阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第18号
松尾川流域の庶民信仰の一端

民俗班 荒岡一夫

 

 1 氏堂
 中祖谷地域には別表のように六部落にそれぞれ氏堂が建てられている。


 中祖谷のみならず、剣山周辺の山村には各部落に1〜2の氏堂が建立され、主として茅葺きの屋根で、大きさも2間〜3間四方の構えでなかには四本柱だけの吹抜けの素朴な氏堂がある。建物が小さく吹抜けの構造が原型であるといわれているが、この地区には吹抜けの氏堂はない。
 地域独特の信仰施設は外来者の興趣をそそるもので民俗学上の貴重な資料である。
 

(1)氏堂の呼称
 中祖谷地域のお堂の棟札を調べることができなかったのは残念であるが、美馬郡貞光町端山の長瀬の堂、大正14年の棟札に「奉長瀬氏堂再建云々」美馬郡一宇村出羽の堂、大正10年の棟札に「氏堂建築云々」と記されている。
 那賀郡沢谷では「氏仏」(本尊)を祀っているといい、美馬郡一宇村でもお堂でまつる古い地蔵を「氏仏」といっている。小祖谷地区でも「氏仏」という語を採集した。
 また麻植郡木屋平村では46の堂のうち、棟札2枚に「氏子建之」、惣氏子の語が二枚に記されている点などを総合して考えると単に「お堂」というよりは、個性をあらわす点から「氏堂」と呼んでみたい。
 氏堂の研究については、笠井藍水先生が一部を発表されている。
(2)氏堂の具体例
 氏堂が何故発生したか。山地の各部落に分布しているのを見るにつけ、その建立については経済的負担を要することであるから、その底流には強い信仰的基盤が存在しているに相違ないと日ごろ考えていた。
 書物を調べ古老や研究家にたずねていたが、十分なる解答を得なかった。最近京都市の竹田聴州氏と広島県の赤田光男氏の二論文(日本民俗学)に接して解決への道を見出したのである。次に赤田氏の論文を抄出して資料とする。
(3)広島県世羅郡世羅町の実例
 イ 平野家(本家)……家号(ジョウコウジ)
 初代、太郎左衛門、戦国時代近江国より広島へ入村、屋敷内に観音堂(横二間、奥行二間半の茅葺)本尊は千手観音、開基は初代太郎左衛門(法名花翁)である。
 延宝6年(1677)の再建棟札があり現存する。
 先祖代々加古帳の奥書が残存し貴重な史料である。それによると、建立の目的は、自己の精進修養と自家の安康と招福、菩提の追善供養となっている。
 この観音堂は中世在地土豪の持仏堂で寺の楼小化した性格と考えられる。
  ロ 平野家(分家)……家号(ワクヤ)
 本家14代次兵衛後分家し弥一郎が始祖。宝暦11年(1761)7月1日より仏堂再建の寄準受付を開始し完成は同年8月14日である。
 「堂再建之諸事控帳」によると、寄進者は多数におよび、松・杉・桧材、竹・縄・かや等の建築材料と人夫の寄進、さらに食糧として、麦がほとんどで米はきわめて少い寄進が見られ、銭も僅かながら記されている。
 祭祀の石仏は、父・母・娘の化身と伝えられ、薬師如来と地蔵菩薩像も併祀されている。分家新設の時点で「家」の独立とそれにともなう菩提供養の必要性が見られる。仏堂再建の経過から中世庶民の仏堂建立の過程が類推される。
 仏堂は弥一郎一家の「詣墓」そのものであり、分家設立に際して建てた仏堂は祖霊供養の場としての性格が源泉である。のみならず建立に際しては地域住民の多数が参加し、平野家分家仏堂はさらに機能的に地域の惣堂的性格をおびている。
 ハ 広島県の「ドウサン」……世羅郡、御調郡
 仏堂を「ドウサン」とよび、いずれも一間四方の吹抜小仏堂である。内部奥の中棚には石仏又は木仏をまつている。
 「ドウサン祭り」は盆を中心とした日に仏堂でおこない、仏堂の周囲では盆踊りをする。いわば「ドウサン」は、群遊する霊魂の供養場として象徴的に位置づけられる。
 仏堂発生以前に仏堂と同様な機能をはなしたいわば仏堂の祖形としての霊魂祭祀の場所があったであろうことは想像にかたくはない。それは石塔発生以前の「詣墓」的性格を存したものであり、「埋墓」に石塔の建てられるのも近世中期以後であることから、近世中期以前には仏堂ないしその原型と埋墓でもって、両墓制にかわる信仰形態をもっていたことが推察される。仏堂が詣墓的性格であった事を示す手がかりに、仏堂を「ケイショ」と呼ぶ伝承が残っている。
 仏堂の地域社会における機能は、仏教伝播、寺院の開創、さらに庶民の葬祭儀礼の問題等が関連しているので注目すべきことである。
(4)氏堂の特色
 特色としては次の三点があげられる。
○庶民の建立にかかるものが多い。
○庶民の祖霊信仰が濃厚である。
○僧侶が拠点として伝道活動を行ない仏堂を寺化するケースが見られた。
 (古文書からみて)
次に氏堂の背景を考えると
 「家」の葬祭儀礼の活発化が見られるにいたった。
 郷村制の移行は家の台とうとなり、氏堂は氏寺と檀那寺との中間的存在とみられ一定の宗派に属していても、単独に存在し総代が世話し、きわめて低次元で一間四方の、吹抜けの草堂として庶民信仰の恰好の対象となっている。
 全国津々浦々に分布して、祭祀本尊をもって仏堂の号としている。
 また個々の建立の絶対年代はつかみにくい。
(5)剣山北側山地の氏堂
 剣山周縁山地の氏堂の徳島県についての分布状態はすでに発表された文献によると
 美馬郡一宇村 30
 〃貞光町端山 25
 〃半田町八千代 23
 〃穴吹町口山 20
 〃〃古宮 26
 麻植郡木屋平村 46
 三好郡西祖谷山村 24
 海部郡 115
 那賀郡木頭村 27
 高知県四万十川流域 10
 〃仁淀川流域 数ケ所
 剣山北側山地に多数分布しているが、さらに海部郡にも原形のものが存在している。本県他地域の調査報告がないので実数はつかめないから今後の調査によらねばならぬ。
 また、高知県にも上記のとおりの結果が出ている。


