阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第17号
川島町における氏神信仰と講

阿波民俗学会 多田伝三・加賀谷充枝

 

1 氏 神 信 仰
(1)忌部神社と祭礼
 阿波の北方を今より凡そ千三百年余り昔に開拓した忌部氏の一族は、先ず吉野川下流の肥沃なる平野を開拓するために、その背後の大麻山に忌部氏の祖天太玉命を祀って根拠地をその麓一帯に作った。その後阿波の忌部は吉野川を溯って開拓を進め、各地に忌部神社を祀って一族の結束を強固にしつつ上流へと開拓を進めた。吉野川中流の山川町山崎は高越山麓の忌部神社の祀られている地として有名である。
 川島町はこの山川町に接する地であり、忌部拓殖の地として古くは忌部神社が祀られていた。それが中世武家時代になって八幡神社の信仰に政治的圧力で変えられたのである。寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳には「麻植郡宮島村浮島八幡宮、当社は古くから忌部神社と申して来た所、天正中(1573―91年)に八幡と改め」云々と書かれているのはそれを裏書きするものである。この保内八幡宮は、元川島町大字宮島字宮ノ下に祀られていたもので、創立は白鳳二酉年(673年)とされている。中世武家時代、就中徳川時代には歴代の川島城主や領主稲田氏や地頭らが総鎮守神として崇敬していたことが寛永6年(1629年)6月本殿再興の時の棟札を見ても明らかである。ところが明治41年(1908年)吉野川改修工事のため移転せねばならぬことになり、桑村の天神社、大字川島の春日神社等40数社を合祀して現在の川島町大字川島字城山195番地に境内を定め、社号を川島神社と改め、大正5年(1916年)移転及び合祀の遷座祭を行ったことが「稿本川島町誌」に記されている。
 さればこの川島神社の祭神は八幡神社の祭神誉田別天皇(応神天皇)と息長足媛命(神功皇后)と忌部神社の祭神天日鷲命など40余柱の神を合祀しており氏子数も580戸の多きに及んでいる。祭礼は春祭が新暦4月3日、夏祭が8月1日、秋祭が10月22日である。その年の五穀豊穣を祈念する春祭が児島の鎮守八幡と共に行われているのは珍らしい。ただこの春祭は簡単になって当日神職が供え物を奉り、祝詞を奏上して祈願し、氏子がお詣りするだけになっている。しかし夏祭には「輪抜け」や「流し雛」などの神事が残っている。即ち「輪抜け」の神事は、一般に茅萱(ちがや)を太く縒り結んだ大きな輪を6月晦日の夏越(なごも)の祭に参詣人がこれをくぐると疫病や不慮の災害をまぬがれるという信仰に基いた神事である。
 次に「流し雛」というのは紙人形に家族全員の干支と性別を書いて川に流し身体についている穢れを除くことによって、疫病や災害からまぬがれようとする一種の禊祓の神事である。
 この「輪抜け」や「流し雛」の神事が氏神の夏祭りに行われるのは珍しいが夏季には疫病や害虫風水害など不慮の災厄の最も起り易い時期なので、夏祭の行事にこれらの災厄から氏子たちをしてまぬがれしめようとして、「輪抜け」や「流し雛」の神事が行われるものと思う。
 秋祭は10月22日が本まつりである。お太夫さん(神官のこと)4、5人とみこさんが祭に奉仕し、お供えには山のもの、里のもの、川のもの、海のもの、お神酒、米、塩、お鏡など75品があり、神後から桑村までねって行くおねりの行列にこれらの供えものを持って加わるわけである。神輿も合社だけに2つ、5人乗りの屋台が2つ、他に小学低学年の児童4人が乗る「よいやしょ」が1台祭りに出る。祭りの当屋は地区別に順番で交代する。「お供え当屋」「屋台当屋」「お神輿当屋」の3種に当屋は分れている。昔は屋台の費用は乗ったものが負担したそうであるが、今日では各当屋ともその経費は各地区から集金しているとのことである。
(2)伊加々志神社と祭礼
