阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第17号
吉野川中流麻植パイロット開拓地区の民間信仰とくに「路傍の信仰」について

民俗班 荒岡一夫

 I 調査にあたって
 昭和45年8月1日から5日まで阿波学会の総合学術調査が、麻植郡パイロット開拓地を中心として実施された。民俗班に参加し研究テーマを民間信仰とくに、路傍の信仰に求めて自分ひとりで探訪し、吉野川中流右岸の沖積平野における庶民の信仰状況を次記のようにまとめたのである。
 酷暑の時で路上のアスファルトは軟らかくなるほど暑く、古老の話も短時間で打切り、せいぜい午前中の調査で終り、午後は暑さのため調査ができなかった。牛島、麻植塚、鴨島、川島、学、山瀬、阿波山川、川田の各駅を基点として調査の足を伸ばし、ただ一回の探訪であったので、再調査すべき点が多いのである。報告書はそのままの状態でまとめたが、これからの課題としてより深く、より広い調査を実施して、庶民信仰の素朴な姿を明らかにしたい。
 屋敷神の古い信仰形態、野神信仰等はとくにわたしの関心を強くしたものであるが、この二者は追査して納得のいく結果を報告したいと思っている。

 II 調査地区の略地図

 III 調査の基底
1 民間信仰
 庶民の宗教として農漁山村の生活に根をおろした民間信仰は古代人の霊魂、精霊が残存したと考えられる。古代人の生活は現代人の生活と異り、自己と自己をとりまく自然とが明確に分化していなかった。自己の輪郭がはっきりせずにじんでいるから自己の感情や情緒は自然にむかって投射され、あらゆるものを神秘的に結びつけて考えた。この世界には霊魂や精霊、魔などという神秘不可思議なものが存在して人間に重大な影響を与え、崇ったり、福を与えたりすると信じた。人間はそれに対処せねばならず、そこに呪術となって表われてきた。未開野蛮、迷信、呪術も時代とともに鍛えられ、方法も変化し経験に支えられてきた。

 教団や教理の上での組織を持たず、教義の基本的信仰によるものでなく、民衆の間に慣習のような形で信仰されるものである。ドイツでは長い間迷信と殆ど同様の意味に民間信仰は用いられていたという。しかし仏教、キリスト教のごとき世界的宗教とは次の二点で深いかかわりがある。
 1  宗教的組織が一群の民間信仰の基盤から成長している。
 2  民間信仰を否定しながら伝承的素材を吸収習合している。
 信仰が与えられるというよりは、受容者の庶民によって要求されているのが特色であり、宗教と社会を結ぶ一つの機能をもっているのを忘れてはならない。また既成集団の下部構造に包含されたり、解説に影響をうけ、下級の聖職者や民間の行者によって管理され、村人によって伝承、慣習化された形も見られる。
 部落の氏神の社、壇那寺を中核とした信仰形態の周縁に附着して成長した形態も考えられる。

2 路傍の信仰
  野の末に、道の辺に、茫乎と坐り
  倦む日を知らぬごとく、これら石仏たちはある。
 野の石仏は庶民の残し育てた文化財、地方文化の記念碑であり、歴史的遺物であるといわれている。財力も権力もなく文字も知らず、貧乏に押さえつけられながらも底辺に生きながらえきた庶民である。これらの人たちは働きながら支配者に従い、地方、国の発展につくしてきたのである。名もなき農、漁民は生きる力を信仰にもとめ、心の支えとして安らぎを見出して素朴に暮してきた。
 庶民は多くの信仰をもっているのに気付くのであるが、除災招福の気持ちが中核で、ひたすら作物の豊穣、家内安全を祈願したのである。束縛されぬ自己と集団としての講をつくり、自主的に信仰から路傍の石仏を造った。拝む心は安らぎ、希望ある日々、明るい生活を見出し、信仰に明け暮れ現代に及んでいると考えられる。

