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1 はじめに
この調査のおこなわれたのは小見野々ダムが完成して陰平発電所が動き始めた翌年である。村の財政は1955年度の村民所得からみると林業依存度……55%(林業生産所得÷総生産所得)であり、実質的な山村である。また、村は高知市まで約70km、徳島市までは2倍ちかくの約120kmの距離に位置する僻地性を持っている。
ここでは人口学の立場から micro
的な考察をして、人口からみた木頭村の特性と、村外との関係について明らかにしたい。そこで村の入口変動について静態的な側面からは人口構造を、動態的な側面からは人口移動を中心としてみてゆくことにする。
資料は木頭村役場の各種統計、県統計課の県人口移動調査市町村集計表など1960年及び1965年国勢調査によった。
2 人口静態
a 人口からみた徳島県における木頭村
最初に本県の1955年から1965年までの10年間、この昭和30年代の人口変動をみると、図1によって、剣山を中心とする南北面斜面地域において人口の減少地域が広がっている。そして、この地域の例外として、人口の増加地域が木頭村である。(18.0%)また、本県で入口の増加地域は北島町(38.6%)松茂町(21.6%)徳島市(10.7%)のみである。木頭村の総人口は1955年が3,487人1965年が4,115人で628人だけ増加している。しかし、1964年には3,004人となって、反対に483人が減少したことになった。ダム工事による労働者の移動を差し引いても総人口の変動は大きく、次に村の人口について質的な側面をみる必要性が生れる。
徳島県は戦前から男子よりも女子の多い地減であるが、木頭村は“男のまち”と言われる様子が、図2から明確となった。特に、昭和30年代になると男子の数が多くなり、30年代後半になると女子100に対する男子の指数は125から130に一定してきている。
b 村の人口増減地域
1960年から1968年のあいだに総人口は903人の減少である。この8年間における村内の人口増減地域の分布形態を考察する。図3から各部落別によって人口増減の大きい地減をあげると、まず、61〜80%も減少している地域は、冬口、寺の内、中内、宇井の内、大城、平の各部落である。また、41〜60%の減少地域は、大久保、蝉谷、黒野田、日草、下毛番、久留名の各部落である。このうち、中内、宇井の内、平、蝉谷、日草などの部落は国道から遠く交通の便が悪い地域である。また、海抜高度600m以上にあり、傾斜の急な土地を利用して部落が存立してきた。しかし、現在では、これらの地域に新しい道路が通じても、部落の人々の日常生活は自給経済から貨幣経済に変っており、部落社会における人々の生がいが薄れてきた以上、部落の崩壊はまぬがれえないのであろう。一方、人口増加のあった地域は、海川口、陰井、九文名、出原、西宇、畦ケ野、折宇谷の各部落であり、いずれも国道に沿った位置に分布している。
c 村の年齢別人口構造
次に、図4によって年齢別による人口構造について考察する。一見して、最近の僻地性を持つ地域で15才〜64才までの生産年齢人口がこれほど多いのは特異な現象である。このうちで、25才〜39才の年齢層は極端に多く、続いて40才〜64才の年齢層も多くなっている。これに対して、15才〜24才の若い労働者が非常に少ないことが目立っている。1960年の統計から15才〜19才の年齢層が多いのは戦後のベビーブームによるものである。また、40〜50才代の特に男子が少ないのは戦争による影響を残している。そこでこの図は1965年の統計の上に5年間だけ時代をずらせて1960年の統計を重ねてみたものである。そうすると斜線で示した部分は5年間における人口増加になり、破線と実線にかこまれた白紙の部分は人口減少が表わされる。この図から、60才以上の高年齢層の減少は自然的な現象であると考えられる。次に、5年間における人口の社会的な現象をみる。1965年は1960年と比較して、ダム工事の労働者の流入も加わって生産年齢人口はなお一層増加している。また、20〜24才の年齢層も男女共に5年前の15〜19才の年代に比べて増加してきている。反対に、極端な減少を示したのは15〜19才の年齢層である。この男女共に約30%程の減少は明らかに新規学卒者の村外転出による変動である。
