阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第18号
松尾川流域の婚姻習俗

岡田一郎

 出合から松尾川をさかのぼり、春ノ木ダムに通じる道は、今もなおけわしい。とくに、竜ケ岳から山風呂・日比原・下名・坂瀬・小祖谷・瀬戸内など、山峡に点在する小集落は、秘境祖谷を代表する地域であるといえる。昭和46年8月下旬にこの地に入り、主として、婚姻習俗について調査した。
 祖谷山には、聟入婚の習俗が残っているという話を聞いていたので、興味深く山中に入ったが、すでに消滅していて、期待していたほどの資料を収集することができなかった。
 しかし、皆無ではなく、聟入婚の片鱗らしきものとか、その他この地域の特色とみられる婚姻習俗など、得るところが多かった。
 聟入婚は、古い婚姻形式で、男が女のもとへ通い、婚姻成立祝を嫁方であげ、婚舎もある期間嫁方におくものである。このように、聟入婚とは、嫁方に主体がおかれた、女性上位の婚姻習俗であった。しかし、中世以降男性の権力が強くなり、封建時代の到来によって、完全に男子中心の嫁入婚となった。
このように、大きく変容した婚姻習俗も、戦後の自由主義モラルによって、封建型嫁入婚が崩壊し、次第に婚姻における女性の発言権が、強くなった。こうした時化において、古い型の婚姻習俗を、秘境祖谷山村に求めてみたい。
 聟入婚は、村内婚を原型としたもので「よばい」の風習と関係が深い。
 祖谷山地方では、近年(明治の末年)まで「よばい」の風習があった。祖谷の粉ひき唄の中にも、
 臼よ早まえ廻ってしまえ
 外じゃよばいどが待ちござる
 夜這人が夜這人が外じゃ
 外じゃ夜這人が待ちござる
とあるように、かなり盛んであったことが推察される。聟入婚は、このような「よばい」からはいるのが普通である。
 若連中は、村のお宮や納屋の一間をかりて若者宿をつくっていた。ところによれば、娘宿のつくられていた地方もあるが、祖谷山は、娘宿の跡はみられない。単調な山村においては、若者の楽しみというのは、夜娘のいる家へ、数入が連だって遊びに行くことであった。新麦がとれると、娘が夜なべに粉をひくが、その仕事場が若者たちの集会所となる。ときには、大根やごぼう、いもなどを各自が持参して、ごもくすしをつくったり、雑水を炊く。このような食物を「メオイ」というが、若者たちはこのようなものを食べながら、歌合戦をしたり、また食べくらべもおこなわれた。
 男女の交際は、このような場から発展していくのである。こうして男たちは、娘の家をあちこちしているうちに、やがて嫁候補をみつける。相手がきまると、若者組の承認において、1対1の夜あそび、すなわち「よばい」がはじまるのである。このような「よばい」は、半ば社会から容認されていて、けっして猥せつな目でみられることはなかった。このような男女交際が、両家の親によって認められると、初智入りの式が簡単に嫁方でおこなわれる。これが、足入れというものである。この段階までくると、公然と男は、娘の家へ毎夜かようようになる。これが「妻問い」である。「妻問い」の期間は、聟方の家庭環境によって多少異なるが、聟の親が隠居するまで続く場合が多い。祖谷山地方では、隠居制がはっきりしているので、親の隠居祝いと、嫁の家入りが同時におこなわれるケースが多かった。すなわち、古い時代においては、嫁は主婦としての座が与えられるような環境になってはじめて、聟の家に入っていたということがわかる。このように考えていくと、祖谷山地方における「隠居制」は「聟入婚」と密接な関係をもっていたことが理解される。
 現在は、どの村とも完全な嫁入婚であるが、祖谷山地方においては、結婚式の当日、聟が嫁の家へ行く。そして、しばらく嫁方の親類の者と話をかわした後、嫁より一足先に家に帰るという方式をとっている。この方式は、古い「妻問い」すなわち足入婚の片鱗と推察されるのである。
 今日では、たいていの地方では、両家の出合による結婚式がおこなわれる場合が多い。聟が嫁を迎えに行くとしても、途中までか、全く形式的なものになっている。
 その外の特色として顕著なものをあげると、嫁入の年令が早いことである。
農山村では、早く新しい労働力を得たいという意図から早婚が多かった。この地方は、江戸時代に入り、聟入婚の片鱗を残しながらも、逆に嫁入婚の要素が強い面もある。嫁を貰うことを「嫁を雇う」とか「手まを貰う」とかいうことばが残っているのは、労働力の充足手段として早婚が強制されていたとも考えられる。祖谷山にのこる唄に、
 今年しゃ 十三 こらえておくれ
  あけて 十四で 身をまかそ
 このように14、5才から嫁にやられたのである。早婚のもう一つの原因として、この地方へは多くの流れ者が来て、娘を傷つけられる恐れがあったので、娘の保護のために早く嫁にやった、という説もある。
 通婚は主として、村内婚であるが、豪士や木地屋は同族結婚であった。とくに、木地屋との通婚はむつかしかった。木地屋は、惟喬親王の末裔であるという気位があった。そして、何かしら一般の人々との間に壁があったが、美人が多かったので、ときどき木地屋との婚姻もおこなわれた。その場合、式の当日聟が嫁を縁側へ連れ出し、3回足で花嫁を蹴るのである。こうすれば、木地屋が平民に落ちたということになるらしい。こうしなければ男が夭死するといわれた。この風習は、近年まで残っていたらしい。(祖谷山物語)
 急斜面の畠地で、そばやひえを作って暮していた山間農民の生活は、常に苦しかった。そのため・結婚の結納なども、いたって質素で、聟の方から、そば2升か酒1升、または木棉1反を結納品として嫁方へ贈るのが普通であった。また、嫁入道具も自分の家で織ったあわせや、ひとえの着物を2、3枚と、鏡をこうりの中へ入れて持参していた。
 また、嫁が家を出るときは、空砲をならす風習があった。これは、途中山賊におそわれないようにという魔よけと祝いの号砲であったものと考えられる。
 披露宴は、たいてい3日かけておこなわれた。第1日目は、本祝(親類の者を主とする)2日目は、在(ざい)祝(土地の人々を主とする)3日目は、わんあつめ(わんや膳のあとしまつをした後で手伝女の慰労会)の3回にわたる。この地方の人々は、こんな祝いごとがあると「腹一ぱい振舞う」というが、常は栗や稗の粗食なので、米や麦は、特別食として珍重がられた。
 また、披露宴の最中に、村の若者が、大きな徳利を、何回となく差し入れる。すると、それに酒をつめて、振舞うという風習があった。
 また、他村へ嫁に行くことを惜しむのか、村の若衆が、途中で待ち伏せて火を焚いて道を通さない、ということも暫々あった。
 その外に、この地域には、結婚後3年たっても嫁に子がない場合「石女(いしずめ)うまず」といって嫁を実家へ返す風習もあった。
 子どもには、必ず「筆の親」をつける。これは、現在でもおこなわれている特殊な風習である。筆の親は、たいてい村の名士がなり、その子の生涯における精神面の教育に当る。そして、男は15才、女は13才になると筆の親から、男は六尺褌1筋、女は赤い腰巻1枚が贈られる。これは、一人前になったことを祝い、言動に責任をもたせるということである。筆の親は、長い人生の間におこる様々な問題について、よき相談相手であり、親身な助言、指導者として、貴重な存在である。この筆の親のしきたりは、祖谷山地方にのこる最も高度な習俗として注目される。


