阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第16号
木頭村の地形

阿子島功

目次
1 はしがき
2 地形概観
3 地形各説
 a 山頂・山腹緩斜面と那賀川の穿入蛇行
 b 河岸段丘面 地盤運動・形成時代
 c 最下位段丘面・現河床面
 d 崩壊地・土石流地形 崩壊の成因
 e 荒廃溪流・砂防ダム・堆砂
 f 溪岸侵蝕
 g 崖錐
4 むすび 木頭の谷のおいたち
  木頭村の地形災害

1 はしがき
 地形学・またそのうちの応用を目的とした地形分類において、低地に関する最近の研究の成果は目覚しいものがある1)。しかし山地については必ずしも十分な成果が得られていない2)。このたび四国山地の真ただ中・木頭村の地形調査の機会をあたえられ、多くの問題点をとらえることができた。現地調査の日数も少なく、関連する既存の資料も未だ検討中の段階であるが、ひとまず木頭村の地形のあらましを報告し、今後の研究の足がかりとしたい。

1)科学技術庁の水害地形分類図・国土地理院の土地条件図・経済企画庁の国土調査成果のうち地形分類図など。現在までに、全国で百数十葉を数えるにいたった。縮尺は主に1/2.5万・1/5万ときに1/1万・1/20万である。
2)上述のうち土地条件図は山地の地形分類をふくみ、地形分類図のいくつかは山地を撰んでつくられた。しかし、形態分類が多く、これが成因分類に匹敵するだけの意義をもった場合は未だ非常にかぎられている。したがって、たとえば、崩壊危険部予察図は未だ公にされていない。この種の研究としては、丸山裕一(1969);木曽川上流山地の地形と地形分類図 地図7―3 P18―24 市瀬由自(1964);写真判読による地辷り地の地形学的研究 資源研彙報62 P13―22ほか
那賀川中上流域水系図
 地形の概略を縮尺5万分の1の地形図を基図として「木頭村の地形分類図」として表わした。分類は成因にしたがい、防災を目的として若干の記号を付け加えてある。従来、当地域の地形に関する報告はまったくなく、地質調査報告に付随して段丘堆積物の存在が簡略に記されていたのみであった。

2 地形概観
 当地域は、四国の屋根・剣山山地の南斜面に、深く谷を刻んだ那賀川の最上流部にあたる。1/5万地形図「北川」図幅の東北隅より、全体の面積のほぼ6割を占める。(第1図
 木頭村域で高度500m(北川地内での那賀川の河床の高度)以下の部分の面積が全体の8.8%、残り91.2%は高度が500m以上である。
 「北川」図幅内の最高点は、剣山(高度1955m)に連なる1741m峯であり、これより南に下る山稜は石立山(1708m)・行者山(1351m)・赤城尾山(1436m)をもって、那賀川水系の西の分水界をなし、徳島県と高知県の県境をかぎる。
 図幅北部にあって剣山より東に連なる1536m峯・権田山(1609m)・平家平(1604m)は、那賀川水系の北の分水界をなし、木頭村と坂州木頭川に沿った木沢村との村境をなす。また那賀川水系の南の分水界は、甚吉森(1423m)・湯桶丸(1372m)・吉野丸(1116m)を連ねる稜線であり・これは高知・徳島両県の県境および那賀・海部両郡の郡境をなしている。
 これらの山稜線にかこまれた地域のほぼ中央を那賀川本流が東へ流れ、これにむかって大小の支谷が発達する。
 これら支谷間の山稜線は、前述の那賀川上流域の分水界をなす主山稜線より高度がいずれも低く、那賀川本流にむかって高度をなだらかに低下させる。すなわち、山地の侵蝕が那賀川を基準面として行なわれ、ほぼこれに平衡しようとしていることを示している。
 図幅内の最低点は、海川口下流・小見野々ダム付近にあって、高度320mである。したがって、図幅で切った起伏量は約1400mに達し、徳島県をおおう19図幅のうち「剣山」「川口」図幅に次いで大きい。したがって、山地斜面は急峻であり、支川の河床勾配は大きい。いわゆる壮年期の山容3)を示している。山地斜面の諸所に多くの崩壊地がみられる。
 那賀川本流とその支流に沿って、概略3群の河岸段丘面がみられる。段丘面群の形成時期は新しく、現河床との比高が大きい。那賀川本流は図幅のほぼ中央で美事な穿入蛇行を呈している。いずれも、当地域の隆起運動の激しさを物語っている。
 また当地域は我国でも有数の多雨地域であり、年間総雨量は4000mmに達することもある。したがって流水の侵蝕作用が旺盛であり、地域の降起量の大なることと相まって、急峻な山地斜面を形成する。諸所におこる崩壊は山地斜面の侵蝕されつつある姿である。大規模な崩壊にともない同村内にも土石流が発生している。また、大小支川より多量の土砂が吐き出されるため、那賀川本流の河床上昇がつたえられ、下流の貯水ダムの堆砂も多い。崩壊の発生は自然条件によることのみならず、山林の伐採など人為による影響も無視できない。崩壊・土石流・渓流の荒廃などの対策すなわち砂防は、当村の土地保全・防災において最も重要である。
 当地域の地質4)はほぼ那賀川の流路に沿う仏像構造線を境とし、北半部が秩父累帯・南半部が四万十帯である。秩父累帯には北より南にむかってそれぞれ剣山層群・沢谷層群(中下部二畳系)ついで秩父累帯中帯とよばれそれぞれが入り組んで分布する桧曽根層群(中部二畳系)・三滝火成岩類・拝宮層群(中部二畳系)・梅ケ谷・寒谷・臼ケ谷の各層(三畳系)・鳥巣層群(上部ジュラ系)次いで若杉層群(二畳系中上部)・春森層群(三畳〜ジュラ系)が東西にのびる帯状をなして分布し、各層群間あるいは層群内は数多くの東西性の構造線によって断たれている。各層群の主体は砂岩・泥岩・頁岩であり礫岩・石灰岩・チャート・シャールスタインなどが多くはさまれる。四万十帯には砂岩・泥岩を主体とする日野谷層群とよばれるジュラ〜白亜系が分布している。

