阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第15号
大滝山(旧持明院の周辺)調査

郷土班(大滝山班) 藤目正雄、藤岡道也、山本武男、大崎真兄、別枝治、木村晴夫、河野幸夫

 〔I〕まえがき
 〔II〕調査内容と分担
 〔III〕調査方法
 〔IV〕調査結果
 〔V〕むすび

〔I〕まえがき
 郷土部門でこの調査に参加した我々大滝山調査班は、かねてから眉山全域を数地区に分割して、数年間の継続研究を企画しており、まず初年度は藩制期に城府無比の宏大な規模をもった大寺院でありながら、明治初年に廃滅の運命をたどった持明院建治寺の周辺を調査する予定であった。たまたま阿波学会の学術調査の対象地域に入ったので、その調査の一環として参加した。

〔II〕調査内容と分担
(1)旧持明院、旧春日寺、春日神社に関する調査(藤目、藤岡、山本、別枝、大崎、河野)
(2)金石文(碑、石段)調査と拓本作製(山本)
(3)歴史的植物に関する調査(木村)
(4)調査結果の整理と報告書作成(河野)

〔III〕調査方法
〔II〕にあげた調査内容のうち(1)に関するものは、文献、記録、口碑などで既に明らかにされているものが多くあるが、今回の調査方法としては、
(1)文献、記録、文書の収集
(特に右絵図と明治以後の戸籍、地籍)
(2)関係者、録故者と対談
(善福寺、東宗院、常慶院、春日神社、天理教阿波徳島分教会、井上高格の縁者など)
これで得たものを、
(3)現地調査
A.対象地域
北は敬台寺裏山から南は八坂神社裏の谷までの間(旧持明院境内)
B.関係地域
徳島市入田町、北田宮町、春日町、名西郡石井町など
この現地の遺蹟や遺構の調査によって実証して結論に導くという方法を用いた。

〔IIII〕調査結果の概要
A.持明院に関する事項
a.建立の背景と経過
 阿波入国後の蜂須賀家政の領国経営の基調は近世的な封建的大土地所有制の制度的確立であり、その政策の一つとして入国以前に荒廃した寺院を再興したり、領内の主要寺院には寺領を安堵し、これを保護するなどして寺院勢力の懐柔と領民に信仰を奨励して民心の収纜に意を用いた。(阿波の仏教史)
 その後、領国経営の必要から居城を一の宮から徳島に移し、渭山城を拡張修築したが、その城下町建設に伴って細川、三好時代の政治の中心地であった勝瑞をはじめ領内外の各地から寺院を城下に移した。
 持明院はこの時に、勝瑞にあった持明院と入田にあった大滝山建治寺の二つの寺院を合わせて一寺として眉山々麓に建立したものであることは、次の記録で明かである。

〔阿波志〕持明院、亦寺街隷山城大覚寺、旧在勝瑞村(1 )、釈宥秀置、三好氏捨十八貫文地七段、管寺十五、蔵金錫及磐、天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈一自名西郡建治寺移作堂安之(2 )、山名大滝―中略―封禄百石又賜四石五斗、慶長三年命改造以宿近人(3 )、十三年■禁■入採樵及取土石(4 )、至今用旧瓦故瓦頭有建治三字。
 なお1 持明院が勝瑞にあったことは、

これで立証される。
 3 慶長3年の改造に関しては、持明院所蔵の記録に次の古文書があった。

於猪山持明院普請寺領於寺廻拾■相付候、助二郎可相渡候何れも出来次第堂座之初堂として米拾俵半左衛門方より可相渡候以上国中往還人宿に被仰付候間如何にも奇麗に掃除被仰付可然候。
  慶長三年正月二日
   細 主水
 持明院参

