現在の三好郡井川町、その他への出入口として比較的便利な地域(註3)であったが、祖谷開道の開通によって、大正中期から、松尾川林道の開通までの期間は、祖谷地方でも特に不便(註4)なところとされていた。
 しかし中祖谷地方も、春ノ木尾ダムの完成と前後して開通した松尾川林道によって、交通は必ずしも不便とのみいえなくなった。
 すなわち、自動車を利用すれば三好郡池田町(阿波池田駅)へ2時間余の所要時間で到着することが可能となり、こんどの調査にも、地元で村議会に議席を有するM氏の自家用車、その他の車の出迎えによって現地におもむいた。このことは、松尾川林道の開通以前の小祖谷地方を知る者には、まさに驚きであった。
 戦後の日本社会の変革の中にあって、特に中祖谷は、松尾川林道の開通によって大きく変りつつある。この地方の民俗調査は、短日月に完成する性質のものではないが、従来報告の少ないこの地方の隠居制の調査が、大きな社会変化の途上であるだけに有意義であったと確信している。
 以上調査地域の順序に従って各部落別に報告する。

 註1 例えば「阿波の平家部落祖谷」(昭和31年1月20日発行)に多田伝三氏の「祖谷 の隠居制」の論文がある。
  また、竹田且著「民俗慣行としての隠居の研究」(昭和39年3月31日発行)「徳島県における隠居慣行」同書167ページから、などである。
 註2 「名」というのが適当かも知れない。「祖谷山旧記」によると、小祖谷は東(祖谷)12名のうちにあり、下名は、東(祖谷)の大枝名の一部(枝名)であったとある。
 註3 「西祖谷山村史(昭和34年刊)」によると「小祖谷は、往古は東西祖谷から辻方面に出る重要な地点であった」とある。(同書229ペ−ジ)
 註4 武田明著「祖谷山民俗誌」(昭和30年発行)によると「小祖谷は祖谷山でもよほど山深い地方であり……」同書4ぺージとある。
 


 小祖谷 小祖谷は祖谷36名中の1つであり、中祖谷の中心部を形成する。小学校と中学校(櫟生中学校小祖谷分校)があり、保育所もある。保育所の建物は、もと農業協同組合の建物であり、藩政時代の名主屋敷「お土居」と(現在も呼ばれている)は、小祖谷川(松尾川)を隔てた対岸ではあるが、この小祖谷の地にあった。いうなれば中祖谷の教育文化の中心部がこの小祖谷である。参考までに、小祖谷(小学)校の位置と生徒数(昭和46・8現在)を示すと次のとおりである。
  北緯 33度55分53秒
  東経 133度53分41秒
  海抜 845メートル


 また、小祖谷地方は、冬季、雪の多いところである。近くに腕山スキー場があることでもそれが知れるが、学校の臨時休校について次のような掲示があった。
 「冬季雪積多量、路面凍結により登校危険と思われるとき、積雪50センチメートル以上、30センチメ−トル以上で降雪が続いているとき、台風により暴風雨、増水、山崩れの恐れがあるとき」と生活の不便さを物語るようであった。
 小祖谷部落には、現在約20戸が数えられるが、意識的に隠居している家は2戸であり、職業(商業)のために隠居している形をなしている家が1戸、したがって2戸(±)1戸である。
 小祖谷部落で隠居している2戸のうち、1戸は1つの家屋の内部を区切って隠居している、いわゆる同居隠居である。
 他の1戸は、かなり離れた場所にあった民家を買収して隠居している、いわゆる別棟隠居である。
 まず前者であるが、この家族が、小祖谷部落への定住は、大東亜戦争中(「昭和18年位だったかえな」ということであった)であり、前住地は、後述する「山風呂」部落である。
 間取り図を示し得ないのは残念であるが、この近辺では大きい家構であった、家屋が大きければこそ、内部を区切って隠居できるのである。
 隠居した時期は、息子が結婚して、4、5年たってからであったという。
 子供は6人あったが、大阪・京都・鴨島・池田等に出て、おのおの独立して生計をたてている。
 隠居した時には、近くに売地(畑)がありこれを購入して、隠居分としたという、つまり財産を新期に購入追加しているのである。そしてこの購入分も昨年息子名義に登記して、弟たちには分散させる意思はないという。
 「隠居すれば経費は、かさみますなあ」と隠居している(親)側の発言であった。在所負担は、なるほど息子が負担するが、近在に死亡者があった時などは隠居しているからといっても、古い時代はいざ知らず、今日では、隠居からもあいさつに出るのが実態のようである。
 在所負担として、大祭に1戸前400円、小祭(春・夏・冬)200円の3倍、合計1,000円は最低の必要負担である。
 隠居の絶対条件としての、食事を別にすること、(別に茶をたべる、といっていた)歳とると気楽なのが何よりじゃけになあと、隠居は土地風(とちふう)を強調していた。
 後者の家の隠居の実態も、隠居してよい時期に売家があり、ここを購入して隠居したという。隠居前の家である「おもや」よりは松尾川林道に近く便利なため、息子夫婦(隠居制からいえば当主にあたる)も、すでに購入してある、別の家へ移って来る予定であるという。
 なるほど隠居にはちがいないが、まさに戦後形というほかない、しかしこの家には古くから隠居屋が別棟で存在している、土地風であると同時に隠居は家風ということができる。
 瀬戸内・春木尾 この両部落は、3戸と1戸が存在しているが、実際にはその半分で、隠居は存在しない。中祖谷ではもっとも春ノ木尾ダムに近い部落である。
 坂瀬 坂瀬部落は小祖谷から徒歩で約40分、11戸の部落であるが、隠居制については、この部落には、全く存在しないことである。老人(80近い方)からいくら聞き出そうとしても、古くから「隠居なぞしようかえな」と、坂瀬には隠居した家のないことを強調していた。
 隠居は土地風であるというよりは、部落(名)風でもあるようであった。


