阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第17号
麻植パイロット開拓地区埋蔵文化財の調査

郷土班 石川重平

この調査は河野幸夫・青木幾男・旧中善隆・竹内金二・河村敬介各先生方と私石川重平と徳島大学学生松崎みさ及び松崎氏の妹と合計8人で調査を行なったのである。
 8月1日は徳島県立図書館で結団式を行ない、後郷土室に集まり調査打ち合わせをした後、用具を受取り明日2日よりの行動をきめ散会した。
 8月2日は、国鉄徳島線西麻植駅に午前9時に集合して東禅寺の縄文遺跡を調査し、東禅寺跡につづいて、東禅寺山古墳群、壇の原の洪積層の地質調査、西宮横穴古墳群青木幾男氏宅の東禅寺縄文遺跡の出土品、石器、縄文土器の写真か拓本を取り、午後川島城に行き大日寺の礎石、銅鐸出上地、朝鮮女の墓などを調査した。
 8月3日は川島駅8時集合して上桜城の実測を行なって実測図を作製したその後、二ツ森神社の調査、山川町の岩戸神社の旧吉野川河道にあたる岩戸神社裏の甌穴群を調査した。
 その後も引きつづき板碑及び古墳の調査を行なって調査報告書をまとめたものである。

 東禅寺縄文遺跡
 徳島県内に於ける縄文式時代の遺跡は非常に少なく、脱在までに知られている遺跡は、三好郡池田町、徳島市城山、那賀郡桑野など数カ所しかない昭和45年9月1日より13日間三好郡三加茂町新田神社境内の岩蔭遺跡群を発堀調査を行ない、吉野川流域の縄文式時代の遺跡の研究が盛んになりつつある。この東禅寺遺跡の研究には甚だ大切な遺跡であると考えている。


 私達が調査したものは、縄文式土器の破片数個と石器類であるが、土器の形式から見て縄文時代中期から後期晩期にかけての様式をもつ土器で、瀬戸内形式、後期の中津式土器と中期と後期の中間と考えられる磨消縄文の破片も出土していた。石器は石サジと石族等が出土していた石質はいずれもサヌカイトであった。この遺跡は、鴨島町や川島町の中心部に近く、国道192号線や県道森山線にほど近い位置で、住宅団地に適しているので、何時宅地に造成されるかわからない所であり、私達は早くこの遺跡の本格的な調査を願っている次第である。聞くところによると、最近鴨島町で調査を行ない、遺跡の範囲の確認をする予定だと聞いて一安心している。
 この遺跡は今後の調査以前に青木幾男氏が調査され、報告書を出しているので、その一部を報告したいと考えている。まず
  位置 麻植郡鴨島町西麻植壇ノ原18番地、土地所有者 平島桃作
 現地は吉野川が川島城跡、岩の鼻をさけて大きく迂廻するその岩の鼻を、出張頂点として形する麻植郡中央部丘陵地帯の東方に面する洪積層地帯であって国道西条線と県道森山線が接続する地点より東へ約1m、県道から150mばかり南方で、一般に深田と言われている一毛田の低湿を前にした約3aの畑である。
 現地から100mばかり西方の丘上には一時忌部遺跡として騒がれた古墳群があり、大正初期に発堀して、土器、曲玉、古鏡が出土したといわれている。この古墳から東南方の丘上の耕地には、全般に広く露面に須恵器、土師器の破片が故乱している。全体にこの附近一帯は川島から森山にかけて古墳が多く、また現地から500mばかり東方には延喜式社の雨足社跡、或は中内神社がある。それから東へまた500m附近を飯尾川の上流である 「から谷川」が流れているが、その上流、現地から2kmばかり東南方の谷添い耕地土中から弥生式土器が出土している。附近に於て出土石器は現在までに磨製石器が数個、数ケ所で単独に発見されている。
 地 質
 表土は夏季は水田として耕作しているので、地表から15cm〜20cmばかりは粘土色の普通に言う田土であるが、30cmあたりから下方は土壌か石が炭化したような黒かっ色かたい土となり、50cm〜1mを堀すと鉄さびのかたまりのように非常にかたいしめかためられた土くれとなって鍬の幅しか堀れない。その土くれの中に時折りは石器らしいものと共に共存して、土器は破片ばかりが出土された。下層部の土器の断面は炭化したように点々と黒化しており、土器にかたくくっついた石ころも同じように中心まで黒化している場合がある。このような黒化層は現地から300mばかり東南方の土取場の断面に地表から4mばかり下がって約1mの厚さで横に走っているのが露出されている。現地は黒化土の中に時折粘土をまじえており、また附近にはあまり見かけない河原石等も混在しているので、原生土でないことが知られる。

