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序
いまわが国では、都市間題が政治問題として、また学界の論争として、大きくクローズアップされていることは周知のことがらである。その都市問題が盛行している原因として、行政機能、公害、都市交通、公益事業、教育問題などが山積していることもまた一般によく知られているところであるが、そのような諸問題を、どのようにして解決すればよいものか、都市への人口集中が急速にすすんでいる時代であるだけに、根本的な、しかも早期の対策が望まれる。
以上のような問題は、徳島市の場合においても同様で、解決の迫まられている問題点がひじょうに多い。そこで現代徳島市がかかえている問題に対処しようとする場合の一つの方法は、徳島市の発生した時点から考察をすすめることによって、その歴史的構造を採るなかから、抜本的な解決を図るということである。私はそのような立場から、今回の総合調査の一環として、徳島市発展の原点としての、16世紀末より17世紀末にいたる約100年間において、封建都市としての徳島城下町の成立過程をテーマとして、そのうちでも、とくに従来の研究成果に乏しい初期豪商の存在形態と、城下商業の展開に視点を集約して論じてみたいと思う。
もちろん、本論は、私の構想している徳島市における都市構造の史的研究のうちの、第一段階に当る部分に着手したいということ以上に出るものではないが、ただそれだけのことにしろ、私としては実に重い腰をようやくあげるに至った動機の一つは、はなはだ身勝手なことではあるが、いま研究をすすめている「徳島藩政史」のなかで占める城下町の比重が余りにも大きく、なお且つ藩経済の中心市場であり、さらに幕藩体制下における徳島藩の商業はもちろん、商業的農業を広範に展開された藍作地帯の農村史を追求するためにも当該研究が不可欠であることによる事実をもこの際告白せざるを得ないのである。
I.研究史の概略と問題の所在
全国的にみて、近世城下町の研究は、歴史学の方面からも、また地理学の方面からも、数多くの研究成果がすでに発表されていて、すぐれた著書や論文を挙げれば、枚挙にいとまがないほどである。
ひるがえって、徳島城下町の問題に限定して在来の研究成果を眺めると、質量ともに荒涼たる感がする。その乏しい研究成果のなかでも、服部昌之氏の論考「城下町徳島における都市構造の変容過程」(「地理科学」第6号所収)は空前の業績で、徳島城下町の形成過程を概観し、侍屋敷、町屋、寺町の配署と特殊構造を論じ、さらに近代徳島市へ向って都市構造の変容していく過程を、徳島藩の政治過程や商品流通との対応のうえに論じているが、しかしあくまで地理学からのアプローチの試みであるため、変容の諸画期を歴史的に研明しようとする視点に欠けている。そのことは、この論文の性格からいって当然のことであり、歴史学からの、かかる批判は当を得ないものであるが、ただ私自身服部氏の論考に導かれ、その批判のうえに本論を構想したものであることの説明ともなるために、あえて歴史学からの地理学論文に対する批判を了とされたい。
服部氏の論考以外に、団武雄氏の「徳島城下町について」(「阿波郷土会報「第17号所収)、福井好行氏の「城下町としての徳島」(「徳島大学学芸紀要」所収)など若干の論文はあるが、いずれも地理学論文であり、城下町の歴史学的関心を満足させてくれるものではなく、その歴史学からのアプローチは、まったく今後の問題に属している。
私は、以上のような現状の下に、徳島城下町の研究は、やはりその成立の画期を求めることから出発すべきであり、とくに社会経済史的視点からの接近がまず急務であるという見地から、本論を構想したものである。
II.近世城下町の一般的形成過程
城下町とは、日本史の発展過程において形成された特殊具体的な封建都市で大名の居城を中心として成立する、すぐれて政治的機能をもった都市形態を有する。その原形は、すでに中世にみることができるが、それは領主の居館の周辺に形成された小規模の集落にすぎず、根小屋とか山下などと称していたが、戦国期にはいると、戦国大名による分国の統一的支配が貫徹されるに伴って、兵農分離政策の進展を軸として、大名の家臣団と商工業者を城下に集住させることによって城下町を形成し、分国支配の中心地として発展するようになった。その代表的なものを挙げると、武田氏の甲府、大内氏の山口、大友氏の府内(現大分市)、後北条氏の小田原などがある。さらに織田信長によって経営された安土城下町と、その特色を示す楽市・楽座の政策は、城下町が、中世的なものから近世的なものに移行する画期を示すものとして注目されている。
