阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第17号
近世村落社会の史的構造 −16〜18世紀川田村各年次棟付帳を素材として−

板東紀彦・加地孝子・三好昭一郎

 は じ め に
 川田村は、いま麻植郡山川町を隣村の山瀬とともに形成している。この川田村は同郡美郷村から発した川田川が、吉野川に注ぐ接点に位置した河成段丘に展開する農村で、後背地の麻植十山(現美郷・木屋平の両村)をはじめ、美馬郡一帯などの山間部に産する楮を集め、川田川の清流を利用しれ和紙の産地として、徳島藩政下でも経済的に重要な位置を占めていた。最近でも高知、愛媛の両県から原料を得て、細々ながら和紙の生産をつづけている。
 川田村の和紙生産について、その発生を歴史的に把握することは、史料の制約から現状では不可能であるが、戦前まで多数存在した製造業者と、用水の関係を積極的に追求すれば、この問題の解明もある程度は可能であろうと思われる。このような和紙製造という家内工業の発生を、地元では18世紀末から19世紀初頭とする説があるが、確証はない。ただ可成り大量の良水を必要とするこの種の農村工業は、つぎのような経済的要因と相俟って形成されたものであろう。
 1  原料の「楮」が得やすい。
 2  豊富な良水にめぐまれている。
 3  新田開発によって生産規模の拡大を図る余地がない。
 4  「藍」を中心とする商業的農業の発展によって、農民的剰余の蓄積がある程度すすんでいる。
 5  藩による生産者の保護と、有利な市場が存在する。
 以上のようなモメントをそなえて、川田村の和紙生産は展開したものであろう。とくに「楮」の収穫は厳冬であり、和紙の主たる製造の季節は冬期である。夏期の労働を主とする藍玉生産に対して、和紙生産は裏作的意味をもったものと考えられ、川田村の農民の再生産の場として、重要な経済的意義を見出すことができる。なお本稿では、川田村における和紙生産の盛行をみる以前の村落構造を探ることによって、和紙生産という農村工業展開の必然性を、歴史的に明らかにするための手がかりとしたいと思う。

 1 蜂須賀氏の入部と近世川田村の形成過程
 天正13年(1585)に、播州竜野の旧領から蜂須賀家政が阿波に入部したことによって、一応阿波の近世は幕あきとなる。在地の史料(1)によると、家政の入部は正月2日となっており、同年9月「在々為御仕置、黒部吉右衛門名代を以御越、大粟山・木屋平山にて一揆発、此時五郎右衛門木屋平へ掛付、働有之太守様見え十月十一日」とあり、祖谷山をはじめ新領主の支配に反対する土豪一揆が、山間部一帯に発生し、川田村の政所(のち庄屋となる)五郎右衛門が、鎮定のため木屋平山に派遣されたことを記している。木屋平山の一揆は、間もなく平静をとり戻したらしく、五郎右衛門家はその功によって、政所の地位を確定し、近世をとおして卓越した地位を維持するが、この段階から川田村は、急
速に藩の支配体制のなかに繰りこまれていく。