 延喜式国幣小社の伊加々志神社は、川島町大字桑村字大明神1635番地に鎮座している。祭神は伊加賀色許売命と伊加賀色許男命、天照大神の3柱の神である。祈年祭には平安時代には国司が、藩政時代には藩主が幣畠を奉り、皇室から大明神の号を奉られて日ノ命大明神と呼ばれるなど由緒のある神社である。随って古くから神地や神戸を与えられていた。明治3年11月、伊加々志神社と改称され、民政所から玄米5石と幣帛がささげられ、翌4年5月郷社に列せられ、明治39年勅令で神饌幣帛料供進会計法適用指定の神社となった。
 この神社は桑村地区の氏神として100戸余りの氏子がこの地区にある。秋祭は10月21日が宵宮で、翌22日が本まつりである。お太夫さんの手でお鏡、お神酒等が供えられ、お神輿が桑村地区を廻る。その際各家々ではご祝儀やお酒、姿寿司などを出して振舞う。祭の準備には各戸から1人づつ若者を出して神社への道筋に幟をたてたり、掃除をしたりし、祭当日には神輿をかいたり、おねりの列に加わったりする。祭に当屋制の存したことは「辻当屋」という名称が残っているところから察せられるが、今は選挙でえらばれた総代がすべてを決し、お供えの世話なども行っている。
(3)鎮守八幡神社と祭礼
 元式内小社である鎮守八幡神社は川島町大字児島字前池49番地に鎮座している。誉田別天皇、秘羽女神、足浜目門媛神を祭神とし秘羽女神社と称して字日和女に鎮座していたが、天正年間(1573年)兵火に罹って神宝、社記を焼夫したので創立年代は未詳である。その後現在地に勧請し、式内秘羽女神社として崇敬していたが、蜂須賀家政入国後、秘羽女の社号は差支えがあるとて改称するよう申渡され、誉田別天皇を合祀して鎮守八幡神社と改め明治8年村社に列せられた。
 氏子は児島地区に200戸ある。春祭は旧暦2月16日、夏祭は6月16日で、これらは現在では氏子がお詣りするだけになっている。秋祭は10月24日が本まつりでお太夫さんが、お鏡・お神酒・おさかな等を神前に供え、当日は神輿が児島地区を廻り・5箇所でお祓をする。昔は当屋も西の町・中の町・東の町に分けて交替でやっていたが、現在では神社総代4人が祭礼その他万般は協議決定し、諸経費は年始めに1年分として100円乃至200円を集金している。
(4)志田宮神社と祭礼
 志田宮神社は川島町大字山田字平倉37番地に鎮座しているが、主として山田東の守り神で祭神は保食神(うけもちのかみ)である。山田西の守護神は志田宮神社に合祀されている大山積神社(通称山の神さん)で、祭神は木花咲耶媛命である。
 氏子総数は110戸、祭礼は志田宮が昔は旧暦8月15日、今は新暦10月21日が本まつりである。大山積神社は昔は旧暦9月7日、現在は10月22日が本まつりとなっている。祭礼にはお太夫さんがお神酒・お鏡・米1升・山の幸・畑の幸・海の幸(頭つきの魚)等を供えて奉斎する。子供神輿はお旅所3箇所で休息、神主はその都度大祓をする。神輿当屋はお鏡・お神酒・ご幣等を持って神輿に従う。その他当屋は記録役も務めるが当屋と役割は毎年くじ引きできめる。神社総代は4人で祭礼をはじめ神社に関する一切を協議して決める。この総代役は一生だとされている。祭礼の費用は祭りがすんでから集めにいく。
 昔は屋台があって祭礼には若衆が引き、馬当屋もあってねり馬が出ていた。78年前からおねりは廃せられ、神輿のみとなっている。
(5)吉本神社と祭礼
 吉本神社は川島町大字学字ニツ森44番地に鎮座し、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の3柱の神である。古くは妙見宮と呼ばれていたことが、宝暦11辛己稔(1761年)の棟札に「奉再興明現社御殿本就御遷宮」とあることでわかる。明治8年村社に列せられた。氏子の数は80戸で秋祭は10月24日である。南北の神社総代が交替で祭を司どり、神輿は7か所の御旅所をまわり、その都度五穀豊穣、無病災害なく、無事息災を祈って七神楽をあげる。祭の当屋は2軒づつ交替でつとめる。
(6)王子神社と祭礼
 王子神社は川島町大字学字王子83番地に鎮座し、祭神は宇遅の和紀郎子である。古くは王子大権現と称していたことが明暦2年(1656年)の棟札に「奉再建王子大権現御殿成就」とあることでもわかる。明治8年村社となった。現在氏子数は125戸、秋祭は10月24日である。
(7)春日神社と祭礼