更に4 慶長十三年の禁令に関する資料としては次のものがある。
〔阿淡年表秘録〕
 大滝山持明院寺内ニ而大小不寄石掘取儀堅停止御定書被下

b.建立時期の想定

 前の表から想定できることは、
 1 の「天正中」であるがこれは家政が居城を徳島に移した天正十四年以後にまず勝瑞にあった持明院の建物(客殿、庫裡、取次、玄関、表門など)を大滝山麓の地に移築したものと思われる。
 2 の記述内容が史実とすれば、家政が朝鮮の役から帰国した文禄二年頃に、持明院の境内に新たに薬師堂を建立して入田にあった建治寺の本尊薬師如来像をここに移して安置したものであろう。たとえ家政の霊夢云々が後世の作りごとであっても、薬師堂の屋根瓦の中に「建治寺」の記名のあった瓦が実在したことから入田の建治寺が廃寺となって持明院に移されたことだけはたしかである。
 3 の定書によって文禄三年には持明院が谷沿い地即ち大滝山麓の地にあって藩主の保護を受けた格式の高い寺院であったことが想像される。
 4 によると慶長三年に寺院の建物の一部が改造されて行人を宿泊させる施設になった。これは、ちょうど此の頃国内の八か寺を指定して駅路寺としたことと軌を一つにし、仏教の慈悲心による社会事業と軍制上の一機関とする目的を持たせたものである。
5 の普請とは、新築でなく、この宿泊施設への改造工事をなすものであろう。

c.主な建物とその位置の想定
 持明院の建物を考えるに当って、徳島に移された前の状態を一応チエックする必要を感じた。そこで勝瑞時代の持明院については次の資料が有力な手がかりである。
 「阿州三好記並寺立屋敷割次第附宝物数々」
 持明院
 1 客殿(5間に9間半) 庫裡(4間に8間) 取次(3間4方) 玄関(2間に3間)但唐破風作り
 1 鐘堂(2間に4間) 護摩堂(4間4方)但本尊不動
 1 土蔵(3間に5間) 下坊主部屋(4間に7間) 表門(2間に2間半) 裏門(2間に3間)
 寺立は東向也 本尊薬師観音御作也―後略―
 入田の廃建治寺に関することについて、現在入田町にある同名の寺院について調査したが新しい資料は何も得ることがなかった。
 「阿波志」と「阿波名勝案内」の記録を一応信用しておきたい。
さて、このたびの調査の核心ともいうべき伽藍配置の究明についてわれわれは、
 1  寺院全景の絵図顔の収集
 2  現地について遺蹟や遺構の調査
この二つに的をしぼった。
結果として、次の3種の絵図しか現存していないことがわかった。
 1  阿波名勝図会(上) 大滝山持明院 文化11年
 2  徳府建治寺之図 年代作者とも不詳 後藤捷一氏蔵
 3  大滝山持明院境内図 渡辺広輝写 後藤捷一氏蔵
この三枚の絵図には若干の時代差があり、やや異った視角から描かれているので、建物の名称や位置は必ずしも一致していないが、主要なものはおおむね一致しているので、建物やその配置を知る上で有力な手がかりとなった。
 1 によると次の堂塔社祠があった。
仁王門、本堂、玄関、方丈、庫裡、台所門、太子堂、観音堂、大塔(三重塔)三十三観音、八祖堂、僧庵、祇園社、天神社、八幡社、蛭子社、十宜亭、休亭、茶店、その他小堂小社
これを3 と比較してみると、
 1 3 共にあるもの
  大門(仁王門)、薬師堂(本堂)、玄関、方丈、庫裡、台所門(長屋)、太子堂、三重塔、西国三十三所、観音堂、八祖殿(堂)真珠庵(僧庵)蛭子、天満(天神)、祇園、八幡の各社、十宜亭、三宜亭(休亭)茶店
 3 にあって1 にないもの
  護摩堂、書院、客殿、経蔵、谷汲観音、求聞持堂、のほか
  稲荷社、愛岩社、白糸茶屋
  朝顔型の水盤
なお3 の絵図は、渡辺広輝が晩年再び江戸に出るまで、持明院と正対する位置にあった善福寺に起居していたので(広輝の叔父が住職であった)、朝に夕に持明院の全景を眼前に眺めていたことから考えるとその写生画の写実性は高く評価することができる。
 これらの建物が同時に建築されたものではない。歌入有賀以敬斎長伯がここに訪れた享保年間が最も隆昌を極めたようにうかがわれ、邸内にあった十宜亭などもこの時代に当院中興といわれる普雄上人によって建てられたもので、一山はこの時代に整ったといっても過言でない(後藤捷一著有賀以敬斎長伯阿波日記)
 例えば三重塔と太子堂は寛延年間の建立(阿波名所案内)、祇園杜は古くからあった小祠を元禄十五年に甘露閣の側に移し、宝暦三年に普峰上人によって平殿と拝殿が建立され、安永五年に現地に社殿が建立(安永五年の棟札銘)されている。
 これらの建物の位置を現在の地形と対照して正確な位置づけすることも今回の調査の重要なポイントの一つであった。
 明治末期に徳島市が旧持明院境内一帯を公園化したが、幸にして経費や工期の関係からか地形を大きく変えるほどの改造工事はしなかったようで、往時の石段、石垣、石橋、井戸貯水池などの遺構や堂塔社祠趾と思われる人工的な平坦地(三重塔以外には地盤石などは残存していないが、八祖堂、真珠庵、観音堂があったと思われる平地には現在民家が建っている)などが現存していることによって、位置の想定はほぼその目的を達した。