3)地形輪廻説にしたがった場合の表現,前述のように現在の状態で平衡に達しているという解釈もなり立つ。
4)平山健・山下昇・須鎗和己・中川衷三(1956);1/7.5万地質図「剣山」・同説明書
 徳島県 なお木頭村域については木頭村誌P217―247に中川の紹介がある。

 那賀川の中上流域を通じて本流とその支流も等しく、日野谷層群の分布域のみならず仏像構造線以北の春森層群分布域のところでも穿入蛇行が著るしく、若杉層群分布域以北では直線状流路をとる。
 当地域をおおう地形図は国土地理院の1/5万・県1/5千地形図があり、航空写真は米軍撮影(1948年)・国土地理院撮影(1968年)の1/4万のもの、および林野庁の1/2万航空写真がある。主に1968年撮影1/4万のものを使用した。

3 地形各説

a 山頂・山腹緩斜面
 平家平(1603m)・八早山(1225m)・大森山(1094m)をはじめ、山稜の高度はいずれもよくそろっている。しかし、山頂・山腹にあって、平坦面の面的広がりの大きなものは少ない。比較的広いものとしては、源蔵の窪(700m)から古堂山(763m)に連なる山稜、出原の南の高度700mの山腹緩斜面、西宇坂南方の高度600mの山稜である。
 山頂・山腹緩斜面は従来、それぞれ準平原遣物・山麓階として、かつて存在した基準面を指示するものと解釈されたことがあるが、岩石到約の見地に立って検討しなおされる必要もある。とりわけ石灰岩は山頂・山腹に平坦面を形成しやすく、中内部落のある平坦面は石灰岩に一致していることが確かめられた。
 次に、西宇坂付近および南宇付近の高度600m前後の平坦面は那賀川現河床との比高が250mに満たず、その位置よりみても段丘面の可能性があるがいずれも現地での露頭の状態が悪く、段丘堆積物を見い出すことができなかった。これが旧河床面であることが明らかになれば、河岸の急斜面の発達史を考える上でも、また那賀川の穿入蛇行の成因を解き明かすためにも重要な鍵となる5)。

5)前述の立石窪・源蔵窪における試錐試料によれば、山頂平坦面は最厚40mに達する風化岩屑層におおれわる。風化岩屑層におおわれる基岩の表面は波状をなし、一部ではあるが、薄い川砂層が存在することが明らかになった。詳細は検討の上稿を改める。

