阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第16号
【史料紹介】木頭林業史の諸問題

農村史研究班 三好昭一郎

 序
 広大な杉の美林、豊かな森林資源にめぐまれた木頭村は、いまや山林ブームのまっただなかにある。この木頭村の中心が出原、和無田の商店街であり、ここに村役場、郵便局、小・中学校、村立木頭病院などが集中して、木頭村の心臓部を形成している。さらに商店街を見ると、衣料品、カメラ、電気器具、旅館が軒をつらね、パチンコ屋からバーまであって、村内の人口も、ここに次第に移り住み、都市化の進行は極めて急速で、山奥の小都市という景観をもち、このような小さな町の専門店が、可成り繁盛しているという事実のなかに、伐採ブームがもたらす村人たちの生活様式の変化と、近代化傾向の著るしさを典型的に示している。
 そのような激変する林業地帯としての木頭村は、各方面から注目されるとことなり、学界からも学術調査の対象となったのは、意外に早く、つぎのような学問上の成果がすでに利行されている。
 まず京都大学人文科学研究所と林業問題研究会の共同研究「林業地帯」が昭和35年に、林業金融調査会によって「林業金融基礎調査報告(34)―徳徳県那賀郡木頭村」が同32年、崎山耕作「徳徳県那賀川流域における林業経営の展開―横井家の事例から」が同年の大阪市立大学研究所の『研究と資料』で報告され、林野庁は「山村人口および就業構造に関する調査―徳島県那賀郡木頭林業地帯」を同37年に、また同庁は「林業技術論―実態編―木頭林業」を同39年にさらに村当局でも、昭和36年に「木頭村誌」を、また同40年に「木頭村林業構造改善基礎調査報告書」が九州大学林政学教室の手によって刊行され、これを基礎に「木頭村林業構造改善事業計画書」も同42年に作成され、いずれも木頭村の調査・研究にとって不可欠の文献となっている。そのうえ最新のものとしては「木頭林業の発展と日野家の林業経営」が、京都大学林学教室のスタッフによって刊行され、有力な研究書が提供されている。
 そのように各方面の研究者にとって、魅力の尽きない木頭村は、いまや2つの顔をもった巨大な地域である。まずブームの影響をうけて、住民の就業構造の急変と、それに伴う村落の社会構造の変貌である。
 本稿では、幕藩体制下における林業地帯形成過程を概観し、さらに現代史の問題におよんでみたいと思う。木頭村に入って、その史料調査を体験した人ならば、だれしも感じることであろうが、その研究の興味は、まさに底なし沼のような、ズルズルと深みに吸い込まれていき、あれも書きたい、これも書きたいで、留まるところがない。調査対象を恣意的に近世に限定しようとした私もやはり現代史に論及せずにはいられないジシンマを感じつつ、祖雑な論稿を意図しているのだから、木頭村は、そのような意味でも史料の豊庫であることを痛感する。

 第1章 近世木頭林業の展開過程
I 近世木頭林業の経済的背景
 那賀川上流域の、広大な山林地帯を木頭林業地帯と称し、那賀川下流域の米作地帯とは全く異質な地理的、社会経済的地域としてよく知られている。
 この地域は、いまでこそ豊かな林業地帯として脚光を浴びているが、徳島藩政下の木頭山は、後出の史料にも明らかなように、藩の直轄林野すなわち「御林」であり、この地の農民は、豊かな資源をもった林野を横目に見ながら、きわめて狭少な那賀川および支流の河岸段丘に展開する、わずかの田畑に、しがみつくようにして農業経営を維持していたにしかすぎない。
 木頭山に藩権力がおよぶようになったのは、おそらく慶長11年(1606)において、蜂須賀蓬庵名による木頭山に対する「定」が触れられ、全山が藩の御林として編入されたときからのことと考えて、大きい間違いはなかろう。
 当時に木頭山の検地も行われたものと思われるが、いま残っている最古の検地帳は、寛永5年(1628)のものであり、まずその検地帳によって、寛永期における木頭山の生産状況を集計したのが第1表である。
 この表によると、当時の土地利用状況は、田、畑、伐採、茶園、うるし、かじと6種類に分れ、田は全山で35町4反4畝13歩に対し、石高は298石7斗2升1合で、反当8斗5升、畑については反当3斗4升、伐畑のごときは、反当わずか7升という、ひどい低生産力を示している。
 古老の話によると、近世木頭村では、田、畑、茶園などは貢租を負担すれば、もう農民の手元には、何にも残らず、農民は、わずかに藩から期限付きで耕作権が認められていた伐畑だけが、農民の生活を支える蕎麦、小豆、ひえ、黍などを生産する場であったといわれている。山村で林野を所有できない農民のきびしい生活を、典型的に示している。
 つぎに、その低生産性は、第2表に示すように、その矩揃(石盛)によっても窺い知ることができる。すなわち上々田の場合、正徳4年(1714)の板野郡三俣村(現鳴門市)が2石2斗、元禄13年(1700)の那賀郡荒田野村(現阿南市)が2石3斗であるのと比較すると木頭村の農業生産力が如何に劣悪であるかが、一目で実証できる。
 しかも、木頭村は林野面積の広大さに比して、田畑の開発は、ほとんど不可能であっただけに、林業以外に木頭農民の生きる道はなかったことになる。
 そのような苦境は、藩政期を通じてたびたび農民たちの年貢減免要求となり、飢餓米・銀借用の願いとなって展開されており、この種の史料に事欠かないことも、この村の特色であったといえよう。
 以上のような木頭村の経済構造に規定されて、その村落構造を探ってみても近世農村成立のメルクマールとしての「小農自立」の展開は、平地部農村にくらべて、ひじょうにおくれ、家父長制的大家族の残存が、下人数の多いことからも類推できる。
 第3表によれば、その間の事情は−応把握できるであろう。