 下名 この部落は従来、中祖谷地方では農業には比較的に力を入れていたところであるが、写真のように過疎のまっただなかといった趣であった。
 ここの部落では2戸に隠居があり、大きな「おも」と「いんきょ」が存在し遠くから眺めるとき、まさに隠居制の模式を示すようであった。
 この2戸もすでに他郷に出て間取図もとり得なかった。他の家で聞いた話であるが、写真で示すO氏の家の隠居が「さほうにかなったいんきですわ、しもへむいてすわってみぎへ、いんきはたてる」という。
 山風呂 今回の調査で、もっとも印象深く、かつ収穫の多かったのは、三好郡池田町出合地区に属している山風呂部落であった。
 この地区の標高などは、小祖谷部落と、ほぼ同様であろう。概して個別各戸の生活は楽ではない。特に住居は、まさに日本社会の恥部をのぞかせている思いがする。
 松尾川林道の開通は、たしかにこの部落へも大きな恩恵となっているようであった。
 この部落と隠居制の関係は、各戸に『おも』と『いんきょ』が存在する事であった。すでに小祖谷部落のところで述べたように、O氏が山風呂の出身であり、O氏が親切に、山風呂部落の各戸に隠居が存在することを教えてくれた。
 小祖谷から山風呂部落への道順は、松尾川林道をバスで約10分くだり「マスブチ」という停留所で下車して、かなり急な坂道を約40分ほど登ると行き着く。
 部落に入って間もなく「三好郡池田町出合小学校山風呂分校」があった。


 昭和46年9月現在、在校生5名、すべて男子ばかりであった。中学生は、既に述べた小祖谷校へ3名が通学している。
 ここの校庭で小休して「山の下草刈り」に出むいて留守の家の庭を通って、次の家へと調査を続けた。
 小祖谷部落でも多少の事例があったが、ここの部落の道は、必ずといっていいほど、家の庭が、部落の通路をかねている。
 この部落8戸のうちで、実際に現在「隠居」している家は2戸である。
 過疎のために、大家族でなくなっているためである。
 間取り図がほしいのだが、ほとんどの家が山仕事に出て留守であり、不可能であった。


 この部落では、全くの格外の上位生活者であるS氏宅には、今年80才の高齢の「おばあさん」が気持よく迎えてくれた。気品に満ち内に気迫を秘めた、この「おばあさん」の説明を要約して示せば次の通りである。
 このおばあさんは、10年間位おしゅうと(義母)と同居していて、おしゅうと夫婦が隠居したように、自分も約10年間位、息子夫婦と同居して、孫が出来た(誕生した)ので、孫をつれて隠居したという。
 ここの家では、少なくともこのおばあさんと、その親の2代は、孫が何人か誕生して、その孫を隠居屋につれて出て、隠居していることである。
 若い夫婦が、ぞん分に仕事が出来るように、老人夫婦が孫の世話をする事は、当然だとしている。
 おばあさんは「そらあのう、家、家によって違うぞよ、べつに、家けんべつに隠居のしかたは、いっしょじゃないぞよ」と話してくれた。
 したがって、耕作にしても「おもや分」と「いんきょ分」と、きまりはないという。
 なるべく耕作しやすいところ「ええなるみのく」(註5)を隠居分として耕作するという。
 また「孫をもるけに、食うものは、皆おもからもってくる」ともいう。
 このおばあさんは「なはささんけんど(註6)、隠居しても、もっとおもをみても(註7)よかろうとおもうても、そうでないくもある。子供をつれて、畑へ出るのはあぶない」と隠居の実態は、まさに当事者個別の形と内容であることを強調していた。


 このS氏の隠居屋は、図のように4間に3間という、ゆうに1戸として生活出来るほどの大きさであり、生活の豊かさを示している。


 代々の人たちは高い識見を持っていたのであろう。この家もこのおばあさんの孫は、愛媛県へ土地(田7段)を求めて出て行き、その土地で、兼業農家を計営している。
 したがって、この家にはおばあさんと、息子夫婦の3人が、面白いことに隠居屋で同居しているのである。
 「おもはひろうてしょうがないけにのう」という。
 過疎の中の隠居制の哀れさでもあり、世の変化に対応した生活の実態でもあった。

 おわりに
 以上・松尾川流域の隠居制について述べて来たが、徳島県内で、隠居制の存在する地方は、木頭・木沢・上那賀といった交通不便の地方であることは、松尾川流域でも同様であるが、このように辺地の生活の知恵の表現が隠居制となっているといえるようである。
 隠居している人たちの声は一致して「としとって気楽に」ということであった。
 また隠居するということの絶対条件の第一が「火をべつにする」とか「しょたいをべつにする」という言葉が示すように、炊事・食事を別にすることである。
 食べ物、食事を別にする事が、老後の気楽な生活に直結しているようであった。
 次に隠居は、地方別でなしに、もっと小さい区分の、部落(名)別に存在するところは存在し、部落(名)によっては全く存在しないところもあることが今回の調査で確認出来たのは、坂瀬部落で述べたが、収穫であった。
 第3に、隠居出来るということは、ある意味では、経済的に、近在の他の家と比較して豊かな家に多いということである。この事は、小祖谷部落の事例が示している。
 また、いわゆる閑居は、松尾川流域には全く存在しなかった。

 註5 傾斜のゆるやかなところの意
 註6 名前は指してはいわないがの意
 註7 おもやの世話をしてもの意


徳島県立図書館