(6)木屋平の氏堂
 木屋平村史によれば、46の氏堂が挙げられ詳細な調査が行なわれている。
それを分析してみると
  地蔵堂 14、観音堂 9、阿弥陀堂 7
が主なものである。
 建立年号は、享保年間 8、元禄年間 5、宝永年間 3、明暦、正徳年間……となっていて、焼失などで不明なものが4である。
 また、個人で氏堂を建てているものに
 中川家の天行院大師堂、川原家の川上東川原堂、岡田家の太合奥松堂(現在は部落共同でまつる)の三氏堂が存在することは注目すべきである。前述広島県平野家の実例と考え合せた時、本県にも分布している事を知り、さらにその実態究明へ努めねばならぬ。
(7)祖谷紀行
 氏堂の機能などを知る上に祖谷紀行を参照する事も大切であると思う。
 祖谷紀行は寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が祖谷を旅行した時の紀行文である。
 それに出て来るお堂は貞光町内と思う。
 26日、朝に貞光をたちて西南高山にのぼる。その山いとさかしく巌牙ありて、いたく足をかむ。汗をし拭ひやうやく嶺に至れば、凡そ五間ばかりの辻堂あり。
 之を里人に問へばあら玉の年の始ごとに、そのあたりの土人各々酒さかなもたらし、ここに打ちつどひ、かたみによろこびいひ、日一日夜一夜、えらえらとえらぎうたひ舞ふといへり。
 万葉にいわゆる筑波山歌会にほゞ似たり、深山なれば古風の残れるにや―。この紀行文から当時、いやそれ以前から、正月の喜びを部落民一同、氏堂に集まり酒食持参、祖霊の前で相会し祖霊と共に交歓し、新年を迎えた行事には氏堂の古き姿がしのばれる。
 なおまた、海部郡山間のある氏堂は方一間のきわめて小規模であることは氏堂の原型が残されているのではないかと思われる。この小氏堂もまた調査しなければならぬ。
(8)氏堂の発生
 氏堂の発生については既述の諸点から考えて、つぎのように考えられる。これを足場にしさらに採訪を多くして実態を明らかにしたい。発生は詣墓的菩提所で、部落の景観のよい集会に便利のよい地点を選定し、聖地で諸祈願をしていたが、やがて草葺小堂が建てられ、日ごろ帰依する石仏の本尊を安置して、先祖への祈願の建物となって表われた。
 この素朴な祖霊信仰は藩制時代に入り、キリスト教禁制と仏教重視の保護政策の実施から庶民は地縁的な講組の機構で氏堂の寄進建立となったと思われる。僧侶の指導もあったと思うが、経済的に安定してきた元禄時代頃より各部落で建立されたのが棟札などで明らかである。
 大部落では氏堂を2ケ所に建てたり、7、8戸の小部落でも建てた事を考えると、信仰の中心施設として競うが如き風潮が察せられるが、当時の庶民負担は大なるものがあったと思うが、厚い信仰で克服し、建物の修築、屋根の葺替等の管理がよく行なわれ整備されて来て氏神とならぶ信仰施設となっていた。
 あくまで根底となった力は祖霊の信仰心で、祭りも盛大に実施され、中祖谷地方では旧盆のゴマ供養が今に続いている。
 また那賀郡沢谷地方では盆に「火とぼし」の行事をなし念仏供養をしているという。
 盆踊りもいまはすたれているが太平洋戦争前までは氏堂の庭で「まわり踊」が行われ先祖の霊の供養もした。
 祖谷紀行の正月における氏堂の行事なども古い祖霊信仰の重要な形式であったのであろう。そのほか、春の彼岸の氏堂における巡拝者への接待などにも素朴な信仰心が表われている。農業の豊作の祈祷所となったり、夏の害虫退散の祈願をした資料もある。氏堂と村人がいかに深く結びついているかの証である。氏堂には堂守り、庵もり、庵坊と呼ばれる人が住んで日常の堂管理につとめているところがあるが、無住の氏堂が多い。
 山村を旅行する人で旅宿のない時、この氏堂で泊って旅をしたが、現在でいえば無料宿泊所の用をはたし、村人もこれを認めていたという話しが多く残っている。

