阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第17号
川島町大字桑村字風呂谷 石風呂

民俗学班 多田伝三

昭和45年8月4日調査
 石風呂
 大字桑村字風呂谷の南西方の丘陵、甘藷畑中にある。この風呂谷は地名の示すごとく谷水を用いて風呂を立てていたものであろう。古谷春次郎氏宅の裏道を西進すると約30m位のところに円墳の横穴があり、羨門から石室に這入るようになっている。前方は甘藷畑でその南方へ畦道づたいに20m位ゆくと草むら中に………の緑泥片岩の板碑が立っていて、その碑文に……とある。即ち弘法大師がこの石風呂を一夜にて建立せられたという伝説が、この板碑の建てられた天明三葵卯年(1783年)に存していたことがわかる。

 

そしてそれは大師が諸人の病気を平癒せしめる所とせられたことがこの板碑の銘文でも明らかである。恐らく当時すでにこの頃には古墳は早くよりあばかれていて、しかも古墳であることを忘れられていたものと考えられる。即ちこの辺の人々は恐らく近くに在った現在の長楽寺の境内に当時建てられていたと思われる常慶寺(明治2年阿波国西民政所が川島町大字川島字城山の長楽寺境内に置かれたため長楽寺が現在地に移され、常慶寺は現在の板野郡吉野町大字柿原に移転された)に集まった真言宗の信徒が弘法大師が諸人の病を平癒させるためにこの古墳の石室であった石風呂を一夜の中に建立せられたと考え、この石室を石風呂に活用したものであろう。即ち現在もこの石室は南向に羨門が開かれているが、その墳丘の背後を東西に畦道が走っており、一段低くなって畑は柿の木を植え込んであるが、その間を通る道路の直ぐ下に直径約30cmの井戸があり、現在も溜水が相当量あるので、当時はこの水を活用して石室の内部を湿めらせ、羨門前で焚火をして内部に熱風を送り込ませ、その石室内の湿気を蒸気に変えしめ、いわゆる蒸し風呂の役目を果させたものと考えられる。

 石室は
 集囲12m 墳丘の直径4m 石室内部の直径90cm 奥行(深さ)70cmであり、井戸や板碑及び板碑の隣りにある2つの墓碑との関係位置の見取図は別紙の通りである。
 この板碑及び隣りの2つの墓碑の銘文から考えると、天明元辛丑年(1781年)に死亡した妻の菩提をとむらうために前記の如く2年後の天明3年に夫の宮蔵が発願して緑泥片岩のこの板碑を建て、願主の長命を兼ねて諸人の病の平癒を祈願した。しかも隣にあったらしい(現在は台石も墓石も倒れて草むら中にかくれていた)小さい墓碑名には文化九壬甲(1812年)に宮蔵の後継者かと思われる重次良が娘の死に当ってその菩提を供養するため地蔵童子を浮彫した墓石を建て釈妙秀信女という大人の女性並の戒名をつけてもらってこの地に葬っている。この墓碑より察すれば重次良は娘の病の平癒を祈り、屡々この石風呂の効験に預ろうとしたのであるが、不幸にも死亡したので、死後もこの石風呂を一夜建立して諸人の病を平癒せしめんと祈念した弘法大師のご慈悲に預からしめようとこの石風呂の付近に葬ったのではなかろうか。
 これを要するに天明3年の板碑及び天明元年の墓碑及び文化9年の墓碑はこの古墳の石室であることを忘れて、弘法大師が一夜建立せられたものと信じて、この石風呂のある風呂谷一帯の真言宗常慶寺の信徒たちは、この石室を蒸し風呂に活用していたものと思われる。恐らく板碑建立者の宮蔵の妻もこの石風呂によって湯治していたものであり、前述の如く重次良の娘も夭逝はしたがなお石風呂による諸人の万病平癒を願われたと信じていた弘法大師のご慈悲により来世の極楽往生を願わんとしたものと思われるのである。即ち今から200年前に近い(正しくは天明元年が189年前)頃にはこの風呂の谷には石風呂を活用して蒸し風呂で湯治する者が沢山あったことが想像されるのである。
 石風呂の地名は本郡内はもちろん麻植郡内にも、亦本町内にも旧学島分にもあることを聞いたのである。恐らく民衆に蒸し風呂が普及しはじめたのは相当古く、或いは平安時代に溯って考えられるかもしれぬが、一般に普及したのは真言宗の寺院の建立と並行するものと考えて間違いはなかろう。即ち弘法大師の慈善事業の一つとして始められたものとしえ蒸風呂を喧伝した時代が阿波では江戸時代にあったらしく、本町ではその具体例として今より千数百年昔に構築された古墳の石室を利用してこの様に地名を生ずる程蒸し風呂が盛んに行われていたことが推察されるのである。
 近畿、中国などの例から察せられる石風呂は焚火等の火熱によって石室を熱しておき、石室内に水藻に水分を付着せしめてこの石室内に入れ置いて、石室の火熱によって生ずる水蒸気を利用して蒸風呂のはたらきをなし、毛穴を埋めている垢や毒気を排出せしめて病気を治癒し、健康を保たしめるといった様式である。恐らく本町の風呂谷の石風呂もその様なものであったと思われるのである。即ちこの辺は山よりの湧水が豊富であるからこの古墳の石室を後人が活用することを思い付き弘法大師が井戸水を杖で突いて湧く所を発見し、一夜で石風呂を建てて衆生救済せしめんとされた大師の大慈悲心の現われであるとしたものであったろうと想像される。更に推測をたくましくすればこの様な推測と石風呂の活用を行ったのはこの付近の真言宗の信徒で大師の大功徳をこれによって益々顕揚せしめんとされたものと解することが出来よう。
  (1970・8・4正午)


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