 IV 信仰のいろいろ
1 屋敷神
 民間信仰のなかでもっとも根強いものは、祖霊信仰であろう。先祖、死霊などの観念が混在している血縁意識による同族信仰である。この祖霊信仰は日本庶民信仰の中心で、宗教のすべてが何らかの形で祖先の祭祀を行なっている。祖先との精神的結びつきにより、祖霊から現世の生活を守ってもらうという観念があった。
 祖霊信仰の表われが屋敷神となり、この地域にその古い形式が残っている。屋敷神は屋敷の一隅や、これに接する一小区画もしくばやや離れた持地の山林など、屋敷の附属地に祀られているが、その存在に三種類の形態がある。それは
 1  ある特定の家にだけある場合
 2  部落の各戸にある場合
 3  旧家の屋敷神が部落の氏神・産土神となっている場合
 古い形はもとの大本家を中心とする同族共同体がともにした形で、第一項にあたる。麻植郡を調査した屋敷神はいずれも4戸〜20戸の株内一統が「ごせんぞ」と呼び、同族で祭祀を共同にしている古い様式のもので特殊な信仰形態である。鴨島町八幡神社の神官は県下の他郡市に存在しないと話された。以下具体的に調査記録を書いてみよう。
 (1)学島、明石家のごせんぞ
 祭礼は10月24日、神官を招き祝詞奏上、祭りの当屋は毎年交代、幟2本たてる。株内はむかし15戸であったが現在は13戸で祀っている。

 小祠は昭和11年に玉垣などを築成してりっぱに改築し、その寄附芳名を碑に刻んでいる。小祠の後に五輪塔がある(正保4年造立)なお「おみきびらき」をしたあとで酒宴にうつる。
 (2)牛ノ島、上浦の近久家のごせんぞ
 祭神を「若宮さん」とよび、24戸の株内で祀る。祭礼は10月25日であるが、3年前まで株内だけで若宮さんの屋台(4人のり)を出した。一戸ひとりはかならず出て屋台をかついだが太鼓打ちの子どもや、かつぎ手の不足から、3年前からやめている。
 (3)学島、阿部家のごせんぞ
 株内は14戸で、当屋は輪番である。毎年一統のものが景品を出して、子ども相撲を奉納しているのが現在もつづき盛大である。
 (4)鴨島、岸田家のごせんぞ
 むかしは14・5戸の株内であったが現在は4戸で祀っている。祭神は、吉田大明神祭日は、10月17日神官を招き一族神前に集まり礼拝する。
 ここも当屋を毎年交代して神供、直会、神官の礼などをしている。

 (5)美郷村、猪井家のごせんぞ
 新旧の二祠あり、旧祠は猪彦神社、新祠は若宮神社と呼び併立している。本家は他地方に転居したため、本家の代行を本家に次ぐ家格の家がおもにしている。当屋は毎年交代で祭礼、供応を行っているが祭礼当日二本の幟を立てているが、猪彦大明神、若宮大明神と書かれている。
(6)その他のごせんぞ
  牛島地区……松村家、中川家、宮本家、横谷家、河野家
  鴨島地区……川真田家(八幡神社境内に小祠を祀る)
    渡辺家(同上)鈴木家
  西麻植地区……河野家、中西家
 なお、川島、山瀬、川田地区にも、ごせんぞを株内で祀っているという報告を得ているが、未調査のため省略。屋敷神の祭神は、稲荷、祇園、熊野、天王、白山、愛宕、秋葉、山の神、八幡、若宮等と呼ばれて祀られるのが全国的に共通である。

2 若  宮
 麻植郡の屋敷神を「ごせんぞ」といい「若宮さん」と呼んでいる株内で、祭礼に立てる幟にも若宮大明神と書かれているのをみる。

 若宮とは、大きな神格の支配下におかれる前提のもとに、はげしくたたるみたまを神として祀ったといわれている。
 いわば未だ偉大な神霊とはくらべものにならぬほど人間的であり、まだ神になりきれぬ段階ともいうべき性格のものである。神の御子の観念が拡大して眷属配下という低位のものに含まれたのであろう。それには当時の神職の職業的活動が大いに参与したと考えられる。
 鴨島町上浦の近久家一統24戸は「若宮さん」として同族で祀っている。組中だけで屋台を出しているのはこの組だけだ。秋10月25日の祭りと、正月には「お日待」として祭りを行なっている。

