阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第16号
木頭村の古文書について

古文書学班 森甚一郎

 昭和44年度阿波学会総合学術調査は8月1日から7日まで行われたが私たち3人(藤岡道也、佐々木実乗、私)はどうしても都合がつかず不本意ながら10月に延期せざるを得なかった。

 10月4日藤岡氏と徳島駅前に落合い12時50分徳島発川口行の徳島バスに乗る。那賀川沿岸の10月の景勝は紅葉にはまだ少し早いようだったがその美景にうたれる。やがて15時川口に下車、今までの車よりやや小型の車に乗りかえ、これより木頭出原までの約3時間、途中長安口ダムを右に左にと見ながら長途の旅路のうさばらしにする。
 出原にて下車、早速村役場を訪ね榊原村長、臼木主事に挨拶しこの度のことをお願いする。私たちが阿波郷土会を代表して阿波学会総合調査団の一員として木頭の古文書所蔵家を歴訪してその所在目録を作成するために来村した由を述べる。榊野村長は早速戸棚から棟付帳を取り出し村長の先祖と思われる家がここに明記されていることを指摘されその郷土史に関心の深き一端を示さる。
 辞して宿舎亀屋旅館に入る。木頭随一の旅館にして設備万端よく整っているが、この地も最近の過疎の気流を免れず、常傭いの女中は居らず、お手伝いただ一人というすべてはセルフサービスとのことであった。2階に通され畳の上に坐ればやっと蘇生の思いを取り戻すことができた。思えば徳島を出発して5時間、行けども未だ徳島県の地を離れず「阿波も広いものだ」との感がした。いよいよ明日から古文書調査の第1歩を踏み出すと思うと勇気百倍の感がする。
 10月5日(日)今日は日曜日のこととて役場の自動車の使用が出来ず、弁当持参で北川行きのバスに乗る。途中那賀川上流の渓谷と紅葉の美観を賞でながら北岡家を訪ねる。折よく主人在宅、来意を告げると快よく案内され早速古文書を見せていただく。家は代々の御蔵百姓であって、以前は川向うに居住されていたが、現在は国道脇に新築されている。そもそも北岡家の先祖は尋ねると7代七郎右衛門(佐右衛門)は17才の時海部郡大里村に出て、刀鍛冶海部氏吉の流れをくむ多八郎の弟子となって修業して帰村したが、当時家は貧困を極めて、親戚間でのもめごとが絶えなかったという。しかし彼の努力によってその晩年には刀鍛冶職の傍う木地販売、木材取引等によって大資産家有力者となったと当主は話された。彼は文政5年83才で逝去した人であるが、生前に出原の端伝寺が焼失による再建に莫大な寄進をしたことによってその位牌銘には
 俗名佐右衛門、此老翁天長山中興依為大功願主許居士号、天長山閑居上人仏芽。
とある。また
 法橋申望之事全沙汰候之処任隋心院御門主永宣旨御免許之所候也仍執達如件
  文政四年五月四日 権僧正(花押)
とあって、この古文書によれば岸省我は七郎右衛門の仏名であって、法橋の位に叙せられていることは俗縁の者にとって稀有のことであり、その功績が如何に大きいものであったかを物語っている。このことについては別紙のとおり上山村(木頭)庄屋治郎右衛門が代官屋敷(日和佐)に出頭した記録がある。即ち、

 公儀より被仰出御写
 其方儀先達而年令も無之小将被仰付殊に家例無位階従四位上被仰付ハ当時由緒別段之儀 ニ付此上之昇進者難被及御沙汰候得共大御所様より厚被仰進候御旨兼々且ハ勤向常々精励之事ニ茂候間御由緒柄旁猶又本格迄思召を以今度位階昇進被仰付候尤其方ニ限候義にて巳後之例には不相成事ニ候
とある。彼が刀鍛冶として有名であったことはその作海部氏次が遠く小松島金磯の多田助左衛門から注文を受け、その領収証が残存していることで明白であろう。また挽座文書や早川家の古文書中にも散見しているように、刀鍛冶のほか木材取引や木地販売を手拡くやっていたことも明白である。
 現在保存している古文書はよく整理されているがこれらの古文書のうち前後の続き具合上是非必要で、ここに在らねばならないと思う古文書がないことである。これらは或は東京の親戚に持ち帰られたというも、その真偽のほどは知る由もないが、甚だ遣憾であると思う。と同時に家屋の再建に当り、数多くの古文書が雨漏りのため、放棄しなければならなかったことである。

