阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第17号
川島町の婚姻習俗について

阿波民俗学会 岡田一郎

 藩政時代から明治にかけては、藍でくらしをたて、大正から昭和の初年にかけて養蚕で村の経済を維持し、戦後、米づくりにきりかえたが、近年農業の構造改善によって更に大きく変ろうとしている。このような農村経済の変遷の歴史をもつ、吉野川中流川島地方において、人生のキーポイントともいうべき婚姻習俗がどのようなかたちでのこされているか、氏俗学的見地より考察してみたい。

 一、古い形の婚姻習俗
 吉野川中流南岸平野は、古くから進歩的であったとみえて、古い形式の婚姻習俗はみられない。すなわち、掠奪結婚の奇風である「嫁さんかつぎ」とか「嫁ぬすみ」などは全く伝えられていない。また三好郡地方に藩政の頃までおこなわれていた「妻屋」の風習もない。
 明治の末頃まで県下各地でつくられていた「若連中」の「若者宿」とか「娘宿」についても、5人の年寄(70〜80歳)のうち1人が、それらしきものがあったという程度である。明治生まれのとこだち(この地方では、はえぬきのことをいう)が、ほとんど知らない状態であるから「若者宿」などは、早くから消滅していたように考えられる。
 昔は聟入婚が普通であった。聟入婚とは、男が女のもとヘ通い、婚姻成立祝を嫁方であげ、婚舎もある期間嫁方に置かれる婚姻方式である。若連中は、夜になると夜遊びといって若い娘のいる家へ四、五人が連れだって遊びに行く。娘の家では喜んで若連をむかえる。この頃の娘の夜なべ仕事は、糸ひき、粉ひき、ぬいものであった。仕事をしながら雑談にふけるのである。時々白米をもちより、大根、いも、ごぼうなどをかきまぜてすしを作り、食べ競べなどもした。現在でも、「メオイ」ということばがのこっている。新麦のとれた時期など、数人の娘が寄り集まって粉ひきをする。こんなとさ、隣村の若連が遊びに来る。ここでは、部落ごとの歌合戦がおこなわれた。このときうたう歌が「お姿節」である。当時にとっては、このようなことが唯一の娯楽であり、また恋愛の場でもあった。こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。昔はこうしたケースが多かったために村内結婚が主である。
 部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。

 二、聟入婚から嫁入婚へ
 「ヨバイ」から足入の儀式にいたる婚姻習俗は、村人の承認する正常なコースであっこ。「ヨバイ」は、自由の中に若者仲間、娘仲間のおきてが守られ、決して放埓無秩序な交りではなかった。しかし、明治以降聟入婚より嫁入婚へかわるにしたがって、次第に「ヨバイ」は不道徳な行為とみられるようになった。
 川島町につたわる「阿波の北方女のよばい、男らしくてねやで待つ」、これは昔、豪農の家では、農繁期に若い男女をたくさん雇った。男は下男部屋に、女はひろしき(母屋の内庭の高いところ)に部屋を設けて男女の寝床を区別した。男部屋から女部屋へは監視がきびしくとても行き難いので、女は外へ小便にに出るふりをして男部屋へしのびこむ、ということである。
 労働様式が婚姻に及ぼした影響力は大きかった。娘は家の有力な働き手であったので、嫁に出すことは働き手を失うことになるわけである。嫁迎えのことを「手まをもらう」といった。農家においては、嫁を娶るのに前もって一定の期間下女(なな)のように働かせてみて、目がねにかなえば正式に嫁として迎えたのである。
 主婦権の譲渡については、家により、親によりまちまちである。隠居制のほとんどみられない川島地方においては、親たちが50〜60歳になって労働力が減退しはじめた頃に「サイフ」を渡すといって、嫁夫婦に家のまつりごとや、経済権をゆずるところが多い。
 明治以降、住居移転の自由や婚姻の自由、それに交通の発達等によって、村落の封鎖性は急速に緩和なり、通婚圏を意識する気風は次第になくなってきた。村内婚とか、村外婚とかを問わず適当な相手をみつけて婚姻するようになった。
 家柄や格式をやかましくいうところでは、普通の百姓と通婚させず、その一統内の婚姻が維持されていたが、戦後の民主化によってほとんどこうした例はみられなくなった。