3 地  蔵
 地蔵は現在も全国で一日一基、どこかで建てられているという。なぜだろうか。
 地蔵は童顔で路傍に立ち、気安く庶民の願い事を聞いて下さる。現世利益を与える人間くさい地蔵である。
 人の身代りとなって不幸をなぐさめ、悲しみをまぎらわして下さる、迷いの世界にいる衆生を救済する仏さんであると深く信仰している。とくに子どもをお守りする仏さんだと信じている。いかめしさがなく、庶民のにおいがにじみ、気軽く親しめ願い事はどんなことでも、人間のあらゆる欲望を聞いて下さる地蔵さんである。

○商売繁昌、病気全快、子どもの誕生、成長人間の不幸等あげればきりがない。
 お姿は限りなき慈眼と、寂然とした微笑を失わず津々浦々の庶民に祈られている。私は歴史を貫いて流れる祖先たちが、織りなした悲喜哀歓の人生曼陀羅を読むのである。地蔵は菩薩の一つで印度で成立したといわれ、我が国では平安時代から信ぜられるにいたった。地蔵の台石銘に「三界万霊」と刻まれている。三界とは一切衆生の遠く離れた場所の意で、広く無縁の有情に対して冥福を蒙らしめんとて供養するという意を表わしている。
 現代は違った形の死者がふえつつあるが、その対策はたてられていない、地蔵さんを立てるのでなく、死者のうらみ、怨霊が出てくる。死者の呼びかけに気をむけなければならぬ。それは現代文明に対する痛烈なる批判であり、人間軽視の風潮に対し死者は憤りを感じている、人間優先の生活条件を得ることでなければならぬ。
  地蔵は今も生きつづけている。
次に代表される地蔵のお姿を拝見する。
 (1)山崎の二又地蔵
 人身供養の地蔵としての悲話が秘められている。吉野川と川田川の合流点にあるため、この地帯はいつも水害に悩まされ、堤防を作っても幾度となく流された。最後に人柱を供養してでもと築堤がきまり、夕方七時頃に通る女を人柱にせんとして待っていた。それとも知らずに通りかかった女を埋めたのである。女には乳児があり、医者通い女であった。それ以来毎夜乳児の泣き声が聞え、人びとは哀れに思って供養の地蔵を造立した。

 (2)川島、岡の鼻地蔵
 天保14年、38人の寄進の造立である。旧川島城下渡船場にのぞむ交通の要衝にある。あらたな地蔵で、子守り地蔵と崇め、安産も聞いて下さるという。旧7月24日に地蔵祭りがあり、参詣者多く大市がたった。子供がまじり光明真言を百万遍を念じているという特殊な行事がある。地蔵踊りも盛大であったが今は絶えている。

 現在は「灯篭流し」が盛大に行なわれている。10年位前から、近くの寺の住職により先祖の供養として、灯篭を川面に流している。
 (3)そのほかの地蔵
 ◯延命地蔵  上浦地区、文化六年造立
 ◯中塚 〃  鴨島地区、年代不明、安産地蔵
 ◯地蔵堂  鴨島地区、安産の霊験
  旧七月二十四日地蔵市がたった。
 ◯安産地蔵  鴨島駅東、享和3年立、念仏講中の銘あり
 ◯首切れ地蔵  牛島駅南、昭和42年新しく地蔵造立
 ◯麻植塚 〃  安産のご利益、安永8年貞未講中