 春日神社は川島町大字学字二ツ森42番地に鎮座し、天児屋根命外4柱の神を祭っている。元春日大明神と称していたことが慶安2年(1650年)の棟札に「奉再建春日大明神御殿一宇成就」とあることでもわかる。氏子数は学・大井戸で60戸乃至70戸、秋祭は10月24日である。祭の屋台は飾付の費用を当屋が氏子より集める。屋台に乗るのは12、3歳以下の少年5人で、太鼓1個、鉦2個、ぼてぼて2個を5人がそれぞれ受持つ。この少年達の当日の弁当は当屋が用意する。しかし近年屋台が焼けたため参加出来なくなった。
(8)浮島八幡宮と祭礼
 現在川島神社に合祀されている浮島八幡宮は元川島町大字宮島字浮島に祀られていた。そして前述のごとく忌部神社と称していたのを天正年間に八幡宮と改称し、大正5年川島神社に合祀されるまでは浮島に祀られていた。その頃祭日には善入島の川原に2艘の舟を出し、1艘には神輿、1艘には見物人を乗せて川を渡り、川原で祭の儀式を終え、氏子のお詣りがすむと舟を綱で曳いて帰る。当屋はこの屋台舟を曳く人達のため約100個の弁当を用意した。この弁当は握り飯に芋や大根を串刺しにしたとのことである。
(9)八坂神社と祭礼
 川島町大字王子に鎮座する八坂神社は須佐之男命を祭神とし、氏子数は百二・三十戸、祭礼は10月21日である。お太夫さんが山の幸・海の幸をお供えし儀式を終えると、神輿が地区内を巡り、よいやしょがおともをする。
(10)住吉神社と祭礼その他
 住吉神社は川島町大字三ツ島字住吉に鎮座し、氏子数は131戸、祭礼は10月24・5両日に行われる。高越神社は川島町大字学字高久に鎮座しているが、元下女の辻にあった。祭神も氏子数も、祭日も聞き洩したが恐らくは背後に聳える高越山の信仰と無関係ではなかろう。
 今は川島神社に合祀されているが、それ以前は桑村にあった天神様は今も25戸の氏子があって10月22日に祭礼が行われている。
(11)氏神の祭祀について
 このように川島町にある主なる神社とその祭礼について調べてみると、各神社とも氏子との関係は長い村民の生活史の中で堅く結び着く何ものかがあったことが想像される。さればこそ政治的に鎮座の箇所が移動させられたり、時には川島神社のように40数社が合祀されるようなことがあっても、何時の時代かに氏子を守護した氏神の恩寵は後世語り継がれて、氏神と氏子の因縁を断つようなことは考えられないのである。中には忌部神社のように氏神を奉じて氏族が移動しても、分神を残して残存の一族を守護していただくよう新に忌部神社が奉斎されたのである。それが武家時代に八幡神社の信仰に代えさせようと政治的圧力を加えても、氏子達は八幡神社と社名をかえ、八幡神社の祭神を奉斎しても且ての氏神忌部神社の祭神天児屋根命や天太玉命を合せ祭ることを忘れなかった。神社名は浮島八幡宮と変っても忌部氏の後裔と信ずる氏子たちには祖神を忘夫するようなことはなしえる筈がなかったのである。
 祭礼は終戦後どことも簡略化されて、往時の神人合一の楽しみ喜びを満喫する祭りの日の感激は味えなくなっているが、それでも春祭、夏祭、秋祭の原形をとどめていて、殊に輪抜け、流し雛などを神事に取り入れて夏祭の本質を闡明に残している点などは県内外にも類例が少い程である。

 2 同族神の信仰
(1)町内の同姓状況
 川島町内の有線放送の番号帳で同姓状況を調べて見ると次の数字が得られた。
  後藤田姓 38戸 伊加賀志に多い。
  阿部姓  59戸 児島と山田に多い。
  川村姓  25戸 久保田に多い。
 その他板東・河野などの姓に家柄の家が多いようである。
(2)後藤田家の同族信仰
 後藤田家の由来については後藤田一統の「後藤田家由来」によれば、先祖の後藤田牛之丞は長曽我部元親と戦って戦死した桑村城主桑村隼人正の実弟であった。妻の父名西郡中島城主稲井帯刀を援けて奮戦中、馬の足が洞穴に踏込み落馬して戦死した。時に元亀3年(1572年)9月9日のことであった。この地の人々が牛之丞を王子神社として祭り、その霊を慰めた。子孫は桑村に帰り農を生業とし、後裔が付近に分れ住んだ。同族相はかり伊加賀志神社の境内に名西郡中島より祖神王子神社の分霊を迎えて祀り、同族の和親共栄の守護神としたことが1枚の由来記にしるされている。