 北岡家を辞して北川停留所まで徒歩で行く。その間北川町営グラウンドを右に、左にはシンバクの奇態を眺めながら、那賀川上流を遊歩する。亀屋旅館に着いたのは5時を過ぎていた。一風呂あびて夕餉の食膳に就く。予期していた食事とは全く異なり、都会なみの御馳走にはうんざりと失望した。
 明くる6日(月)出原の近藤家を訪ねる。家は木頭切っての名家である。即ち里正―庄屋―組頭庄屋―郡付浪人の家柄である。主人彰一氏は古めかしい箱を持ち出して来る。明ける途端、まず目についたのが秋長落款の瑞雲院土佐出勢案内書である。まことに稀らしいものである。

  猶々木頭中召連可罷越候次其方扣高指遣者也
 急度申遣候仍而近々土佐へ出勢ニ付而其元之者共彼表案内者之事候間兵粮相宛召連候得 其意早々可致用意候為其如此候也
 九月廿九日  秋 長 印
  近藤助左ヱ門

 この文書は天正13年9月29日のものであると思う。6月20日に阿波一国を拝領した瑞雲院蓬庵公家政は土佐一国に押込められた長曽我部元親の内乱を静めんがための出兵であったろうかと思われるが、この古文書によって境目おさえ役として活躍したのは、この近藤助左衛門である。このことについては、木頭上山庄屋近藤孫兵衛の書遣した文書にも

 私先祖五代巳前之近藤助左衛門義土州境目おさえ并御横目役被為仰付罷在候然処土州乱国に罷成従蓬庵公為御意彼地(御加勢ニ罷越様にと御書被為成下其上扣高拝領被為仰付旨ニ付在所者共召連罷越候……御褒美翌年扣高拾弐石七斗五升六合……

とある。また左の古文書も所持している。

  郡付浪人申付覚書
   海部郡木頭上山村組頭庄屋近藤孫兵衛
 右者儀心得宜年来御用方篤実に出精相勤候趣ニ付向後郡付浪人に申付候条此段可被申付 候以上
  四月廿三日
 右之通御当職御書付を以被仰渡候ニ付会写遣者也
  元治元子年五月六日
   谷 邦之進
   箕浦牛太郎
   津田繁之丞
 海部郡木頭上山村郡付浪人近藤孫兵衛

昼頃河野教育長来り快談数分にして佐々木実乗氏も亦来る。加勢にその人を得て意気軒昂。次に簿冊としたものが目につく。手に取るとかの植村左平次の薬草取りの巡見記録が委細に事こまやかに認められている。植村左平次については阿淡年表秘録の享保13年の頃に

 享保十三戊申年四月十一日御薬園係植村左平次殿四国并淡州薬草為見分今日淡州岩屋到 着同十七日御国撫養へ渡海御国見分相済五月廿四日土州へ越境

とある。今記録を見るに

  薬草御用人取扱向達書
 一、此度薬草為御用植村左平次と申仁被罷越候旨右家来に対し此方之者末々迄無礼不仕 様に可相嗜候万無作法之体於有之者曲事に可申付事
 一、右御用に付郷中へ罷出諸役人並□□□□□彼方家来之様に申成義仕間敷事
 一、諸事百姓に至り申掛理不尽成儀仕間敷候百姓不届於有之は岩田茂右衛門、中山九郎 右衛門、伏屋与三右衛門方へ可申断事
 一、薪之儀有来通可請取候雑子其所々に而有合に可請取候
 一、送夫御定●外於入用は郡奉行方へ相断可受候
 一、郷中に而入用之物有之節は郡奉行手崎之手代方へ断庄屋共相頼調可申事
 一、草履草鞋百姓●取申間敷事
 一、於泊り所に面々泊り宿に而薄縁莚並居風呂等以下有合次第に可仕候無之共何角申懸 仕間敷事
 一、火之用心之義尚以堅可申付事
 一、逼留中於所々に何に而も拾い物於有之は急度可申出候若隠置後々於相顕は曲事に可 被仰付候条此旨末々に至迄可申付事
 一、彼方通行之節道筋へ罷出見物仕義簾等掛け或は二階●見物之体停止被仰付候尤町人 百姓共に無作法成義無之所々泊り休所役人之外無用者とも出入仕間敷候若無拠儀於有之は其所の庄屋御奉行方へ申出下知請可申候無左出入仕候者有之追而相聞候はば屹不届に可申付事
 右之通被仰出候条面々村中不依何者逸々可申觸候 以上
 申四月十日
   岩田茂左衛門
   中山九郎右衛門
   伏屋与三右衛門
 那賀海部二郡
  与頭庄屋方へ
   仕上ル覚
此度薬草御見分為御用植村左平次様御越被遊ニ付御泊り御近所並村辺共女出て申間敷旨御通り節垣越又ハ高キ山等へ上り女不及申男分共隙視仕間敷旨御奉行様被為法度御趣私共へ被仰諭承知仕候右被仰付候通堅相守可申候 以上
 申四月晦日
  平谷庄屋 立左衛門
  古屋庄屋 孫四郎
  上山庄屋 孫兵衛
   通右衛門
 与頭三人宛て