II 藩の林野経営
 徳島藩の林野制度は、広大な藩有林の経営を軸として展開された。藩有林は一般に御留山といわれ、藩の最高権力機関である御仕置のもとに、御林奉行、御林目付、御林制道役、林方奉行、林方検見役、受払役、御林番などの諸役人によって管理され、さらに藩有林のうち、稼山(渡世山、■山ともいう)といい木材・薪炭材の採取権を百姓または商人に与える山林については、山番を置いて取締るなど、複雑多岐な支配体制が維持されていた。
 藩の御林(藩有林)経営に関する政策基調は、すでに慶長11年6月22日、蜂須賀蓬庵名で達せられた、つぎの触書によって貫徹された。

【史料】 定(1)
 一 当谷中之儀自今以後堅令制道急度可林置候万一無沙汰に仕竹於無之者其屋敷主並隣
 端之者共可令成敗事
 一 他郷より鹿ねらい来者自今以後堅令停止之条一人も不可入候若致許容者有之令成敗
 事
 一 山に火をつくる儀自今以後停止事
 一 不及聞候へ共百姓等口論於仕者縦雖為少之儀先申懸方可令成敗事
 一 縦代官とても竹林伐取儀停止候事
 右五箇条常々守此旨可致其覚悟者也
  慶長十一卯月廿二日 蓬庵
これは、広大な木頭地方に対して蜂須賀蓬庵の名で出された定で、まず木頭山全域を御林すなわち藩有林とすることを明らかにし、管理経営を厳重にするため、狩猟を禁止し、火の用心を命じ、農民に対して与えられる採草権などについても、争いを起さないこと。さらに代官といえども山林の竹木を採取してはならないとしている。
 この定を基礎として、実際に山林の管理に当ったのが御林番人である。寛文元年( )の史料によると、御鉄砲の者のうちから適材を見定め、御林奉行によって任命されることになっていたことがわかる。また木頭山は、広大であり、さらに第1節で紹介したように、田が35町4反4畝13歩、畠が28町6反1畝24歩、合計しても64町6畝7歩しかなく、極端に狭少な耕地しかないため、農民が自己の生活資料を得る場として、期限付きで藩から耕作権を得ている伐畑の存在は、農民にとって死活問題となっていただけに、伐畑の管理、しかも稼山の管理におよぶ複雑多岐な職掌を持たされていた。

【史料】 寛文元丑年(2)
 一 所々御林番人之儀奉行共見及無所存之族おゐては、奉行共心次第ニ自今以後可申付
 候、番人明所ニて鉄砲之者より替人出申候共、奉行共見計山番難仕者ニ候ハハ、断申請取申間敷候、此段鉄砲頭月番林孫太夫・加番太田庄右衛門ニ申渡候、番能仕年罷寄当分山番難調者ハ伜ニ名代をも可申付候、仕置所へ案内申候ハハ年相応之御番をも可申付候、
 右之通酒部内膳・稲田四郎左衛門を以被仰出、青山太郎五郎・小里治助両人ニ申渡ス

