阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第18号
近世祖谷山における土居体制の変質過程

三好昭一郎・板東紀彦

 はじめに
 私たちが祖谷山調査を実施するに当っての最大の目的は、幕藩体制の基礎構造をなす「小農民経営」Kleinbauernwirtschaft が、辺境村落としての祖谷山において、どのような過程を経ながら貫徹されていくかについての、具体的な史料を検討するところに置いていた。
 徳島藩内でも、祖谷山は、きわめて特殊な社会構造を長くのこした山村であり、その社会構造の集中的表現としての「土居体制」すなわち名主による名子・下人にたいする階級的・経済的な恣意的支配体制について、私たちはその歴史的社会構造の分析をもめざした。


 さらに「土居体制を支えていた祖谷山特有の土地制度と賦役制度が、煙草を中心とする商業的農業の展開に伴う貨幣経済の辺境地域への浸透につれて、土居ウクラード(уКЛаД)がどのように変質されたか、また土居を頂点とする村落共同体(Dorfgemeinde)をどのように変化させていったかについて、農業経営形態の変化に視点を据えつつ、土居体制の解体過程を把握したいと思う。
 このたびの調査対象地域である小祖谷名は、残念ながら実証的な史料にめぐまれず、調査研究条件の劣悪さに規定されて、小祖谷名における土居体制の解体過程の追求を目ざしながらも、同様の歴史社会的条件下にある祖谷川流域の村落からも、側面的な史料を得つつ、主要課題にアプローチしようと考えた。
 これまで社会経済史の方面から、祖谷山の研究に本格的に取組んだ成果としては、戦前にあっては桑田美信氏によって、名子・下人の存在形態についての報告(1)があり、戦後になって井内弘文氏による名子制度の成立と変質過程(2)について、多田伝三氏の隠居制度(3)をはじめ、大槻弘氏(4)や筆者(5)の若干の論考を数えるにすぎない。私たちはこれらの成果を踏まえつつ、可能な範囲の史料を得て、近世祖谷山の展開過程を明確にしていきたいという立場で努力した。さいわい東・西祖谷山村役場をはじめ、村内の素封家や経験豊かな古老の方々の絶大なご協力によって、一応の成果を挙げ得たことをうれしく思うとともに右の方々に調査者一同心から深謝の誠を奉げるものである。
 注(1)桑出美信「阿波祖谷山の名子百姓と下人」(「帝国農会報」昭和6年8・9月号)所政
 (2)井内弘文「祖谷における名子制度」(祖谷刊行会編「祖谷」)所政
 (3)多田伝三「祖谷の隠居制度」(前掲「祖谷」)所収論文
 (4)大槻弘「阿波藩の藩政改革」(堀江英一編「藩政改革の研究」)所収論文
 (5)拙著「阿波の百姓一揆」(KK出版刊)、「天保十三年徳島藩百姓一揆」(三一書房刊「日本庶民生活史料集成第13巻」所収)

 1 小祖谷の現況
 今日の小祖谷は、池田町の経済および文化圏に包含されていて、西祖谷山村役場に行くより、池田町に出る方が交通上も便利である。こうした背景から分村しようとする空気も感じられる。村の主流である祖谷川流域の開発がすすむにつれて、小祖谷は取りのこされていく感があり、1950年代に約100戸あった戸数が、今日では60戸ほどに減少しており、小祖谷は過疎現象の真只中にあるといえるであろう。
 その生業について観察すると、傾斜地にしがみつくようにして執念を燃やしつづけた畑耕作をやめて、杉を植林したり、その住民の大半が林業に転換したり、林業労務者や採石に従事している。とくに後者は年間通して就労できて、1日当り2,000円ほどの賃金を得ている。
 山林の所有状況をみると、地元住民は零細所有で、郡内三加茂町の山口、峯川家等が集中的に所有している。その原因は後述するが、旧土居の喜多家が僅か2,000円ほどで昭和初年に売却したことによる。
 この喜多家は、地元で「お土居さん」とか「且那さん」とよばれ、祖谷全山の政所であった喜多源内家の一族で、昭和初年までは「山八分」といわれ、小祖谷における山林の約80パーセントを所有していたので、喜多家がその山林を村外に売却すれば、どうしても今日のような所有状況とならざるをえなかった。
 祖谷山全域の商業経営者は、その大半が江口や加茂から移住してきて店舗を構えていて、祖谷山の土着住民は商業に手を出したがらないことが多かった。商品流通の面から小祖谷をみると、昭和初年までは辻や井内から水口峠を越えて商品が、人の背や肩で運搬されていた。池田町の流通圏に入る前である。辻や井内からの運搬人は、いったん小祖谷に集荷され、さらに「中持ちさん」という村内の運搬人が東・西祖谷に運ぶことになる。そのように小祖谷は里分からの入口に当っていたので「前祖谷」と称し、それにたいして祖谷川筋のことを「奥祖谷」とよばれていた。

 2 古老の語る歴史的小祖谷
 私たちは、明治初期ごろの小祖谷名が、藩政期と比較して大きな社会・経済的な変動がなかったという仮説を実証し、さらに本論を展開するための契機を把握したいという構想のもとに、明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)に登場してもらった。その聞き書の記録全文は、ここでは残念ながら掲載できないので、とくに重要な一部分を整理して紹介してみよう。