 

発見の動機
 3月末か4月始め頃、徳島療養所職員の平島桃作氏が耕地の天地返し中にでてきたと言って500g程の土とその土の中に含まれている土器の破片らしいものをもって来てくれた。それは土と焼色で弥生式の破片らしく見えたが、形も模様もわからない。地形を聞いて私はもう少し堀り下げることをすすめた。数日すると土器が見えていると連絡があったので、4月14日私は史学会員の鎌谷氏を誘って現地に行った。そして70cmほどの深さから突起縄文のある土器の破辺2個と石器1が乗った平底土器の破片を発見したので縄文遺跡であることに確信をもって、慎重に調査をすすめた。鎌谷氏は、この日弥生式のトッ手土器の破片らしいものを発見した。
 その後、4月から5月、6月上旬まで3ケ月にわたる約10回の調査結果のあらましを第1次的にまとめたのがこの報告である。発堀はおもに平島氏がすすめられ、平島氏の熱意と非常に慎重な態度とによって遺物が発見されたことを感謝しなければならない。
 古 墳
 古墳は、鴨島町に31基、川島町に19基ほどあり、型式はほとんどが円墳であり、内部構造のわかっているものでは、組合石棺、横穴式のものが最多く残在している。
 鴨島、川島の古墳には総てといってよいほど、墳の中心部に盗堀の跡があり完全に残っている墳は、私達の見たものでは山田の平倉古墳群の中の円墳がただ一基であった。
 出土品では、川島町山田王塚から出土したと言う勾玉3個と車輪石1個であるこの遺物は、現在も山田の岡本幸平氏宅に所蔵している。
 車輪石と言っても、後期のものであろうか、形が悪く、製作もずさんなものである。
 横穴式で飯尾の国立療養所の北の丘の上にあるもので、盛土は全部流失していて、石組もほとんど取り去られているが、基底部の石組やその他の部分は、現存している今のうちに調査をしておかないと、全滅してしまうように考える。
 大日寺跡の礎石
 大日寺跡は国鉄徳島線川島駅の構内及びその附近にあり、駅の左50mほどの所に標柱が建ててある。現在寺院の遺構は何一つも残っていないが、地名や出土する古瓦の文様によって創建の時代や寺院の敷地などを推察することが出来る。ここから1粁あまり北にある川島城跡に、大日寺の塔の心礎であるという礎石が石垣の中に積込まれている。はたしてこれが大日寺の礎石であるという確証は今のところわからないが、柱座の作出などの工法から推定して奈良時代の寺院建築に使用された礎石であることは間違いないと考えられる。


 石質は青石であり、石垣の中に積まれているので、総体の大きさはわからないが、現在見えている部分で1.50mの幅がありその中央に直径58cmの正円の造出の柱座を付けてある。
 この礎石が大日寺の塔の心礎であるとするなれば、塔は総高約22mほどの三重の塔が建っていたことになり、寺院の敷地も66mほどの寺院敷地があったことになる、だとすると、石井発寺とあまりかわらない寺院敷地で、小じんまりとした一私寺であったのでないかと考えられる。
 時代は、出土している古瓦の文様からして、奈良時代の創建にはまず間違いないであろう。


