阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第18号
小祖谷の生活の変貌

地理学班 井上正紀、佐藤昌宏

目 次
  はしがき
 1 交通路の変遷
 2 生産の基礎構造の変化
 (1)人口構成の変化
  (イ)人口ピラミッド
  (ロ)小・中学生の変動
  (ハ)中卒の動向
 (2)生産活動の変化
  (イ)作付面積
  (ロ)主要作物
  (ハ)換金作物
 3 生活様式の変化
 (1)個人生活の変化
  (イ)衣生活
  (ロ)食生活
  (ハ)住生活
  (ニ)家族的地位
  (ホ)年中行事
 (2)グループとしての変化
  むすび
   参考文献と注

 はしがき
 ある地域を地理学的に考察するとき、地域の生産、すなわちどんなものが生産されるかの「物産展式」や、単なるその地域の分析や実態、すなわち地域構造の究明に満足してはならない。いかにして生産されるに至ったかの「地域への適応」が1つのテーマでもある。ある不安定な地域が安定化しようとする動きがあるとき、この不安定・不均衡から安定・均衡へと移行する原動力は何であろうか。それは地域の人間関係の事象では、安定状態への変化、移行しようとする現状に対する不満、不安定が原動力になる。この地域の不安定に対する安定状態への適応化こそ地域究明のカギと考える(1)。
 ここに、物産展的を排し(2)、僻地山村の小祖谷の不安定地域を対象として、いかに適応したかを究明するのが本論の目的である。
 こうした不安定地域の安定化への適応現象として、次の事が考えられる。すなわち、こうした山村を捨てての離村である。より経済的にすぐれた安定地域への逃避である。こうした例は、日本では過疎という。このほか、近くの町村に経済的に依存する法もあろう。こうした消極的行動に対し分散した集落が核化し、より緊密な連繋のもとに村の再編成を意図している例もあり、また、民宿化し、冬山・夏山の観光地として再出発している例もある。(表1)

表1


僻地 山村
不安定 低生産性→安定化
1離村→過疎
2村の再編成→新村として再出発
3隣り町に依存→町に隷属化
4民宿→観光地化 冬山・夏山 避暑地
5その他

(表1註)(1) グアテマラの農村に(3)、早くからみられ、スペインの文化地域へ流入している。
  (2)メキシコの村の再編成(4)(16世紀頃)や日本の山形、徳島の木頭の例。
  (3)近くに経済的にすぐれた町がある場合であり、名付け親を通じて結ばれている(5)。
  (4)長野の菅平がいち早く民宿として夏山・冬山の場としている(6)。

 ここでは、こうした取り残された村民の生活面からの適応化を探究するもので、まず、村の僻地性、村の生産構造を明らかにして、生活の変貌を究明する。

1 交通路の変遷
 祖谷・松尾川流域は、周囲を峻険な山々に囲われ、きびしい自然環境下にあることは従前と変らない。下流の池田町宮石地区でさえ昭和2年出合一宮石の道路が完成をみるまで、きびしい峠道が交通路であった。まして上流の小祖谷地区は、昭和31年は春ノ木尾ダムが完成するまで、村民の生活は不便を極めていた。
 それまでの村人は、瀬戸内から水ノ口峠(1116m)・馬場を経て、三好郡辻町にでるか、下名から日比原・マド・田ノ内と山道を経て、一宇から池田町に至るのが主な交通路であった(7)。特に病人が出た場合は、“アンダ”とよばれる担架に乗せて、峠道を越えていったという。しかし、春ノ木尾ダム建設のため道路が作られ、さらに、これが改修されて昭和35年松尾川林道として完成されたことで、出合との間が直接連絡された結果、人々の交通は、従来とは比較出来ないほど便利になっている。(図1)


 今では、小祖谷―出合間は1日2往復、村営のマイクロバス“あけぼの”で連絡され、村民の足となっている。このため従来の峠を利用した交通は皆無になった。しかし、池田町に出るまでに多くの時間と費用を要すること、さらに冬期は唯一の交通路も積雪で利用出来ないなど、交通の不便さは、小祖谷地区発展の大きな妨げとなっている。