 (1)小祖谷名の土居喜多家について
 「みなが、お土居さんいうてな、お土居さんのうちをお屋敷っていよりました。そらもう私ところの真向いの竹薮にびっくりするぐらい大きい屋敷でした。お土居さんは、お役をお勤ンなるときは、刀を1本は腰に差して、長いのを1本手にさげて出掛けとりました。私やの若いときは、小祖谷で小作のシ(衆)は7〜8軒でな、あとは自作やった。私ンとこは小作しとりましたけん、お土居の麦刈り、麦落し、お田植えのお手伝いにいきましたし、何ぞごとがあったら、お土居さんから小作のし(衆)を呼び集めるんです。きょうは何それしにこいよっていわれたら、何しよってもいかないかんのじゃな。ほんでも小作のしはお土居さんの構いですけんな、お田植え祝いやかしにはよんでもろうて、ほら楽しかったがな」これで小祖谷名の場合にも、祖谷川流域と同様に、大半の農民はすでに自立していた状況がわかるとともに、小作人は土居への隷属にむしろ直臣的プライドをもっていた様子の一端を知ることができた。タケさんの話題は喜多家の歴代におよぶ。
 「私の知っとる且那さんは宇之助さん、ほのつぎが吉之進さん、吉之進さんの子にタツっあんと、武一っあんちゅう兄弟がありましたが、兄弟してお屋敷をつぶしてしまいよりましたんじゃ。しまいに広い土地を抵当に入れて政府(?)から借金しましたんじゃが、よう払わなんだもんやけん、政府(?)は小作のし(衆)にお土居さんの土地(小作地)を買取れってすすめられましたがな、私んとこは毎年10円で15年で払うたらええのに、ほれを買えんと村を出た小作のしが4軒あったと覚えとります。明治の終りごろですかいなあ、ほのときから自作になりました。そのときお土居さんの屋敷がつぶれなんだら、私ンくの山やかいあれえしまへんでした。」
 「お土居さんの年貢はな、毎年且那さんが大小(刀)差して検見しました。ほんで男し(衆)が年1回お金で持っていっきょった。」タケさんも、こうした点については、十分記憶してないので、詳細を聞き出せなかったが、要するに土居の経営形態は、幕末から明治期にかけて、広大な伐畑を含む手作地の耕作を譜代下人の負担する賦役労働によって行い、また譜代下人(小作衆)からの現金による年貢収入を基礎としていたことは明らかである。
 (2)現金収入への道
 「祖谷はお金のないところじゃけんな、水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。大けな昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」そのように、小作人などはとくに現金収入のために血みどろの生活がつづけられていたのである。
(3)農民の生活
 「タベゴト(食事)も難儀した。不作のときは山ふど(カズラの根で芋のようなもの)掘ってきて、ほれをたたいてたたいて綿みたようになったンを食べたもんじゃ。ほんなもンで私や若いときは我慢しましたわ、ひとつの根に10もついとったら、きょうは1斗掘ったじゃの、きょうは5斗ほか掘れなんだやいうて喜んだもんですわ。焚きもンは山から運んで軒の下に積ンどく。コタツやしたことなかった。炭やかいはみな売って、わがうちで使えへえなんだ。まあ楽しみちゅうたら正月は白米の御飯でお寿司をつくったり、祭りにそうめん食べたことぐらいじゃ。餅にしたところで粟やコキビが普通やった。いつごろやら忘れてしもたけんど、米もお酒も1升が7〜8銭やったンがあがンりよってな“もう米が食えンようンなった、9銭ぞよ”ってみながびっくりしたんを覚えとりますけんどな、昔の年寄も女し(衆)もそりゃもう難儀しましたぞよ」
 「金もうけがのうてなあ、難儀したんじゃ。祖谷はソバ・ヒエで山をガイ(背いっぱい)にしました。やっぱしもうけは煙草じゃ。藍はジョウ(たくさん)に作りましたわ。カイコは山桑で飼うたけんど、あかなんだはなあ。私やの若いときは、仕事して掘ったり、負うたりばかりです。」
 「祖谷のシ(衆)は、お堂やお宮で手元のエエ人は字を習いました。バク(麦)も米も出来ん人は、学校もよういかなんだ。先生の食べるもんも、月給もみんなで手元のエエ人が集めて渡しよりました。」
 「草刈りは、40軒ぐらいで、いっしょに山いいって刈りました。薪は奥いそれから半道もはいってとりました。」
 「切畑ではソバとヒエです。お土居さんに年貢を1割か1割半を納めよった。」
 ただそこではっきりしないが、タケさんは村普請について、作をしている衆は収穫の一部を拠出して積立てた話や、タケさんが20歳のときに切畑が作人に分割されて自作人化し、分配に当っては悪い土地は広く、良い土地は狭く分配して公平を期したことなども断片的に語ってくれた。なお切畑にたいする作人の耕作権について、入会権として設定されていたものか、何らかの株が設定されていたのかについて質問したが、その点が明確になし得なかったことは残念であった。

 3 近世祖谷山の村落構造
 近世初頭の祖谷山では、新領主蜂須賀家政がすすめる近世化政策にたいして、大粟山(名西郡神山町)や仁宇谷(那賀川中流域)の土豪たちと呼応した大規模な土豪一揆(1)が激発したことは周知のところである。足掛け6年間におよぶこの一揆は、藩政の祖谷山への浸透をにぶらせたことは否定すべくもない。しかし反面において、この一揆の指導層であり、また祖谷山の各地に割拠して、卓越した支配権をもって名子・下人たちのうえに君臨していた名主たちのうち、多数のものが藩によって処断されたこともあって、名主層の抵抗力が崩れ去り、藩による兵農分離政策の貫徹によって、祖谷山村落では、名主層の社会的・経済的地位は相対的に低下させられるにいたったことも事実である。
 そのような祖谷山村落の近世的再編成後における特質について、桑田美信氏は「名子は苛酷なる賦役を提供して名主等の土地の耕作に従事せしめらるるといへども、その比較的広大なる名主等の土地を除きては、彼等名子自身の糊口を継ぎ得べき土地は幾莫もなかりき。加之名子共の賦役日数は年月を経過するに随い猥乱して、名主の名子を酷使するものありしかば、遂に困窮に喘ぐ祖谷山全村の名子は、宝暦9年の春に至りて東西祖谷の境目なる戸越に集合し、名主等へ扶持として給せられる切替畑は名子にて請負耕作し、且又名主への年60人役の賦役は、これを廃止せんとして騒擾す。右一揆のために首領者9名人牢、54名追放の犠牲を出せしも、其後藩は名子等の窮状を憐察せしか、宝暦14年の春に至り、名子の名主への従来の賦役を年30人に半減せり(2)」とする。これは明らかに土居の経営が、屋敷周辺の比較的地力の高い年作地が無制限の下人による賦役労働によって経営されていたのにたいして、切替畑が賦役を伴う名子の「小作人」的経営に負うていたことを示しており、藩政初頭における土居体制の構造が、中世以来の名体制とは異質のものであることを知ることができる。それを図示すればつぎのようになる。


 こうした祖谷山の藩政初頭における村落構造を概観するために、当時の数少い検地帳と棟付帳を紹介しておこう。


【史料1】


明暦四年弐月三日
 美馬郡之内祖谷山棟付人改御帳 中尾名分扣
 高拾壱石九斗弐升 八郎四郎名子
一 壱家 万五郎 同三拾七
    万五郎子
  壱人 長松 同拾壱
    長松弟
  壱人 ミや 同七ツ
    ミや弟
  壱人 菊 同五ツ
   万五郎親
 小家 左兵衛 同六拾六
    左兵衛子
  壱人 菊若 同五ツ
   左兵衛弟
 小家 孫市郎 同五拾七
    孫市郎子
  壱人 四郎五郎 同弐拾三
 高弐石弐斗四升七合 八郎四郎名子
一 壱家 次郎吉 歳四拾六
    次郎吉子
  壱人 干安 同拾六
   次郎吉弟
 小家 作蔵 同三拾六
    作蔵子
  壱人 若 同弐ツ
   次郎吉おい
 小家 久六 同弐拾弐
  久六弟
  壱人 伝作 同拾九
 家数合 六家
 人数合 拾四人
 高合 拾四石壱斗六升七合

【史料2】
延宝弐年十二月一日
  美馬郡祖谷山之内棟付人改御帳 中尾名扣
   中尾名
 高九石九斗四升 小野寺八郎四郎名子
一 壱家 左五兵衛 歳五拾四
    左五兵衛子
  壱人 伝吉 同弐拾五
   伝吉弟
  壱人 伝蔵 同弐拾三
   左五郎下人
 小家 四郎五郎 同四拾
    四郎五郎子
  壱人 松千代 同六ツ
   同人弟
 小家 助蔵 同弐拾
   左五兵衛影
 小家 吉蔵 同三拾六
  此者同谷今久保ヲ以名子百姓藤兵衛弟田地ニ付
   左五兵衛影
 小家 伝助 同弐拾壱
 高三石八斗九升 小野寺八郎四郎名子
一 壱家 久六 同三拾九
    久六子
  壱人 かち 同拾六
    かち弟
  壱人 三郎 同拾ヲ
    三郎弟
  壱人 四郎 同四ツ
   久六伯父
 小家 次郎吉 同六拾三
   同人弟
 小家 伝作 同三拾六
   伝作弟
 小家 宮次郎 同弐拾三
   久六下人
 小家 若 同拾九
   若弟
  壱人 栄 同六ツ
 家数合 拾家
 人数合 拾八人
 高 拾三石八斗三升