4 六 地 蔵
 愚かな人間は生前はもとより死後も六道に迷うという。
 地蔵のもつ衆生を済度する本願から分身して六地蔵が成立したといわれている。六道とは
  地獄(怒)餓鬼(欲)畜生(愚)修羅(闘争)人間 天上(喜悦)をいう。
 六地蔵は、加持地蔵、法印地蔵、地蔵、宝性地蔵、鶴亀地蔵(延命)金剛頭地蔵等である。

 六体の像形がつくられ、組合せ持物など諸種多様である。
 麻植塚地区の六地蔵は飯尾川近くの墓地の入口の路傍にある。像形は、舟形光背丸彫りで造立年号は不明である。むかし葬儀で出棺の時は六地蔵前の狭い空地で棺は左舞に3回まわって火葬場にいったが、現在は行なわれていない。
 また、山崎の国道152号線の道路下にも、写真と同じ形式の六地蔵がある。私の訪れた時はいずれも赤布の前掛がかけられていた。

5 庚  申
 庚申は十干十二支の組合せによる庚申(かのえさる)の晩に行なった民間信仰の一つで、60日に一回めぐる。この信仰は中国から渡来した道教の三尸(さんし)説が、日本的な待日の一つとして形態化し、後世仏家などの指導により庶民に広まったが、平安時代すでに守庚申として貴族の間で行なわれていた。

 室町時代に庚申待供養の文字が表われ、元禄時代に入って青面金剛、三猿二鶏の基本形が完成し庚申信仰の全盛期をむかえ、大型の造塔が目立ったのもこの時代の特長であるが、地方の分布は数年後である。
 青面金剛は仏教の夜叉の一で、智証大師が青面金剛法と庚申待のやり方を伝えてきたので、室町時代か江戸初期、密教関係の僧侶が混同して結びつけてしまったのではないかといわれている。「話しは庚申の晩」のたとえのとおり、本来の信仰も混乱し、農事の打合せ飲食の晩など信仰によるたのしみの晩ともなった。江戸末期になると像形を略した文字塔が多くなり、明治にいたって信仰はうすれ、造塔は絶えていった。
 (1)川島国道ぞいの庚申
 川島の国道沿い城山の南にある北向き庚申は霊験あらたかで現在も参拝者が多いのにはびっくりした。鳥居を構えブロック壁をめぐらし小社屋を建てた姿は小神社のごとく、主尊は猿田彦大神の神像で朱に塗られた特異のものである。この建物は昭和41年に再建された新しいものであるのは注目すべきだ。
 この庚申は近くの八幡神社境内に大正初期合祀されたが、ある祈祷師によると庚申さんは旧位置に帰りたいとのことで、この地へ再度勧請したといわれている。この西側の南北に通じる道は「アミダ道」とも呼ばれ、吉野川方面より来たる悪魔を払うために庚申を祀ったという伝説が残っている。北向き庚申はあらたで願い事はなんでもかなえてくれると附近の人びとは厚く信じ、幟をたて線香を供え、洗米や花を祀るなど毎日数人はかならず、参詣している詣人がある。
 (2)鴨島駅前の庚申
 鴨島駅前の繁華街にいまも参拝者の多い庚申さんが存在するのは特異な現象である。毎日午後4時頃は線香の煙が絶えないといわれている。猿田彦大神を祀ると古老は話したが、板状の青石の自然石は無銘で3枚建てられ造立年号など不明で、つんぼ石が多数、千羽鶴も祀られている。小祠の屋根はトタン葺の粗末なものであるが、水鉢の水は清く、供え物も新鮮であるところから参詣人が多い事を物語っている。功徳が高く人びとの信仰を集めている町の庚申さんとして、あらためて深く頭を下げた。