2 生産の基礎構造の変化
 (1)人口構成の変化
 (イ)人口ピラミッド
 西祖谷山村の僻地性は、人口構成上からも顕著に表われている。
 徳島県下においても乳幼児(特に0〜5才)の自然減、青年層(特に20〜35才)の大都市流出が認められ、ヒヨータン型(農村型)を示しているが(図2)特に西祖谷山村の傾向は極端であり(図3)ここでは、人口ピラミッドが典型的なヒヨータン型を示し、人口の老化現象が著るしく、人口構成が変化してアンバランスになっている。
 さらに、これを生産年令人口比(1970)で見ると、徳島県の59.4%、郡部の65.5%に対して、西祖谷山村は95.3%、さらに小祖谷地区では、119%となっており、生産年令層(15〜59才)の都市流出を裏付けており、はっきりと過疎化が現れている。


 (ロ)小・中学生の変動
 西祖谷山村においては児童・生徒数が激減しており、1965年には、小中あわせて1,482名いたものが、1971年には、908名となっている。また、村教育委員会の推測では、4年後の1975年には小学生と中学生がほぼ同数になり、このことは数年後には、さらに児童数が減少することを示している。(図4)毎年、村全体で150名〜200名の児童生徒数が減少しており、その実数は、われわれの想像を上回る勢いである。
 小祖谷校区の場合は、小・中学校別に見ると、多少増加した年度もあるが、全体としてとらえると、毎年10名位ずつ確実に減少しており、特に1969年から1971年にかけては20名も減少している(図5)

    


 (ハ)中卒の動向
 西祖谷山村では、高校進学率が1971年で30%にも満たず、特に小祖谷校区にあっては20%であった。(表2)


 そして大部分が県外に就職するが、県内で就職する数も年ごとに増加する傾向を示している。しかし、村内にとどまる者は全く見当らず、村内で職につくものは高卒の者に限られているような現状である。
 (2)生産活動の変化
(イ)作付面積
 西祖谷山村では、徳島県全体にくらべて、農用地の占める割合が半分しかなく、村全体がほとんど林野である。(表3)
 山林の所有状況を小祖谷地区を例に取ると、10町以上所有する家は少数で、ほとんどが5町以下となっている。(表4)


 農用地における耕地利用を見ると、水田と畑作の占める割合が県下全体の割合と全く逆で、西祖谷山村では、畑作依存度がはるかに高くなっている。(表5)さらに、これを年次別変化でみると(表6)水田はほとんど増減がないが、畑作の減少が急激に現われている。そして、これが果樹園や茶園、桑園に転換されて体質改善が行なわれているが、これらが換金作物に結びついていない所に、村の低生産性を示していると言える。

  


 (ロ)主要作物
 自給作物としての米作は、ほぼ同じであるが、畑作の中心は従来の麦類、いも類、とうもろこしなどが換金作物として栽培されたのに対し、質的に大きく後退している。しかし、現在でも麦類、いも類などが、作付面積では主要なものであるが、ほとんどが自給用で、年ごとに占有率の減少が見られる。(表7)そして県の奨励もあり、1970年にはくり(59ha)うめ(5ha)かき(1.5km)など果樹への転換が目立っている。


 (ハ)換金作物
 西祖谷山村全体では、換金作物として従来のように麦類にたよる農家は少なく、煙草・茶・なたねなど、さらには肉牛などの畜産によるものが主なもので、昔に比べて大きな変化を見せている。(表8)しかし、各戸の所得は低く、1969年の1世帯当りの所得が56.4万円、1人当りでは11.9万円という低所得である。一方、小祖谷地区では時代によって変化が見られるが、主として煙草、根のり、麦、みつまた、こんにゃくなどが収入源となってきた。ところが、現在では、表9のような作物が栽培されているが、換金作物は何1つなく、すべて自給用である。そのため、農家も農業収入に見切りをつけ、平均3〜4反あった栽培面積も2反以下に減じ、野菜などを自給用に作る農家が多くなっている。(表10)小祖谷地区の過疎化に拍車をかけた大きな要因として、従来の農産物が換金作物にならず、それに替わるものがなかったことがあげられよう。
 以上生産構造の変貌を概観したが、こうした山村の変貌にともなって、内部的生活様式がどのように変ってきたか、住はいかに適応しているか。この点を検討して見る。このため西祖谷山村小祖谷地区で戸別調査を行なった。