【史料3】
寛文十三年拾月一日
  美馬郡祖谷山吾橋西名棟付人改御帳
高拾石壱斗八升壱合弐勺
    名主
一 壱家 太次兵衛 歳三拾
    太次兵衛子
  壱人 小三郎 同四ツ
    太次兵衛下人
  壱人 市十郎 同拾九
   牛壱疋
   太次兵衛下人
 小家 忠太夫 同四拾七
    忠太夫子
  壱人 松房 同六ツ
   牛壱疋
   太次兵衛下人
 小家 又兵衛 歳四拾六
    又兵衛子
  壱人 左右衛門 同弐拾
    左右衛門子
  壱人 次郎 同拾ヲ
   牛壱疋
    又兵衛おや
 小家 孫右衛門 同七拾七
   太次兵衛おや
 小家 彦左衛門 同五拾六
   彦左衛門弟
 小家 五右衛門 同五拾弐
    五右衛門子
  壱人 せんちよ 同弐拾
    せんちよ弟
  壱人 とら 同拾弐
   牛壱疋
   彦左衛門弟
 小家 作左衛門 同四拾八
   彦左衛門下人
 小家 喜右衛門 同六拾壱
    喜右衛門子
  壱人 清介 同三拾弐
    清介弟
  壱人 清之丞 同弐拾六
   太次兵衛ぢい
 小家 右左衛門 同八拾四
   太次兵衛下人
 小家 伝蔵 同三拾七
 小家 九左衛門 同三拾四
此者同谷名ノ者寛文拾壱年ニ入作ニ参居申■
   太次兵衛下人
 小家 五郎右衛門 同五拾九
    五郎右衛門子
  壱人 仁蔵 同拾九
高壱石六斗四升
    太次兵衛名子
一 壱家 勘太郎 同四拾壱
高壱石八斗三升四合
    太次兵衛名子
一 壱家 角右衛門 同五拾壱
牛壱疋
    角右衛門おや
 小家 四郎左衛門 同七拾九
四郎左衛門子
  壱人 左平次 同三拾六
    左平次弟
  壱人 権助 同三拾弐
   牛壱疋
   四郎左衛門子
 小家 伝三郎 同四拾六
 高弐石壱斗壱升六合
    太次兵衛名子
一 壱家 平三郎 歳四拾四
   牛壱疋
 高七斗四升三合
    太次兵衛名子
一 壱家 平作 同三拾六
    平作子
  壱人 とよ市 同四ツ
   牛壱疋
 高壱石三斗四升七合八勺
    太次兵衛名子
一 壱家 勘吉 同弐拾九
  壱人 伝右衛門 同四拾三
 此者同谷平名へ参居申■
 家数合 拾九家
 人数合 三拾弐人
 高合 拾七石八斗六升弐合
右ハ今度家数人数高并人之歳牛馬御改ニ付誓紙を以帳面指上ケ申通ニ相違無御座候、若壱家壱人に而も隠置致し於相顕ニ而ハ私共曲事ニ可被仰付、為後日如件
 寛文拾三年拾月一日
  美馬郡祖谷山政所
   喜多源内 印 
  同山五人組 安兵衛
  同 教右衛門
  同 助之丞
  同 与一左衛門
  同 弥三左衛門
 森 久兵 衛様
 林 次左衛門 様

注(1)拙著「阿波の百姓一揆」(阿波古文書シリーズ1)参照
(2)井内弘文「祖谷における名子制度」(『祖谷』所収論文)参照

 4 土居体制の矛盾と名子層の抵抗
 経済的低位性に規定された祖谷山においては、その根幹をなす土居体制=再生産構造は、広大な切替畑に投下する名子の剰余生産の吸収だけでは維持し得ず、どうしても苛酷な長期にわたる賦役労働に依存せざるを得ないことが、18世紀中葉までの状況であった。そのことは当然、名子の切替畑経営のうえにも苛酷な負担が集約されるに至ったのであり、すでに元文2年(1737)には、藩による切替畑を課租対象として編入しようとする検地実施の計画に反対し、「名子百姓は、同村挙ってこれに反対して動揺す。中にも東祖谷阿佐名、釣井名、落合名、大枝名の四部落は、前後二回に亘り百拾余人は、遥に徳島城下に到り、御蔵所に訴出で、年貢壱割増納方を条件として右検地の中止を請願す。藩は種々手段を尽して、是等農民の慰留に務め、而して右願出の検地中止の件は、藩に於て遂に採択し、名子百姓等の願望は達成せらる。且つ又徒党詮議は、祖谷山政所の奔走によりて事なく、一人の犠牲者も出ださずして一時全山安隠に帰す(1)」とあるように、名子の抵抗の対象は明らかに藩の農政に向けられていたし、この段階においては政所の喜多源内をはじめ、各名の土居たちも検地に反対する立場から、名子を擁護していることは、土居たちも間接的ではあるが、藩農政に批判的立場を貫いたと評価することもでき、上居体制そのものは安定していたと見てもよいであろう。
 ところが僅か5年後の寛保3年(1743)に発生する釣井騒動を契機として、政所や土居にはげしく抵抗する村方騒動の激化は、それまでの祖谷山村落を支えてきた社会構造としての土居体制を大きく動揺させずにはいなかった。その後の村方騒動の原因をみると、その大半が賦役労働の軽減や廃止を要求するものであるが、当然それは名子の自作農への上昇を求める動きであった。そこに大きくクローズアップされてくるのが煙草耕作の急速な展開であった。そこで藩の煙草に関する流通政策(2)のプロセスを紹介しておこう。
 (一)延宝・天和(1673〜1683)ごろ
 郡里付近が産地となり、この期には三好郡で栽培され、富岡・撫養町で市売御免・南方3郡と撫養24ケ村浦では、立売禁止の処、立売や郷分で町料同様市売類似のものがあり、文化11年の触となる。
 (二)宝暦12年(1762)
 城下市中仕入商売を許す品目(42)のうち、煙草を含む。
 (三)明和3年(1766)
 50分1方御役所による中買への売捌と、冥加銀収納を主目的とする諸政策とらる。
 (四)寛政11年(1799)
 煙草売買方取きめ、5人の問屋を指定、2人を元取問屋とし、葉タバコ代銀に2歩の御益と半きざみ入目などを取立て、他国積出分には更に御益取立はせず、願出次第川口切手指遣す。
 (五)文化11年(1814)
 名東郡、板野郡下分へは山元よりタバコ直売禁止、山元より積下すタバコは所役人の送手形をそえ、御分一所を通船した証拠を元取問屋へ差出させる。山元より直売を差留の村で店売担売する者は、中買から買取り、市中は元取問屋、他は問屋の加印ある送り切手をもって通路させる。
 (六)天保9年(1838)
 煙草問屋売、他国積出荷物とも葉煙草1丸80斤建、刻煙草1箱90目入100匁建、1丸1箱に付き銀札2匁9分懸銀取立、近年きざみとして他国へ直積出し、無切手荷物あり、これを禁じ、2歩の御益ならびに半刻入目等寛政度の取立を廃し上の如く定める。

※1 1斤は160匁
 2 刻み煙草の場合は、1箱は100匁=銀札で2匁9分。
 3 葉煙草の場合は、丸=束=80斤で12貫800匁。
 4 天保12年(1843)祖谷山逃散の節土佐藩役人への口上として「御年貢の儀、銀札を以上納仕候処、其上御年貢煙草として数丸持せられ、新れい事故甚迷惑仕候。但年貢煙草定なし、年貢と名付け道夫に遣候由、往来四日斗掛る平駄賃拾匁に致庄屋喜多利喜太初候由」(拙稿「天保十三年徳島藩百姓一揆」三一書房刊『日本庶民生活史料集成13巻』)所収