 2 熊の墓
 小祖谷の宿舎で熊の墓があることを聞くと私の心は強くひかれた。坂瀬部落は下名部落の対岸にあり、昔は20戸あまりあったが、現在は過疎化の波が激しく10戸に減少している。
 「熊の墓」は小祖谷橋(旧蔓橋)を渡り坂瀬を過ぎ東祖谷山村大枝に通ずる旧幹線道路に沿い、坂瀬部落のはいり口の尾根に祀られている。


  墓の高さ 約75cm
  〃幅 20cm
  〃厚さ 4cm
  墓石 緑泥片岩(青石)
  墓の上部 梵字一字
  建立寄進者 宮前吉之助
  〃年号 記銘なし
 部落の83才の宮前老姿は、むかし部落の人が山猟に行き熊を撃ち殺した。ところが宮前さん(現在は転住して不在)の家に熊がたたって娘が「火でんか」になり、病気が治らないので祈祷師に拝んで見てもらうとそれがわかった。宮前家では早速、熊の霊をおそれ供養のためにこの熊の墓を建てたが、てんかんはなおらなかった。熊のたたりは宮前家だけでほかの人には出てこなかった。
 私たちの若い時、冬は部落の人がおおぜいで犬をつれて山猟に行ったものである。たぶん宮前さんの鉄砲の弾丸で熊が死んだので宮前さんだけにたたったのであろうと話された。
 これは明治のはじめ頃のでき事と思うとつけ加えられた。
 熊は畜生の王様、霊獣で人間につぐ位を持っていると猟師仲間では信ぜられ死後の霊力を非常に恐れ、丁重にまじないをして始末していた。熊をおそれる狩猟の儀礼があるが、まざまざと熊のたたりを実証する「熊の墓」の存在は狩猟習俗として貴重な資料である。
 祖谷地方に熊ケ谷、熊の岩屋の地名があるように熊が棲息し、特に名頃地方に多いといわれている。祖谷山の峠を越す時、一ばん恐しいのは熊との出逢いだといっている。もし山中で出逢った時は「熊ぶち」という黒くて太い蔓を切り熊に投げ与えると、熊は「棒ねじ」といって丸太木をねじ折る習性があるので、熊が蔓を折ろうとするがなかなか折れない、そのうちに逃げるとよいといわれている。
◎熊の呪法
 東祖谷山村の名頃では熊を捕えると、頭を取りその口に角石(かといし)をかませ、大豆を黒く煎って「この豆が生えたら石をかみ割って出てこい」と唱えて埋めるとよい。それでもたたった時は西山猟師の虎の巻物を買って来て埋めるとたたりがない。(旅と伝説、山田隆夫氏)
 高知県香美郡物部村の中山氏によると、熊をうった時は首を切りとって埋める、熊は畜生の王であるからたたらぬよう「西山の法」を施す。それは西山流の巻物を開いて熊の首にかけ「我は西山猟師に撃たれたからたたるな」と唱え、秘かに山中に首を埋め石をのせておいたという。
 また美馬郡一宇村平井熊太郎氏は、熊は月の輪があって位が高いので、熊を撃った時はすぐ「月の輪をうったぞ」と呼び、そして自分のしていた6尺の褌をといて、熊の顔をつつむ。これは月の輪を腰のもので巻いて汚してしまい、その霊力を弱めるためにするものだと話された。
 熊の体に手をかける(解体)時はまたまじないがある。
(3つの話しは千葉徳爾氏著の西山猟師による)
 熊は足の裏から、つめ、血、内臓等すべて捨てるところがないといわれる程重宝がられたものである。

