阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第16号
海部郡と那賀郡木頭村をむすぶ道
     霧越の変遷と上海川部落について

民族班 岡田一郎

きりごえと木頭村をむすぶ道

 はじめに
 昭和44年8月1日から7日まで阿波学会の総合学術調査が、木頭村とその周辺を中心として実施された。さいわい研究テーマを自由にきめることができたので、かねがね調査してみたいと考えていた。海部と木頭をむすぶ霧越路線の変遷と、木頭村の玄関であった上海川部落について調査研究をした。しかし調査日程の短縮で予定の資料を収集することができなかったので、このたびは中間報告のつもりで発表してみたい。

 一 霧越の変遷
1 霧越について
 海南町皆瀬から霧越峠をこえて那賀郡上那賀町海川(旧海部郡上木頭村)へこえることを人々は「きりごえ」という。この道は約25kmあり、山道はけわしい。標高約1000mにおよぶ霧越峠は常に霧におおわれ、峠を越す者はたちどころに雲上の人となってしまう。しかし古くからの「きりごえ」で遭難した人はいないといわれている。この道が海部と木頭をむすぶ物資交易の要路として、人や馬がはげしく往来したのは、藩政時代から明治、大正、昭和の初期までであった。藩政のころ(文化年間)に木頭村が負担していた租税額485石に相当する諸産物は、すべて、この「きりごえ」をこえて輸送され、藩に納められていた。最盛期の明治の末から大正にかけては、約30頭の馬が塩や米を積んで峠を越していたが今はもうそのおもかげをみることはできない。
 きりごえ線は、大正11年12月、大戸、平谷間の車道ができるまで海部と木頭をむすぶ唯一の経済路線であったが、車道開通後、木頭は鷲敷町の商圏内にはいり、海部との交流はとだえてしまった。

2 海部から木頭に通ずる道

 海部から木頭に通ずる道は上記のとおりであるが、最も古くから人々に親しまれ往来の多かったのはAコースの、奥浦から皆瀬にいたり霧越峠をこえて海川に出る道であった。Bコースのように胴切山を越えるようになったのは、明治末期以降である。Cコースの皆瀬から吉野丸(116m)神戸丸(1148m)のおねをこえて出原に出る道はとくにけわしく地元の地理にくわしい人でなければ通らなかった。大正から昭和にかけてAコースの牟岐町西又から下小谷と、ヤレヤレ峠をへて玉笠林道に出て皆瀬にいたり霧越峠をこえて海川に出る道は牟岐方面の魚行商人がよく利用した道である。B' の日和佐から赤松をへて川口に出る道は、昭和2年に丹生谷線の道路改修がすすみ日和佐―川口、谷口―平谷間に公営乗合自動車の運行がはじまった頃より急速に利用者が増加した。その後、昭和17年に大戸、平谷間の難所が開通し出原に通ずる車道ができたので物資は那賀川下流から上流に向かって車で運搬するようになった。またこのほか木頭村へは、麻植郡木屋平村から岩倉峠をこえて蝉谷に出て出原に通ずる道や、高知県の別府から四つ足峠をこえて北川村に出る道もある。しかしこれらの道の交通量は微々たるもので、物資輸送の多かったのは皆瀬―海川線であった。したがってこの道が年代的にも一番長く利用されている。しかし、昭和26年に行政区割の変更により今まで海部郡に属していた木頭村が那賀郡に編入されたことによって、約800年余にわたる政治、経済、教育文化の諸活動が海部郡からはなれ、那賀郡の圏内にうつり海部と木頭村との交流が極度に減少したことと、那賀川沿いに国道195号線が整備されたことなどの理由によって、まったく様相は一変し、霧越峠をこす人は殆どみられなくなった。こうして昔栄えた峠の茶屋の跡も草の生えるがままとなったのである。しかし、近年森林資源の開発の必要性から昭和37年6月森林開発公団の手によって新霧越林道(車道)の工事が着手され、昭和43年3月新道が竣工した。
 こうして、皆瀬―海川間を乗用車やトラックが往来する時代となったのである。新霧越線は延長24km、乗用車で約1時間20分の短時間で海部から木頭へ行けるようになった。しかし、開通したばかりで一般に知られておらず、雨期など路面の不安定な個所があるので通行量は少ない。