想定図

d.歴代住職の推定
 「徳府建治寺之図」―前述―に八祖堂の裏山に数基の墓がえがかれているがそこには今も上下二段に分れた墓地が現存し、それぞれ十基余の五輪形式の墓が規則正しく立並んでいる。今回の調査によってそれらの墓碑銘が正確に記録され、今まで明らかでなかった持明院歴代住職の名が系統的に把握することができたのは大きい収穫であった。
 上段の墓地は、持明院中興の普雄上人とそれ以後の住職のものであり、下段にあるものは普雄以前のものとしては、快栄、快慧の二基があり(あるいは今後の調査によっては初代宥秀、三代と思われる快賢両上人の墓が発見できるかも知れない)、舛雄、随峯は明らかに普雄以後のものである。
 結果として持明院の住職はほぼ次のように継承されたものと推定された。
(宥秀)―快栄―(快賢)―快慧……普雄―春雄―白州―鳳州―竜雄―泰雄―実雄―永明
 墓碑の配列と五輪塔の地輪の刻字

墓地の図
(1)上方墓地の分
 1 当院中興大阿闍梨□権僧正普雄 寛保三癸亥十月三日中刻 歳満六十九
 2 当院前住 春雄権僧正 安永七戊戌年四月十八日 行年七十三
 3 当院前住 法印白州上人 天明三癸卯正月廿四日 行年三十九
 4 当院前住 法印鳳州上人 文政元戊寅年十一月十日 五十八歳
 5 当院前住 法印竜雄上人 文政四辛巳九月十九日 春秋五十三歳
 6 風化剥落 三方欠損 不明
 7 当院前住 法印泰雄上人 嘉永五壬子十月十六日 行年六十三
 8 法印実雄上人 文久元辛酉九月初九日 春秋六十有六歳
 9 法印永明上人 明治元辰年十月廿九日 歳六十有三
 10 法印妙喜沙弥尻 明治二十六年
(2)下方墓地の分
 イ 阿闍梨舛雄 天明元辛丑年三月十一日
 ロ ?
 ハ 大法師快慧 不生位 宝永元甲申歳八月十五日
 ニ 大法師快栄 不生位 天和三癸亥歳十月廿八日
 ホ 阿闍梨随峯 宝暦十二年午二月廿五日
 ヘ ?
このほか、宝暦三年に祇園杜を再建した普峯上人や開祖の宥秀上人や三代目と思われる快賢上人らの墓もあるはずであるが、今回は発見できなかった。

e.廃寺までの経過
 持明院は、藩制期においては藩から寺領が与えられ、経済的に安定した経営を続けた。
〔粟国寺刹記〕によると、
 高禄寺院十一か寺の中に持明院の名がある

藩政中期に、この寺が繁栄した様子は、
〔阿波名勝図会〕―文化十二年―に
―山下の正面には仁王門、本堂ありて本尊は薬師仏を安ず、其南に天神の社絵馬堂、蛭子の社八幡宮うやうやしくいらかをならべ太子堂は彫刻あざやかにして彩色の美をつくせり。北には方丈、庫裏、台所門あり、その外小堂小社及茶店休屋など所々にありてみやびやしき事殊勝無比の霊場なり。―この山、春は咲きとさく花のもとに滝のいとをくりかへしながめ、秋は八しほ干しほの紅葉かくれに妻よぶ鹿のなく声をきくにもから錦たくまくおしき風景とて貴賎このところに詣でざるはなし―当山の祇園祭礼薬師観音の祥会には寺中寺外市をなして賑うことおおかたならず。―
とあることでも想像できる。
 藩制の末期にいたると寺院の世俗化とともに経営状態も次第と苦境に傾いていった。
持明院も荘大な伽藍を維持するために多額の経費を必要としたので、その打開策として、隣接の春日寺の住職任命権を持っていたのを幸いにして、後住決定の時には金品の多少によって決定入寺させたとさえ伝えられている。
 明治維新の政変で生れた明治新政府の宗教行政は神社神道を保護し国教の地位を与え、国民に神社の信仰を強制した。
 徳島藩では明治三年九月に
 1 新寺之建立停止之事
 1 師檀にあらずして無縁之勧進施物をむさぼる事停止之事
などを定めた「寺院制法」が発せられた。
 明治四年三月に政府は神仏判然の令を公布したが、諸藩ではその令の枠を逸脱した旧物破壊、旧習打破の風潮が生じて寺院に対しては排仏棄釈の運動となった。阿波では幸にして大きな破壊活動もなく混乱も起きなかったが、藩の禄制は停止となり寺領も廃止された特権寺院は、その規模を縮少したり、全く廃寺化した。持明院もその流れの中で廃寺となり、方丈、書院などの主要部分は井上高格の所有となった。(阿波仏教史)