 祖谷山に煙草が広範に栽培されるようになったことについては、史料のうえで実証する何ものも入手できなかったが、各種の文献や口碑によると寛政期ごろとされており、およそ18世紀末から19世紀初頭のことのようにも思われる。この煙草栽培の普及と村方騒動の多発傾向に深い関係があるとする説を、すでに発表されているのは井内弘文氏(3)であるが、井内氏はとくに村方騒動の続発に伴う名子百姓の賦役減少の評価に卓抜な見解を出している。すなわち「先ず換金作物たる煙草の導入に伴う農業の集約化と賦役制との矛盾である。寛政12年(1800)池田町の中村武左衛門が煙草刻み剪台を発見し、奥羽・北海道に販路を開いている。この関連において文化・文政年間(1804〜1829)祖谷山大枝名字京上において、於夏という一婦人が煙草を栽培し、遂に於夏煙草の名を藩内に博しえている。このことは集約的な煙草の栽培が相当広汎に東祖谷山に普及したことを示す。現在の煙草を中心とする輪栽様式たる『麦』→『煙草』→『そば』はこの頃から初まるものであろう。このような農業における集約性の発展は、賦役制と矛盾するものである。第2に名子が賦役撤廃のため2度もたちあがっているということは、名子の性格を水呑百姓と同一視することは出来ず、ある程度本百姓的な性格を持っていたことを想わしめる。寛保3年(1743)東祖谷の釣井名の名子が、名主熊之助の年貢取立の不当をならし、貞光代官直納をこうている事実があるが、年貢を名主を通ぜずして直納するというのは、本百姓的意識が名子の間に相当強かったからであろう。これに対して『御屋敷』『土居』からかまどを分けて貰って、しかも依然主人に奴隷的に隷属していた下人は水呑百姓的であったといえよう」と、このように井内氏は、祖谷山における煙草栽培の波及が、名子百姓を一揆にかりたてて、本百姓としての耕作権を得るための要求を土居に突きつけていったものが、村方騒動の続発だと見るのである。その見解にたいして私も、ほぼ同じ見解をもっていて大局的には賛成なのであるが、この引用部分の最後に井内氏は「年貢を名主を通ぜずして直納するというのは、本百姓的意識が名子の間に相当強かったからであろう」という評価にたいしては、私はどうしても同感することができない。これは藩と土居という二重支配のもとで、貢租体系を藩との直結によって、軽減された負担を要求する経済的条件と、土居から自立して本百姓化したいとする身分的条件の、2つの条件を解決しようとする闘争形態の表現であり、煙草栽培と、それに伴う商業的農業の祖谷山における展開が、名子百姓を本百姓への上昇転化の可能性を模索させる契機であったのであり、すでに本百姓化していたような井内氏の見解は批判されるべきものであろう。
 そこで祖谷山における百姓一揆のうち、主要なものを列挙しておきたい。


 吾橋名における名請地の慶長期の田畑は、弘化2年(1845)段階の史料によると、第3表のように、可成りな移動が見られる。とくに左図で明らかなように、慶長期の彦太郎名請地30筆は弘化2年段階では幸三郎以下3人の当作状況が記録され、31筆が登載されている。祖谷山にも相当な変動のあったことがこれで判明する。
 慶長検地帳の集計(第1表)との比較検討が望まれるところであるが、残念ながら祖谷山全山には、検地帳や棟付帳の保存されているものが極めて少なく、その意味からも吾橋名の史料によって他を類推せざるを得ない現状である。その後の変動については、史料がまったく亡失されていて、村役場の土地台帳も明治40年以降の状況しか実態が把握できないので、第2節の聞書きなどを参考に考察するしか方法は残されていない。
 なお西祖谷山村役場の土地台帳によって、小祖谷名における明治41年以降の土地移動状況を集計したのが第4表である。紙数の関係でいまその歴史的背景を述べられないが、近代祖谷山の経済的変動を知るうえで、ひじょうに重要な手がかりとなる史料である。


注(1)桑田美信「阿波国百姓一揆」による。
 (2)森泰博「阿波藩の流通統制(年表)」(『上智経済論集第8巻第1号』所収)より抜粋。
 (3)井内引文「前掲論文」参照

 5 天保13年の打ちこわし史料
阿州遁散筆記(1)
 正月十五日、阿州美馬郡祖谷山の内東分村々百姓共人気立、所々乱妨致し、豊永郷(2)西峯口御番所へ凡人数六百人余罷越候趣注進有之、即刻立を以御城下より被差立面々左の通。
御郡奉行 川田猪久蔵 
     幸村勝之進
同先遣役 野鳥馬三郎
     高尾庄兵衛
同作配役 都築九郎平
     近藤猪三郎
郷廻役 五人
御目付役 門田左五兵衛
     前坂柿之丞
下横目 左次兵衛 如助 志蔵
    忠五郎 丈右衛門 和三郎

同廿四日、昼八ツ時頃より如御境右六百余人、夜中へ懸、追々罷越申趣に候事、猶又祖谷山東分村々人数付左の通。
 一、百四拾七人 大枝村 一、百五拾九人 阿佐村 一、四拾弐人 久保村 一、四拾人 本ノ萱生村 一、五拾三人 落合村 一、三拾人 奥院村 一、四拾弐人 追屋村 一、六拾五人 勢井村 一、三拾三人 西山付。
〆廿四日入来る分
 一、弐人 大枝村 一、壱人 阿佐村 一、壱人 菅生村。
〆廿五日入来る分
 一、壱人樫屋村
〆廿八日入来る分
 右人数の中鉄砲五拾挺斗、鎌、柄鎌銘々持参致申由。
 一、同廿四日、人気騒敷に付、徳島より罷越候人と申事也。
 