3 物資の輸送方法
 海部と木頭の人々は長い間、物々交換を主体とする交易をつづけてきた。そして物資の輸送方法は、明治末期に馬が使用されるまでは、もっぱら人の背にのせて運搬していた。いわゆる物をかついで運んだのである。このように、物をかついで運搬した時代がいちばん長かったが、明治42年になって、仁木寅吾 新田仁平、安岡岩樹氏等によってはじめて馬が運搬に使われるようになった。現在出原に住む安岡岩樹氏(81歳)は父、米治につれられて高知県安芸郡から木頭に転住し、23歳から48歳まで約25年の間、馬子を専業としていた。この当時は馬が最も進歩した輸送機関であった。明治末期から大正時代にかけて次第に物資の輸送量が増加し、最盛期には30頭の馬が鈴を鳴らして霧越峠を往来した。このようににぎやかさを増したのは、海川村に新井屋という酒屋ができ、酒をつくる原料である米を海部から運搬したためである。このころ新井屋は、那賀川上流では名のとおった酒造家で清酒「勇山」で売り出し年間約300石の酒をつくっていた。米以外の一般物資は、肩担ぎ、背負い、天秤棒かつぎ、オイコ、オイ縄、などによって運ばれていた。
 小豆、米などの穀類は木頭特産の太布(たふ)袋にいれて馬や入が運んだのである。海部川における高瀬舟の運行は、明治末期から大正7年頃までである。このころより陸上では、荷車や馬車が運送に用いられるようになり、大正11年になってはじめて自動車が出現している。明治22年当時の徳島県知事酒井明は、かごにのって霧越の道をこえたと伝えられている。
4 交 易 品
 山村の人々の生活は自給自足がたてまえであったが、塩はどうしても海辺から求めなければならなかった。那賀奥の人々が使う塩は、那佐の塩浜でつくられたものであった。この塩は、奥浦から海部川をさかのぼり皆瀬にいたり霧越をこえて木頭村まで運ばれたのである。このように最初の交易品は塩であった。このことからも、霧越の道は古くから開かれた塩の道であるということができる。
 海部と木頭の人々の間で流通した交易品の主なものは、塩、米、雑貨品、シュロ皮、コウゾ、コンニャク玉、茶、干魚、紙等でその流れは次のとおりである。

 明治の頃は、物々交換が主で塩1俵とシュロ皮100枚、木布1反と木綿1反のうえに銭8銭、小豆と米は同量引換であった。昭和7年に海部の方から自転車をかついで木頭へ売りに行った。当時1台35円の自転車が売れなくて困ったという。(相川村の鳥沢作治氏の話)自家用車をもつ家の多い現在の木頭村を考えると夢のような話である。
5 霧越につたわる話
 1  峠の茶屋
 明治、大正の頃、霧越峠には2軒の茶屋があった。1軒は中野屋といい、他の1軒は新田屋といった。新田屋の茶店ばあさんは、なかなかの働き者で、茶屋を経営しながら、こつこつと小銭を貯わえた。金がたまると山を買い植林をし、ついに莫大な私財をつくった。茶店ばあさんの細腕で木頭村では指折りの財産をつくりあげたのである。そのためか、今でも木頭村の人々は、若いなまけ者をいましめる教訓として「ニータ(新田)のばあさんの、つめのあかでもせんじてのましてやれ」という話がある。
 2  酒のみ北岡じいさん
 馬子の北岡じいさんは、酒がなによりの好物で年中酔っぱらっていた。ある日、峠でひと休みしてつい深酒となり、とうとう眠ってしまった。馬はじいさんを、いつものようにゆりうごかして起こそうとしたが、どうしても目をさまさないので、馬だけ先に家にかえった。またある日、米俵をつんで峠を越していたが、あるきながら酒をのんで、うとうとしはじめた。他の馬が俵の米を食べはじめたが気がつかず、海川についた時は米俵はぬけがらとなっていた。北岡のじいさんは、のんきな馬引きじいさんとして有名であったといわれる。
(霧越にまつわる伝承については、とくに興味をもって調査したが、その資料が少なかった。今後更に調査したく考えている)