 阿波の南方で生れ、育った私にとっては、祖谷山の人々の生活は、みるものすべてが珍らしかった。それほど阿波においても、南と北は異なる。祖谷山には、南方の人々が想像もつかないようなきびしさがある。遠い昔から、この山峡を開き、それを今日まで守り続けてきた入々に頭が下がる。そして、その人々が生活の中からつくり出した風俗や習慣に大きな共感を覚える。
 古びた母屋と隠居、中には別棟をつくることが出来ず、母屋を戸板でしきった同棟別世帯の隠居もあった。急斜面の山畑を子どもを背負って耕作するおばさんにも出合った。やっとたどりついた山上の茅葺の1軒屋は、すでに主が山から出て廃屋となっていた。こうした現実を目あたりにみて、秘境祖谷はやはり悲境であると痛感した。
 私のために、不自由な体をいとわず話してくれた谷口タケさん(99才)山畑から、わざわざ仕事の手を休めておりてきて話してくれた水口さん。山風呂の山頂で、かくしゃくとして生きておられる佐古タツさん(89才)この人は、嫁にくるとき、はぐろを染め、子どもができると、眉をそりおとした人である。この人たちの、ご厚意に対し深く感謝申し上げたい。また、祖谷山に関する数々の民俗資料を提供してくださった小西国太郎氏に深甚の敬意を表して、調査報告を閉じたい。


徳島県立図書館