仲人
 「ヨバイ」の風習のあった頃は、男女の全く自主的な合意で結ばれていたので事実上の仲人は、若者仲間であった。若者組がなくなった大正、昭和に至っては、知人とか、親戚の者が仲人役をつとめた。社会的地位とか、名誉を重んじる家でに、仲人の二段制をとるところもある。これは実際に両家の間を奔走して縁談をまとめる役と、婚礼の席を司どる仲人を別にする方法である。この場合、前者を「シタツクロイ」または「橋カケ」といい、後者を「盃仲人」とか「座敷仲人」という。近年、村外婚や遠方婚の普及にともなって、婚姻の範囲が広くなったために、なかば職業的に仲人をやる人ができている。この人は、婚姻がめでたく成立すると一定の報酬をうける。

見合いと結納
 仲人は、婚姻を成立させるために、見合いをさせ、結納させる任務がある。村内婚の場合は、若い男女は常に見合いをしているのでその必要もないが、遠方婚の場合は、両者の写真を交換した後見合いをする。見合いは、婚姻成立への第一の関門である。戦前までは田舎の場合縁談の下話ができると、仲人が男を連れて女の家へ行くのが普通であったが、最近は、旅館の一間をかりたり、契茶店で気軽に見合いする者が多くなっている。
 仲人は、予め両者と打合せをしておき、娘と聟を向いあわせて座らせ、茶または吸物を出す。娘が気に入れば吸物のふたをとり、気に入らなければふたをとらない。また異存がなければ扇子とか、その他の持物を残してくるという風習もある。しかし、一般的には、仲人が後日見合結果を相手の家ヘ伝える方法をとっている。見合の結果がどうあろうとも、見合の事実を他人に秘すのが仲人の礼といわれている。
 見合も無事おわり、双方の意志がきまると、仲人が聟方を代表して嫁方に、酒、茶、熨斗などを送る。これを「手締の酒」とか「固の酒」などという。また「熨斗とり」という人もある。これがすめば、特殊な事情の起らないかぎり破談を許さないのが地方のしきたりである。
 結納のことを「タノミ」または「樽入れ」ともいう。結納は、本来は「ユイノモノ」すなわち、二つの家が新たに姻戚関係を結ぶために共同飲食する酒肴を意味するものである。もともとこれは、聟がこれをたずさえて聟入りしたことからはじまったものである。「のしいれ」は、吉日を選び仲人が貰い方に行き、「目録」「結納金」「樽」「肴料」を預り、先方に行ってのし盆にいれて差し出す。昔は、嫁取りのときは、「帯」を、聟取りの時は、「袴」を贈っていた。結納の目録は、普通次のようなものである。熨斗一連、未広一組、結納金一封帯料、一封、酒肴料一封、等が記入されている。戦前までは、結納に赤樽をつけるところが多かったが、近年はほとんどみられない。川島町では、結納金は、戦前は100〜2000円、戦後は1万円から20万円(昭和四十五年)となっている。