 井上喜代次、名主 阿佐椋之助、 同 菅生虎之助
 伜壱人、池田村 五人組壱人、都合家来共拾弐人
 右面々即刻御番所外に立越、内々を以右人数渡呉度申出候処、此方庄屋番人共より相答候は、大庄屋共相揃不申、且立越候御領百姓共願筋有之に付、承呉候様申出に付取調候上及掛合可申相答候処、然は明日罷出可申由申置罷帰候由
 一、同廿五日 名主 久保源三郎口上書
 祖谷山東分名子(3)、下人共人気浮立居申候て、迷惑の筋を穏に願出申度儀に奉存候。誠に不法を以打つぶり候上、店両家打つぶり押に参り候諸士へ手向候得共、私家来久保名の義は、右不法の場合立合不申願出候筋は、私手元にて相済し運所、他村名子共大勢参り、久保名名子家来参り不申候。右の懸り久保名皆々参り申候者は罷帰度と奉存候間、何卒右の通久保名の者へ御申聞被下御差戻の程、重々奉願上候、尤外の熱の名子共も迷惑有之心得違相弁候と奉存候間、重々御世話にて罷帰候様御入刻にて相成候義に候得共、是又重々奉願上候、誠に此上萬々重々宜敷奉願上候。
 正月廿五日
 右の通願出候に付、御家来斗取抜御渡申義、相調可申哉。相諭其上及御答可申段相答候処、然は明日九ツ時家来差越可申段申置罷帰候由。
一、同廿六日 源三郎家来 山下蔵次
右の者昼頃差越候得共、相分不申候に付、其段申遣候由。
一、同廿七日 名主 久保源三郎 加茂庄屋と唱候へとも実は名主の由 三木六右衛門
   太刀野村庄屋 喜多竹右衛門
右の通に罷越、昨廿八日左の人数致応答、昨夜罷帰候事。
   見川番人庄屋 高橋達次 奥太田郷右同 桑名継之進
   豊永郷大庄屋 山本実蔵 森郷大庄屋 都築九郎平
 一、久保源三郎申出候哉、此度祖谷山百姓共心得違を以、乱妨仕既に庄屋喜多利喜太義打破り、其外庄屋等も同所仕置夫より御国江立込、誠に恐入申次第に御座候、私家来共は神妙に相暮居候処、右乱妨の者共江無躰被騒立一同に罷越居申候、何卒右の分迄にても御内々御取斗を以、早速御差返被仰付度、此段先達ても御願申上候、只私儀此間以来樫尾村に相詰居候故、直様右村へ罷帰申候、此余は右六右衛門同道仕罷出候に付、右六右衛門へ諸事御引合被仰付被下度奉願上候。
 一、三木六右衛門一通り致挨拶置、夫より申出候は只今源三郎申上候通、何卒御内々御取斗を以早速御差戻被下度、一同御願申上候、右様相成候得は私受取帰り申度奉存候。
 一、喜多竹右衛門義、一通り致挨拶以後何等の儀不申出候由。
 一、源三郎江答方、此方申聞候は一旦当国に立込居候儀に付、御家来迄先達て相渡申義も相調申間敷、猶又百姓共の手前願の筋有之趣申出御座候に付、其段も得と承合有無の義追々可及御答にと申置先引取申候。
 一、六右衛門申候は無面目作事、去年分も山城谷の者予州路へ罷越、又々祖谷山分御国内江立込何国へも大御厄介相懸、重々奉恐入次第に御座候。
 一、此方より申聞候は、毎々大御心配可被成、併山城谷の御請取口は如何哉、其合承候得は、此度考方にも相成申候に付、承知致度申述候処、山城谷の義は段々迷惑の筋も御座候て、其趣予州へ引合早速受取に相成罷帰候得共、此度祖谷山の者は一揆乱妨の上遁散仕義にて、山城谷の合には相成不申由申出候由。
 一、又々申聞候は、此方面々の者私共中途の考にも相成筋にて無御座候得共、百姓とも諭聞御渡申義に相成候時は、其於御国以後格別の呉条無之様、穏に御取扱に相成義に御座候哉、如何哉の段手詰仕候処、其儀においては御即答相調不申、兎角帰国の上重役の者へ示答可申、いつれ明日当所迄可罷出に付、且様奉願候段申置相分れ候事。
  但右応対書荒増の処、番人大庄屋より認出候に付、其侭写し置也。
 一、同廿九日、大沙子口、岩原口御番外、静平不成趣に付、右の両人被差立候事。
  下横目嘉蔵、丈右衛門
  阿州遁散の百姓共より御国江願書廉書を以差出書付写
   申上るかじよふ書の写
 一、御年貢の儀もそれそれ御しらへの所、願上度奉存候得共、是も盆無く奉存候。
  但本冬の意味は、近年々貢増に相成迷惑に存、且組中庄屋等へ右年貢の内分取も可致哉、□念を相掛候得共年貢の儀に付願出候ても却て科被仰付無益と申事の由。
 一、宝暦二申年(4)被仰付同役人夫、月に三人役口はみ無之相勤迷惑仕候。
但此廉扶持米并道具共向所の品にて相勤居候処、九拾ケ年以前名主より願出、今は扶持なく自分道具にて相勤、迷惑と申事の由、高取名主(5)等へ被遣候人役七拾人或は三拾人又は六拾人斗村々より相違有之候得共大様壱ケ年分百人役を通申内。
 一、木普請税いそしり入用次第相勤并塩取人夫相勤御類族御内々御出人夫共相勤甚迷惑仕候。
  但作事諸用共自分極にて相勤申候。
 一、えよふしとふに差遣候時は、五拾匁つゝ身受銀として取あげられ、買売に被成候故甚迷惑仕候。
  但養子貰受申方より目見江銀として五拾匁宛相納申内。
 一、百姓よりも受所の内、黒米迄心侭に相成と申故、是又迷惑仕候。
  但受取は年貢立にて百姓扣候ても無類を以仕成不相成願出候時は、城下遠方へ被取且庄屋拾匁、拾五匁等多少に不拘被取上申内。
 一、祖谷山江諸奉行入山の節、そふよふ近頃新れい被仰付、是又迷惑仕候、去子年阿波様御成の節より初り、拾四五年と相成由。
 一、いん徳銀として拾ケ年の間たいその銀子被仰付迷惑仕候。
  但此分御国の義、愈銀の様成由、東分口の拾ケ年分弐拾〆七百八拾匁斗、只今弐ケ年相納申内。
 一、紙、かぢ御買上被成候ゆえ是又迷惑仕候。
  但楮草徳島江御買上被仰付、平買御差留に相成由。
 一、ろふみつ御買上被仰付、是又迷惑仕候。
  但右同断両条共平相場より下直の由。
 一、何事によらず御願事御上には御けこふ被仰付等も喜多源内(6)殿手許相ひかへ直さりに相成候て迷惑仕候。
  但此義源内心侭の取斗致候由。
 一、畑田年貢新れい被仰付、是又迷惑仕候。
 一、御年貢の儀、銀札を以上納仕候処、其上御年貢たばことして数丸持せられ、新れい事故甚迷惑仕候。
  但年貢たばこ定なし、年貢となつけ道夫に遣候由、往来四日斗掛る平駄賃拾匁に致庄屋喜多利喜太初候由。
 一、庄屋交代是又新れいを以御迷惑仕候。
  但此分巳前出火の処、四拾ケ年改より庄屋家壱軒より四匁罷相納、凡三人役斗相掛候由。
一、御奉行まかない百姓江被仰付、其上ぞふよふ銀取立庄屋手許江相納甚迷惑仕候。
但止宿有之右雑用銀取立相渡申由。
  右は一書の通何日新れい事喜多源内殿いせいを以庄屋利喜太に申付百姓共猶々迷惑仕候、御たつねにあずかりあらあらかじよふ書仕候所、此段御しらへ被仰付候ても本国へ罷帰り不申むねと存候。
   御役所様
    野島馬三郎、寺尾庄兵衛、都築九郎兵衛、外に大庄屋番人
 右は今日遁散人共召寄諭方致候処、一同に合の上申出筈を以差返置也。
   右の節口上を以申出る
 私共生質不調法弁等も無之者の処、高取り並喜多源内殿不都合の儀御座候義有之節、右科を以否はだのり被仰付済候節、身代相応三百匁つゝ或は百匁又五拾匁目見江銀として被召上候、此段御免被仰付候様御評も奉願上候。
    阿波郡石林村郷役 但郷役高有高数人躰の由 加茂村庄屋
     伊勢道蔵 三木六右衛門
 右両人立越致対面度段申越、左の面々罷越候事。
   都築九郎平、山本実蔵、高橋達次
 応対は先以前の振合を以申談候由、尤道蔵と申者郷役にも相見江不申惣分事分能聞取候に付、右の者に委細申談候由。
 一、二月朔日、阿州遁散百姓共より書取を以又々申出候ケ条
  一、祖谷山山林の儀は、先年は百姓持に候処、近年名主中のふち地に相成、百姓共焼払作付候節は加治米払出候様相成迷惑仕候。
   但右は御国にて切畑山と申場所の由、寛政の度より名主宰に致し、作物見付を以貢物取立申由。
 一、祖谷の内久保西山クロスドヲの百姓共は狩出しと唱、男女の内惣領壱人差拾四五歳より弐拾歳斗迄の内名主中に無給を以被召仕是又迷惑仕候。
 一、祖谷山百姓不埓の儀有之御城下表に被召出、入牢被仰付御作配の後帰参被仰付候て、名主中被相払二重罰に相成迷惑仕候。
 一、祖谷山百姓共の中、養子に差遣申節暇銀と相唱、名主へ五拾目被召上貰受の方よりは目見江銀と申名主江五拾匁差遣、是又迷惑に相成よし。
 右廉々書取を以御用捨に相成候様及懸合、尤不一通乱妨致候義は心得違の連々、公義御淀にも相背候段為申聞恐入申出候に付、此儀猶又引合致置申由、都築九郎平より承申也。
 一、同二日阿州加茂村庄屋三木六右衛門江及文通候ケ条荒増右の通
  以直人昨日御対談申候通、遁散人共願立のケ条御差捨に相成候時は、乱妨の次第此方於手前恐入為申出候に付、早々帰国にも可相成、尤差懸外に御内談申度候間御立越有之旨、且右百姓共相片付御受取の節御取扱兼て御評議可承、当方江立越候節の鉄砲、柄鎌様の手道具は取上置有之に付、此段も為御心得申達候趣懸合いたし申候。
   去る卅日夜、三木六右衛門、伊勢道蔵罷越候節、道蔵申出候は、先達て以来挨拶述懸、昨日六右衛門へ為(ママ)い見被成候、百姓共より貴国江願候ケ条書も、夫々相覚へ不申に付御書取被下度、実は其中城下表より差捨に相成、即此度配達に相成候得とも、遠境の儀にて到着致迄の中遁散に相成候様に被存候、依ては御書取御渡被下度申出るに付、夫々相認め道蔵江相渡候由。
 今日百姓共相参め申諭候儀は、其方共先日申聞候通、高取名主共より懸り物、諸貢物共新例出来候、委細は書取を以願立致承知罷存候、然に免角国許江罷帰不申ては事足り不申に付、願立の廉々於阿州御差捨に相成候時は迷惑無之に付、帰国可致哉、乱妨の儀は兼て申聞候通、其方共心得違に付、阿州様へ対し恐入候次第にて可有之に付、右廉々阿州郷役(7)江懸合迷惑無之様致し遣可申段申合候処、一統気抜の趣尤其中高取名主下の百姓共被差止、阿州様御直の百姓に相成候様取成願出候也。
 野島馬三郎、野島庄兵衛、都築九郎平、庄屋三人共、
 右面々於振宿右の荒増為申聞納得致申候事。
 一、同三日
  加茂村庄屋 太刀野村庄屋
   三木六右衛門 喜多竹右衛門
  名西郡大庄屋 名東郡大庄屋
   近藤広助 久米幸右衛門
 右面々御番外迄罷越、当方より九郎平、実蔵之罷越及応対候荒増左の通
 一、扨此間も及御懸合申通、百姓共願立の儀御詮儀被仰付迷惑に不相成様に被仰付の時は致帰国可申、尤不法相働の義は連々恐入申出居候に付、此義は宜敷御慈悲を以御赦免被下候様、御成申時は立込候百姓共御渡申義に至り可申、右喜多源内并名主共の配下差除、阿波守様の御百姓に被仰付度趣願出候得共、此ケ条当方何とも御懸合難申に付此段は御聞被下度及引合候也。
 一、阿州郷役より申候は、右の百姓共本心に相基帰国致申に相成候ては大発致し候、先此間御渡有之候ケ条書へ、下紙を以詮議の連に相認申に付見合呉候様申述候。
 一、此方より申聞候は、百姓願立の儀取捨を以相叶候様可致、源内并名主配下の儀も差捨に相成候様の儀、承置可申段紙面に相認御渡被下候様及懸合候事。
 一、阿州より申出候由は、紙面に相認候て判形の上御渡申義、私共限に得難相調趣申出、詮議相片付不申事。
 一、此度百姓共納得致申に付、御渡申候時は如何致し御受取に相成候哉の旨相尋候処、右面々申出候は銘々御取分被下、当方樫尾村において両日に御渡被下候様奉願度被申出に付、夫にては此方において不工面のケ条も有之に付、当国貴国於御境目御渡可申、且両日是又不工面に付一日に相渡申度由及引合候処相片付不申候事。
  右廉々引合の中口述の事に付色々申談候趣も有之候得とも大概旨趣記置候也。
 一、同四日、百姓共より差出候ケ条書へ阿州より下紙の答。
 一、年貢のケ条
  下ケ札先年取調候義申付処、究め呉候様申出に付、遠山の儀に付其侭差置遣し御座候事。
 一、同役人夫のケ条
  先年出役日数極め相立居申に付、極の通に相成居候哉、又は右引受に相成可有之哉、取調郡代所へ申出可遣事。
 一、木普請祝初内八ケ条
  右の筋迷惑申立程不断可有之儀とも不相見候得とも申立候時は、取調遣し愈々迷惑に相成候はゝ差略の儀郡代所へ申出可遣事。
 一、他名養子取遣ケ条
  祖谷山中郷士家来名主の下人等の儀は、右様取斗、右の儀も難斗名子筋の者共においては如何可有哉併迷惑申立候事故、右調向の儀郡代所江申達可遣事。
 一、百姓受所の中黒木のケ条
 黒米(ママ)と申はもみ栂の類にて検地負の土地に生立候処、要用に伐取候砌は一応其段山林受持役場に届出候様究向に相成居候得とも、遠山住居の者届向迷惑に相聞、早春以来勝手に仕成相調候様触達に相成居候得とも未行届不申故、右様申出る義も相見江候事。
 一、祖谷山諸奉行のケ条
  右雑費の儀、山中、割相成も有之又仮令入込候て、雑費相懸不申類も有之遠山の儀故、□□の儀に御座候得とも迷惑の有無は取調候儀申達遣し候事。
 一、隠徳銀のケ条
  義倉の意味連に有之略す。
 一、紙楮のケ条
  根元国用相弁し申訳を以、他国持出停止申付御座候処、不筋に売買仕候者或は少民迷惑の買方仕候者有之候に付、一手の買方に相成候様取斗御座候様の旨に候得共、迷惑の唱御座候ては紙方受取持の役場へ不迷惑様向の義申立可遣事。
 一、蝋密(蜜)のケ条
  右は里分を外し候に付、買方の者出来仕居申候様承り候へとも、迷惑有之旨は受持の役場に迷惑にならざる様懸合向々の儀申可遣事。
 一、畑田年貢のケ条
  右地盤畑作の場所中、古水懸出来に付、田作相調候様相成少宛は増米取立候も適々有之候由相聞全迷惑筋は相聞へ不申候得とも、新儀の唱を以彼是申出候も候得は取調の儀申立可遣事。
 一、何事に不寄諸願のケ条
  右は差当眼当も無之に付、就とも難申候得共愈右様に致候得は、迷惑に不成様源内心得向の儀取示無之候ては難叶に付ては刮々の儀願等閑に相成候義相答候得は、其侭申立可遣、尤此義は惣躰に相当の義にては有之間敷、右様申立候者は名面相分居申候に付、夫等の処も承り且願の旨趣をも承候上にて申立可遣事。
 一、年貢上納向の儀のケ条
  烟草持出候においては運賃等も可遣筈、尤右運賃は割賦等に相成義何も取調迷惑無之様了簡におよび可遣事。
 一、庄屋夫代のケ条
  右は庄屋共城下表へ出府の節召連候人夫并城下表へ書付類差出人足諸触事に召仕候人足に可有之、右は従来建国中一平の事にて祖谷山中名子共下人の類においては、尚更同様可相勤筈、尤遠山故庄屋召連候節は滞留長く其余触事城下夫夫等にも穏諭候故逗留仕旁山中於出役却て迷惑成出役交代も難相調所より賃銀割に相成候義可有御座候は、出役に相成候義何以差支御座有間敷候間、何れ迷惑に不相成様取斗可申事。
 一、奉行賄百姓に申付ケ条
  奉行の類罷越候節の義、人々扶持方は差遣宿雑子詰人夫等は下々の仕義、先規よりの定に御座候、併役人共取斗方に寄候ては、雑用多く相懸り候義も可有之付、是等の処屹度取調過分の義無之様取極め方申立可遣事。
 一、右一ツ書の通のケ条
  右一書の件等専ら庄屋、名主等の仕成に相当り并郷士格の面々支配の名子共身分に相当候義多御座候、喜多源内義は郷士格にて政所役相兼罷在候得とも、右件に相携不申義多分の事に御座候、本方に申立候不都合に相見候事。
 一、祖谷山林の儀のケ条
  右祖谷山中検地の外の土地(8)、名主江扶持地として先年書付相渡有之地所に相当べく百姓持と申山林は一切無之様承及居申候、尤前段扶持山の儀名子共日用に遣丈けは勝手に草刈為仕候場所も御座候、右土地切替畑と相唱焼払候跡江仕付候場所の儀は、作方出来目に応し相応の地子差出候は国中一牧の建に御座候、然に前件の通名主より下人、名子共扶助として日用遣丈け勝手に草刈為仕候を自然自分持候様相心得の義も可有御座哉、名子共不都合に相見へ候事。
 一、名子共仕損有之条
  右取斗申立候通候得は、迷惑相見へ候に付取調の上迷惑に不相成様取極め向々の義申立可遣事。
 一、御尋に付の条
  右のケ条実心に申出に候哉、御行着にて御見取も可被成と存候、無御遠慮御申聞被下度候事。
 右ケ条の趣旨等と申合仕候処、国政の処においては随分難有相心得罷在不当の挙動仕候段後悔仕候義実心に相成居申候旨、尤名主共仕成不宜迷惑仕候に付、右名主の下に相付候義を相厭候処よりの申出に御座候趣御申聞被成候事。
 一、祖谷山惣中向後喜多源内并名主地下を離れ阿州一統の御政事に被仰付度趣申出候旨申聞候事。
 右山中の儀は先年格別の主意有之一統名主支配申付御座候処、其後名主共召仕方難渋の節有之旨相聞厚評義の上差略相付居申趣に御座候、右の次第にも御座候故本文の旨趣において申立かたき筋相心得候得共、彼是御厄介にも罷成候故追々申立にも相及候義も可有之哉申談見可遣、尤申立の上にて聞届無之候迚も、其節彼是申立間敷との心得向御労煩申兼候得とも申聞被下度候、併右様名子共申出候義も根元名主其心得方先達ての差略と不引合の取扱に罷成、迷惑仕候義も有之趣の義と存候、右様の筋に候得は迷惑に不成様申立可遣、先達ての御差略の通に立直し候得は二百年来の地合に相成名子共も申分有之間敷、只是迄訴訟の筋有之紙面差出の節は庄屋、五人と真印にて直に役場へ差出来、郷分一牧の通取扱の懸も有之名子共申立の国中一統の制事を受居申上下情不相通様の懸にては無御座候事。
 右件々の通間違不申ため相記し申候。以上
  天保十三年寅二月
    阿州名西郡高原村大庄屋
     近藤広助 印 
    同 名東郡芝原村同
     久米幸右衛門 印 
    同 三好郡加茂村同
当国大庄屋宛 三木六右衛門 印 
一、同五日遁散百姓共諭方相済御郡方江取置候納得始末写
私共生国村において云々別紙に省略す
 一、二月五月迄本山豊永郷中より寸志として差出候荒増
  一、弐朱判九両三片 一、薪弐百六拾三荷
  一、八銭弐貫百三拾匁 一、吉米七拾四石四斗弐升
  一、起炭壱俵 一、味噌三拾八貫目
  一、香物壱荷 一、灯油弐斗
 一、同六日此処略す
 一、同七日
 一筆致啓上候、愈々御堅固御勤被成陳重奉存候、然は過日御文通に相及候、当方三間郡祖谷山奥東名子共多人数相催、貴国長岡郡豊永郷西峯村迄罷越一件に付、彼是厚御心配被下貴国村御役人中教示に付、前犯後悔の上帰郷仕度申出に相成候に付、御引渡し首尾為御懸合昨日当方大庄屋共より貴国大庄屋中江出張向罷出及示談候処、愈々明四日御引渡被下候様御懸合向、速に相調、殊に当日名子共江村御役人数多御付添被下候義等、彼是被入御念御示談始末委細株書致大庄屋共罷帰申出候、随て右様内済懸合等速に相運候段、殊御指揮被成下御手先御役人衆、郷口役人中迄精々御骨折被成下故の儀忝奉存候。尚此上萬端都合向何分にも可然様御含置可被下、重々奉願候。不取敢御挨拶旁右の段可得御意如此に御座候。以上
   黒田勝蔵
 二月六日 高木真之助
  御郡奉行 川田 寺村 宛
 尚々余寒強御座候間、随分御厭可被成候、猶又懸り御役人中江当時御挨拶向可然様被仰付可被下奉願候。以上
   覚
 一、百姓御渡方の儀は貴国西峯村御番所外において惣人数相改め、壱名限御引渡の上当邦の分迄御付添の御役人守護致当邦において再度人数相改相済迄、貴邦より守護御役人御差加被成下度の事。
 一、持参の手道具類は人御渡被下候上、其後にて受取可申事。
 一、萬一浪人者等入交居候得は、惣人数引取候上にて了簡可仕事。
 一、百姓御引渡の場所江は御互并役下の面々為立合候事。
 一、当日雨天に候時は尚御掛合直々上定日御懸合可申事。
  寅二月 近藤
    久米 印
    三木
    喜多
一筆致啓上候、今日は冴返り又々寒気強御座候処、愈々御安全被成御座候跡、重々に奉存候、誠に昨日は罷出御面談被下、長々御懸合等大に御世話に相成別て忝仕合に奉存候、其節は彼是失散(ママ)の御懸合等も御座候処、御取捨被下御示談被下候段、一入忝仕合罷帰勘考仕候ては恥入申候義に御座候、此段重々御用捨被成可被下候、扨其砌御約諾仕置候、御引渡物名限名面御調の義、大いに御世話成義と奉存候、即三好郡池田村五人組(9)与左衛門差立候間、何卒右の者江御渡し可被下候、且又名限御受取申候順番付別紙の通御座候間、御落掌可被下候、種々御面倒に御座候得共帰路の遠近、混雑無之様仕度、昨日も相願候懸りに付、順番取分儀に御座候間、此段御扱分可被下候、猶委細は伺公拝眉に可申上候得とも右の願昨日の御挨拶旁得御意度、如此御座候。恐惶謹言
  二月六日 近藤
   三人宛 久米
       三木
尚々御地へ立越候者とも持参の手道具類は、人渡御済候諸高御引渡可被下旨御相談致候義には候得共、尚又再考仕候処御引渡同日に相成候ては、彼是手許相混可申に付、来る九日御差延御受取申度候間、右様御承知宜御取斗可被下奉願候。以上