f.廃寺後の経過
 廃寺当時、善福寺が管理していた関係で、寺宝や什器類はすべて善福寺に移管されたが昭和二十年戦災で一切焼失した(善福寺住職談)、廃寺後の持明院の主要部分(つまり方丈、書院などのあった所)は井上高格の所有となったがその理由については諸説あるがそのいずれが真実かきめ手となるものはなかった。
 唯、明治四年から七年までの間、蜂須賀茂韶公(幼名鶴若)が、ここに引取られて養育された。(柴山格太郎談)
 「揚擁閣」―われわれ調査班はこのように解読した―という彫銘のある大石碑が井上邸の庭に建てられていたのはその辺の事情を物語るものではあるまいか。(碑は現存)
 井上高格の邸宅は、旧寺院の建物をそのまま使ったものか、あるいは取りこわして新築したものか、この点についての究明を試みたが、解明できなかった。ただ、明治五年の戸籍簿に
「井上高格 寺町敬台寺馬場突当」
とあるので、玄関の向きが持明院時代の南向きから現在の東向きにかわっていたものであることは確かである。
 又、明治二十七年寺町一帯の大火で東宗院が焼失した後、しばらくの間、井上邸に移っていたが、邸内では葬儀を執行する余地がなかったので、隣の薬師堂前の広場(旧持明院の前庭)を借用したということである(東宗院住職談)
 以上の二つの資料から考察して、井上邸は旧持明院当時そのままのものではなかったことは明らかである。
 徳島市役所にある地籍図によって、井上邸やその裏山一帯の所有者の変遷を調査した結果は次の表のとおり。
1 宅地(八)
 明治二十七年まで 井上氏名儀
 同年十一月 梅谷源蔵
 同二十八年 梅谷イト(遺産相続)
 同年十月 田中俊蔵(売買)
 同四十年七月 蔭山鉅公
 大正五年 高木次郎
 同九年 小口巻太
 同十三年 桝井安松
 昭和十一年 桝井孝四郎(家督相続)
 同十二年 天理教維持財団(現在)
2 山林(八ノ二)
 明治二十一年 井上省三
 同 二十四年 井上省一(遺産相続)
 同 二十七年 塩崎琢修(売買)
  (東宗院)
 同 三十九年 蔭山鉅公
  以下(1)に同じ
3 宅地(七ノ二)
 明治二十四年 井上省一
 同 二十五年 米田忠蔵
 同 二十七年 米田フサ
 大正二年 常慶院(現在)
 美馬郡脇町岩倉の真楽寺に、明治二十年頃この寺の之住職であった箸蔵善竜師が持明院再興を企図しその趣意書を作成して近在の有志の署名を集めた記録が現存している。この再建運動は単にこの岩倉周辺だけに起ったものでなく県下全域にわたって行なわれたものと推察される。旧薬師堂は後に高野山から常慶院の山号を得て独立した寺院となって今日に及んでいる。