さらに御林番の上部機構として、木頭代官所が設けられ、木材の流通、那賀川口の木挽座の支配に及ぶ広範な職務内容を持っていた。
 それでは、つぎに御林と農民の関係は、どのようになっていたかについて眺めてみよう。承応3年(  )の史料によると、藩政初頭においては、木材の伐採は厳重に禁止されていたが、この期になると、条件によっては、農民に伐採を認めていることがわかる。
 木頭山では、桧・杉の立木は御留木となっていたが、長川筋の売人に限っては、一部その伐採を認めていた。それに対して、木頭山以外の海部郡山分でも同種の許可を要求して藩に訴訟をおこしている。仕置の賀島主水は、それを許可し、木頭売人と同じに扱うように命じている。その史料は、つぎの通りであるが、これは、木材の商品化が急速にすすんできたことの証拠となろう。

【史料】 覚(3)
於木頭山海部郡百姓共諸材木仕儀桧杉之立木大小共に伐こなし候事停止之旨前方之雖書付在之長川筋売人には従先年杉桧之立木ほさ料に成程之木就御赦免従海部重而御訴訟申候はゝ木頭山入相に被仰付上は長川筋伐出し申程之立木海部表茂同前に被仰付様に申付其趣主水殿御聞届於会所以相談右訴訟之通申付条可被得其意為後日如是候以上
 承応三年七月廿七日 数川源兵衛
   馬詰半兵衛
  平瀬甚兵衛殿
  若山小左衛門殿
  今枝与三兵衛殿

 そのように、藩政初頭における御林経営の基調は、城下町の発展、領国市場の確立を背景として、このころから変化を遂げていくものと考えられる。以下において木頭林業の展開される当初の状況を、藩の稼山、那賀川口木挽座に対する政策を紹介しよう。

III 稼山制度の素描
 稼山は、民間に山林の伐採権を与え、その経営を藩によって認められたものである。そのため■札を交付して、御留木の伐採を禁ずるが、他の原木の伐採と搬出権は民間に移す。それに対して藩は運上銀の収益をあげることができるので、藩有林野の相当部分は稼山となっていた。
 木頭村の場合には、村内農民には、ほとんど経済力が乏しかったため、主として那賀川下流域の中島、富岡などの製材業者が、稼山の権益を得ていた。
 天明8年(1788)の徳島藩の歳入見積書をみると、その歳入予定額2720貫700匁のうち、林方徳用銀150貫および林方運上銀84貫750匁の計234貫750匁となっており、その大半が稼山からの収入見積であろうと考えられる。そのように、稼山は、藩財政にとっても、ひじょうに重要な収入源であったことがわかる。以下に当該史料を紹介しておこう。

【史料】 覚(4)
 従木頭山商人仕出材木長三尺ニ不足之木年来来召上趣此度立御耳ニ候処自今以後者三尺
 ニ不足之木も商人可仕出様并中島分壱取極之儀是又達御耳候処有来通ニ可被召上之由被
  仰出候条得其意候也
  明暦四年七月十七日 山田豊前
   古屋七右衛門殿
   本庄兵右衛門殿
   今枝与三兵衛殿

【史料】 覚(5)
諸商人仕出杉障子板四尺五寸以上之板は押置御作事奉行方へ可被申越吟味之上相応之以直段可被召上也四尺五寸より以下之板之儀は相定以分壱通可被申為其如此也
 万治三年五月廿七日 賀島主水
  古屋七右衛門殿
  本庄兵右衛門殿
  今枝与三兵衛殿
右同文言年号月日同笹田徳兵衛方へも遣之

【史料】 覚(6)
一 浅木材木は五分壱被召上事
一 松栂弐間半之角木是又五分壱被召上事
一 杉桧槙は四分壱被召上事
一 木頭野山分之槻材木於仕出者拾本之内四本被召上事
一 於中島三歩之口銭御赦免被成事
右之通去年被仰出条被得其意従当正月如御定分壱取立可被申也依之如件
 寛文拾年正月八日 山田豊前
  村上与次右衛門殿
  守屋善五兵衛殿
  木内孫左衛門殿