 板碑
 板碑とは、石で造ったソトバのことで阿波国では、鎌倉時代から戦国時代の終わりごろまでの間に造られている。
 板碑は、当時の集落部附近に建てられたので、武家時代の集落の位置が知れる。
 麻植郡内では、総数が300〜350基は現在していて、その最も古いものは、麻植郡鴨島町飯尾の報思寺境内にある正和五年(1316)六月二十八日の銘のあるもので、報思寺には、元享元年(1321)六月二十九日の碑も現在している。麻植郡内の年男在銘のものを記すと、
  鴨島町上浦本行寺西側
    正慶元年十月中日
  鴨島町飯尾地蔵堂東側
    建武三年二月日
  美郷村東山字古土地
    観応三年十月十四日
   同じ所に同じ年月日を刻してある板碑がもう1基建っている。これは双式板碑である。
  美郷村字湯下
    延文四年
  中枝村別子山字古井
    延文五年六月十七日
  美郷村別子山墓地
    貞治二年二月八日
  山川町西川田大坊跡
    貞治二年十月
  川島町川島城跡
    貞治五年丙午二月
  学島村吉本地蔵裏
    応安己酉八月五日
  川島町山田
    永和二年八月□□
  川島町桑島
    永和五年二月二十三日
  鴨島町牛島西覚西方
    永徳三年七月二十三日
  木屋平村南張
    永徳三年八月十三日
  木屋平村三木南張森本伊三郎
    至徳二年□月□日
  鴨島町飯尾報思寺
    応永四年十月三日
  山川町高越山中の郷万代池西側
    応永六年十一月日
  川島町川島城跡真福寺
    応永八年正月廿七日
  学島村大字御伽藍堂
    応永十一年□□十八日
  山川町高越山中禅寺
    応永十六年十月二日
  木屋平村三木善福寺
    応永廿一年□月□日
  山川町高越山中の郷万代池
    永享三年十月二日
  美郷村字上谷猪井鶴太宅
    文明十三年八月十三日
  鴨島町森山山路三好家墓地
    享禄五年三月
  美郷村東山古土地後藤田家
    元亀元年八月廿五日
前記の如く鎌倉時代の末期から戦国時代までの年号在銘の板碑があり、まだまだ更に多く発見されるであろう。
 その中で川島城跡にある貞治5年(1366)の板碑は、阿波型板碑の標準になるもので、総丈1.75mもあり、標識に阿弥陀三尊の種子を刻し、その下に蓮花座を付て、下部に二個の花を配し、その花瓶に三茎の蓮花をさしてある。


 実に見事な出来栄である碑面の両側に、
 右志者為善根霊位
 十方仏土中 唯有一乗経 無二亦無二
 除仏方便説
  貞治五年丙午二年□□
 と刻してある。このように板碑造立の主意と経文の一部を刻してある板碑はめずらしくこの紋文は、妙法蓮華経、第二方便品の中にあり、板碑の面にその一句を刻することはやがて一経を刻するも等しき性質及び功徳をふくみ写経としての性質も副次的に加わっているように思われる。そうしてまた、それらの偈頌の出典を知ることは当時一般にどのような経論が用い行なわれていたかを知ることができる。
 延れば当時一般庶民が如何なる信仰のもとに生きていたかを知ることもできる。
 もう一つの資料としての板碑がある。
 板碑はその大部分が造立の年月日を明記してあるため、その紀年号によって例えば南北朝時代の如き複雑した政治的関係を有する時代に於ける、南北両朝の勢力範囲および或る土地において、それらの勢力の転換期を大体ながら知ることができる。
 東山古土地の観応三年の双式板碑か湯下の延文四年の板碑別子山の貞治年号はすべて北朝年号である。
 飯尾文書によると南朝方である別子山の河村小四郎は観応二年十月三日に飯尾村の飯尾隼人佑吉等と(北朝方)戦っている。古土地の観応三年十月十四日の板碑は河村小四郎城の戦の一年後に建てられたもので東山附近は、北朝の勢力範囲にはいっていたことが知れる。その後湯下の猪井家の先祖墓といわれる延文四年更に別子山の貞治二年と北朝勢力圏になっている。
 上桜城
 上桜城は篠原紫雲の居城であり、川島町にあり、8月3日河野、青木両先生と松崎みさ徳島大学々生と松崎氏の妹さん等と午前8時30分川島駅に集合して朝の涼しい中に登山し、実測調査を行なったものである。
 この上桜城は、今までに実測図を製作したことがなく、私が知っているところでは、今度が始めてでないかと思う。然しこれが精密な実測図ではなく、今後さらに精密な製図のできることを望んでいる次第である。
 城跡は、本丸と西丸にわかれ、私達の調査した感じでは、最初東側の本丸を作り、その後何年か後に西丸を急造したように考えられる。
 私は城の研究は素人で何も知らないが、今まで見た山城式の様式とは、形式が少しかわっているような気がする。
 幸いから堀の堀割の所を芝や樹木を切りはらってあったので、建造当初の姿がほとんどそのまま見せてくれた。
 堀の幅及び深さコオバイなど、また堀はすべて幅1mあまりの堀り残しを造り、人1人が通れるほどの道を残してある。堀った土は、堀の一方城の方へ全部盛土してあり、城兵が守備に付ける平地を作り、あるいはその堀と平地の境目に杭を打ち、堀より登れないように作ってあったのかも知れぬ。
 いずれにしても城上篠原紫雲は近畿地方の山城、和泉、摂津などで、幾多の戦を経た千軍万馬の武将である。それ故にこの上桜城もその実戦のけいけんから築城したものでないかと考えている。一般に見かける阿波の山城形式とは少し変った築城方式のようである。
 阿波国の戦国武将としてもっとも有名な篠原紫雲の居城がこの麻植の里にあることも特筆すべきことである。この数少ない名城をパイロット事業で破かいしないように願いたい。