別啓得御意候御受取の儀弐拾郡にて貴邦御役人弐拾人御差添被下候段、昨日御約諾仕候義御座候処、名々取分都合向にて別紙名分の通拾六廉々相成候中に候得共、前後固々都合も有之御人数の儀は矢張前御掛合の通弐拾人御差出可被下候、此段御願候。以上
  同日 三人
   三人宛
 一、御郡奉行所初相応取合通書出候事
 一、三拾九人 菅生名 一、四拾三人 久保名
 一、五拾四人 落合名 一、六拾五人 釣井名
 一、弐拾六人 栗林仮名 一、七人 奥井名
 一、三拾三人 西山名 一、百四拾三人 大枝名
 一、百六拾四人 阿佐名
   〆六百拾六人
但弐拾郡
     弐拾人 御国郷役
    右付添四拾三人 内
     弐拾三人 阿州郷役
 一、右守護両方より入交り相狭み候事。
 右の運にて如何御座候哉、御差略の儀御差図被下度、且壱群間合相諭被下度事、尤前後引取方の儀は八日早天迄に順々書付を以可申上候事。
 一、同八日
 今日兼て約定の通、阿州遁散人相渡申候に付、御郡先遣壱人作配役并大庄屋共、六半時出足を以下番所外にて人数相揃置、阿州大庄屋三人役下の者弐拾四五人罷越、名々取分渡方相済未の上刻頃夫々越境相済申候事。
 一、阿州領樫尾村迄大庄屋番人四五人、跡見合として罷越候事。
 右村において阿州より饗応 たか餅一盆、酒肴一二種幕囲いたし有之由に候事。
 一、右相済御郡奉行中江寺尾庄兵衛随勤とて、即刻岩平口へ立越候事。
 一、同九日
 右諸御国相片付、入込候役人追々帰足也。