3 人口の動態
ここでは人口をある一定期間における変動としてとらえることにより人口の動態面を考察してみた。
a 自然増加と社会減少
まず人口変動の自然的な要因である出生と死亡についてみる。図5によって出生、死亡ともにまず安定した動きを示している。村は出生が死亡よりも多い“自然増”の地域である。そして、今後、この両者がどのような動きを示すかが注目される。三好郡東祖谷山村では1967年から死亡数が出生数を起える現象を示した。これは1つの社会問題の始まりを示すものである。次に役場に登録された転出、転入数によって社会的な変動をみると、ダム工事に関係した流入者の多かった1965年は例外として、一般的には、差は少数であっても転入数よりも転出数が多い“社会減”の現象がこの10年間の傾向である。したがって・木頭村の人口は社会減少を自然増加で補って一定数を維持してきたのが実態である。近年、徳島県全域の傾向として“社会減”が“自然増”を越える形態を示し、本県は人口の絶対的減少県となっている。木頭村においても1968年には“社会減”が“自然増”を越える現象が表われ本県の例外的な地減ではなくなった。
b 村の人口移動圏
まず、県内における村の関係地減をみるために1967年4月から1969年3月までの2年間における転出、転入数を市町村別に表わしたのが図6である。これを分析すると転出超過となる地域は2つに大別される。その1つは本県の都市部にあたる徳島市、阿南市、小松島市であり、これらの地域では村内へ転入する数の約3倍の人が村外へ転出している。特に徳島市とは関係が深く人口移動率も高く、木沢村、上那賀町の山村とともに徳島市の入口移動圏の特色とされている。もう1つは相生町、鷲敷町、羽の浦町の那賀川下流域に転出超過となっている。これらの地域とは林業、木材関係の職業に従事する人々が主となって交流が続いている。次に、転入超過となる地域は上那賀町を筆頭に木沢村、海南町など村をとりまく近隣町村である。また、行政区割や交通路が変遷したとはいえ、海南町、海部町、日和佐町と交流のあることも見のがすことはできない。
一方、県外との関係地域をみると図7に示されたとおり、ほとんどが転出超過になっている。移動量の多い地域は第1に村と県境を分ける高知県で転出、転入ともに多い。転入者は山林労務に従事する人が多く、転出者はその逆流する人と高知市に出る若年労働者も含まれる。京阪神地方との関係では高知県に次いで移動量の多い大阪府、兵庫県が中心になっている。その他、香川県、愛媛県、そして東京都ともかなりの交流を持っている様子が現われている。
c 年齢別でみた移動の特性
移動する人口を年齢別によって考察すると表1のとおり、15〜64才の生産年齢入口が移動の中心となるのは一般的で、その多くは職業移動と結びついている。そして、15才未満と65才以上の従属人口の移動はあまり大きくならないのが普通である。ここではこの昭和43年の統計を指標にして村の特性をみる。まず、転入者では男女共に20代が圧倒的に多い。特に、女子の場合では90%近くまでが29才以下の年齢層である。そして、男子では50代が多いことも注目される。これは県内との移動の中においても50代の年齢層が多いのと関連して、近隣町村からの山林労働者の流入によるところが多大である。県外からの転入の場合には39才までの年齢層で90%を占めている。−方、村外への転出者についてみると、男女共に20才未満の者が最も多く、明らかに学卒者の村外流出に結びついている。2番目に多いのは20代、そして3番目が30代となり、この10〜30代までで大部分を占める。また村外への転出地域を県内、県外に区別してみると、県外へ流出するのは29才までの若年労働者で80%を占める。しかし、県内へ流出する人口では10代から50代までの各年代に大きな差がなく、この中で30代の年齢層が30%を示して最も多いことは注目される。
b 目的別による移動の特性
県人口移動調査表の理由別移動状況によって転出入の目的に分類すると表2の結果になる。一般的に移動の主たる要因は職業に関係したものであるが本村でも、転勤、転職、転業等による理由が転出入の第一の要因となっている。そして、“世帯主の移動にともなう移動”も職業移動に関係するものと考えるとその比率は全体の60%を占める。次に、移動の割合ではかならずしも多くはないが重要な学卒者の動向と今回調査することのできた縁組による移動について述べることにする。