 

篠原弾正少粥入道紫雲歴

篠原雅一

 三好の重臣として戦国町代に阿波の軍事政治に大きな活躍をした武将に、篠原右京之進長房(幼名は孫四郎、晩年紫雲)があり、その考察がこの小稿である。
 この当時篠原を名乗る城主が阿波に五家あった。「古城諸将記」によってあげると
1 山口城 中庄城とも呼ばれ、池田町山口で篠原三河守弾正少弼諸政が初代であった。
2 上桜城 川島町植桜に篠原弥正少弼入道紫雲があった。
3 今切城 篠原玄蕃亮、三好長治の近習
4 夷山城 1名楯塁とも呼ばれ、徳島市八万町下村市原の里に在る。篠原左吉兵衛で泉州条田に討死す一子鶴石丸があり、兄の紫雲が養育す
5 木津城 撫養にあって、篠原肥後守入道自遁紀州、淡路を経て土佐泊りに上陸する。最前線要衝の基地で勝瑞城とは最も関係の深い城であった。
篠原氏は橘姓で、橘諸兄から八代目橘好古の子孝政が始親とされている。

 「昔阿波物語り」によると
篠原氏は四字の姓(源平藤橘)四氏の橘が親で近江の国篠原の里、多賀神宮宮司の二男に生れ候、三好喜運に仕え、その当時は宗半と申して荷持ちなどして阿波へ下り候時、肩にコブが高くてかたひらなどめす時は見苦しく候、宗半は僅かの奉公銀に召されつれ共、公事沙汰をきき候ては直ちに栽決し、両者は納得して不平なし、才知噸みに優れたり依って知行を一かど被遣候いて、特務を被命候、宗半の長男大和守長政も三好氏を補佐し一向宗美馬郡郡里の守楽寺は阿波讃岐に末寺多く盛んな寺であったが、永正12年火災にあって讃岐財田に仮寓せしとき阿波へ召還状を永正17年12月に添状を出している。既に三好に仕えて二代目になって篠原氏の地位も高く評価されている事がわかる。
 宗半の二男孫四郎が紫雲で、三好義賢に仕え阿、讃、淡三国の国勢をとり待司となり、その権勢は主家を凌ぐ有様であった。三好義賢が兄長慶も摂津飯盛城で天下を制する権力を得た。近畿に於けるめざましい活躍は阿波の実力が要因で長房の力もその重要な一つであった。
三好別記に
 篠原長房(岫安)は才知優公平無私、薬師という智者を崇敬し諸事相談をなし、式目を以って訴訟を分ち、新加制式二十二条を制定して分国、分境の民事訴訟、家臣の所領訴訟を判決し、万事私事なかりければ諸人うらみ不存、阿波、讃岐、淡路三ケ国よく治まり申候とある。戦国争乱の世は阿波の将士は海を越えて近畿方面で絶えず戦って居る。長房(紫雲)も数度兵を率いて兵庫、境に上陸し軍陣に臨んでいる。
 天文22年(1554年)12月2日播州赤松氏を援助する為、三好長慶の先陣として明石城表口に陣取って戦って居る。
 永禄3年(1550年)10月河内国飯盛城と、11月高屋城の入城にも紫雲は参加した。