注(1)阿洲遁散筆記 国立国会図書館所蔵「土佐国群書類従」伝記所収文書。「遁散」は「逃散」のことである。
(2)豊永郷 現高知県長岡郡大豊村。
(3)祖谷山東分名子 祖谷山では、政所の喜多源内家をはじめ、各地の名主たちは、自家の手作地の耕作には名子の賦役労働を充てていたのであって、それが祖谷山の農業経営の大きな特色であった。それだけに、たびたびの祖谷山における一揆が、きびしい賦役労働に起因する名子たちの反抗として発生した史実は、祖谷山の矛盾に充ちた名子制度の集中的表現であるといえる。
(4)宝暦二申年 西暦1752年
(5)高取名主 徳島藩では、在村の武士を原士、郷士、高取などと称したが、それに準ずる者を郷士格、高取格として区別した。いずれも苗字帯刀が許されていて、村役人の支配外、すなわち無役人であった。
(6)喜多源内 喜多家は代々源内を称し、天正13年から6年間にわたって、蜂須賀氏を悩ました祖谷山の土豪一揆を鎮定した功によって、祖谷山の政所役に任ぜられ、僻地祖谷山の広大な地域に君臨していた、
(7)郷役 村役人のこと。
(8)検地の外の土地 祖谷山では、藩政初頭以来たびたび藩が実施しようとした検地に反対して、はげしい一揆が発生したので、検地の竿入れをしていない上地が可成りあったことは注目される。ちなみに徳島藩における検地をはじめ、近世化政策に反対する一揆はつぎのとおりである。
 1585(天正13)年、新領主蜂須賀家政の実施しようとする近世化政策に対して祖谷山、大粟山、仁宇谷、岩倉山、曽江山(いずれも四国山地の僻地山付)などの土豪が頑強な一揆により抵抗する。
 1590(天正18)年、山間土豪一揆ようやく鎮定される。
 1620(元和4)年、祖谷山の名主たち、藩の刀狩りに対し、代官渋谷安太夫に不正ありとして、城下に押し出して強訴を企てる。参加人員七百人という。
 1628(寛永5)年、祖谷山の農民、検地に反対して強訴す。藩側は検地の実施を断念する。
 1648〜57(慶安年間)年、板野郡喜来村の政所三木宗桂、藩の検地に反対して直訴、農民たちの要求がとおる。
 1737(元文2)年、祖谷山の名子1,000人、藩に検地の中止を要求して騒ぎ、代表が徳島城下に到り、御蔵所に訴え、年貢1割増納の条件で検地の中止に成功す。
(9)五人組 徳島藩では、明暦・万治期の戸口調査、すなわち棟付改めによってひじょうに特色のある「壱家=小家体制」を農付に確立し、本家と分家(血縁関係の有無にかかわらず)の支配関係と、一家集団の連帯責任体制をつくりあげた。そのため他藩にみられるような五人組制度を必要としなかった。この五人組は、天領の百姓代にやや似かよった制度であるが、主として庄屋の助役としての機能を果し、藩政中期までは「壱家」のみから任命されていたが、末期になると「小家」からも五人組を出すようになった。