天正17年(1589)
 はじめて御検地、1413石、川田村両方。文禄3年(1594)3月
 阿波讃岐の人定に取掛りなさる。
慶長14年(1609)2月
 御国中御棟付人改あり。
元和5年(1604)
 安芸の広島陣に付き在々百姓人質取り庄屋どもに御預け。
寛永4年(1627)
 新開御検地あり。
寛永16年(1639)
 御国中御人数改めあり。
明暦3年(1657)
 野々村左門殿御棟付改めあり。
寛文1年(1661)
 御国中の百姓20日の役、御請所に仕り、百姓頭1入に付き1年銀子5匁宛指上げる。
延宝1年(1673)3月
 棟付奉行立木伝右衛門様
同 6年(1678)正月15日
 御国中の組頭庄屋ども、はじめて御目見仰せ付けられ候。
元禄1年(1688)5月23日
 御触状到来、国中縁付あるいは下人相付遣す事、食女入聟等に至るまで、代官・地頭へ暇乏わざる者取返し候時、先え生る子、男は父に付け女は母に付く。
 同 6年(1693)4月朔日より
  御国御奉行はじまる。樋口内蔵之介様、佐渡半兵衛様、西尾新兵衛様、寺沢刑馬様、在々庄屋ども御目見3日よりはじまる。
 同 年9年
  御触御国中百姓、町人方便を以て刀指し申す事御停止になる。
 同 7年(1694)6月8日より
  御仕置賀島和泉様なされ候。
 同 10年(1697)
  在々百姓ども走り申す儀、庄屋ども不裁判にて走ると聞き候に付き、向後走り申さざる様裁判仕るべし、極月18日御触にて仰せ出され候由、御代官より御触、正月17日に御国御奉行より御触なし。
 同 14年(1701)
  御国中在々庄屋、小百姓、先規奉公人、加子役人等そのほか小家、下人に至るまで暇遣す儀、御代官、給人詮議を遂げ、証文を届けこれを遣すにおいては、一両月の内に郡奉行へ指出し、棟付帳面差引きあるべく候。もし遅滞せしめ候はば許容あるべからず候。但し給知の筋暇遣し候ものの儀、右給人拝知召し放され候。以後は暇証文指出すにおいては、月切の内たりというとも許容これあるまじく候。
  在々耕作人、田地相譲り候儀、兄弟親類他人に至るまで、御代官、給人え相達し、重々詮議いたさるの上、よんどころなき子細これあらば、庄屋、五人組の加判証文をもって相極め、下代裏判申付くべく候。

以上は「住友家記録」から抜粋したものであるが、こうして天正17年から、すでに川田村の太閤検地が実施に移され、1,413石が打出されている。その後、元和5年の広島の陣に際しては、一撰を阻止するために百姓を人質にとって後顧の憂いを断って、戦陣に臨もうとする慎重な政策がとられているなど、興味深い政策がつぎつぎに実施されつつ、藩の農村支配体制も充実し、元禄14年における土地、農民に対する触書によって、その支配機構が確立されていく過程の一端を知ることができる。

 2 藩政初頭における川田村の土地経済構造
 徳島藩が領内の総検地を実施したのは、慶長7〜8年であるが、すでに平坦部農村では天正検地が実施され、慶長検地帳は、天正期に実施されている村では、単に筆写されたにすぎない。川田村には天正検地帳を残していないが「住友家記録」では1113石であり慶長検地帳のトータルが1433石であるので320石の増加をみており、そこに新田開発の成果の一端が窺われる。

 第1表でとくに注目されるところは、総反高162町余に対して、総石高は1430石余、反当石高約9斗というのは、可成りな土地生産性の低さを表現する数字である。これは当時の川田村が、潅漑用水の未発達によって開発がすすまず、村の山麓一帯の畠作地が利用されていたという、初期の農業技術の未発達の状況に主因を求めることができる。
 また123人の名請人については、その石高階層に分けると、平均石高11石6斗、その前後の5〜15石層は、名請人48人で全体の39%、石高にして508石で35%を占めて、同村の中核的農民であることを示している。また308石以上を高請けしている上層農民の場合は、12人で全体の10%にしかすぎないにも拘らず、その階層内石高では589石で、全体の41%を占めていることは、耕地が一部の豪農層に集中していたことを示し、うち50石以上の4人がとくに卓越した存在である。
 なかでも住友家は、中世以来の和泉細川氏の地頭代土居氏の後裔で、木屋平村の土豪一揆の鎮圧に功績があった家柄である。こうして住友家は幕末にいたるまで、家父長制的経営を維持するが、一般的には寛文〜正徳期に土豪的経営はくずれ、川田村が近世農村として確立していく状況をみることができる。