 二 上海川部落
 海南町皆瀬より霧越をこえて最初にたどりつく村が上海川部落である。この村は現在那賀郡上那賀町に属しているが、昭和25年以前は海部郡木頭村上海川であった。この村は、かつて霧越の道が海部と木頭をむすぶ重要な路線であった時代は、木頭村の玄関として栄えたところである。
 しかし、この村は霧越線の利用がとだえはじめた昭和のはじめ頃より次第にかげをひそめ、今はもう、昔のおもかげをみることができない。平谷から出原に通ずる国道195号線の開通によって海川部落は閑村に逆転したのである。このように道の変化によって変容する上海川部落の姿をしらべてみた。

1 上海川部落のなりたち(民族学的考察)
 平家部落と自称する上海川は、現在25戸、105人の人が住んでいる。住民のほとんどが山林労務と農業に従事している。25戸の部落構成をみると、はっきり4つの地(じ)からなっていることがわかる。地とは同族集合体のことで株とか、屋敷ともいう。上の略図に示したように、海川谷をなかにして西岸に夏伐地5戸と日裏地6戸があり、東岸に大西地5戸と株田地9戸が小集落を形成している。同じ地に住む同じ氏の中で支配的役割をもつ者がいたことは、マントコ(政所)という地名がのこっていることより推測される。しかしマントコの権威は現在はほとんどみられない。
 同族集合体の精神的統一は各地にまつっているオンザキサン(御先さん)によってなされてきた。オンザキサンとは、大先祖さま、草分のことである。上海川部落は昔の4人の落武者によって開拓されたと伝えられている。その人は大西右近、夏伐名手介、株田権之亟、日裏弥十郎である。この4人を各地のオザキサンとして祀っている。しかし、この草分については歴史的に考証をするだけの資料は残っておらない。ある人の口伝によると「新田氏の一族が南北朝の頃に上海川に落ちてきてこの地に住みつき、その後、大西、夏伐、株田、日裏の4氏が戦乱をのがれて海川谷にきたところ、川上から野菜が流れてきたので、上流に入が住んでいることがわかり、さらに谷をのぼると、老人と娘が山小屋に住んでいた。心のすさんでいた4人の落武者はたちどころに老人と娘を斬り殺してしまった。その後、海川谷の淵に娘の首があらわれ、どうしても下流に流れていかないので新田神社を祀り2人の霊をなぐさめたという」新田神社は上海川部落より約500米の上に祀ってあったが、その後、海川の八幡神社に合祭した。ところが、翌年悪病が発生したので日裏地の丘上に新しく神社を建てて祀ったといわれている。
 以上の口伝を時代史的に考えると平家の落人説は全然なりたたないが、木頭村の人々には蝉谷(せぶたに)部落と上海川部落は平家の落人が開拓した部落であると信じている人が多い。大西、夏伐、株田、日裏の4氏は、むしろ戦国時代の落武者ではあるまいか。大西地の畠の中から、天正時代のものと考えられる五輪塔の一部が発見されたり、田地の底から、戦国時代に使用したと思われる。鉄鏃が出土していることなどから考えて室町から戦国時代にかけて、この地を開拓したものと推測される。
 藩政時代のことについては、この時代を知るための古文書が残っていないので史実をのべることができない。
 上海川村が活気をていしたのは、明治、大正の頃である。この時代は皆瀬と海川間の往来がいちばんはげしかったときで、その繁栄は海南町皆瀬部落と時を同じくしている。当時は、追谷口旅館をはじめ三村旅館などは旅人でにぎわったといわれる。長い間海川谷でほそぼそと農業や林業をいとなんでいた村人のなかには、この頃になって茶店や旅館を開いたり、中持(運送業)や馬子を専業とする人ができていた。しかし昭和にはいり車道の開通によって霧越線の人どおりもとだえ、旅館の経営は困難となり、商業や運搬業をやっていた人々の多くは他郡市へ転出していった。こうして、昭和10年頃には、またもとのさびしい上海川村にかえったのである。このように上海川村は、霧越の道と盛衰をともにしてきたのである。
 現在上海川村の人々の生活は農林業によって支えているが、全般的にみて経済的には貧しい。それでありながら従来からの派手な生活習慣が残っていて隣村よりも消費指数が高い。こうした問題を打解し今後どのような村づくりをすべきかについて村の有志たちは心を痛めている。