目でみる祖谷山


 おわりに
 私たちの今夏の調査目的は、序に述べたとおり、近世祖谷山の村落構造の根幹をなしていた土居ウクラードが、商業的農業の秘境浸透に伴って、どのように変質し、また解体に向うか。またとくに名子の存在形態が、土居との関連において、どのようにして自立小農への運動の展開を示すものであろうかという視点によって史料採訪をすすめてきた。当然その調査成果を公表する責務を私たちは負うものである。しかし紙数の制限もあり、史料の紹介と、調査結果のまとめとしての論文の双方にわたって、ここに発表するには、あまりにも量的な面からいって不可能なことであった。そこで調査メンバ−の合意によって、私と板東紀彦が本報告書で調査概要と史料紹介を中心に発表し、「土居体制解体過程の研究」をテーマとした論文は、佐々木清克が「史窓」の第4号において発表することにした。そのような事情をご了承のうえ、「史窓」第4号の佐々木論文も併読ねがえれば幸甚である。
 恒例とはいえ、盛夏の調査に際し県立図書館の横山昭主事には、またしても親身なお世話をいただき、安んじて史料探訪に楽しく奔走できたことに深謝するものである。また多忙な公務の間に、長時間お邪魔して心よく私たちの難題に応じていただいた西祖谷山村教育委員会の方々と政所家である喜多家のご当主、東祖谷山村役場の職員各位、また貴重な聞取りに応じてくださった小祖谷名の谷口タケさんなど、多数の人びとにたいして心から厚くお礼の誠を捧げるものである。
 祖谷山に今日ほど大きな変動を経験した時代はかつてなかった。当然といえば当然のことだが、それだけに史料の散逸もおびただしいものがある。何としてもその保存を真剣に考える段階にいま差しかかっているという感を一入濃くしたのは、ただ私たちだけではなかろう。祖谷山の史的研究は、まさに今後の課題なのだから……。


徳島県立図書館