(イ)新規学卒者の動向
村における中卒者の高校進学率は昭和31年度では36%であり、このうちの60%までは村内の木頭分校に進学している。この傾向は昭和37年度まで続いた。昭和38年度では高校進学率は50%を占めることになり、このうちで村内の木頭分校に残る者は30%にまで減少した。昭和43年度では進学率は60%で、このうちの90%が村外の高校で学んでいる。次に、中卒者のうちで就職する者の動向をみてみたい。図8には昭和31年度から43年度までの中卒者の就職先の変化を村内、県内、県外の3地域の関係について図示した。これによって時代とともに3つのパターンに分類することができる。すなわち、(A)昭和31年度から34年度までの“村内就職中心型”(B)昭和35年度、36年度そして41年度にみられる“県外就職中心型”(C)41年年を除く、37年度から43年度までの“県内就職中心型”である。これによると、昭和35年度をさかいとして就職先の流れが、村内から村外に大きく変ったのである。昭和40年代に入って村内に残る者は皆無と言える。また、高卒者の近年の動向をみると表3のとおりで、留村者は昭和42年度で15.4%、43年度で10%となっており、そのほとんどが農業就業者である。
ここで村内の県立那賀高校木頭分校の生徒の進路について、この調査のおこなわれた昭和44年8月現在の時点で考察することにする。表3のとおり、昭和39年度から41年度の卒業生では村内に残った者が多くなっている。この人々の多くは村内で第一次産業以外の職場が得られたからである。また、村外に職場を求めた者も数年後にはかならず村に帰って来る前提のもとに出て行き、そして、すでに帰村した者も含まれている。そこで、いま少し、村外に職場を求めた中卒者の大多数と高卒者では90%の人々の一般的な傾向について考えてみたい。1965年の統計によると村で農業に従事していても専業農家は一戸もない。
そして、兼業農家でも第一種に属するのは23%であって、農業以外の収入が主となっている第2種兼業農家が77%を占めている。すなわち、“農業+何か”であり、この“何か”は自営の林業が少数だけあり、他は大部分がやとわれた山林労務である。今日の農業には大きな限界があり、自然条件のきびしい山村ではなおさらのことである。次に、村の財政を支える林業については多く経済的な見方から林業構造の側面が論ぜられてきた。しかし、そこには収入の不安定性、作業の危険性、その他の雇用条件は林業労働者の必要性にもかかわらず若者を引きつける魅力に欠けているのが現状ではなかろうか。また、昭和31年以来、高校の林業課程に入学した者が数人しかいないことも注目せられる。このようにみてくると、やはり、村の産業構造の中で就業の機会を見つけ、自分に適した仕事が得られるのは学卒者のうちのほんのわずかな者にしかすぎないのである。次に、学卒者を村外に引き出す要因を若干述べてみる。まず第1に進学の機会に恵まれる者は主として経済的な問題が解決できるとすれば一定の地域にとどまるものではない。第2に今日における家庭経済は自給自足経済から貨幣経済に移っている。特に、農村地域においてよりも林業の発達した山村地域がより一層貨幣経済が進んでいる。都市的商品の流入はこの村では平地農村よりも早くからあったと思われる。そしてこの商品を手に入れるためには村での生活よりも都市の生活がたやすいはずである。第3にマスコミの発達によって、就学者の頭は感覚的に“都市化”されている。ここから生れる欲求のうちのいくらかは日常生活において実現されなければならないであろう。便利で完備された生活環境、高度な教育、文化、多様なレジャー設備等は村の若者が都市に就職することによって自分に近づけることができる。そして、そこにはマスコミに現われた“その人物”が住んでいるのである。
(ロ)縁組移動の動向