上山村に御一宿但し庄屋宅共弐拾五軒御座候内六軒御宿にも成可申候。とありまた、

  木頭上山村御一宿に付
 一、佐平次様 庄屋 通右衛門
 一、半兵衛様  分兵衛
 一、御郡代様 庄屋 孫兵衛
 一、御手代中  端伝寺
 一、御弓  四郎右衛門
 一、御持筒  左七郎
 一、御繕方  儀右衛門
 一、御文番  惣太兵衛
 一、医者  利助
 一、見習  三郎兵衛
 一、隠坊主  銀兵衛
 一、割場  四郎右衛門
 一、御賄方  儀右衛門

とあって庄屋孫兵衛とあるのは近藤家の先祖である。また道夫割分覚として

 一、道夫高千五拾人
  内弐百人 那賀郡より出る分
  内弐百七拾人 上灘分
  内参百拾弐人 下灘分
  内百五拾人 木頭分
  内四拾人 追割上灘分
  内七拾八人 追割下灘分

が記されているが、巡見使の道筋にあたる道路の手入れに千数十人の人夫を動員しているのである。
 またつぎの記録は当時の木頭上山村の生活についてよくその貧困の実状を物語っているものである。

 北川村より御帰之節海河と申処ニ道程四里御壱宿
  但家数三拾軒内三軒御宿ニモ成可申候右之通木頭上山御宿道程並在々御宿ニ成申家とも有姿書付指上申候
  右申上ル通難所第一御駕籠通不申候御宿之儀各別其外畳薄縁等所持仕者一人も無御座候其上諸役人大勢御入込被成候而ハ道夫共之宿無御座候尤燭諸道具等難相調御座候

その他近藤家から藤井家にまた藤井家から近藤家へと移行した文書も数多くあったが、ただ不可解な文書として「足利家」と書いた断片紙が残存していたことである。何に使われたものだろうか。
 近藤家の古文書の保存は大体によく出来ていると思う。家の栄枯盛衰は当然のことではあるが、祖父の金六氏が逼塞していた家運をよく挽回して自家経済の確立を計り傍ら古文書についても大きな関心を持っていたことに原因するものと思う。
 亀屋旅館にて昼食を共にし、役場の自動車にて南宇の仁木家に向う。仁木家は藩政時代に行き(あるき)を勤めていた家で明治になって用掛となった。一抱えほどの古文書を出されたが、全然整理されておらず、雑多な記録ばかりであった。特に各社寺参詣の道中記や当時のはやり歌などは珍しいものであった。こんな保存状態ではと案じながら辞して早川家に行く。早川家は代々神官の家で、村内各神社の棟礼を、50枚ほど所持保管している。また裏の墓地には先祖作太夫の墓もある。これらの棟札は、合祀された神社や廃舎屋にあったものを蒐めて持ち帰り、保存されているものであって、古きものは永禄年間に及んでいる。これらの棟札は神仏混淆の時代のものであって、どの棟札にも端伝寺住職の名が見えていてその寺の勢力が、当時如何に強大であったかを物語っている。古文書とはちがい大きく嵩があるので早川家では縁側の長押の上に保管されている。役場の自動車にて亀屋に帰ったのは5時頃であった。

 10月7日(火)折宇の岡内家に行く。この日早朝役場の自動車が迎えに来る。岡内家は現在残存の唯一の木地屋であって、木地屋文書を所持している。先祖長治兵衛は延享二年に来住し、現地の開墾は宝暦4年であって、左の文書を所持している。