那賀川の穿入蛇行 那賀川は上中下流域を通じて、著るしい穿入蛇行がみられ、内外によく喧伝されているが6)その成因は未だ十分にわかっていない。これはひとり那賀川にかぎらず、各地の穿入蛇行現象においても同様である。穿入蛇行に関する研究は数多いが7)つまるところ 1、いつからいかにして蛇行が始まったか? 2、蛇行の規模がそれとほぼ等しい長さをもつ河川の沖積低地面上の蛇行のそれより大きいことがあるのはなぜか? 3、河川が基岩に切り込む際に蛇行の状態がそのまま保たれたのはなぜか? などが問題にされる8)。
 1の問題については、かつて河川の蛇行をゆるした平坦面の存在が想定されることがあり、平坦面として河床面あるいは準平原面がこれにあてられた。中野(1967 P84)9)は日本各地の穿入蛇行の著るしい河川をとりあげ、山頂・山腹緩斜面の多いところに蛇行率の良いことを見い出した。2、3に関しては、基岩の岩質が問題にされ、多くの指摘がなされている。那賀川をふくめて四万十帯の河川に穿入蛇行の多いことが古くから指摘されている。準平原化作用の存在に反論する Hack(1959)10)は、Shenandoah 川の例をもって、穿入蛇行はかつて存在した準平原面から発したとしないでも、専ら基岩の構造によって説明しうると述べた11)。もっとも、同河の流域において、前述の準平原面とされていたものの大部分が旧河床面とされた(King 1950)12)ことなどはあらためて注目されるべきであろう。
 那賀川の穿入蛇行の開始の時期の問題は、準平原問題ともからみ、四国山地の形成史をとらえる上で興味深い。

6)Ishida, R.,(1961);Geography of Japan KOKUSAI BUNKA SHINKOKAI, Tokyo p20
 武揚堂(1956);地形図の手引 P183、225
 徳島県史編さん委員会(1964);徳島県史 1 徳島県 P14―16
7)たとえば Leopold L. B.and Langbein W. B.(1966);River Meanders Scientific American 214―6 p.60―70
8)Leopold et al(1964、P20)はSusquehanna河の例をもって以上の問題を提起した。2については河況が異なっていたことも考えている。
 Leopold L. B. Wolman, M. G. and Miller J. P.(1964);Fluvial Processes in Geomorphology W. H. Freeman and Company San Francisco and London 522ps.
9)中野尊正(1967);日本の地形 築地書店 362ps.
10)Hack, J. T.(1959);Intrenched Meanders of the North Fork of the Shenandoah River, Virginia U. S. Geol. Survey Prof. Raper 354―A
11)前掲10のは節理などの構造を重視しているようであるが、今朝洞(1952)は養老川と小櫃川の例をもって、穿入蛇行の蛇行帯の幅が基岩の岩質と地層の傾斜に影響をうけていることを示摘して、それらは回春以前の蛇行の規模を決定していたと考えていることは重要である。今朝洞重美(1952);小櫃川および養老川の穿入蛇行と地質との関係 地理学評論 25 p328―331
12)King P. B.(1950);Geology of the Elkton area, Vivginia U. S. Geol. Survey Prof. Paper 82ps