それにしても、近世城下町の一般的形成は、やはり江戸時代に求めなくてはならない。すなわち近世城下町の成立期は、当然のこととして、幕藩制社会の成立に規定されて、寛文〜延宝期前後というのが妥当なところであり、そのようにして形成された幕藩体制下の城下町は、江戸をはじめとして、諸藩においても、大名の家臣団は原則的に城下で屋敷が割当てられて集住し、目的的に城下町の適所へ配置され、さらに町屋には、商工業者が置かれて、消費都市としての機能をもつとともに、領国における商品流通の中心市場として藩による経済統制が、城下町を通して領国全域におよぶ段階において、城下町の成立期を画することができるのであろう。
注 豊田 武「日本の封建都市」(岩波全書)
松本 豊寿「城下町の歴史地理学的研究」(吉川弘文館刊)
III.蜂須賀氏の入部と徳島城下町の建設
豊臣秀吉によって行なわれた四国征伐の後、その功績によって阿波国が与えられ、天正13年(1585)に蜂須賀家政は、旧領の播州竜野から新領主として入部したが、入部当時は、まず一宮城(現徳島市一宮)を居城とした。しかし一宮城は阿波全域を支配するために適地ではなかったので、古来から、阿波の北方と南方の接点にあたり、軍事的にも、交通上でも有利な吉野川川口のデルタ地帯を占める渭津に、徳島城を建設し、その周辺部に城下町の町割りを進めていった(1)。
いずれにしても、新領主の家政にとっては、藩内の近世化をすすめることを当面の課題としなければならない。しかし四国山地の各所に割拠する土着の名主層は、中世以来の在地支配権を守ろうとして、新領主に対して頑強な武力抵抗を試みる。祖谷山、大粟山、仁宇谷などの一揆(2)が、前後6年間にわたって展開される。それらの一揆を鎮圧し、藩体制の確立を図るためには、まず家臣団を藩内の要所に配置して、常に強力な軍事体制を維持しなくてはならない。そのような必要から、一宮、岡崎、西条、川島、脇、大西、富岡、鞆の9か所に家老を配して、警備に当らせる(3)とともに、家臣に知行地を与え、在地支配を貫徹させるために、吉野川流域や那賀川下流域の平野部では、すでに天正13年から太閣検地を実施し、知行割を実施していった(4)。
城下町の建設も、結局は、藩体制の確立を図る政策の一環としてすすめられるのであり、そこには、当然のこととして、藩内支配の政治的中心であるとともに、領国経済の中心市場として、藩経済を確実に掌握しようとする政策的意図が貫徹されることになる。
もちろん、城下町の建設は、何をおいても城下に家臣団を集住させ、しかもそれを適正に配置した侍屋敷を形成することを先決とする。その配置の原則は重臣層を徳島に置き、城の周囲を固め、軽輩層を城下町の周辺部に配して、外敵に備え、その中間に、町屋と寺社を配するが、まず藩制初頭の家臣団は第1表(5)のように361人で、これらの家臣が城下に配れたが、そのようにして形成された侍屋敷も、どこの城下町にもみられるように、新規召抱(6)や、分家の成立による家臣団の増加によって、城下町の都市拡張や、再編成に迫られ、最初は寺島に集められた寺院が寺町に、また内町の町屋の一部が新町に移転するというような現象もみられる。はじめは内町に屋敷をもっていた綱干屋が、西新町に移転したことなどは、そのもっとも顕著な例で、「御初入の時、阿波の国按内の者たるに依て被召連南寺町に宅地を賜り居住せしが其後寺島の地御用に付被召上、新町西ノ丁に土地を給り居住す、然とも近辺家建不申御訴訟申上候は町はつれ故家建申者御座なく候、諸役御免許に被仰付下候下知仕家建させ可申よし益田因幡方申上候所願の通被仰付夫より五軒口、三軒口望次第屋敷に遣して取立申候、其時は正通町と申其以後御免許町と申よし正通申候」(7)という具合である。
そのようにして、きわめて政策的意図が城下町の形成過程には貫徹されてはいるが、しかし町屋の発展を図ることも、城下町を藩経済の中心市場としての機能をもたせるうえでは無視できない。つぎの2つの史料は、藩のそのような政策的意図を理解するうえで重要なものである。
【史料1】
御城下市中町割被仰付町屋敷望之者有之ハ申出ニ任相応ニ地面可被下旨(8)(天正15年)
【史料2】
一 蓬庵様より町屋買被下候衆中望次第御屋敷可被仰付候条、令普請町究明可申旨御意候、子細は市中ニ侍衆罷居候得ハ、隣家町人等商売以下ニ付て令迷惑候由被為聞召上、右之通被仰付条、是又被申渡事
一 御直人侍衆勝手之由ニて市中ニ在宇無用之由、急度可被申渡候、屋敷可被仰付由御意候子細は右同断 以上