【史料】 覚(7)
一 栢楠桐は四分壱被召上事
一 朴橡桑は五分壱被召上事
一 槻は拾本付五本被召上事
一 三分之口銭被成御赦免事
右之通被仰出之条被得其意従当正月如御定分壱取立可被申為其如件
 寛文拾弐年九月八日 賀島主水
  河野孫兵衛殿

【史料】 覚(8)
一 於長川筋諸売人仕出松・桧・槙・黄桧・楠此類何躰ニ雖仕出五分壱可被召上事
  (中略)
一 材木大坂へ指登問屋仕切以直段分壱被召上儀右同然之事
  (中略)
右之趣堅相守可申付旨依為仰出如件
 寛文拾一年九月十八日 山田豊前
  加島主水
 坂田徳兵衛殿
 守屋善五兵衛殿
 木内孫左衛門殿

【史料】 覚(9)
一 中島富岡挽座私共より奉願候聊右願之通被為仰付候得共私共当町材木等仕入有入ニ付挽座ヘ罷出申儀難相調御座候折節各下裁判御望被成候ニ付右挽座当申より来ル午迄丸拾ケ年之間下裁判相願申処相違無之候然上ハ有来ル御制道方稠敷御守可有之候尤木頭邨より相下り申筏材木之義市売買之砌三歩引尚亦入札市売材木直段下直ニ而此方より売不申候ヘハ私共より勝手次第ニ郷中地売仕筈若出水之砌材木散乱之節挽座之各御制道郷中へ御出之砌手飯米ニ而御納可被成尚此後請年数之間挽座之各致一統木頭材木直段妨申か又ハ下行着之義有之候得は右挽座私共方へ取上ケ申筈万一不埓之者有之挽座之取上候ヘハ相残挽座之者御運上銀札割合ヲ以無滞上納皆済仕筈右之通相極挽座下裁判相渡し申処相違無御座候依而一札如件以上
  明和元年申十一月 木頭上山邨総代
    紋右衛門
    惣次郎
    清 助
    紋次郎
    長右衛門
   赤池邨弥三八殿
   同 源 蔵殿
   中島浦茂三右衛門殿
   同 久次郎殿
   富岡町善兵衛殿
   同 勢 八殿
   同 伊兵衛殿
   同 伊左衛門殿

【史料】 定(10)
一 南方長川筋山川中島川口分一之事寛永五年分銀子百五貫ニ申付候此銀無懈怠壱年切ニ可指上候分一万事之儀如先規可令沙汰候
 右定置処如件
  寛永五年正月十三日

【史料】 市中ニ而榑木箸払江問屋於被仰付者改様之覚(11)
一 榑木箸御国中請所山より仕出陸ニ而持出申分者其預り御番人衆より木頭寸尺箸之儀者何百膳何拾把何山より何右衛門仕出旨手形ニ問屋当処ニ而送相添持参之筈其節兼而御渡置被成扣印と手形引合於相違無之ハ問屋木印 山鳥 於如斯入、勝手次第ニ売遣申筈、付箸之儀ハ木印難当ニ付問屋方より手形出売遣可申候、但上方より御当地八百屋へ取寄申丸角書院箸ハ可為各別事
一 海部中島又者他国より船ニ而御当地へ積廻ル分ハ其船頭方より手形相添私方へ案内仕右手形見届右同前ニ売遣可申事
一 市中并御山下郷町ニ而仕リ申榑木箸共問屋方へ案内仕若直々売ニ仕問屋改木印或書替手形無之分商売仕又ニ市中郷町ニ於有之ハ見付次第ニ其町年寄方ヘ申届押置其趣御手崎様ヘ御注進可申上事
一 此度榑木箸問屋改ニ被仰付上者猥ニ商売不仕様ニ随分制道可仕候尤右御極之通本手形無之分ニ相対を以猥ニ改仕間敷事
 右之通町奉行様より御尋ニ付私望之趣紙面を以申上候弥問屋ニ於被仰付者御請仕御極候通相守問屋口銭之儀者有来通売高百目ニ付三匁究取相勤可申候以上
    新町船場島屋
     多兵衛
  卯三月廿八日
   久米六郎兵衛様
   平尾豊之丞様
   山田権兵衛様
 樽木箸問屋市中島屋多兵衛望之旨申出ニ付改様之儀右通相極申候問屋改無之榑木箸
 所持仕遣於申ハ問屋方より注進次第ニ遂吟味申筈ニ御座候条郷町之者共得其意様ニ
 可被仰触候以上
  卯三月廿八日 久米六郎兵衛
   平尾豊之丞
   山川権兵衛
   折下角左衛門見印有
   西尾夷則殿
   佐渡半兵衛殿
   寺沢刑馬殿
 右之通木頭御奉行より申候条山下郷町商売人共へ逸々可相触候以上
 卯四月朔日 佐渡半兵衛
   西尾夷則
   寺沢刑馬
   西名東村与頭庄屋
    与兵衛方へ
  元禄拾弐卯年三月廿八日