表2より最近の婚姻による転出と転入数は他の移動目的と比較しても大きな比率は示していない。しかし、四方を緑りのカーテンのような山脈によってかこまれ他地域との人的交流の少なかった木頭村では、どのような形態の縁組移動がおこなわれ、またそれがどのような圏的構造を持っていたのだろうか。戦前においては結婚の形態は主として家と家の結びつきを中心にしていたし、家はその地域に強く根をおろしたものであった。したがって、通婚圏を調べることは地域の結びつきを知るための1つの指標ともなろう。今回の調査期間に調べられたのは助、出原、北川の3地区である。位置は木頭村内で東西両端部と中心地域に分布している。ここではこの3地区の結果をもって木頭村を代表するものとさせる。
◯時代とともに
表4から今日の行政区割によって考察すると、村内婚は、明治期67.7%、大正期64.1%となっている。この通婚圏の狭さは、やはり那賀川の最上流地域で周囲を山にかこまれ他地域と人的、物質的、文化的交流の少ない閉鎖的な社会を物語っていよう。しかし、昭和期に入ると村内婚は50%を割って、県外との通婚も20%近くになり、県内との通婚が35%になっている。次に、表5に示したごとく、各地区に分けて分析したい。また、漁村であり、陸の孤島と言われた海部郡由岐町の阿部、伊座利地区の通婚圏とも比較する。まず、明治期における助地区では地区内の婚姻が45.3%を占めて1番閉鎖的な数値を示している。しかし、村の3地区とも阿部(61.4%)伊座利(85.5%)地区ほどの閉鎖性を持っていなかった。出原地区は特に地区内の婚姻(28.4%)が少なく、他地域との交流が昔から多い地域であることが理解できる。大正期に入っても3地区ともに大きな変貌はなく、ゆっくりした速度でもって通婚圏が拡大されていった様子が表われている。そのうちで、出原地区において明治期の終りから大正期にかけて県外との交流が現われ始めている。北川地区で県外との通婚の比率がやや高いのは隣接する高知県との交流が大部分を占めている。昭和期では、助、出原、北川の3地区ともに、各地区内での通婚が減少して、一方で県外との通婚の比率が増加してきた。そして、県内との通婚の比率は明治、大正 昭和を通じて大きな変化はない。阿部、伊座利地区では昭和期に入ると、比率では県外との通婚が急激に多くなっている。そして県内との通婚が木頭村と比べて少ない。同じ僻地性を持つ地域でも、内陸地域と沿岸地域とでは色々な要因によって地域差が現われるのであろう。
◯峠を越えて
木頭村に隣接する地域は、図9のとおり同じ那賀郡の上那賀町、木沢村、海部郡海南町、三好郡東祖谷山村、高知県の香美郡物部村、安芸市、安芸郡馬路村の7市町村になる。そして、これらの地域と村との境界はすべて山の尾根からなっている。村に源を持つ那賀川の流路も深い谷を刻んで蛇行をくりかえして人を寄せつけない。このような隔絶された村で人々が他地域と、人的、物質的、文化的な交流を保つために利用した峠は重要な唯一の通路であった。最近まで利用された主な通路は、木沢村への岩倉峠、高知県への四ツ足堂峠、そして上那賀町への星越峠の3ケ所である。なお、上那賀町を南に下ると海部郡に開かれる霧越峠に至る。現在の国道175号線が車道として那賀川下流域と結ばれたのは昭和17年であり、高知県側との四ツ足堂峠トンネルが開通したのは昭和39年である。この峠道から近代的な自動車道路への変更は村の人々の生活に大きな変貌をもたらしたことは明らかである。それでは、この3本の峠道と1本の車道を通しておこなわれた婚姻によってみた村と他地域との関係を表6によって考察することにする。まず、第1に村から北に開かれた岩倉峠は助地区にあり、特に蝉谷部落とは関係が深い。この峠を越えれば隣接する木沢村に通じ、続いて三好郡、麻植郡、名西郡そして徳島市と交流を持つことになる。助地区では木沢村と通婚を持つ数が明治から今日まで上那賀町に次いで多い。現在、バスを利用すれば大変なまわり道となる。また出原地区では明治期における村外婚の場合上那賀町に次いで二番目に徳島と関係を持っていた。第2に村から西に向って高知県に通じる四ツ足堂峠を利用する場合はどうであろうか。北川地区では村外婚の場合には県内のどの地域よりも高知県との交流が多く、特に香美郡が最も関係が深い。そして、村の東端にある助地区とも明治期から今日まで高知県との通婚関係が存続してきた。第3に那賀川下流域と関係を持つためには星越峠を越えることが必要であった。村全体で那賀川を下る地域(那賀郡、阿南市)との通婚関係はやはり一番多く、特に隣接する上那賀町とは最も関係が深い。そして、この上那賀町を経由して霧越峠を越せば太平洋に開ける海部郡に通じる。物資の輸送上特に重要であった。この通路を通して通婚もおこなわれ昭和期に入っても関係が深い様子が表われている。ただ、北川地区とは通婚を持っていないことも注目される。最後に県外婚は明治、大正期を通じて高知県以外の地域とは皆無であったに等しい。わずかに、出原地区で大正期になって近畿地方と関係しているのみである。北海道との数例は以前に村から転出していった人々と血縁関係にある者との交流であろう。