b 河岸段丘面
 那賀川本流および支流沿いに、数段の段丘面が発達しており、概略、上中下3群に分けられる。それぞれを、標式地の地名によって、高位より、川島面・和無田面・出原面と呼ぶ。いずれも那賀川本流・支流の旧河床面であり、砂礫層をともなっている。段丘砂礫層は総じて簿く、厚さが10mを越すものはない。いずれも侵蝕(岩石)段丘面である。
 山がちの木頭村においては、宅地・水田・畑として利用され得る平坦地は、同村総面積の1%に満たず、そのほとんどはこの河岸段丘面によっている。なお、段丘砂礫層はそれ自体、地耐力があり、また侵蝕段丘面であるから、厚さ数mの砂礫層をとり去ればただちに基岩が露われるので、これら段丘面は重量建造物の支持地盤として良好である。
 川島面 段丘砂礫層の確認できた最高位の段丘面であり、これより若干高い川島北方および黒野田の平坦面に砂礫層はない。川島段丘面と那賀川現河床面との比高は約60mである。川島部落に上る道路の切割に、粗大な亜円礫をふくむ厚さ6mの砂礫層を見ることができる。川島部落背後の急斜面の平面形は、那賀川の側刻によって形成されたものであることを示している。
 現河床面と同等の比高を有する段丘面は、畦ケ野部落のある弧状をなす懸谷の谷底面であり、那賀川の蛇行の跡をとどめている(第3図)。懸谷底の西側出口において段丘砂礫層を認めた。南川上流の宇井の内にも同様の懸谷底面がある。
 那賀川上流では、北川背後の段丘面などが、現河床との比高により川島面に対比される。
 和無田面 和無田の小中学校のある面に代表され、現河床面との比高は10〜20m、本流沿いでは面が比較的広くよく連続して追跡され、支谷中にも点々と認められる。(第3図)和無田付近では、国道の北側の崖に段丘堆積物が観察される。(第2図)出原右岸では砂礫層が9m厚。
 出原面 出原ののる面に代表され、現河床面との比高は5m以上ある。この段丘面は那賀川の両岸に連続しており、国道はこの段丘面上をたどっている部分が多い。段丘堆積物は概して薄く、一部は音地火山灰層に不整合におおわれる。
 地盤運動 川島13)・和無田(第2図)・南宇・西宇でみられるように、おのおのの段丘面も詳細には数段に細分できる。ただ、現河床との比高によって、どこでも概略3群に分けられた。したがって全体として3回の間歇的隆起と、現在をふくめて4回の安定期があったことになる。支谷の河床の遷急点もほぼこれに対応して形成されたと考えられる。ただし、この範囲で局地的に細かな示差的運動があったとしても、それはとらえられない。
 段丘面の形成時代 段丘面の形成年代は、那賀川の下流域まで追跡されたのち決定さるべきで、にわかには決定しがたいが、3群の段丘面のうち、最も古いと考えられる、最上位の川島面の段丘堆積物であっても、風化はそれほどすすんでおらず、下流域にみられる赤色風化殻14)はまったく見い出せなかった。したがって、後下未吉期の温湲期以降に形成されたことになる。
 また、栩谷の奥において、下位段丘面(現河床との比高4〜6m、段丘堆積物2〜3m厚)までは、赤音地火山灰層15)とみられる50cm厚の黄褐色火山灰層におおわれている。火山灰層と砂礫層の境界は不明瞭で、両者は混り合っているが、火山灰が水中で堆積したとは見えず、また付近で崖錐堆積物におおわれているところでは崖錐堆積物と火山灰とが混り合っていることがあるので、段丘堆積物と火山灰層とが整合関係にあるとはいい難い。したがって、下位段丘面は、ほぼ7700年以前の形成となる。
 また、那賀川下流域においては、段丘面が概略上中下3群にわけられ、上位面以上に赤色風化殻が認められるとされており16)、川口ダム付近の観察では、中位段丘(現河床との比高30m)の段丘砂礫層はやや風化され一部は赤味を帯びた褐色を呈している。

13)川島部落と上る道路に上る道路に沿って、高位面(川島面)と中位面のほぼ中間に厚さ5mの砂礫層をともなう段丘面がある。
14)松井・加藤(1962・65)によると赤色風化殻の形成時期は先下末吉期・下末吉期・後下末吉期(おそらく Wurm 氷期の亜間氷期)。吉野川流域右岸においては高位段丘面以上に確かめられており、寺戸(1966)他によれば吉野川右岸の中位面の段丘堆積物は風化が著るしい。
 松井健・加藤芳朗(1962);日本の赤色土壌の生成時期・生成環境にかんする二、三の考察 第四紀研究 2 p161―179
  ――(1965);中国・四国地方およびその周辺における赤色土の産状と生成時期―西南日本の赤色土の生成にかんする古土壌学的研究第2報 資源研彙報 64 p31―48 寺戸恒夫(1967);四国吉野川下流右岸の地形 地理科学 8 p28―38
15)沖積世火山灰層であり四国各地の海岸低地の低位段丘面までをおおうことが認められていたが、最近C―14絶対年代測定資料より 7680±140yrs B. P. よりは新しいことが明らかにされた。
 谷山穣他4名(1968);四国西部における音地火山灰層について 香川大教育学部研究報告II 173 p1―15
 松井健・西嶋輝之(1970);久万盆地の音地火山灰層の噴出年代―日本の第四紀層のC14年代―49 地球科学 23―6 p263ほか。