【史料】 寛政十一年御高物成品々帳(12)
木頭上山分
 高498石3453
  内引高 12石1786
  残高 486石1667
 杉小桁 4240挺 棒役84人8歩の御殿役桁1人に付年中50挺宛
 惣物成合 208石939
  延米 41石7878
  元延合 250石7268
  内 9石6145 茶にて引
 米残而 241石1123
  外米 16石62333
  2口合 257石78563

第2章 現代木頭林業の諸問題
 木頭村の豊かな森林資源は、全国的にも有数の林業地帯として注目されるところであるが、しかし林業地帯として、資本制の下で大きく成長したのは、むしろ最近のことに属する。その状況を昭和元年から同38年までの間について、原木伐採量の推移状況によって示したものが第1表である。この表によると、昭和元年の生産指数を100として、同26年が910、この期間に9倍という驚くべき増加を見ることができる。
 昭和26年は、朝鮮戦争がおこって2年目に当っており、戦後における日本資本主義が、朝鮮特需ブームを背景として、ようやく復興期を迎えた段階に当っており、木頭村にとっても、多量の原木需要によって、伐採量が急速に伸びて、画期的段階に入ったものであるが、その後、日本経済の高度成長に照応して、伐採量もますます急上昇の時期に差しかかる。第1表でもわかるように、木頭林業地帯が、ほんとうに注目されるようになったのは、朝鮮戦争以後のことである。
 前章にもふれたように、徳島藩政下の近世木頭村では、広大な山林の大半は御林によって占められていた。寛永5年(1628)の検地帳でも、当時の木頭村における農民の土地保有面積が、一筆ごとに記載されている。その土地利用状況、各反高および石高は第2表のとおりである。
 第2表のうち、伐畑として44町余、33石余が記録されている。この伐畑は、農民に耕作権が認められた唯一の山林であったが、これは那賀川流域の河岸段丘の狭少な田畑、すなわち田35町余、畑29町の本田畑が、主として藩による年貢米徴収の対象となっていたので、202戸におよぶ農民は、本田畑の耕作だけでは生活が成りたたないので、藩から伐畑の耕作権を許され、焼畑農業によって、粟稗、小豆などを僅かに栽培し、自家用として消費する食糧を生産する場であった。藩は、このような乏しい伐畑に対してさえ、33石余の年貢を賦課し、さらに屋敷内などに、僅かに植えられていたウルシ、カジ、茶などの作物にも、容赦なく租税を取りたてた。木頭農民にとって、目前に繁茂する無尽蔵の森林資源は、何の恩恵も与えてくれない存在でしかなかった。幕末の天保12〜3年(  )のつぎの史料は、山村にあって、山林を持たない農民の、当然の姿を余すところなく物語るものであろう。

【史料】
 一、銀札弐百四拾七匁壱分五厘(13)
 右者近年打続凶年米麦高値ニ付作方仕時飯料等ニ行当リ難渋之場合産物御趣法御元入銀拝借仕相凌難有仕合奉存候然処右拝借銀之内材木仕成売入共ヘ振替相成候残銀右之通売人外村中之者共拝借仕処実正ニ御座候然上ハ御定通六ケ月無利足其余一ケ月一分二厘之利足相扣返上可仕候、就ては村中出来之茶太布麻苧其余杉材木御趣法ヘ相仕出時々通ヲ以送込可申候右之趣相違無御座候ニ付御役人承知仰ヲ以書付指上申候後日ニ違乱無御座候依て書物如件
 海部郡木頭上山村西宇村
   百姓惣代甚太郎代 安 蔵
   〃 吉 蔵
  天保十二年丑七月 甚 次 郎
   紋三郎
   長 六
 植原権太兵衛殿
 湯浅 重次郎殿
 田淵 弥十郎殿
前段之通打続凶年ニ付当村中困窮ニ相及候者共諸出来物書入銀札弐百四拾七匁壱分五厘拝借仕当村村中小百姓困窮人共至迄夫々備付当作儀申付等丈夫致させ候上ハ村中相生し儀役人より指留出来之節御趣法方へ通付ヲ以送込可申候仍私奥書仕指上申処相違無御座候 以上
   同村庄屋 長右衛門
 天保十二年丑七月
  植原権太兵衛殿
  湯浅 重次郎殿
  田淵弥十郎殿