   覚
 ころびくんぜ
 一、畑 五畝程 折宇 長治兵衛
  但当秋戌より来子迄三ケ年
  鍬下遣翌丑より御年貢成
 右者海部郡木頭上山村空地新開ニ仕度旨其方共願出ニ付庄屋五人組手前相鍛候処空地ニ 相違無之村中故障無之と申出相届願之通ニ開ニ申付候条随分開鍬下明の上御年貢無滞上約可仕若油断不開立候ハバ右土地召上越度可付仍而下札如件
  宝暦四年二月八日 御蔵所
   右願人共方へ
 右之通新開申付候条最油断不開立候者早速共旨可申出並鍬下明早々案内可申遣候
  戌二月八日 御蔵所
   右村々庄屋五人組共方へ

 さらに数多くの木地山売証文や木地屋が続々と帰農している文書がある。これらの数多くの文書は私たちが行く前の8月に金沢治氏や中島圭之助氏が行って、整理分類など十二分になされており、私たちが案内されて行ったこと、それ自体が先方に不可解な感を抱かせた。両先輩のなした整理分類にまた何をか加えんやで、匆々に引上げるべきであったが、先方に悪い印象を与えることを心配して、しばらくは木地屋文書の拝見に及んだ。木地屋文書は正、副2通あって、他人に見せる時は、必ず副の方を見せたという。幸い私たちはその正本を拝見した。それはつぎの5通の巻物仕立である。

 近江国愛智郡小椋庄筒井轆轤師職頭事 称四品小野官製作彼職相勤之所神妙之由候也
 専為器質統領諸国会山入之旨西者櫓櫂立程東者駒蹄之通程被免許訖者 天気之所候他
 仍執達如件
  承平五年十一月九日 左大承(在判)
   器木工助

 日本国中轆轤師事、従先規如有来諸役会免除之条商売不可有異儀者也依如件
  天正十一年六月日 丹羽五郎左衛門(在判)
   江州筒井公文所

従当畑諸商売之事 於惣国中如有来不可有別儀若違乱之族在之者可注進可申付候也依如件
  天正十五年十一月十五日 増田右衛門(在判)
   近江国筒井公文所

近江国筒井職頭之事 諸国轆轤師杓子師塗物師引物師等其職相勤之族末代無相違可進退 旨定訖故以代々為器質基本兼亦諸役可免許全公役可相勤之由依 天気執達如件
  元亀三年十一月十一日 在大弁(在判)
   小野宮社務
抑惟喬親王御位清和天皇……毎月八日九日小掠太政大臣出仕畢
  干時承久ニ庚辰年九月十二日 大蔵卿雅仲
     民部卿頼貞
     藤原定勝
    筒井神主

 岡内家を辞して大沢家に向う。大沢家は伍長を勤めた家で明治初中期のものが大きな箱に2杯ほどあった。特に目についたは、初期の徳島県報が揃っていることで、得がたいものである。また義務教育就学延期願い綴は、当時のこの地方の、家庭の貧困さを物語るものであろう。また折宇の用水路図面は、貴重な資料であって最近京都大学に貸してあったという。さらに地券がだいぶ揃っているようだ。役場に勤め、役場に収めるべき書類が何かの拍子で残っているような形跡が多いと感じられた。また当家が御林番であったというが、その記録、書類は見当らなかったことは残念であった。昼前からボツボツ雨脚が来ていたが、山中のことと雨雲のたたずまいも一入早く、それに風さえ吹き添いて大雨のまさに到らんとする気色が濃くなった。「帰心矢の如し」と、亀屋に引返し匆々として帰り支度に取りかかる。役場に立寄り、お礼の挨拶もそこそこに、各自バスの人となり徳島へ帰ったのは、7時をよほど過ぎていた。

 この度の調査を振りかえると、先ず第1に、留意すべき点は未調査の古文書所蔵家を訪問すべきであって、度重なる調査はすべきではないということである。就中岡内家の如きは、つい2ケ月前に私たちの先輩金沢・中島の両氏が完壁なまでの分類整理をされており、今さら屋上屋を架する愚を敢えてなしたくなかったのである。僅かの日数をもっと有意義に使いたかったのである。この点、将来は大いに調査連絡していただきたい。第2は木頭村の如き土地は、栄枯盛衰が甚だしく、古文書のあるべき家は既に没落し、離村して、新興成金が抬頭し、その人々には古文書の価値を知らない者が多く、ただ金銭にのみ支配されるという観念ばかりが強く、万事物事を解決しようとしていることである。幸い木頭村には、名村長榊野氏のあって学校、公民館、村営グラウンド等の文化施設の完備されている今日、精神文明の根源である古文書の保存、それは古きをたずねて新しきを知る温古知新の名言のたとえの如く、木頭村の将来を卜する指針となるであろうことを確信するものである。


徳島県立図書館