寛永拾七年九月廿三日
長谷川越前
滝筑後守殿(9)
町屋の形成について、藩がひじょうに意を用いたことは、これらの史料によっても理解できるが、さらに紙屋町、魚町、中町などの各町に対して藩が行なった株仲間の制度や、郷町における出店の禁止と統制品の売買禁止などの政策も、結局は特権的初期豪商に対する保護政策であったとともに、藩の経済政策がもっていた性格をよく示している。
注(1)小出植男「蜂須賀蓬庵」(徳島県刊)参照。
(2)桑田美信「阿波国百姓一揆」、徳島史学会編「新徳島藩制史」参照。
(3)岡本敏「徳島城と城下町」(「市商歴史研究」第3号所収)参照。
(4)拙稿「徳島藩制成立の諸前提について」(「阿波地方史論集」第1巻)参照。
(5)徳島県刊「御大典記念阿波藩民政資料上」により作成。
(6)一例を挙げると 天正十三 志摩守弟森新正氏村
被召出新知高四百石被下(阿淡年表秘録)
(7)徳島県史編纂委員会刊「異本阿波志」所収。
(8)徳島県刊「徳島県史料第一巻」所収「阿淡年表秘録」より。
(9)藩法研究会編「藩法集3(徳島藩)」所収。
VI.貞享2年における町屋の人口
城下町において、町屋の占める社会経済的意義については、すでにIIIで述べたが、徳島藩制が確立し、その下で城下町も成立期を過ぎて、いよいよ藩政は展開期に入ろうとする貞享2年(1685)は、藩祖家政が阿波に入部したときから、ちょうど100年に当る年であるが、およそこの年における町屋は、城下町として一応の完成をみた段階と考えることは、ごく自然であろう。その規模は第2表の通りである。
まずこの表によって注目しなければならないことは、1町に100戸以上の戸数を数える新し町、西新町、大工町、佐古町である。これらの町筋は、いはばその成立時期が、初期城下町の形成された以後に町割のすすめられた新興市域であるということである。すでにIIIにおいて引用しておいた綱干屋の内町から西新町への移転の事実に集中的に表現される新興町屋の形成は、城下町再編に伴う藩による諸政策の一環としてすすめられたものであるが、それでは、なぜそのような再編成が実施されなくてはならなかったのであろうか。
その理由の第1は、元和元年(1615)の大坂陣後における徳島藩への淡路加増と、同年に幕府が出した一国一城令によって、阿波九城を廃棄しなければならなくなったことなどに伴って、徳島城の拡張や侍屋敷の整備拡張に伴って、寺島の寺院や町屋の一部が他に移転することになったものだが、そのように、まず政策的にこれらの新興町屋が形成されていった。
つぎに考慮しなくてはならない理由は、これら新興町屋は、初期に形成された内町地区のように、特権的豪商を中心として構成された地域とちがって、大小の新興商人層や職人層が、比較的自由に店舗を構えて町が形成されていったという事実であり、そのため内町地区が、大店舗を必要とする豪商が軒をつらね、町の発展の余地を残さなかったのに対して、新興町屋の場合には、小売商や小職人が多いために、戸数の増大する余地が十分にあったことが考えられる。
さらに第3の理由としては、元和、寛永期から、寛文、延宝期にかけて、徳島藩制が確立され、それに伴って、農村における新田開発や商品作物の栽培もすすみ、商業的農業が藍作を中心として徐々に展開されてくると、必然的に城下商人の農村への侵透が、仲買人や在郷商人の活躍を媒介として活況を呈するようになり、そのような新しい機運に対応しようとする新興町人たちの活動の場として佐古町などが大きく町屋として発展したものと理解することができると同時に、佐古町の発展そのものが、当時における藩経済の発展を具体的に示しているものと考えることもできるのではあるまいか。
以上のように、貞享2年の町屋戸数は、徳島藩政史を追求するうえからも、重要な歴史的意義をもつが、残念なことは、町屋に対応させたい侍屋敷の状況が、当時の家中分限帳がないために明確にできないことであり、今後その面の研究成果が期待される。
注(10)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料上」により作成。
V.城下町における藩の支配体制
徳島城下町は、Vまでに述べたように、藩による近世化政策の一環として形成されたものであり、貞享2年の段階では、一応そこに完成された城下町の姿を見ることができるが、ここでは、そのようにして形成された城下町における藩の支配体制が、どのように組織化され、またどのように展開されていたかについて眺めてみようとする。