B.春日寺および春日神社に関する事項
a.建立の背景と経過
 天正年間に、前述の持明院と隣りあって春日神社とそれを管理する春日寺が造営された。春日神社は現存しているが春日寺は明治初年に持明院と運命を共にして廃寺となった。今、ホテル金泉閣のあるところが旧春日寺のあったところで、当時の庭園の一部と墓地がわずかに昔のおもかげをとどめている。
〔春日神社縁起由緒略記〕
 によると、此神々(註、祭神の武甕槌命、斎主命、天児屋根命、比売神の四柱のこと)が阿波国名西郡入田の里に春日祠として御垂述されておりましたが慶長年間蜂須賀家政公が播州竜野より阿波へ入国渭の津城を築きて城府の守護神として大滝山東麓現在地に御迎え申上げお祀りし、田宮の里にあった鹿苑山勝福寺(又は正福寺通称春日寺)を之に移し管理せしめ祭祀料として毎歳米12石を寄進しました―後略―
とあり、
〔阿波志〕
 春日寺 亦在寺街隷山城仁和寺旧在田宮村称勝福寺、天正中移之管春日祠賜
 米三石又禄十石及銀三餅
 春日祠 在大滝山東麓毎歳供米十石、旧在名西郡入田村 国初移此春日寺管之 ―後略―
の記述と一致している。
 ところが、
〔名東郡史上巻〕―飯田義資編集―には、
 家政は、渭津城に居を構えると、総社として、又産土神として、名東郡田宮村の春日神社を大滝山下に遷した。そもそもこの春日神社は、大和国の春日神社の分霊であって、その氏子は渭津すなわち今の徳島、寺島、福島、富田、中園、佐古、津田、田宮等であった。家政は城下に縁由の正しい神社がないからこれを国家守護の神としたもので、ここに士民をして神祠を経営せしめ藩からその費を賜うて補助を与えた ―後略―
とあり、これらの資料から、それぞれの故地は、
 春日寺―田宮村の勝福寺(称福寺、正福寺)
 春日神社―田宮村と入田村の二説がある。
更に、
〔蜂須賀蓬庵〕―小出植男編集―には
 鹿苑山和光院春日寺
 往昔名東郡田宮村にありて勝福寺と号し、同処春日明神の別当なりしを、家政住僧宥範をして大滝山下に移さしめ開山となし、春日寺と改め城下五寺の一とす。細川三好の代に板野郡矢上村に春日寺とて祈願所ありしが、三好家亡びて後は寺も亦従ひて衰頽し一小庵地を留むるのみ。家政惜みて之を再興せしなり。 ―中略― 家政渭津城下に縁由正しき神社なきを以て、大滝山に移して国家守護の神と尊び補助費を与え士庶をして神祠を経営せしむ。神社は現今県社として(註、大正初期)奉祀せられ、春日寺は廃滅して唯其の名を留むるのみ、今の春日公園は(註、金泉閣のあるところ)即ちその寺域なり。
とあるので、旧勝瑞村にも春日寺と春日神社があったことになる。
 それを立証する資料が次の二つである。
〔阿州三好記大状前書并阿波三好殿五代迄勝瑞村ニ御在城被為成候時宮寺之跡書〕
 春日寺 同断(注御祈祷所)十三貫文則同処(註、勝瑞村)に寺地あり、但下寺十五寺
〔阿州三好記并寺立屋敷割次第附宝物数々〕
 春日寺
 1 客殿(四間ニ八間半)庫裏(三間ニ五間)并取次
 1 鐘堂、護摩堂、本尊不動御作
 1 土蔵、下坊主部屋
 1 表門、寺立ハ東向也本尊観音御作、屋敷四反 宝物 大師袈裟、仏舎利
 春日宮奥院対申候宮立 本社(三間ニ五間)
 廻堂、拝殿、仁王門、四拾之末社堂 三好殿御建立 宮屋敷三反四方
ところが、以上の説を否定するものとして次の一資料もある。
 さきに富田庄が二分されると同時に庄内の鎮守として祀られた春日社も二分されて各郷に配された。即ち助任の春日社と田宮の春日社とである。田宮の春日杜は後、蜂須賀氏が藤原姓を称した関係上、氏神として大滝山に移され今の春日神社として栄えている。
 春日社について「阿波志」には名西郡入田村より移した旨を記してあるが是は誤っている。現に古老の談に、大滝山の春日社は田宮宮ノ本(現加茂支所東北東百米ぐらいのところ)にあったものを移したので、明治初年まで田宮から六人のまとい持ちが行かねば御神体のお遷りがないといわれておった。
 以上の資料をもとにして、それぞれの故地について実地調査を実施した結果は、口碑伝説のほかに、その史実を実証するに足るだけの新資料は遂に発掘できなかった。
 現段階では、
 1 春日寺は田宮の勝福寺を移し、勝瑞の春日寺を再興して、その寺号を用いた。
 2 春日神社は入田、田宮、勝瑞の三社を移し、合祀して一社としたのではないかという仮説を立てるにとどめておきたい。