 (3)川田、川東の庚申
 大規模な庚申として他に例を見ない。古い老大樹(おもにけやき)が数本茂って森をなし、一ばん太い木は目通り約7mもあった。十数年前まで庚申守りがいたという2K〜3Kのこわれかけた建物も残っている。
 庚申塔二基には安永7年と昭和9年の年号が刻まれ、他に9基自然石無銘の庚申塔がある。むかしは参詣人が多かったが現在は、ぼつぼつ拝む人があるという。この庚申もなんでもお願いするとかなえて下さるという信仰で、特筆すべきは「庚申講」が、いまも続けられていることだ。岡島家、美馬家二株の株内で、当屋を交代につとめ講をしている。庚申の夜は庚申軸を掛け、磐若心経を唱えたあと、おすしを食べ雑談をかわして解散している。
 (4)いろいろの庚申
 ◯牛島 享和3年建 青面金剛
 ◯牛島北 寛文2年 文字塔
 ◯鴨島駅前 明治27年建 猿田彦大神
 ◯鴨島八幡社内 寛政元年 文字塔(庚申待)
   〃  安永2年 青面金剛
 ◯鴨島駅東 天保2年 〃
 ◯川島旧道 寛延元年 庚申供養
 ◯麻植塚南 享保14年 青面金剛
 ◯川田、舟戸 年号不明 猿田彦大神
   寛延4年 青面金剛
   享和3年 文字塔(庚申待)
 ◯川田山路東 延享3年 青面金剛
   元禄2年 〃
   〃 7年 〃
   明治4年 文字塔(庚申講)
 ◯川田大石橋 寛文4年 青面金剛
   享保12年 〃
 ◯山川町湯立 寛延2年 文字塔
   寛保7年 青面金剛
   明治2年 〃
   不明 〃
   貞亨5年 〃
 ◯山川町瀬詰 宝暦10年 文字塔(庚申講)
 ◯ 〃 山瀬 元禄2年 青面金剛
   〃 8年 〃
   宝暦10年 〃
 ◯鴨島町上浦 享和3年 〃
 ◯川島町旧道 寛延元年 文字塔

6 猿田彦大神
 この神は日本書紀によると天孫降臨の時、道案内をした神として有名で、祭礼の時、御輿の先導役鼻高赤面の神面が猿田彦大神で先導の故事による信仰である。サルダは琉球語のサダルの転訛で、先導の意があると説く学者もいる。道を照らし先導した故事から、道祖神の信仰にも通じ、庚申の申をサルと訓ずるところから庚申信仰にも流れていっている。道祖神としての性格から江戸時代末期、神道派により庚申と習会し、主尊ともさせられたがこの傾向が残っているようにも思われる。
 鴨島駅東踏切りを渡ると青石の自然石に、猿田彦大神と刻まれ小祠内に祀られているのを土地の人は庚申さんと呼び、あらたな庚申としてあがめている。
(写真撮影不能であって惜しい)庚申の項で猿田彦大神を祀ると述べたが、この点研究せねばならぬ、私も三百余基の調査中、猿田彦大神は僅かであった。

7 馬頭観音
 この観音は他の観音とちがい恐ろしい忿怒相をしている。これは慈悲で教化し難い衆生のためには、仏が怒の姿をもって救い上げようとするのが馬頭観音である。

 頭上の宝馬が四方をかけめぐって四魔(煩悩、死など)を打破る大威力を示し、馬が草を喰むごとく菩薩の慈悲にたとえた。また六道中の畜生守護の仏尊である。江戸中期以降、この観音はいつしか馬を使用する人びとによって信仰されるにいたり、各地に供養塔が造立された。
 阿波、麻植、美馬、三好四郡、徳島市内を探訪しても馬頭観音の刻像はなく、どれも自然石に馬頭観音の四字を刻むだけだった。
 写真は山崎の国道下に立っていた。上浦では牛馬が死ぬと銭を出して人に頼み解体し、木の札に文字を書き壇那寺へおさめ供養をしたという。鴨島では牛馬が死ぬと組内の者が「万人講」といって町内や近郷の家々を訪ねて寄附をたのみ、金を集めて万人の芳志によって新しい牛馬を買う資金の援助にしたという習俗を聞かされ、相互扶助の美習に感銘をおぼえた。