 3 慶長期の社会構造
 徳島藩における戸口、人口調査は、朝鮮出兵を控えて秀吉が実施した文禄3年3月の「人定め」をはじめとし、藩独自で実施されたのは、慶長期が最初である。この期棟付帳は農村からの夫役徴収の基礎台帳であり、いま県内では、川田村のものが1冊しか保存されていず、ひじょうに貴重な史料である。

 第3表は、慶長14年の同村棟付帳によって作成したものであり、近世初頭における川田村の農民階層構成がよくわかる。なお同年の麻植郡一円の農民階層を示すと第4表のようになっている。これによって判明するもっとも大きい特徴は、麻植郡全体では28%川田村では19%にのぼる、多くの奉公人の存在である。この奉公人は「明暦年中御軍帳ニ国奉行野々村左門・林大学・稲田三郎兵衛上改ニ御弓と云者有之、是ハ百姓の内に弓を射候者」(2)とあり、内乱が継続していた藩政初頭にあって、家臣団の不足を補うために給人に対し、給地の農民から屈強なものを選び、日ごろから訓練を積んで、戦陣には足軽として給人が引率するというもので、幕府→大名→給人という近世初頭における過重な軍役体系の底辺を形成していたのが、この奉公人制度であった。そこで第3表をもう一度検討すれば、川田村に500石の給地をもつ長谷川伊豆は8人の奉公人を持つのに対して、同じ500石の樋口内蔵助は13人を持ち、その差は5人である。この奉公人数は必ずしもその知行高に照応するものではないことがわかる。ただ長谷川伊豆の場合には、領内の原士という在郷の武士を、旗下に編成するという特殊な立場が認められていたことが、奉公人の数が少なかった原因でもあろうか。
 さらに第1表と第3表を比較すると、慶長9年の検地帳では123人の名請人に対して、同14年の棟付帳では、149戸の棟数があって、その間に26戸の差が現われている。要するに26戸が検地面では「帳はずれ」となっていることがわかるが、これは慶長段階では、未だ保有地を持たない隷属農民が可成り存在していたことを示し、とくに他村から流入した「浪人」や「下人」の大半が「帳はずれ」となっていたのであろう。
 川田村の慶長期棟付帳が示しているように、天正や文禄期の「人改め」が、すぐれて農村からの戦闘要員や陣夫役の動員体制を確立しようとする、戦時下の特殊な軍役体系に照応する政策の貫徹を意味するものであって、そのことが必要以上に多くの奉公人をつくり、病弱者や老人を「不役立」として付けあげさせている理由であろう。そのようなところに天正〜慶長期における戸口調査の軍事的な性格を見ることができる。

 4 寛永期の社会構造
 寛永16年には、領内一円の「人改め」が実施されたことは「住友家記録」に記されているところである。この寛永期は幕藩体制確立の画期的な時期に当り、14年(1637)の島原の乱、同16年の「鎖国令」と三代将軍徳川家光の強引な政策が完成を見た段階であった。このようにして幕藩体制は不動の体制を整え、以後元禄期に向って幕府の安定した支配が持続されるのだが、こうした歴史的背景のもとに、内戦は完全に終結をつげ、それに伴って寛永〜慶安期は、幕府の大名に対する軍役の賦課も著るしく軽減され、諸藩では初期藩政改革を実施して、軍役優先の体制から農村復興を中心とした経済優先の体制に転換する画期的段階を迎えている。(3)
 そこで諸藩は、初期の軍事体制から官僚体制への移行が必要となり、各種の混乱が発生した段階でもあり、徳島藩でも家老の益田豊後、中村若狭などが改易され、稲田九郎兵衛が一応淡路の洲本城代として主たる給地の脇町を中心とする美馬郡から切離され、賀島主水を中心とした藩政の中枢が形成されることは、もっとも注目しなくてはならないこの期の特色をよく示している。
 このようにして藩は、初期藩政にとって、農村に対してもっとも関心事であった現夫役の動員は、段階的に貨幣による代納制を主とした体制、すなわち生産物地代に一元化しようとする貢租体系への転換を図ろうとする基調が、前面に強く押し出されてくる。
 川田村では、寛永16年の「人改め」に先だつ同9年に棟付改めが実施されており、そのうち「寛永九年正月廿五日・麻植郡之内川田村御蔵入政所行百姓棟人数之御帳」(4)が保存されている。この「棟付人数之御帳」によると、慶長期棟付帳と比較すると、つぎのような特色を見出すことができる。
 1  百姓の高づけがされていること。
 2  本家と分家とを明確に区別していること。
 3  名子や下人が本百姓から高を分けられていること。
 4  家畜の頭数が記載されていること。
 5  本百姓の兄弟や下人の2〜3男が銀子請にて売られていること。
以上のように、この期棟付帳は、明らかに農民たちの経営状況を把握することに重点が置かれていることは否定できない。そのトータルを示したものが第5表である。