 永禄4年6月紀州の根来寺、和泉の安見美作守畠山高政が兵をあげて戦っている三好に抗した時も長房は、年を越し永禄5年3月5日久米田の合戦となり先陣の篠原長房は根来陣と安見勢を大いに切り崩し、勝に乗じて三好山城守、下野守、同備中守等の諸勢も一同に切りかかりたるも三好義賢の軍勢利あらす義賢は討死するの事態となり阿波勢総くずれとなった長房も、阿波に帰って勝瑞を固めたが将士の中には頭を丸めて出家したものも多く長房も岫雲と称し、木津城主肥前守も亘遁と号したのもこの時である。
 岫雲は永禄6年7月長治を補佐し、永禄7年7月4日三好長慶が飯盛城で死去したので、岫雲は上洛して三好は向守長逸、三好下野守政康、岩城主税介友通の三好三人衆と共に長慶の嗣子三好義継を補佐する事などを相談して勝瑞に帰った。
 永禄9年6月11日岫雲は先鉾となって2万5千余の兵を率いて兵庫へ上陸した。このとき松永方の布引滝山城は協力軍の播州の別所氏に攻めささ、岫雲23日越水城瓦林三河守を攻め攻国二十間で落城させ、その後越水城で2ケ年開城主として三好連合軍を総指揮した。
 岫雲が新加制式二十二条を制定したのもこの時らしい。
岫雪二十二条新加制式とは
 1、神社を崇め寺塔を敬うべし
 2、固く賄賂を禁止すること
 3、旧境を改め相論を致すこと
 4、仲間、狼籍科のこと
 5、三度召文を給うと雖も参上せざる科のこと
 6、犯論の時は証人を出すこと
 7、道理なしと雖も指損ジナキ故謀訴を企てる輩贖者をかけらるべきこと
 8、強窮二盗の罪科並に与頭同類のこと
 9、失せ物見出すに随い本人に返すこと
 10、罪人と号し事由を究めずして殺害せしむること
 11、被官人罪科主人に懸るか否かのこと
 12、譜代相伝えの被官人のこと
 13、一季奉行のこと
 14、地頭の為に百姓の田畠等押え置くこと
 15、地頭に対し事由を遂げず猥りに名主変更の事
 16、百姓恒例の年貢に増加せしむること
 17、所領を子孫に譲与するのこと
 18、父祖の譲状たりと雖も事に依り容赦あるべきこと
 19、御恩を以て質物に入ること
 20、党類を組んで互に盟誓せしむること
 21、科人と号し追い来るとき他方より出合い殺害せしむること
 22、被官人攻撃に及び其の科主人にかかるか否かのこと
右の新加制式一巻は続史籍集覧二の巻に収載あり
 阿波昔物語りにも岫雲は歌にも通じ、長慶と歌合戦を催し、又裁判は岫雲の特意とする処で民の年山事分国の争い家臣所領の争事など諸事岫雲が式目を以て訴訟に公平を期し、私事なく諸人不羨、阿波、讃岐、淡路三国よく治まれとある。