8 不 動 尊
 仏のやさしい姿では教化できない強情な衆生には、大忿怒心という強い形になって説得する大日如来の変身とされている。
 一切の煩悩を焼きつくすという焔光を光背に利剣を右手にして、怨敵退散、災難即滅の本誓を示している。山岳信仰の修験道で本尊としたため山伏の笈によって全国を行脚して不動信仰を広めた。

 民衆は不安定の中に生きながら力の漲ぎる強さを、不動尊の中に求めた心情も含まれていると考えられる。西阿の山村では危難の多い道路に多く見受けるが、牛島の不動尊の存在は注目すべきである。
 この不動尊はかつて吉野川の大水に流され拾われてその地で祀られたが、旧位置へ戻りたいとの事でこの原位置へ勧請したという。昭和20年寄附によってこの堂を建てた。病気で苦しむ者を助けて下さると信じられ、昔は毎月8、18、28日には参詣人が多かったが、今はぼつぼつ詣っている状況だ。28日には不動講の講中が交代で当屋をつとめ磐若心経を唱えて供養したがいまはすたれてしまった。
 学島、八幡神社の西隣りにも不動尊の供養塔が文化3年に造立されている。

9 弁  天
 奈良時代密教によって渡来し、福知、弁才の功徳が広められ古くから信仰され、鎌倉時代以降、弁財天として福神となり、江戸時代七福神の一員として一般信仰化したが女神である。多くは河沼の水辺に祀られ水神の信仰もある。形像は琵琶をひく女神像が多い。福徳財宝を得、技芸上達の功徳から花街の女性の信仰を受けている。

 牛島の不動尊の境内に祀られているが、河野正一氏の弟が尼崎で成功し独力で建てた。由緒を聞くと、河野家のご先祖、不動尊の二者は祀られているが、弁天さんだけ祀られていないという同氏の夢見によって勧請したとのことだ。河野家一統5戸の株内では正月と秋祭りには交代で拝んでいる。


10 野  神
 神は人界に常在せず、去来して祭りを享けると信じていた。我が国の神々は農作物の豊穣を保証する神徳を持っている。村落には歴代の神祇官や地方官僚、武士などの統制にも入らず、したがって保護にもあずからず、ただ村毎に田作る者のみで長く信仰をつないできた農神があった。宗教政策の干渉をうけることがなかったから自然に成長した信仰である。
 全国的に神名を調べると次のとおり。
 ◯田の神……全国に広く分布
 ◯農神……のがみ、東北地方
 ◯作り神(つくりがみ)……近畿地方
 ◯作神(さくがみ)……長野、山梨県
 ◯亥の神……山陰、兵庫県
 ◯地神……瀬戸内海
 山川町一帯では、野神をまつる小祠を「野宮」(のごう)と呼び、牛馬の神でもあると信じている。
川田の野神社を調べると、
 祭神は茅埜姫命(かやのひめのみこと)祭日は土用祭(7月20日)例祭(11月21日)の2回行なわれる。
 社祠は板葺で30cm四方である。茅野姫命(女神)と大山祇命(男神)は配偶の神で前者は野をうけ持ち、後者は山をうけもち、二神が山と野を守護することになったとある書物に書かれていた。
 鴨島、牛島地区で野神は稲作の神と信じて神事をしているが、共通した信仰と思うが、これからの課題として究明したい。

11 山 の 神
 山を支配する神である。農民は山の神と田の神が同一で交代すると信じる地方は広く分布している。山稼ぎの者は田の神と関係なく、一年中山に山の神は居ると考えている。山の神は男神、女神と考え方があるが、山の猟師たちは長く神の恩寵を蒙っていると信じている。祭日は2月、11月、日は7、9、12日が多く、その日には山稼ぎを戒しめ、禁を犯すと災厄があるという。
 山の神は小祠のほか、山中の任意の場所、老大樹の下に祀られている。山の神は神道では大山祇命、山稼ぎの者は天狗、魔物と思っていて、神の使いは、蛇、狼、猿だといっているのを聞く。この写真は牛島地区に祀られていたがいろいろ考えさせられる。
 鴨島の南の山の六合目に大堂があって山の神を祀っていて、祭日は月の7日、9日である。この日は山働きは休みとしたと古老は話した。