3 生活様式の変化
 (1)個人生活の変化
 小祖谷地区においては、松尾川林道の完成が、生活のすべてを変えた。そこで、村の人達にこの点について、何が一番変ったと思うかと質問してみたところ、人々は次のような受取り方をしている。(表11)婦人たちは、食事が良くなったこと、衣類がぜいたくになったこと、婦人も外で働くようになったこと、電化が進んで仕事が楽になったことをあげている。また、男たちは、農業をやめて、山林労務につくようになったことを第一にあげている。さらに、老人は、月2回出合から医師が検診にきてくれるようになったことをあげている。


 (イ)衣生活
 昔は、村の人達が、晴着を身につけることは稀で、多い人で年に2回までであった。現在では、村営のマイクロバスで簡単に池田町へ出かけられることもあって、生活全体が派手になり、晴声を着る回数も以前とは比較できないほど多くなっている。


 (ロ)食生活
 昭和35年頃までは、鮮魚、肉などには縁がなかったが、いまでは、主食も米食になり、魚・肉が食卓にあらわれる回数が多くなっている。(表13)また、祭礼のときや来客などにそなえて、アメゴ(アマゴ)マスなどを自宅の池で飼っている家が90%近く見られた。


(写真1)


 そして、祭や正月の「ハレ」の食事が姿を消して、日常も変らなくなりつつある。
 しかし、パン食はまだ普及しておらず、仕事の間食に時々食べる程度である。
 (ハ)住生活
 家の新築・改造などは、ほとんど行なわれておらず、この地区で昭和40年から後に台所
の増築1戸、風呂1戸、便所1戸、屋根の修理2戸程度である。小祖谷地区で雑貨店を営んでいるA宅では、ガレージ、台所、倉庫、客間を増築しているが、これは例外といってよい。
 しかし、電化生活の普及は著るしく、春ノ木尾ダムの完成によってもたらされた電気は、村に大きなうるおいを与えている。
 電気器具の普及はめざましく、テレビ、洗濯機、ガス炊飯器などは、ほとんどの家庭に入っており、プロパンガスは、けわしい山のいたる所の台所で見ることができる。(表14)


 これら電気器具の支払いは、ほとんど山林労務によるもので、出稼ぎによるものは少ない。
 そして、電化生活の普及により、ニュース源も圧倒的にテレビが多く、新聞を購読している家は少数で20%程度にすぎない。(表15)


 (ニ) 家族的地位
 現在では、家族数7名以上の家はわずかで、4〜6名が半数以上になっている。
 皮肉にも、松尾川林道は、村の若者を都市へ流出させる動脈となっており、青年の姿を見かけることは極めて稀である。
 村に住む男女が、結婚式をあげたことは近年なく、都会に出た青年が村に帰って挙式したことが5年くらい前にあったという話である。また、村の人達の話では、長男に嫁をとることが非常にむつかしく、結婚をするにも若い女性がいないのが実情であり、男子は村に残るにも残れないということである。
 小祖谷地区は、出稼ぎが想像したより少なく、全体で主人が2名、長男が4名程度季節的に村を離れている。村では、男女を問わず山林労務に出ており、収入源のほとんどが、これに頼っている現状である。
 昔に比べて農業を捨て、女性が外で働くようになったこと、長男が離村してしまうことなどが大きな変化としてとらえられる。
 さらに、祖谷地方の特色として隠居制度があげられるが、小祖谷地区においては、隠居部屋をたてることはせず、村で3戸の隠居はいずれも転出した空屋や、長男の家の1部屋をあてがってもらったりしている。
 (ホ)年中行事
 日本の年中行事は、米作生産と結びつきが強いが、畑作中心だった松尾川流域ではそうではない。
 小祖谷地区では、氏神詣で(1月1日)粥杖(1月15日)氏神の春祭(4月15日)夏祭(6月中旬)……といった行事があるが、そのうち小祖谷地区では氏神の春祭が主なもので、他地区と比べて祭礼が少ない。
 小祖谷地区の最大の年中行事である氏神の春祭には、“弓はなし”がある。これは、各戸から男が出て、1人が約百本の弓を標的に放つ、勇壮なものである。昔は、しし舞いもあり、露店も峠を越してやって来たそうであるが、現在はみられない。
 祭の料理は、五目ずし、まきずし、にぎりずし、刺身などであるが、松尾川流域ではもちをつく点が他と変っている。また祭の料理で昔と変った点は、酒は以前自家製のものであったが、清酒・ビールなどを使うようになり、魚類も多く使われるようになったことである。(表17)