b.実地調査の概況
(1)旧入田村(現在は徳島市入田町)
 旧春日神社の境内の神木であったと伝えられている大樟がある。周囲目通り8.39メートル高さ27.3メートル、樹令450年以上と推定され徳島市の天然記念物となっている。現在その樟のある周辺約6.5アールが旧境内として残されているのみで、そこに神社があったということが立証される遺跡や遺構は全然見当らない。ただ此の附近から数多くの銅鐸が発見され、古墳や板碑、さらに県指定の瓦窯跡などがあることから、古くから文化の開けた地であったことはたしかで、藤原氏ゆかりの豪族が氏神としてこの地に春日神社を奉祀したことは一応考えられる。この境内であったと伝えられている一帯の地名を今も「春日」と呼んでいる。
(2)旧田宮村(現在徳島市北田宮町および春日町)
 現在、田宮町には勝福寺(称福寺、正福寺)という寺はない。〔寛保三亥年御収神社帳〕一名東郡史にも田宮村には天神坊、矢三村に幸福寺、今切村に真観寺が記載されているが、春日神社もその別当寺の名も見当らないことからして、当時すでに存在しなかったものと思われる。古老の伝える口碑には旧春日神社跡と称する所があり、地名に「春日町」というのが昭和43年6月の町名改称でも残されている。

c.廃寺とその後の経過
 明治の初め、持明院と時を同じくして春日寺は廃滅した。
その後、本堂は前記田宮の真観寺に移築され、表門は寺町盤若院に移されたが、この門は昭和20年戦火によって焼失した。春日寺の墓地(今の金泉閣の裏山一帯にある墓地)は盤若院に移管されて現在にいたっている。

C.旧持明院境内の植物に関する事項
 古文書や金土文が歴史を物語るように、樹木も数百年ないし千年もの歴史を伝えることがある。旧持明院境内にはその歴史的植物が数多く存在しているが紙数のつごうでその中の二三について報告するにとどめる。
1 夫婦杉(めおとすぎ)
 三重塔跡をすこし登り、谷を左へ渡ったところに2本並立した老杉がある。
現在は地上4mのところで、それぞれふた抱えもあるほどに成長肥大し、2本並立しているので、俗に夫婦杉と呼ばれているが、もともと2本がくっついたものではなく、下の方は1本になっている。樹令は300年〜400年と推定されるので、おそらく持明院建立の時に植えられたものであろう。天保年間に作図されたと思われる渡辺広輝の「大滝山持明院境内図」にもかかれており、その絵図からみても当時においてすでにかなりの大木であったことがわかる。
 幕末から明治、大正、昭和とたくましく生き続けてきたこの杉も、梢の方は雷撃のため枯れ、下の枝もところどころいたんでいる。杉の寿命は長いものでも500年ぐらいといわれているので、この杉もすでに老境に在り、枯死する時期もそんなに遠くはないと思われるので、歴史的に価値あるこの老杉の保護対策が急がれる。
2 石割樫(いしわりがし)
 前の夫婦杉のすぐ近くの山側に突出した巾2.32mの藍閃片岩の生育している「あらかし」の木が、徳島市から天然記念物(植物)に指定されている「石割樫」である。
・樹種 アラカシ 学名 Quercus glauca Thunberg
・周囲 (岩の上面より目通り) 1.61m
・高さ (岩の上面より) 約10m
・樹令 約200年(あるいはその困難な環境からみれば、300年ぐらいを経たものか)
・岩割れ目 上部16cm 下部8cm
植物の根によって岩石をせり割り、破かいし、さらに風化さす典型的な標本として学術的に貴重なものであるが、南面の枝は他の木に圧迫されて桔死している。岩の間に生育すると悪条件のため樹勢もあまり旺盛ではない。この木にも何等かの保護を加える必要を痛感する。
3.しいの木、ほるとの木
今の天理教会の裏山から、その上にある御嶽神社にかけての一帯に、ひと抱えもある「しいの木」の老樹がある。樹令は200〜300年と推定されるが、さらに御嶽神社の裏山にかけて「くろまつ」ほるとの木」などの大木もある。この「ほるとの木」は城山にあるものとよく似た太さと樹令であることから蜂須賀入国後から生育存続しているものと考えてよいであろう。
 この「しい」「ほると」などの大木が生育している区域が旧持明院の境内であったのでなかろうか。この区域を出ると古木はなく、「しい」の若木とか「あかまつ」、雑木などが群生していて、植生の相違がはっきりとしている。後者の区域は山火事や伐採によって、たびたび生えかわり、二次林となっているが、旧境内と思われる一帯は、「しい」の木の優占林であって、南国特有の常緑広葉樹の原生林となっている。このような原生林となるためには、少くとも300年の年月を必要とするので、持明院の歴史と符合するものがあっておもしろい。
4.さくら
 「さくら」の木の歴史は前記のものにくらべるとはるかに新しい。
 「さくら」は短命で、とりわけ「そめいよしの」は50年もたてば桔死する運命にある。今ある古木は明治末期に大滝山公園が造成整備された時に植えこまれたもので、すでに生きる限界に到達しているものと思われる。この「さくら」についても次々と年次的に補植していくと共に、古木の保護に今一般の努力が必要であろう(この調査を実施している時、電線架設のため無惨にも切り捨てられた古木の枝をまのあたり見て、まことに哀惜にたえなかった)
 特に注目すべきは三重塔趾の「さくら」の木で、塔に面した部分の幹が裂けて損傷が大きい。これは昭和20年の空襲で、塔が焼失した時の遺産で、この幹の痛みぐあいによって、その当時の風向や火災の流れた方向をうかがい知ることができる。
5.旧持明院庭園の木
 旧持明院時代の遺構として、僅かに往時のおもかげを留めているものは石段と庭園とである。庭園は現在天理教会の所有となり、一般に公開されていないが、自然の岩石と後の山を巧みに利用した荘大なもので、自然と人工の美が調和した県内きっての名園の一つである。
 庭木の中心となっているものは、「あかまつ」に「さくら、つが、くろまつ、かえで、さるすべり」などを配してある。特に古いものは池の奥の方にある。それらの木は急傾斜地は岩石の上にはえているので、平坦な肥沃地にあるものにくらべて同じ太さのものでも2〜3倍の年数を経たものと思われる。ここにある古木には樹令200年〜300年のものも相当あり、旧持明院が最も隆盛を極め園内の「十宜亭」に天下の文人墨客が来遊したといわれている享保年間の華かな歴史がその年輪にきざみこまれている。
(なお、このたびの調査で、十宜亭のあった位置が正確に判明した。)