峠道から車道に変った現在では、婚姻を決定する条件も非常に変ってきているが木頭村の最近10年間(昭和34年〜43年)における通婚圏を図10によって考察する。明治期67.7%も占めていた村内婚は28%にまで減少している。これにかわって県外婚は村内婚と同じ比率を占めるまでになった。そして県外婚で関係する地域も従来の高知県から近畿地方、特にその中で大阪に中心地域が変っている。県内婚では以前から最も関係の深い上那賀町はもとより、その他の那賀郡、阿南市との交流も多くなり那賀川下流域と徳島県の都市部に通婚圏が拡大されてきている。徳島市との交流も11%を占めるに至っている。昔から関係の深い高知県との通婚は4.5%、海部郡とは3.9%で少数ながら存続している様子がうかがわれる。
4 お わ り に
これまで考察してきた内容からその要点を列挙すると次のようになる。
(1)、木頭村の性比は125〜130で名実ともに“男のまち”である。
(2)、人口減少の激しい地域は、冬口、寺の内、中内、宇井の内、大城、平、大久保、蝉谷、黒野田、日草、下毛番、久留名である。
(3)、村は僻地性を持った山村であるが生産年齢人口が多い人口構造を形成している。
(4)、1960年から1965年のあいだでは15才〜19才の若年労働者が男女共に村外に流出している。
(5)、村の人口動態は自然増加と社会減少の形態を示し、自然増加が社会減少よりも多い状態が近年続いてきた。しかし、1968年には、自然増加よりも社会減少が大きくなっている。
(6)、村からの転出先は徳島市を筆頭とする県都市域と那賀川下流域であり、県外では高知県と、大阪府を中心とする阪神地方である。一方、村内への転入は転出地域からの逆流と木沢村、上那賀町など近接する地域からである。
(7)、転出入者の年代は男子では10〜30代で70%、女子では10代と20代で70%を占める。
(8)、移動の目的は、転勤、転職、転業など職業に関するものと、それに付随する移動も加えると全体の60%を占める。
(9)、中卒者の就職先は昭和35年から村外への流出が多くなり昭和40年からは村内に残る者がいなくなった。そして最近では県内就職が75%を占めている。また、高卒者の就職先も90%は村外である。
(10)、明治時代の通婚は村内婚が68%を占めていた。そして村外婚の場合、1つは北に登って岩倉峠を越え、木沢村、三好郡、麻植郡、徳島方面と交流を持っていた。第2に、量的に多い那賀川下流域の上那賀町との通婚には星越峠が利用された。この上那賀町から南方に向って霧越峠を越せば海部郡とも結ばれた。第3に、当時唯一の県外との交流は西方に進んで四ツ足堂峠を越えて高知県との通婚である。
明治時代には、助地区は地区内の婚姻が多く閉鎖的であり、出原地区は村内はもちろん上那賀町、徳島などの村外とも交流が多くて開放的である。そして北川地区は高知県との関係が深い。
最近10年間(昭和34年〜43年)では、村内婚は28%にまで減少し、那賀川下流域の那賀郡、阿南市と徳島市を中心とする県都市域との交流が多くなり通婚圏は拡大された。県外との通婚も28%を占めるに至り、そのうちでも近畿地方との交流が増大してきた。(1970.2.23)
この研究の機会が与えられましたこと、そしてご協力をいただきました皆様に感謝いたします。
参考文献
1 羽山久男「徳島県における人口流出よりみた徳島市の位置とその都市圏」県高校教育研究会“研究紀要”1967 P24〜40
2 東野充枝「労働人口からみた阿南市の人口変動」郷土研究発表会紀要第12号“阿南” PP53〜63
3 米山俊直「過疎会社」NHKブックス 1969
4 舗稔「日本の人口移動」古今書院 1969
5 徳島新聞「阿部、伊座利の通婚圏」1969.9.28 |