2 特異な人口構成
 上海川村を歩いて特に感じることは老人の少ないことである。そこで海川支所をたずねて年令別人口を調査したところ次のような結果がでた。
 20歳から30歳までの人口が、極度に少ないのは出稼に出ているためであり、この村にも過疎現象がはっきりとみられる。5歳未満の幼児が少ないのは、近年産児制限が徹底していることを意味するものである。この2点は、現代的傾向と思われるが、70歳以上の老人が全体の約4%しかないことは老人人口が増加している今日、特異な現象であると思われる。そしてまた、男子の長寿者が極端に少ないことも注目すべきことである。
 上海川部落の古い習慣が近年急に消滅しつつあるのも、その一つの原因は老人の少ないことによるのではなかろうか。しかし、こうしたなかにおいてただ1人、武内チトノさん(85歳)(武内氏は、大正時代に他村から上海川に転入し日裏地に住居している)は、現在なお健在で機(はた)をおりつづけている。くず糸で帯地を織るのが得意で、昔ながらの機を器用にあやつってたのしく老後をすごしている。おそらく県下で機織をつづけているのは、武内チトノさんだけではあるまいか。

3 土地の神々
 新田神社は県下で22か所確認されている(金沢治先生調査)が美馬郡一字村周辺に多く、那賀川上流では、平谷と上海川の2か所だけである。上海川の新田神社の由来については、先にのべたとおりで、現在、日裏地の丘上に立派な鳥居をつくりお宮を祀っている。この新田神社は、4つの地のオンザキサン以前の神として上海川全体の氏神となっている。
 大西右近、夏伐名手介、株田権之亟、日裏弥十郎を祀る4つのオンザキサンは、それぞれの地のはずれに祀ってある。オンザキサンの大きさは高さ約30センチメートルで木製の本宮さんづくりとなっている。

オンザキサンは旧3月15日が祭日である。当屋は祭日の前日にオンザキサンの周辺を掃除しのぼりを立てる。(現在のぼりを立てているのは株田地だけである)そして当日は仕事を休み当屋の家に酒やサカナを持ちよって株内の親睦をはかる。戦前までは、4つの株地ともになかなか盛んであったが、近年は個々ばらばらとなり次第に古い習慣は消えつつある。
 同じ落人部落といわれる蝉谷においては、大オンザキサンと小オンザキサンを祀っている。小オンザキサンとは、オンザキサンのつれあい(妻)のことでおりかけ宮形式のものを祀っている。
 このようなおりかけ宮(小オンザキサン)が上海川村にもあったものと思われるが現在はその跡が全然のこっていない。
 日裏地の日裏武治さんの家の前に、高さ1米余の(台石を含む)地神さんを祀ってある。台石には、明治16年末2月吉日、氏子中と刻まれている。その前に古い手水鉢が(石材)あり安政2年卯年と刻んである。この五角柱の地神(じじん)さんは、天照大神、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命、埴安姫命、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の神名が刻まれ、山村にしては珍しく立派な地神さんである。お祭は、春秋の社日の日で、当屋は前日に四隅に笹を立て注連縄をはりおかがみと神酒を供える。
 大西地の畠の中に庚申塔がある。庚申像は大きな板石で3面をかこったほこらの中にあり2体の青面金剛像と、その下に2匹の猿をきざんだものである。ほこらの人口には、さる石(穴のあいた石)をたくさん糸でつりあげてあり、現在もなお参詣人の多いことがうかがわれる。
 庚申塔の右の1体には、天保6年末、世話人講中と記されており、他の1体は、石刻がまめつして年代は不明である。庚申供養塔は60年ごとに建てることになっているので、安永4年末につくられたものであろうと思われる。また、庚申塔は道祖神として信仰された例もあるが、大西地の庚申塔が旧霧越道の道祖神であったかどうかは、不明である。