 したがって、那賀川上流域の川島面・和無田面・出原面は、下流域の下位面に対比されることもあり得、この場合には上流域と下流域とでは時期と規模を異にする地盤運動があったことになる。なお現河床との比高が60mある川島面が、後下未吉期に形成されたものとしても、山地の中央部に位置する木頭村においては、隆起量が大きかったことが十分考えられ、他の例と比べてもとくに異常なことではない。

c 最下位段丘面と現河床面
 那賀川の河床におろした試錐資料が数地点あり現河床堆積物の厚さは最大で7m余である。河床に基岩が観察されたところはなかった。北川〜栩谷口において、最近数年間の著るしい河床面上昇がつたえられている。現地で聞き取りを試みたが、その量はつかみ得なかった。
 前述の3群の段丘面はいかなる洪水時でも冠水することはない。しかし、小面積ながら現河床との比高が小さく数年に一度の出水時には冠水する低い段丘状地形がある。これは氾濫原とも洪水段丘面ともよばれる。それぞれ出原17)・南宇・平野・北川にあり、いずれも那賀川の曲流する部分の内側の、滑走斜面にある。おそらくは、洪水時にもたらされた砂礫の堆積面であり、数年の一度の冠水を承知で水田として利用されている。最近河床面の上昇がつたえられており、少々の出水時にも冠水しやすい条件がととのいつつある。したがって、これを宅地等に利用することはさけられるべきである。北川地内の現在村営グラウンドのある部分は、船谷から吐き出された土砂の堆積面であり、船谷川の改修と、グラウンド部分の盛り土が行なわれなければ、出水の度に冠水する場所であった。(第4図

d 崩壊地・土石流地形
 剣山山脈北斜面には地辷り地が多いが、同南斜面にある那賀川流域には、地辷り地が非常に少なく、かわって崩壊地が多い。1968年5月撮影の縮尺1/4万航空写真より摘出できた崩壊地は、第1図の範囲内で約500ケ所を数えた。

16)寺戸恒夫(1966);徳島県東部の段丘とその形成 阿南工専研究紀要2p49―65
17)出原より下流では、小見野にダム湛水以前の様子を示した。現在は水没している。高等学校校庭より若干低い段は、洪水時にしばしば冠水したという。