婚礼と披露
 挙式は、農閑期の冬から春にかけてが多い。特に節分は、「日見ず」といって好まれる。吉日をえらび仲人夫婦が貰いに行き、「迎え樽」「魚篭」を子どもにもたせ、仲人は、迎え熨斗(鶴亀の祝儀用熨斗)をもって先方へ行く、現在は、略式となり「樽肴料」として「金子包」をもっていくところが多くなっている。
 嫁入道具は五棹とか、七棹というように棹で持参品の量をあらわす。三折ダンスで三棹である。近年は、タンス以外にミシンとか電気冷蔵庫、カラ−テレビなどを持参する者がある。嫁入道具を運ぶときは、必ず傘を用意し、他の嫁入道具とすれちがった際に交換する風習がある。美郷村の山間部落においては、山の中腹まで嫁方が運びそれから上は、聟方の部落衆がかつぎあげる習慣となっている。
 結婚式の当日、花嫁は媒酌人夫婦や伯叔父母、兄夫婦等に伴なわれて婚家へ行く。生家を出るときは、わら火を焚く風習があった。これは、二度と帰ってこないという決意をあらわすものである。現在はこうした風はみられない。花嫁、黒紋付の裾模様であったが、近年は、振袖衣裳で、それも借衣裳が多くなっている。(川島町では約90%が借衣裳)、髪は、高島田に結い「つのかくし」と称するうすぎぬをかぶり、丸帯を結び「箱せこ」を胸に飾る。高島田は最近ほとんど「かつら」を使用している。婚客は、9人または7人の奇数である。婚家の方では、花嫁を酒迎えといって、親類や近所の人々が出迎える。なかには、三味線人りの阿波踊でにぎわうところもある。嫁は、勝手口から姑に手を引かれて奥の間へ、聟は玄関より表座敷へ通る。客間には「座持ち」と称する者がいて万端のさしずをする。
 結婚式は、先ず湯茶となま菓子を出す(昔はぼたもち)。ついで祖先の霊前に媒酌人立合いで新郎新婦の三三九度の盃を交わす。酌は両親健在の少年少女がする習があったが、近年は、招かれている芸者や、手なれた人がする場合が多い。夫婦の盃がおわると、新郎新婦は表の座敷へ来る。ここには、聟方一同と嫁方一同が並び、仲人は上座、座持は下座にすわり、双方の紹介をする。その後で親子、親戚の盃を交す。これが終ると、送り客の代表が嫁をよろしくたのむ、と依頼の挨拶をし、聟方は、これをうける挨拶をする。次に仲人が式終了の挨拶をしておわる。式に続いて披露宴にうつる家が多い。
 披露宴は、婚礼の翌日にするところもある。昔は三日昼夜も酒宴をはる家もあったが、最近は、当日式の後でする家がほとんどである。そして、初歩きは、宴の合間にするところが多い。近所の人々は、「嫁さん見」といってたくさん集まる。見物人に対して、男子にはたばこ、女や子どもには菓子、少女には、小さなカンザシをやる家もある。店には、「嫁さん菓子」や「おもちゃのカンザシ」を売っている。三日目は「しゅうと入り」または「お部屋ぬくめ」といって、嫁の両親が土産物をもって婚家に行く。昔は、これを「ミツメ」といった。近ごろは、婚礼の日に親が送り客になるので、この風習はだんだん消えている。里帰りは、明治の頃まで五日目であったが、近年は三日目になっている。

恋愛と結婚
 明治以前の聟入婚、村内婚の時代においては、若者組や娘組の共同監視や自然統制の中において、若い男女は、かなり自由に恋愛結婚をおこなっていたと考えられる。婚姻準備としての恋愛交渉は、社会的に容認された人間修行の道であった。すなわち、「ヨバイ」は、結婚成立への正常なコースであったのである。明治以降住居移転の自由や、交通の発達によって、村外嫁入婚の時代に移行して行くと、「ヨバイ」ということばは、いつしか卑俗な語感になりさがってしまう。大正時代にはまだ自由思想が底流していたのでさほど社会の目もきびしくはなかったが、昭和の戦時体制にはいってからは、道義的に「ヨバイ」は許されぬ行為とみられるに至った。戦後の新憲法下においては、恋愛を罪悪視する風潮はなくなったが、この地方においては、恋愛結婚はまだ全体の50%にすぎない。以上が川島地方を中心とした婚姻習俗の概要である。全般的に考察して特色ある習俗はみられなかった。
 川島町の婚姻習俗の調査研究は、昭和45年8月1日〜5日まで実施した。資料提供者は、同町の森好野氏(70歳)、工藤チヨウ氏(81歳)、工藤藤恵氏(61歳)、小原国子(51歳)、黒部きよみ(65歳)、美郷村東山の細谷うめの氏(85歳)である。この外、町教育委員会の方々や公民館の役員の方等、お世話になった多くの人々に対し厚くお礼を申しのべたい。

 参考文献
  日本民俗学大系、明治文化史(風俗編)、娘姻習俗語彙


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