D.旧持明院境内に現存する金石文の調査

〔V〕むすび
 調査とは、単に物事をしらべるだけにとどまらず、問題を解決することであると定義されている。その意味で我々が今回実施した調査で何を解決することができたかを考えてみたい。
 我々の調査活動とその結果の概要については、今までに記述してきたが、ここで整理してみると、
(1)持明院に関するもの
 阿州三好記大状前書
(a)阿州三好記並寺立屋敷割次第、阿波名勝図会(文化八年)、阿波志(文化十二年)、異本阿波志、阿州奇事雑話(寛政九年以後)、阿陽忠功伝(享保二年)、阿波名勝案内(明治四十一年)などの文献によって、持明院境内に在った建物の名称とその造営時期を正確に把握すると共に、「渡辺広輝写大滝山持明院境内図」「徳府建治寺之図」「阿波名勝図会」の三種絵図によってそれらの建物の建築様式と位置を想定し、更に現地調査によってそれを確認して、伽藍配置図を作成した。
(b)持明院の住職について、宥秀、普雄、僧竜ら特に業績顕著な名僧のほかには、ほとんど知られていなかったが、今回の調査で歴代住職の名と没年などをほぼ明らかにすることができた(一部 調査未了)
(c)明治の廃寺後、現在にいたるまでの土地建物の変動経過を明らかにした。
特に井上高格、蔭山鉅公との関連について二三の新事実を発掘した。
(d)僧竜時代の造立にかかる石段の刻銘調査によって、これを寄進した当時の豪商の名や屋号家紋などを知ると共に、それらの商人の居住した町名が明らかになって、天保年間の徳島城下町構造を研究する有力な資料を得た(拓本作成と資料整理作業は未完成)
(2)春日寺、春日神社に関するもの
 文献、記録、口碑などを収集して、その内容を分析検討したが、それぞれの記述内容がまちまちで、いずれが真実であるかの究明に努力したが、遂にこれを決定するだけの有力な新資料は発見できなかった。

 調査未着手、あるいは未了となっているものがあるが、更に引続き調査研究をおこなっていくつもりである。その結果については別の機会に報告したいと思っている。(河野幸夫)。


徳島県立図書館