 崩壊は、山腹崩壊が主であり、渓岸侵蝕による崩壊は少なく、一部に、道路のための切り取り工事にともなうものがみられる。
 規模においては、前者が最も大きく、とくに(A)高瀬峡の奥・1684峯付近の大崩壊、(B)久井谷・(C)船谷の無数の小崩壊、(D)八早山の西斜面、八早谷の崩壊、(E)東蝉谷の大崩壊等はその対策に多額の費用を要している。このうち、(D)・(E)は数年前の台風・集中豪雨に際して発生したばかりである。
 大規模な崩壊によって、滑落し渓床を埋めた岩塊・土砂が、崩壊にひきつづき、あるいはその後の大雨の際に大量の水分をふくんで渓流を流下する。この現象は土石流と呼ばれ、渓流の一部に侵蝕が、また一部に土石の異常な堆積地形が生ずる。(A)・(C)・(D)・(E)にそれぞれ土石流の堆積地形が観察された。これら土石の堆積部分より、大雨の度に2次的に土砂が流出し、下流の河床を高めることになる。木頭村内の支流に設けられた新規の砂防ダムは1年余で満杯になるという。
 第1図にみられる大小の崩壊地の分布は、南北に帯状をなす地質の分布と無関係であり、かえって谷毎にその数を変化させる。
 山腹崩壊は、山腹急斜面のうち谷型(凹形)斜面に発生し、個々の形状は線状をなし、合流して樹枝状を呈するものもある。崩壊の上端は、山稜線に発することも山腹の中途より発することもあって一定しない。したがって従来行なわれている凸形・凹形斜面の区分により、その境界に崩壊の発生部を予知することもできない。
 (C)・(D)・(E)について現地を調査した。
 蝉谷崩れ 東蝉谷(第1図E)の右岸、天海山(1600m)の西側山腹における、高度約940mより820mにわたる大崩壊である。これは、昭和40年9月の台風23・24号にともなう降雨によって生じた。このときの長安口ダムにおける降雨量は、9月10日〜20日間の総雨量が1360mm、最多日雨量333mm(9月16日)最多1時間雨量54mm(同日14時)を記録した。航空写真によれば、滑落した土石は渓流の中心部を、一部は小さな枝尾根をのりこえて流下している。(第6図)。このとき上部の渓流の中心部では侵蝕が行なわれ、現在、高度780m付近に基岩よりなる滝が懸っている。これより下部では巾25〜35mの谷床を埋めて土石の堆積がみられ、東蝉谷への合流点では対岸にのし上げるまでの土石の堆積によって東蝉谷を一時堰止めた。現在はこれが8m程下刻されている。扇状をなす上石の堆積部分の幅は約70mに達する。(第5図)対岸にも土石が河床より10mまで堆積しているのがみられた。(第5図−2
 崩壊上端部分の地質を確めることができていないが、前述の渓流の中途の滝の部分までは風化した泥岩が分布しており、滑落した岩塊のほとんどは、固結した砂岩・礫岩である。
 なお蝉谷では昭和42年7月8・9日台風7号にともなう集中豪雨があり、このとき崩壊土砂が土石流となって、蝉谷を流下し、那賀川との合流点(現在小見野々ダムに水没)まで達した。このとき蝉谷に沿う林道が砂壊され、土木工事中の飲場と土木機械が流失した。現在でも渓流の諸々に土石の堆積部分(現河床との比高が2m)がみられる。台風7号にともなう降雨量は長安口ダムにおいては総雨量260mm(7月9日〜12日)最多日雨量184mm(9日)最多1時間雨量は54mm(同日24時)に達した。土石流の発生は夜半であったという。
 八早谷崩れ栩谷の上流、八早山の西斜面を刻む支谷沿いにある。(第1図D)蝉谷と等しく、昭和40年9月台風25・24号および昭和42年7月台風7号に際して崩壊を生じたが、地元では、明治年間以前より「はけずまり」といういいつたえがある。崩壊部分の上方に植生におおわれたやや平坦な土石の堆積地形があり、航空写真には谷床に傾斜の変換点としてあらわれている。その背後に植生におおわれた大きなカール状の谷があり古い崩壊跡とみられる。すなわち、八早谷のこの崩壊は、崩積層の2次崩壊である。崩壊斜面は現在土止め工事が完了したが、ここにみられる古い土石の堆積層の厚さは見かけ上10m以上あり、滑落した谷床の転石は径5mを越すものがある。そのほとんどは石灰岩である。崩壊部分より上方には厚い石灰岩が分布しており、下方の谷床の一部に風化した泥岩が認められた。(第7図
 なお昭和42年6月の集中豪雨に際して、流下した土石によって栩谷口の砂防ダムが満杯になり、またこのとき那賀川本流の水位が高く栩谷より水がはけず河床より約6mある国道と小学校床面まで浸水した19)。
 船谷崩れ 北川地内の船谷には大小無数の崩壊があり、とくに鉄砲水を出すことで知られている。地元での聞きとりでは、大正年間・昭和16年・同29年・同40年に鉄砲水があった。那賀川との合流点までの1km以内の部分はとくに広い河原をなしその幅は那賀川本流のそれよりもやや広い程である。(第8図)鉄砲水のたびに、河原にあった材木置場が流され、ここに土石が堆積したという。

19)河床との比高は、下位段丘面のそれに相当するが、最下位(洪水)段丘面とした。この付近は両岸がせまっていることも効いているようである。

 船谷に注ぐ、多くの枝谷に沿って崩壊があり、枝谷の谷底は崩壊土砂で埋められ、流水はなく伏流しており、植生を欠き、登るのにも足もとで岩屑がくずれる程である。これに多量の降水があれば、ただちに流下する状態にある。船谷の一部に杉林におおわれた古い土石流の堆積面とみられるものがある。渓岸に沿った地質は、急傾斜した砂岩・泥岩の互層であり、谷床の転石の大きなものは砂岩であって、ときに2〜3mに達する。泥岩の礫は50cmに満たず、細粒のものが多い。
 崩壊の成因に関する若干の知見 崩壊の生ずる原因として、いくつかの条件がからみ合っており、単純ではない。素因として(1)地質の条件、(2)地形の条件誘因として、(3)植被の条件、(4)降雨の条件等(他に、地震動など)がある。
 (1)地質の条件として、当地域の岩石が全体としては風化しやすく岩屑を多量に生産することである20)。すなわち、固結した石灰岩・砂岩・礫岩等はそれ自体は風化しにくく、節理も少なく侵蝕に対して抵抗性を示すが、これらと泥岩層とが互層した場合には、泥岩がくだけやすく、風化が著しくすすむため、ここから侵蝕がすすみ、石灰岩層・砂岩層・礫岩層等ははじめ、その単層の厚さと等しい大きさをもつ岩塊として落下し、次いで滑落・流下する過程でくだけて多量の礫を生産することになる。渓流の河床礫をみた場合、大きなものは、石灰岩・砂岩・礫岩等であり、泥岩はくだけて細かい。
 (2)地形の条件として、段丘面の発達に示されるように地盤の隆起がはげしくかつ降水量が大なるため侵蝕が旺盛であり、山腹斜面の傾斜が大きくなり、斜面をおおう風化岩屑層の安定を欠いていることである。とりわけ、蝉谷・八早谷では崩壊部分の下部の谷床に脆弱な泥岩が分布しており、これが容易に侵蝕されるため谷床の勾配が急になり、その上部の崩積層が崩れやすい条件があたえられていたものと考えられる。なお地形は、地形性降雨をもたらし後述(4)の降水量の分布を規定する働きがある。
 (3)植被の条件として、伐採によって植被がうすくなった結果、植被による保水力がなくなり、雨水がただちに流出することが考えられる。また、樹木の根が朽ちることによって、土砂を保持することができなくなり、容易に土壌を流亡させることになる21)。一般に伐採後数年より崩壊が多くなり、植林後十数年で安定することが指摘されている。なお、パルプ用材の伐採は樹種・樹木の大きさを選ばないため、とくに山の荒れ方が著しいと聞く。なお長安口ダムでは昭和36年以降の豪雨に際しては降雨後の流出時間が徐々に短かくなっていることがとらえられているという。木頭村全域の山林の伐採量は、昭和33年より同42年の間に素材搬出量が約3倍に増加している。