 この後藤田一統は美郷村にも株があり、川島町内でも大字川島から伊加賀志・鍛治屋敷にわたって分居している。この王子神社は奥殿や前殿をもち、10月21日の本まつりにはお太夫さんがもち米2升で搗いたお鏡やお神酒5合を神前にそなえて祭礼の儀式を執り行う。お鏡は祭り終了後小さく切り分けて氏子中に配り、お神酒は氏子らがおつまみを持参して前殿で一緒にいただく。
 当屋は氏子を東・中・西の3班に分け、各班交替でつとめる。又班を組に分け、その小組の中で当屋を輪番にしている。祭礼の当屋の経費は当番の班が出し合い、仕事は小組で手伝う。当屋の主なる仕事は、祭の前日の清掃や幟立の外お太夫さんの弁当・神楽料それに氏神へのお供え等の準備である。経費が多額になる時には境内の大木を売って捻出した。
(3)阿部家の同族信仰
 学の阿部一族では先祖を祀っている。そしてその祭礼には子供相撲や花火などの余興を行うのが慣例であった。阿部家の本家が大阪に引越してからも戦前は行李に幾はいも相撲の景品を送って来た。今でも本家の分れ3軒が賞品代を送金して来るそうである。神社名や祭りの日を聞きもらしたが、村を離れても同族神への信仰の衰えぬことを如実に示すものといえよう。
(4)喜多家の同族信仰
 山田の喜多家では1月15日にご先祖祭りが行われ、近隣の同族11戸と県外に出ている同族もこの祭りに参加出来るよう正月休みをとって帰村するものもあるという。
 喜多家では祇園さんを守護神とし、旧暦6月7日のご縁日には、うどんを打って同族の者達で食べる。昔は小麦粉13貫ものうどんを打ったということである。川島町大字山田字釿原の喜多邦利氏の報告によると、喜多家では祖先崇拝のため15戸が先祖講を組織し、各戸500円位持寄り懇親する。他にうどん講も同族11戸で作り当屋に集ってうどんを打ったのを共食して悪病除けを行うとのことである。
 かつて喜多家一族に疫病が流行して困った時、守護神祇園さんに悪疫除けの祈願をした。その願かけに胡瓜断を誓ったので、願ほどきに胡瓜一切を断つことを誓い現に食べないのみか一族は胡瓜作りもしないということである。

  3 信 心 講
(1)地 神 講
 本町の農業地域には小字毎に大体地神塔があり、附近の農家10数戸が講を作って、春秋の社日には地神塔に供物を捧げ、祭りの後に講中が直会を行っている。
 この地神講は徳島県以外には殆んど例を見ないようである。徳川幕府は江戸中期に「社日しよう儀」という書物を版行して、春秋の社日には天神地祇を祭り、地の神に感謝報恩すべきであると奨励し、阿波藩でも之に応じてすすめたので全国でも珍しい程地神塔が建立され、地神講が普及した。
 桑村にある地神塔は傍の自然石の燈篭に「嘉永七寅年(1854年)十一月建之講中」とあるから、地神講中が拠金して、地神塔と共に建立したものではないかと思われる。
 この地神塔の特異なところは、五角柱に天照大神をはじめとする五柱の神名を1面に1柱づつ書くのが普通であるが、この地神塔は大国主命の神名のみが皆別称で1面に2つづつ書かれていることである。例えば八千矛神と大国主神、大己貴神と醜男神、大物主神と顕国玉神といった様にである。
 由来地神信仰は春秋彼岸の社日に農家が田畑に入ることを休み、講中の当家が地神塔の周囲を清掃し、四隅に笹竹を立て〆縄を張り、境内に幟を立てて早朝より用意をし、午前10時頃より、地神塔の石壇上にもろぶたにお鏡・お神酒(1升びん)海・山・畑の幸等を揃えて供え、講中が揃って塔前に農作物の豊饒を祈り、地神の守護に感謝の誠を捧げるのである。神職をやとわず講中で祭りをすますのが普通である。祭りが終ると直会(なおらい)に講中の1人1人が持参した煮〆を肴にお神酒をいただき、お供えの鏡餅を小さく四角に切って講中にわけ、持帰って家族がいただく。この時用水の藻刈や農道の草刈りなど共同作業の日程の打合せをする所もある。当家はまわり持ちで、祭場、供物、直会等の準備をし、雨天のときの直会の会場を引受けるのが普通である。
(2)庚 申 講