12 水  神
 牛島地区上浦、飯尾川のほとりの小祠に、水神(スイジン)さんが祀られていたが、潅漑用水工事のために取りこわしてなくなったと、ある老人が話されたが、それ以外のことは何も知らぬという。私の調査中水神をまつる祠にはまだ出あっていない。
 水神の性格把握はむづかしいとされている。古くは水の神は一つしか考えられなかったらしいが、生活が復雑化するとこれに依存する人の心に差が生じて水神の内容が変化した。稲栽培を主たる生業とし、水の恩恵をうけることの厚い日本では潅漑水としての水、穀物の豊穣をもたらす神と考えた。飲料水としては泉、井戸には水神がいると信じていた。蛇、鰻、魚などで水神を表わしたことは古くから行なわれた。河童は水神の零落した姿であり、水神は女神であると信じている地方があり、夏の雨乞いは水神信仰の一面である。これからの課題であり、資料を入手したい。

13 光明真言百万遍供養塔
 オンアボキャ ベーロシャ ノーマカ ボダラマニ ハンドバジンバラ
 ハラバリタヤ ウン
 光明真言を数多く唱えることによって、現世利益、後世善生の御利益をうけることができるという信仰に基づいて供養塔が造立され、寺の境内や路傍に塔石が残っている。
 百万遍の計算方法は千八十の大数珠を念仏一回唱えるごとに1ケ隣りに送り一まわりすると箱の中の千遍札を一つ裏返し、千遍札十枚で中段、一万遍札一枚裏返し、下段の十万遍札をかえす仕組になっている。早くて3ケ月長ければ3年、根気よく唱えたものであるが、県下で最高は鮎喰の五億一千万遍供養塔である。
 牛島、真福寺境内に八基造立され、この附近の盛況を物語っている。
 (文政6、文政11、嘉永7、文久2、昭和3、年号不祥3基計8基)学島八幡神社前に(文化3年、年号不明)二基造立せられている。


14 辺 路 石
 交通不便で足にまかせての昔の往来では参拝、登山、旅行の時、地理不案内のため大へんこまったものである。それらの人びとの困難を救うため、道標(道しるべ)を建てたものである。普通方柱に近い形の石に文字を刻み路傍の人目につきやすい所に立てた。大きい物は等身大ほどのものもあるが、多くは1m前後であった。様式の簡単なものは○○道とか「右○○道、左□□道」とあるにすぎない。
 川島、岡の鼻の道標は
 手の指で方向を示し、四国霊場十一番藤井寺、さらに距離30丁と刻み、きわめて親切なものでこの石柱を辺路石という。この道は切幡寺への辺路道にあたり人通りが多かった。牛の島にも一某あった。辺路石は交通史の資料としてまた、信仰遺物としても貴重である。


15  常 夜 灯
 神仏を拝む時は灯明をあげるのが法である。灯篭は仏教伝来とともに我が国に伝えられ、灯明として神仏に供える灯火となり神社仏閣の常夜灯となった。
 灯篭は石、金、木竹などで作るが石灯篭が一ばん多く、地盤石、竿石、中台、火袋、笠石、宝珠と組立てた。寺社の境内が主であるが、近世には道路の要所、山の端など、よく目につく場所に立て、交通安全、魔物の排除の目的もあった。これらは近隣の者が講組織で奉仕し、自らの功徳をつみ神仏の加護が得られるという信仰からであった。
 鴨島の町の中の常夜灯、高さ約4mの偉容は特筆すべきであり、天明五年の造立である金毘羅大権現、天照大神、八幡皇大神宮と神名を刻み祈願を明らかにしている。点灯は昔は毎晩交代で「とうしみ」と油でとぼし信心であったと、87才の老翁はしみじみと話された。


徳島県立図書館