20)秩父累帯に数多い東西性の構造線の影響については不明。
21)中藤(1970)によれば、伐採跡地ではたとえ植林されていても樹令10年未満の幼年林では腐った切り株が root channel を形成し崩壊を発生する危険性が高いという。

 久井谷および高瀬峡の昭和23年撮影の航空写真と同43年撮影の航空写真をくらべた場合、崩壊地が増加し、渓流が荒廃している様子が明瞭に現われている。(第8図−A第8図−B)両者の撮影条件は同一ではないが、そのため崩壊が増加したようにみえるとは考え難い。第8図Bの色調の淡い広い部分が伐採跡地の幼年林である。ただし、後述のようにこの20年間に数次の異常な集中豪雨がこの地域を襲っており、崩壊の増加が、山林伐採によるものか異常な降雨によるものかを分別できない。
 (4)降雨の条件としては、当地域が我国でも有数の多雨地域であり、年間約4000mmに達するが(長安口ダム・昭和36年)、これが集中豪雨のかたちでもたらされることが多く崩壊を誘発する。とくにこの20年間は集中豪雨が多かった。すなわち、ここ40年間の出原における強雨(日雨量50mm以上・同200mm以上)日数22)は第9図の通りであり、それぞれ写真撮影年より起算した累加総計は、前20年間のものと後20年間のものでは相当の差がある。これは徳島県内で一雨500mm以上の台風23)の数(そのほとんどは那賀川流域で県内最大雨量を記録している)によっても同様である。

22)那賀川水系水文調査第1編(徳島県S.30)および徳島気象台・区内気象月報原簿(S.28―42)より集計。一部欠測のところは、桜谷あるいは坂州のものより類推した。
23)徳島地方気象台(1968);徳島県防災気象要覧 p42

 なお複雑な地形に支配されて、斜面の向き・谷毎に降雨強度が異なることも予想され、観測点が少ないこともあってこの要因の解析は最もやっかいである。

e 荒廃溪流・砂防ダム・堆砂
 崩壊が多いため、河床に大量に岩屑が供給され渓流は荒れ川様を呈するものが多い。これら渓流は、平常は流水も少ないが、ひとたび出水するときには、鉄砲水となり多量の土砂を流下させる。これらの渓流には砂防ダムが必要とされる。このような渓流は、航空写真に、崩壊地と等しく白く光って写っている。(第8図B)したがって、写真判読のみによって、これら荒廃渓流を摘出し第1図に示した。
 河床勾配を緩くし、河床を安定させ、土砂の流出をくいとめるために多くの砂防ダムが設けられている。昭和43年における既設の砂防ダムを阿南農林事務所の資料によって、その概略の位置を示した。
 長安口ダム・小見野々ダムの堆砂量の資料より、那賀川上流域の流出土砂量(ひいては侵蝕の状況)を推測することができた。(第10図
 長安口ダムには那賀川と坂州木頭川が流入するが、坂州木頭川には坂州ダム(追立貯水池)があって、昭和27年以降18年間著るしい堆砂があり、ほぼ満杯に近いため下流に土砂を流出させていない。したがって、昭和30年に湛水を開始した長安口ダムの堆砂はほとんどが那賀川水系によりもたらされたものである。12ケ月間の堆砂量(12ケ年平均)は3.9×10の5乗立方メートル、流域単位面積当り年間堆砂量は約790立方メートルである。上流の小見野々ダムの湛水開始にともない昭和43年以降の堆砂量が激減しているが、ほぼその差に近い堆砂量が小見野々ダムにみられた。
 したがって、流域全体から一様な侵蝕が行なわれて土砂がもたらされたと仮定すると、流域の山地における侵蝕による面的低下量はほぼ0.1mmのオーダー24)ということになる。
 第9図において、昭和37年に著しい堆砂がみられるが、これは第2室戸台風によるものとされる。期間内堆砂量と期間内高水流量(第11図)とは非常に良い対応を示し、土砂の流出は主として洪水時に行なわれていることを示している。