 3 いはい滝
 松尾川下流の左岸細野部落の近くに「いはい(位牌)滝」と呼ばれる断崖があり、30人ぐらいの人がはいれるいわや(岩窟)がある。
 このいわやには人間の霊をまつる位牌があるので土地の人は、この断崖を「いはい滝」といい次のような哀しい話しが伝えられている。飢饉の時老人に3日分の弁当を持たしてこのいわやに若い者が負うて行き、わかれをつげてそのまま帰る。老人は弁当を食ったあとは「かつれ死(飢え死)」した。やがて位牌を持って若い者がたずね老人の霊を慰めたという。山村に痛ましく残る「姥捨伝説」である。小西国太郎氏の調査によれば、東祖谷山村釣井、元井両部落は「骨の谷」という小さい谷があり人骨が出たといい、切り谷の「くさり谷」にも人骨がたくさん出た「いわや」がある。
 以上のことから説話の背景を考えたい。江戸時代の百姓は代々一つの土地に定着し、親ゆずりの農業で領主からきびしい収奪を受け、その上周期的に飢饉がおそい苦しめられた。飢饉は今では想像もつかぬはげしい破壊力をふるい、生産力が低く、粗食の日常であった百姓には凶作は生死の問題に直面し、その年の冬をいかにして起すかは家長の深刻な悩みであった。
 飢饉の歴史をみると、享保17年(1732)の大虫害(イナゴ、ウンカ)天明4年(1784)の暖冬と冷害、天保8年(1837)の長雨等による大凶作には多くの餓死者を出し、天明4年の記録では全国で90万人に達したという。
 飢饉のあとにはかならず悪疫が流行し、重なるパンチで百姓は死を待つばかりで、貧しさ苦しさのために「口べらし」として、働けない老人を捨てたり、堕胎、間引、捨子等の悪習が行なわれたのも止むを得ない手段であった。棄老伝説は貧窮以外に日本人固有の「死穢の恐怖」の風習も影響している。深沢七郎の「楢山節考」の祖谷版が存在していた。美馬郡一宇村にも二ケ所で採集しているが、紙数の都合で詳述できないのが残念である。

 4 地蔵尊
 中祖谷地域には下表のとおり地蔵尊が祀られている。尊像、刻銘、霊験、縁起等について特殊なものは見かけない。
 地蔵信仰については前年度発表したから省略する。なお、地蔵講、地蔵踊りも行なわれていない。

 

 5 庚申塔
 各部落に庚申塔が造立されているが、特色ある庚申信仰には接しなかったが、七庚申をおがむと願ごとがよくかなうといわれる。


 6 その他
 紙数の制限から下記について詳述できないが項目だけをあげた。
○雨ごい……大きい竹の笠をかぶり秩父神社で踊る。
 小祖谷に「雨ごい岩」があり女だけが踊りをする。
○お伊勢講とふれまい……伊勢から帰って大きなふれまいを3日もした。
○喜多家(名主)と山の神……家の守り本尊として屋敷の四方に山の神を四祠まつる。
○いの子……昼は子ども、夜は若い衆がまわる。
 祝はぬ人は鬼もうけ、蛇もうけ、つのの生えた子もうけと叫んだ。
○千人講……牛・馬の死亡の時部落の人の共済機関。
○のろい人形……藁でつくりいまも行われている。
○葬 列……六道を路傍へおく。
○地神祭り……先祖の墓参もする。
○添 水……第二次大戦後まであった。
○ぬけまいり……出雲大社へもした。


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