 

 第1表と第5表の石高階層を比較すると、第1図のようになり、つぎのような特色を見ることができる。1〜5石以上という雰細経営の農民に、やや分解現象が現われ、1石未満層の増加および10石以上層の急激な発展が見られる点である。また30〜40石層も減少し、これも10石以上層の増加している理由であろう。もちろん30〜40石という中農階層が、土地を分割して、小農経営が一般化するひとつの傾向をそこに考えることができるであろう。
 このあと藩では慶安期(1648〜51)にも、棟付改めを実施して、地方支配体制の整備、就中壱家百姓に対する夫役負担率の決定をはじめとする地代収取体系が確立されていくが、その事情については、海部郡中山村や美馬郡一宇山の同期棟付帳によって窺い知ることができるが、鳴門市の里浦における明暦3年(1657)の棟付帳には、藩政初頭に加子役を負担していた農民たちが、まったく漁業に従事していない者たちであることから、百姓と同じ棟役に切換えられたことが記されていることでもわかるように、現実的な経営に照応した貢租賦課の体系に移行させ、藩財政の確立を図ろうとした経済政策の一端を推測させるものである。
 以上のように、徳島藩における寛永・慶安期の棟付改めは、農村復興に伴う小農自立の進展と、その事実を基礎とした貢租体系の整備を主目的として実施されたものであることは疑いの余地を残さないところである。

 5 明暦期の社会構造
 徳島藩における寛永・慶安期以前の棟付改めは、流動性のはげしい藩政初頭の政治過程を反映して、藩の苦悩をよく表現したものであるが、明暦期以降の棟付改めは、やっと安定期を迎えた客観的の政治状況を背景として、近世農村が成立していく過程をよく表現している。
 およそ近世農村が成立するためには、農村に対する領主的土地所有が貫徹されることを先決とする。川田村の場合にも藩の農政転換を背景として進展した新田開発、また農業技術の進歩を表現する家畜数の増加などに見らように、名田地主経営より血縁家族、名子、間人百姓などが解放されて自立する傾向が示されている。

 明暦・万治期の段階は、ようやく藩の農村支配体制も整備され、あとは農民側が農政転換に対応すべき段階に突入し、生産力の発展に見合って川田村は、この棟付改め実施の時期から東・西の二村に分割されている。それを集計した石高階層構成が第7表である。
 この表で明らかなように、1石〜10石層すなわち小農層が99戸で全体の82%を占め、寛永期の64%から大きく18%の増加を見せ、いよいよ小農自立をめざす藩の基調が、川田村において強力に浸透し、定着しつつあることを知ることができるであろう。

 またとくに注目されるのは、第8表で明らかなように、名子間人の27戸が全体の22%を占め石高では19.2%と低位ながら名請人として壱家百姓に上昇していることと、奉公人が53戸で、全体の45%を示しながら石高では27.5%という低さを示し、本百姓はもちろん、名子、間人層にくらべても、経営規模の拡大が認められないことである。