【史料】 乍恐奉申上覚(14)
 木頭上山村百姓近年打続凶年ニ付困窮仕渡世難渋罷成那賀郡石塚村与頭庄屋田淵弥十郎より御趣法銀御貸付之旨段々御趣法の御運被申聞当村之百姓共御趣法銀拝借仕材木其余御産物仕御年貢御上納銀等上納皆済候者も御座候懸り御座候、然処此度御趣法銀貸付帳面ヲ以返上之義被仰渡候ハ諸産物下込候上残金等ニ相成候得ハ村役人共取都メ返上仕候様并ニ無家眼之者ヘハ御趣法銀も貸付相調不申御旨等被仰渡奉畏候然処五六ケ年以前より右同郡大久保村常蔵方より質物書等仕セ貸付仕居申候処其後田淵弥十郎へ引移リ右同人より質物書等調も不仕無家督ニ而何之引当も無御座候者共へも多分貸付御座候、右ニ付ニ者諸産物下込候上残金相成候而も前段奉申上通無家督之儀御座候得ハ諸産物之外何を以取立返上仕儀相調不申候仍而乍恐右之段書付ヲ以奉申上候 以上
 天保十三年七月
  上山村庄屋 藤井治部衛門
   田中 虎之丞
    長右衛門
    亀 蔵
   野口太一兵衛
     兵次郎
     太郎左衛門
     牛 吉
     次郎右衛門
  山田兵衛殿
  牧藤兼平殿
 また、木頭農民たちは、そのような苦境を打開するため、藩に対して伐畑を要求してやまない、ねばり強い戦いを展開し、宝永5年(1798)の「伐畑検地」によると、139町余に拡大され、その石高は33石4斗と、寛永検地帳と変化がなく、寛永・宝永の両期の検地帳を比較して、僅かながら、農民の伐畑の増加と生活の向上とが認められはするものの、木頭村には、広大な山林はあっても、木頭農民にとっては無縁の存在であった。それが、藩政期における木頭農民の置かれていた立場であった。
 さて、徳島県には国有林がひじょうに少ない。これはどうしたことであろうか。すなわち明治3年(  )に、明治政府は、諸藩に対して、藩有林の国有林編入を軸とする林政改革を断行したが、徳島藩では、その前年に、藩の大参事井上高格は、藩政期に累積していた藩債整理の一環として、藩有林の民間への払い下げを完了している。これは恐らく翌年の明治政府による林政改革を見越して断行された、老かいな先行政策であったのであろうが、その払い下げ価格についても、また方法についても詳細は不明であるのは残念だが、ただ明らかなことは、喉から手の出るほど山林を欲した木頭農民の大半は、山林所有者になるだけの経済的余力がなかったこと、そのため僅かな部落共有の入会地として藩有林をうけついたほかは、庄屋として、村内で可成りな経済力をもっていた岡田家や、取山=稼山として、藩政期から藩によって、木材の伐採権が認められ、藩の運上銀を納めていた那賀川下流域の木材業者が、広大な山林の所有権を得ることになった。
 明治維新に伴う林政改革と、藩有林解放という好条件があったにもかかわらず、豊かな森林資源が、なかなか開発されなかったのは、木頭村が、交通不便な避地であり、伐採や運搬に多額の投資を必要としたからであることは当然であるが、村外から原木の豊庫として注目され、村外地主の所有率が急速に増加するのは昭和初期の不況期を経過した後のことである。その状況を紹介すると村外所有率が、明治36年(  )に12%、大正12年に38%、昭和8年(  )に54%、同25年(  )には62%となっている。
 このような、急速な村外資本の木頭山林への進出は、村内の小所有者が、木頭村民の貧困にあったことは論を俟たない。たとえば、伐採すれば、そのあとに造林を行うのは常識である。しかしそれができずに放置される。伐採しようにも樹木が十分に成育しないために、現金収入の道がない。そのような理由から買手さえつけば、安い価格で手放してしまう。そうでもして現金を得、さらに現金収入を得るために林業労務者として生計をたてようとする。
 「木頭の者は、田畑は売りませんね。食糧だけは自給しなければならんというんでしょうか?だから出原付近の田畑は、徳島市内なみの高値ですよ」とは一主婦の話してくれたことだが、どんなことがあっても、手放そうとしない田畑への執着は、苦るしかった藩政期からの木頭農民の伝統的観念だとすれば、山でうまい汁を吸ったことのなかったもうひとつの木頭村の農民の意識は、せっかくの宝庫を、村外業者による山林の集積を許してしまった点に認められる。
 いまでこそ木頭林業地帯は、木材の需要に応じきれないほど活況を呈し、労務者の不足に悩んでいるが、現下の伐木ブームも、いつまでつづくか大問題である。安い外材の大量輸入、木材に代るすぐれた化学的建材の大量進出などにつけ、どこまで対抗できるだろうか。前途は必ずしも楽感を許さない。ブームの去った後、木頭村が発展するカギは、林業労務者の問題であろう。「木頭は人が足りんのじゃ、人口も減りよりしません」というが、実際には、中学校や高等学校の新規学卒者は、ほとんど村外に流出し、村内の労動力は年ごとに老令化している。そのこと自体のなかに、過疎現象が大きく表現されている。伐木ブームの永続性に何の保証もない以上、いまのブームの後には、地すべり的な過疎化が待ちうけていることも予想しておく必要があろう。何はともあれ、深く豊かな山のなかにある木頭村で、木頭農民に山がないという現実、その矛盾のなかにこそ、木頭村の生きる道を追求しなくてはならない。
第1表 村内・多山林所有率推移