 篠原右京之進長房は永禄5年岫雲と称し、元亀2年紫雲と改め、大和守長政の二男で、三好義賢に仕え、阿、讃、淡三国の国勢を執り待大将となり知行3千石拝領していた。
 永禄8年5月松永久秀が将軍義輝を殺した後、7月5日に京都に於けるキリスト教宣教師を追放した対策としてパードレ、ガスパル、ピレラ書翰に次の一節がある。
 前略「如何なる方法を用ふるも、此の暴君より我等復帰の許可を得るは困難なれば阿波国に赴きシノハラ殿と称し、多数の兵士を有する武士に同行を求め、都の公方に我等の復帰を請はんとす」下略この暴君とは松永久秀の事でシノハラ殿とは右京進紫雲であって、ピレラの基督教布教対策に篠原岫雲に頼り許可を得んとした事は当時の情勢を十分把握した適切な対策で岫雲が如何に勢力があったかが想像される文献である。永禄10年再び取締りが緩和される事となった。
 篠原岫雲は10月1日細川真之、三好長治を伴い越水城を明渡して阿波に帰った。

 勝瑞城には長治生母大形殿が木津城主篠原自遁と通じ醜声かくれなく、紫雲は同族の関係もあり自遁を戒めたが却って自遁の反逆に遭い、大形殿は長治に命じて紫雲を除こうとした。紫雲は居城植桜に退いたが、元亀3年(1572)十河存保、森飛弾守、伊沢右近を大将として攻めた。
 紫雲は子息大和守と共に戦死した。中にも柿原源吾、柿原藤五郎、同新吾など60余人紫雲に殉した。元亀3年7月16日の事である。この戦は阿波に於ける戦いの中で最大のもので敵味方の死者3千余と阿波古戦記にある。紫雲戦死の前日に紫雲の妻は紀州本願寺の娘なので、子、松光8才後新次郎)梅松7歳後七郎兵衛尉義房、吉松6才、小法師5才と娘1人を連れて横田大膳大夫、田辺鴨野大夫等を付添わしめ道中無事なるを祈って敵方寄手の軍兵若干が喜び迎えて紀州に送り、また、紫雲の弟左吉兵衛の遺子鶴石丸は11歳であったが家臣庄野和泉守をつけて城から脱出したところ、討手の伊沢右近は鶴石丸母方の伯父であったので大いに喜び之を保護した。稀に見る激戦の中で、しかも敵方の妻子を討手が喜び迎え助けるところに紫雲の平生が思われたからである。
 板西城主赤沢信濃守宗伝は、紫雲の討伐は以っての外だ忠節な武士を討つ事によって三好の天下も終末が近いと悔いて板西城を捨てて高野山へ引篭った。又一宮城主長門守成助は長治は無理な事を被致候、世は正に暗黒にならんと告げ候へば、長治いかりて一宮城を攻め寄せた。
 阿波国徴古雑抄650頁 昔阿波物語りにも同様の文があり
全国各地で絶えざる戦死を繰り返し、実力を以って物をいう下剋上の時代であり、戦に明け戦に暮れたのであるが、阿波の将士は海を渡って近畿地方の山城、和泉、摂津などで戦った事が特長で、三好之長や、その子長秀、長光、長則、三好元長、三好義賢など何れも山城、和泉、摂津で戦死している。
 阿波の土地では、天文21年三好義賢がその主細川持隆を殺した勝瑞の変、同22年槍場で久米義広が三好義賢を討って、細川持隆の仇をうたんとして却って敗れた合戦があり、元亀3年川島合戦は最大の戦いで戦死3千とさる。
 篠原紫雲戦死後元亀3年(天正元年)からは状勢が変って、蜂須賀家政が入国した天正13年までの13年間は、阿波の山野を血潮で染める粉乱の時代であった。即ち三好長治の乱脈政治、細川真之の仁宇山逃避、長治の敗死、一宮と勝瑞の対立、脇城の戦、長曽我部氏の西方及び南方からの侵入、中富川の戦い、勝瑞の落城、秀吉の四国征伐等に、当時の変化を記録した「三好記」「三好別記」「阿州将裔記」「昔阿波物語り」「阿波古戦記」の何れもがその間の混乱を物語っている。
 篠原紫雲は、戦国末期に三好家を支えた、阿波の傑出した人物で、紫雲滅んで三好家はガタガタと崩れたが、紫雲の忠節は今後かんばしく武将として高く評価されている。
 この稿は一宮松次先生の昭和37年9月20日史談会発行の126頂〜133頂の篠原紫雲長房考に願る。


徳島県立図書館