f 溪岸侵蝕
 河川の攻撃斜面にあたり渓岸侵蝕が著るしいとみられるところを写真判読のみによって示した。渓岸侵蝕により崩壊が発生したとみられる箇所はほんの数地点にすぎない。

g 崖錐(記入せず)
 山腹をおおう風化土層が滑落して急斜面下に錐状をなして堆積したもの。その下部を不用意に切り取ると崩れをおこす。和無田〜白久間の国道沿いにみられる(見かけの厚さ10m以上)のをはじめ、諸所で段丘堆積物をおおっているのが観察された。崖錐堆積物で土盛りをした西宇隧道への取りつけ道路の一部で路肩が崩れをおこした。重要であるが、調査に精疎があるので記入しない。

4 むすび
 木頭の谷のおいたち 数万年前、那賀川は現在よりも60mほど高いところを流れていた。このときの那賀川の蛇行の幅は現在よりも広かった。那賀川の流路の蛇行が著るしいのはそれ以前に、現在の河床より数百m高いところを流れていた時代があり、そのときの蛇行の状態がひきつづき保たれながら谷を刻んできたとも考えられる。数万年前より7700年前までの間に、少なくとも3回の間歇的な隆起運動があり、その度に谷底に那賀川が刻み込み、地盤の安定期には那賀川が横にふれながら、新たな谷底の幅をひろげた。那賀川に沿う3段の平坦面は、このようにしてできたかつての那賀川の河床面である。集中豪雨の度に山くずれがおこり、いまもなお山地斜面の侵蝕がすすんでいる。とくに豪雨の多かった、ここ12年間に那賀川を通じて流出した土砂は年間平均39万立方メートルである。段丘堆積物および現河床堆積物はその厚さに差がない。すなわち過去より現在まで河況、ひいては山地斜面の侵蝕の様相は変っていないことが推察される。

24)790/10の6乗≒1mm 起伏ある山地の表面積を考えれば、面的低下量はこの数分の1になる。

 木頭村の地形災害 木頭村の地形災害のうち最も重大なものは、崩壊と土石流である。崩壊の発生する条件について若干の考察を試みた。また今後砂防ダムが必要になる荒廃渓流・土石流の堆積部分、また渓岸侵蝕の著るしいと思われる部分を主に航空写真の判読によって予察的に指摘した。種々の地形災害の関連は次の通りである。

 なお、木頭村域の治山対策費は、昭和43年より5年計画で1億6600万円が試算され、(県阿南農林事務所調べ)蝉谷には崩壊にともなって昭和41〜44年に4345万円が投入された。船谷の下流部分は一級河川指定の那賀川に組み入れられ、県より建設省に移管された。小見野々ダム建設にともない、もし出原付近にバックウォーターによる被害が生じた場合には補償が行なわれる旨、確約書がとりかわされているという。

 謝 辞 次の方々にはお力添えいただきました。(順不同)木頭村役場の方々、徳島県林業課の方々、阿南農林事務所西内正幸氏、長安口堰堤管理事務所大西義昭氏、四国電力土木部鎌田文明氏、同小松島電力所土木課黒川治三郎氏、徳島地方気象台防災課の方々。徳島大学教育学部高木秀樹先生、阿南工専寺戸恒夫先生、徳島県立図書館の方々。また、国土地理院地図課斉藤祥氏には地図類の複製にあたってお世話いただきました。末筆ながら記して謝意を表します。


徳島県立図書館