第2表 所有者別山林面積(昭和34年)

第3表 村内林家の階層別山林所有面積

第4表 総生産見通し

第5表 生産性向上の目標

第6表 経営規模別林家戸数の変化


 む す び
 いま木頭村には、解決を迫られている問題が山積している。何といっても、その最大のものは、村の巨大な森林資源の大半が、村外地主によって支配されていることから、村民の生活水準を伐木量の急速な伸びに併行して、向上させ得ていないことである。また最近のブームに伴う雇用関係のアンバランス、すなわち村内若年労動力の村外流出と、そのために生ずる労務者の老令化、さらに不足労働力が村外から入ってくる。これらはすべて学卒者の離村を主因として発生する深刻な現象であり、在村の中・高年農民を、現金収入の得やすい伐採夫として山にかりたてる結果、そうでなくても不足がちな農業生産力を、大きく低下させ、ようやく老人や主婦の労働によって経営される農業も、米作中心で、野菜すら栽培せず、裏作もしない農業経営は、とりもなおさず、極端なビタミン不足をきたし、若年性高血圧を生み出す社会的背景をなしている。また村全体が、そのようにして植民的経済体制に包含されている現状から、伝統的な山林特有の閉鎖的共同体意識が失われ、個人主義的な生活慣習と、郷党意識の裏返しともいえる貨幣万能主義的な孤立分散化が感得できる。そのことが当否は別としても、若い世代の目を都市指向的心情に追いやる風土病的悪弊であることに変りなかろう。
 木頭村といえば、一般には避地の山村で、三好郡の祖谷山地方と重なって、一種異質な平家部落の存在などの伝説を媒介として、ずい分的はずれなイメージを持たれている。しかし、祖谷山の場合は論外としても、現下の木頭村にはまったくそのようなイメージは、村の現実と重ならない。木頭村がこのように急変した歴史は遠くないだけに、今日の村の変革期は、一見して奇異の感を禁じえない。いま木頭村では、中世から、一挙に現代社会に飛躍したとさえ思われ、そこに村の苦悩も集約された形で提示される。

 注(1)「御大典記念阿波藩民政資料下巻」所収
 (2)「徳島藩法集」525P所収
 (3)前掲民政資料下巻1963P所収
 (4)「日本林制史資料徳島藩宇和島藩27〜8P所収
 (5)前掲書民政資料下巻1972〜3P所収
 (6)同書1971P所収
 (7)同書1972P所収
 (8)前掲村制史資料40P所収
 (9)同書239〜40P所収
 (10)「徳島県史料一巻」2P所収
 (11)前掲村制史資料140〜41P所収
 (12)「木頭村誌」所収史料
 (13)「徳島藩の百姓一揆(その1)」高校地歴第6号所収史料紹介
 (14)同史料集所収


徳島県立図書館