 川島町内には庚申塔が所々に建っている。しかし庚申講は行われなくなって流行神として拝まれている形跡がある。桑村にある庚申塔は立派な瓦葺の小堂宇の中に納められ、猿田彦大神、昭和23年夏、辰年女などいう赤色の幟が立てられ、聾石や赤布の縫ぐるみの小猿が多数まつられているのを見た。
 元来庚申信仰なるものは「話は庚申さんの晩」という言葉があるように、60日目にまわってくるカノエサルの日に庚申堂に講中が集って老若男女が雑談を交し、夜更けに解散した。これは人の体内に三尸(さんし)という3匹の鬼神がいて、その人の死後自由になれるため、いつも人間の早死を望んでおり、庚申の日に上天して、その人の罪過を人の命を裁定する司神の神に報告するが、この日昼夜寝なければ、三尸は上天出来ない。これを守庚申(しゅこうじん)と称し、守庚申7回で三尸は絶命するという中国の唐宋時代に完成した信仰である。我が国には平安時代にこの三尸説に基く庚申待の風習が伝えられ、宮廷の間に行われていたが、室町時代には庶民の間にも普及し、江戸時代には全国に浸透した。娯楽の少ない農山漁村ではレクリェーション的な意味も兼ねて流行した。
 三尸説は仏教思想と融合して庚申塔に普通に見られる手が6本の怒った顔をした仏像の青面金剛の信仰となり、又「見ざる聞かざる言わざる」の三猿の思想とも結びつき、さらに神道の猿田彦命の信仰や修験道などとも結びついて、近世の代表的民間信仰として全国に流布したのである。
 川島町でも戦前は20戸前後の講中をもつ庚申講が各小字にあったが、戦中戦後の物資不足からいつの間にか庚申待の風習はすたれ、前述の如く願いごとを願かけて聞き届けて貰う流行神と変り、願ほどきに鶏の絵又は三猿の絵馬を奉納したり、前述の桑村のそれのように赤い幟や縫ぐるみの小猿等を納めたりした。このように庚申塔は今もなお地域住民の信仰対象となっているのである。
(2)大 師 講
 毎月旧暦20日の晩に大師講の講中が当屋に集まり、大師の画像や十三仏・不動明王等の掛軸の前で十三仏・光明真言などを唱え、真言が終ると五目めしを出して講中が会食する。これは弘法大師の徳を慕い、光明真言を唱えることによって、この世とあの世の二世の安楽を祈願するためのものである。
 この大師講について久保田地区の例を挙げて見ると、地区には3組の大師講があり、6軒から12軒がそれぞれの講組をつくっている。当屋は講中を順番にまわり、光明真言を唱え終ると当屋の振舞いで五日寿司などが出される。こうした毎月20日夜の大師講は村民にとっての慰安娯楽でもあるわけである。
(4)稲 荷 講
 稲荷信仰は京都伏見稲荷が農民層の上に醸造家や商人の信仰をも獲得して全国的に普及したものである。狐は霊的動物として稲荷神社の神使の立場を与えられて種々の奇瑞伝説までも生じた。
 川島町の稲荷講は農業養蚕の守護神として稲荷神社が崇められており、久保田の稲荷講について聞いたところでは、2月と12月の初午の日に祭りが4人のお太夫さんと神女(みこ)さんとによって行われ、天の岩戸開き、剣の舞、うずめの舞などを舞い、交通安全・災難よけの祈願をする。この時お太夫さんの授ける守札を講中はそれぞれ自分の家に持ち帰って養蚕室に貼る。この日、繭形をした繭団子を作り、神どこへお供えする。当屋はくじ引で決め行事の諸準備をする。養蚕地帯の稲荷講らしい信仰が見られる。
 4 結  語
 以上川島町民の氏神社の祭礼を通じ氏神と氏子の結び着きを見、次いで同族団の祖神祭りによる団結と講組織による地縁集団の結合について見たわけである。
 終戦後わが国の民間信仰にも大変転が見られ、物資万能、信仰心の冷却現象は蔽うべくもなく、本川島町においても同様であるが、信仰心の篤い農業地帯が多いだけに、比較的古来の信仰が保持せられている町村の一つに数えられるべきであろう。
 本調査に当って町教育委員会の絶大な支援があったに拘らず文書回答は私達の質問の趣旨が理解されず、殆んど役に立つものが無かったことは残念で、調査報告を統計的に処理し、具体的数字で信仰の在り方を分析し、明示することの出来なかったことをご協力いただいた関係の方々に深くおわびして報告を終る次第である。


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