 正月の氏神詣では、他地区は家族全体で参詣するのに、小祖谷地区は主人だけですませている。しかし、青少年層の離村は、正月の行事にも次第に変化をもたらしている。ここ数年前までは正月も旧で行なっていたのだが、都市に出た若者が帰省するのに合わせて新正月となっている。
 年中行事の少ないこの地区は、人口の減少と共にさびれる一方で、楽しみは団体で都市に出かけるといった姿に移りつつある。
 (2)グループとしての変化
 グループ活動は、次第に活動を失っているが、現在行なわれているものの中で、婦人会活動(毎月15日)が活発で、これには24、5人が参加している。婦人会の単位は、中祖谷(小祖谷、下名、坂瀬、日比原、山風呂)である。婦入会の活動としては、各地区の婦人会が交替で世話し、敬老会(70才以上)年1回の慰安旅行、月1回の勉強会を行なっている。その他、中祖谷を単位とするものに、消防団、バス組合などがある。最近では参加人員の減少で、小祖谷単位とするより中祖谷単位のグループが多くなりつつある。
 次に小祖谷の相互扶助(結)について調べてみると、地区全体は東西に大別され、小祖谷西はさらに3区分される。(図6)以前はこの区分によって、冠婚葬祭、農繁期の“手間がえ”などが互いになされていたが、現在は小祖谷西は1単位になっている。特に、小祖谷西は、昭和36年頃から空屋が多くなり、現在村に残った人々もほとんど農業を行なっておらず、家畜は一頭も飼育されていない。
 一方、小祖谷東は、全戸が農業を行なっており、昔と同じ様に“手間がえ”も行なわれている。牛も五頭ほど飼れており、フ 氏の所有するテーラーで全戸の耕作を行なっている。さらに、各戸は電話で結ばれ(ハ ・ナ 氏は、あとから転居してきたため不加入で、西のス ・セ ・タ の3氏が加入している)結びつきは密接で、小祖谷西とは全く対象的である。
 要約すると、グループとしての変化は、小祖谷西では大きく変化し・農業を捨てたことによって、相互扶助が薄らいでしまったのに対し、小祖谷東では、依然として農業を行ないながら、相互扶助を行なっており、“1つの家”といった感じで結びついている。

 むすび
1 昭和31年春ノ木尾ダムの完成により、交通路が峠交通から松尾川林道に変ったが、逆に過疎化のテンポを早めた。
2 生産年令層人口の減少により、人口構成が極度のアンバランスになっている。
3 とり残された村民は、農業をすて山林労務により生計をたてている。
4 ダムの完成により、昭和35年頃から急速に電化生活が普及した。
5 出稼ぎが予想以上に少ない。
6 過疎により、グループ単位が統合されて地域的に拡大している。

 以上のことから推定して、松尾川流域の小祖谷地区では、安定化の要素が山林労務だけで支えられていることから、魅力ある職業を求める学卒者が、今後とも他に流出することが予想され、過疎化は、今後ますます進行するものと考えられる。
 おわりに 本論をまとめるにあたり御指導頂いた徳島大学の高木秀樹教授、調査に心よく協力くださった西祖谷山村役場、村教育委員会ならびに小祖谷小学校・櫟生中学校小祖谷分校の諸先生ならびに小祖谷の向井清氏に感謝します。

  参考文献と註
1 三野与吉:地理学の本質上の諸問題 立正地理学会 地域研究 12号 P5〜6
 ○安定化の法則と呼んでいる
2 高木秀樹(1970):地歴学会6月講演
 ○地理学の物産展式、山川草木式を排する
3 Horst. O. H:The specter of Death in a Guatemalan Highland Community Geogr. Rev. P57
 ○ここでは、コーヒー地域への村民の移動がみられる
4 高木秀樹(1970):メキシコ高原農付テぺオフーマのプラザとその機能 地理学評論 Vol 43 P25
 ○広場を中心にインディオがあつまる村の統合化である
5 高木秀樹(1970):メキシコ高原農村の生活関心圏 人文地理学会、徳島例会発表。
 ○名付け親を通じて、村には経済的に町の有力者に依存している
6 菅平高原の民宿は、戦後いち早く行なわれている(1950年頃)民泊、民宿季節的宿屋 の語として報道されていた
7 福井好行(1951):東祖谷山村における交通路の変遷 人文地理 Vol.3 P.68


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