4 隠居制
 上海川においても隠居制の風習がのこっている。しかしこれは、剣山周辺の祖谷山や木頭山分にみられる隠居制とあまり変わるものでない。長男が嫁をもらうと、年寄は家をゆずって別棟生活をする。隠居屋は、主家(母屋)と同一屋敷内に2間程度の平屋建の家をたてるのが普通である。しかし、これは家庭経済の状況によっていくらか異なっている。隠居するということは、戸主が村の公生活に関する家の代表者の地位から退くことであるが、事実は、まちまちで別居しても強い発言力をもっている年寄もあり、また、財産の割譲についても、別財隠居と同財隠居がある。このような隠居制は、とくに四国、九州の離島や山間僻地に多くみられる。住居の建築様式については、那賀奥特有のソギ葺、杉皮葺の上に川原石をおいた屋根が昭和20年代までみられたが、近年の建築ブームによってほとんど、トタン、スレート、本瓦葺にかわっている。内部の間取りについても古い形式のものはみられない。しかしただ一つ上海川の家に入って感じることは、仏壇の戸が特異なことである。それは、みた目にはかんのんびらきの形式になっておりながら実際は引き戸になっており、そして、どんな新築の家でも古い仏壇の戸をはめこんでいることである。新しい建具の中で黒びかりのする古めかしい仏壇がたいへん印象的である。

 

5 子どものあそび
 海川地方の子供たちの夏の遊びは、海川谷でジンゾクをとることであり、冬の遊びは、イチゴをついて、その甘い汁をなめることであると、ある人が教えてくれた。この遊びは小粒の冬イチゴをとって竹の筒のなかにいれ、こうぞの木を心棒にして、つき鉄砲のようにつくのである。これは即席イチゴジュースともいうべきもので山の子どもらしい遊びである。村の子どもたちは、これを「たけずつ」と呼んでおり、古くからこの村につたわる遊びである。


6 む す び
 きりごえの道は、塩の道として古くから開かれ、長年の間山の人と海の人の生活をむすぶ道として大きな役割を果たしてきた。とくにこの道が交易の要路として人々に利用されたのは藩政の末期から明治、大正にかけての時代であった。その間、上海川村は木頭地方の玄関として多くの旅人にしたしまれ、きりごえの交通量は上海川の繁栄に直結していたほどである。とくに人や物の往来のはげしかった明治末期には、大きな旅館がたち茶屋がのきをつらねていた。しかしこのような宿場町風景は現在どこにも残っていない。かつては平家部落といわれ、氏俗資料の宝庫とみられていた上海川村の変容ははげしく、古い風俗習慣はほとんど消滅している。むしろこの村の古い姿を知るためには蝉谷部落をたずねる方がよいと思うほどである。一本の道の盛衰がいかに村の様相をかえるものであるかを海川村は、よく物語っている。上海川村は、昭和43年に新霧越林道(車道)が開通して更に大きくかわろうとしている。今でこそ車で霧越をこす者は少ないが、将来、霧越線は、室戸阿南海岸国定公園と剣山国定公園を結ぶレジャーコースとして、ドライブ客の増加が予想される。このような時代においてこそ、海川谷に秘められた有形無形の文化財の価値があらためてみなおされるのである。目先の利益のみに走り、谷川にしげるかえでの木をチップ材としてきり出すようなことはやめてほしいものである。最近わが国の工業化の進展は目をみはるものがあるが、それだけに、緑したたる渓谷の美と幽すいな山村風景はみんなの手で守らなければならないと思うのである。


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