 さらに明暦棟付帳記載の総合高1185石315は、慶長検地帳の総石高1433石7斗にくらべ、24石余の減少を示しているが、明暦期までの荒川成の450石を差引いて、そのうえ東川田村棟付帳の奥書きに記されているように、棟付帳の石高記載は、検地帳のものの67%とする事実から考えれば、慶長以後の新開や出目を合算して1770石程度となり、それから川成引によって1342石となるから、慶長検地段階より実質109石の減少となる。しかし請高からみると340石の増加を示し慶長・寛永の棟付帳には本百姓に隷属していた多くの農民が、新田開発によって土地を得ていく過程に照応して、明暦期における小農層の自立現象を実証することもできる。
 そのほか明暦棟付帳にみられる奉公人の増加は、おそらく給人に対する詰奉公を主とした駈出奉公人の増加を表現したものであって、それが小百姓の再生産の機会となっていたものであろうことも予想できる。

 6 明暦〜享保期の問題点
 川田村における明暦3年より享保6年(1721)までにわたる3回の棟付帳について各年次における家族構成および石高を整理したものが、第9〜11表である。

 


人数合 472人  高 715石7斗7升4合
家数合 166家 内拾家部屋
馬数合 70疋  内 34石4斗5升 東川田へ出作
牛〃 139疋  同 22石6斗1升4合 荒川成

高合  715石7斗7升4合
  内  35石4斗5升 東川田村
  内  22石6斗1升4合  荒川成
人数合 648人
家数合 229家
  内(部屋) 七家
馬数合  64疋
牛〃  176疋
(備考)本百姓六右エ門  小家 買人仁蔵 15

家数合 325軒
 人数合 755人 内 62人 庄屋、壱家、小家、下人

 この第12表をみると、もっとも著るしい傾向は、総戸数に大きな変動をみせていないのに対して、本百姓層の増加を示しているのに反して、名子層が減少している点と、奉公人も可成りな減少を示していることである。さらに「その他」で現わしておいた半自立農民も、半減している。そのうち奉公人の減少は給地が上知されたために本百姓として付上げられたものであろうが、名子をはじめ半自立農民の本百姓への上昇は注目されるところである。もちろんこのような現象は、生産性の向上に対応する構造的変化を現わしたものでなくてはならないが、さらに第13表は以上の各年次において、川田村の農民層の構成が、どのように変化してきたかについて具体的に示したものである。



 む す び
 以上において、川田村における享保6年以前の棟付帳を主たる素材として、村落構造の変化する過程を紹介したが、藩政初頭から享保期にかけての徐々にではあるが、変化をとげてきた川田村の社会構造は、確かに農業技術の進歩に伴う生産性の向上を表現しているものと考えられる。そのように川田村農村の発展を決定づける要因としての農業技術の進歩のうち、やはりもっとも主因をなすものは、おそらく利水技術の発達であろう。この利水の進歩は、後背地の「楮」と結びついて和紙生産の展開をもたらしたものであることは、容易に推察できるところであるが、さらに以上に見た本百姓層の増加、すなわち農民的剰余の蓄積が、そこに大きな条件となっていることをも注目すべきであろう。
 なお側面的史料の不足と、時間的制約のために、各年次棟付帳のみでは十分に各戸の系譜を確認できなかったことは、返すがえすも残念なことであった。さらに当然のことだが文化期の棟付帳についても、何しろ大部なものであって、手をつけられなかったことは、調査に当ったものの力の不足以外の何ものでもなく、そのため和紙生産の問題に直接アプローチできなかった理由として、ただただ恥じ入るところであった。にもかかわらず、その前提となる村落構造をある程度分柝できたことと、次段階への見とおしをつけ得たことは何よりの所産であった。何はともあれ和紙生産の問題を解明することこそ、次段階の課題として精力的に取組みたいテーマである。

  注(1)鹿児島進七編「住友家記録」による。
  (2) 三好昭一郎「徳島藩における先規奉公人制度」(「信濃」昭和45年2月号所収論文)参照
  (3) 三好昭一郎「徳島藩における近世農村の成立について」(「地方史研究」第18巻第2号所収論文)参照
  (4)山川町役場所蔵文書


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