まず城下町は、藩の最高権力機関である御仕置(家老)の下に、つぎのような支配系統をもっていた。
(徳島城下町における支配系統)
仕置→町奉行→手代→同心→大年寄→町年寄→五人組
【史料3】
町奉行、中老或は物頭を以て充つ城下市街一般を管轄す其付属手代若干、内手代若干、同心、目明し等あり。
年寄、町奉行の任免するものにして各町に設け町内の事務を処理し兼て各町を代表す。
五人組、各町年寄に属し町内の事務を掌る(11)。
以上が、その組織と、町奉行と町役人の職務内容であるが、それでは、藩は城下町の町人に対して、どのような政策をもって臨んだのであろうか。
【史料4】
渭津山下廻市申触書
一 就役義訴訟申上度旨於有之は可申出也、随其趣可令用捨事
一 町奉行並手代、付、其町之年寄、与頭等ニたいして訴訟有之ハ可申上事
一 対諸奉行申分於有之ハ可申上事
一 何事によらす難儀有之ハ可申上事
一 諸法度従先規至于今違背之義於有之ハ可申上、依其趣可令褒美事
右之趣職人、商人、縦雖為当時之旅人、於申上は、依其断可令沙汰、若至後々申上度義有之は、家老共方迄可申来者也
承応元年霜月七日(12)
この文書は、すでに寛文7年(1667)6月21日に市中に触れられたものと同じで、藩が農村に対してとった小農自立政策と、それに伴う小農保護の触書などと同様に、城下町の発展を図り、藩経済の中心市場形成の必要によって、町奉行による町人の恣意的支配を抑圧し、小町人の保護を図った政策的意図を端的に表現するものであろう。
さらに城下町の周辺で21か村は、御蔵地で、城下町と強い関係で結ばれていたが、これは、城下を軍事的、警察的に補う意味をもっていたものと考えられるので、以下にその史料を掲げておくことにする。
【史料5】
名東郡下助任、田宮、佐古、蔵本、矢三、今切、島田、庄、東名東、西名東、下八万、北浜、富田、南斎田、津田、新浜、沖須、住吉島、大岡を御山下廿一ケ村という徳島城御山下の村落なり是等徳島に接近する村落に在りては隠便、盆踊り其他市内の雑踏する事あるときは郡代所よりの命に応じ非常を出役警戦せしむるの義務ありたも之れは村の務めなるを以て其出役者には村より与内金を贈遣する定めなり(13)。
そのような城下町と周辺村落との補完関係は、当然のこととして城下町人と百姓との出入発生の原因ともなるが、そのような場合については、つぎのような仕置より町奉行宛の書状があるので参考までに掲げておく。
【史料6】
覚
一 町中出入之義不及言其方裁断尤候、町人と百姓出入之刻も郡奉行申談済可申、其上ニて不済節は、可為裁許事(下略)
右之条々堅可相守者也
天和三年正月廿二日 御名御書判
町奉行(14)
それでわかるように、町人と百姓の出入については、町奉行もどのように裁断したらよいのか可成り困惑した様子がわかるであろう。
注(11)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料下」に勝浦久太郎記を所収。
(12)前掲書「藩法集3(徳島藩)」所収。
(13)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料上」所収。
(14)前掲書「藩法集3(徳島藩)」所収。
VI.徳島城下町における初期豪商の存在形態
蜂須賀氏による城下町の町割り、特に町屋部分の形成において、初期豪商が藩との関係から、経済的にも、また土木工事などの面にあっても、大いに活躍するところがあったであろうということは、すでにIIIで述べておいたとうりであるが、それら初期豪商の存在形態一般について、史料は乏しいながら、ここで概観しておくことも意義なしとしないであろう。
現佐古八番町の医師三木正光氏所蔵の史料のなかに、三木家(綱干屋)の成立書があ。この成立書によると、蜂須賀氏と初期豪商との関係の一端を窺い知ることのできる興味深い史料であるが、それによると、三木家は播州三木城主別所小三郎長治を祖先とし、天正8年に秀吉と戦って三木城は落ちたが、そのときから蜂須賀正勝に従っている。家政入部のとき、三木正通に阿波へ同行することを家政は懇請したが、頑として応じない。ついに武士としてでなく、商人としてならばということで、ようやく随行することになったことが詳細に記されている。
この綱干屋の場合のような経過をたどって徳島城下に移住した武士出身の初期豪商も可成り多いことが知られている。そこで、「阿波志」によって、城下町における初期豪商を提示しておこう。
表3
以上、一覧に示したものは、いずれも「阿波志」によって、明らかに商人であるものに限ったため、その他にもまだ初期豪商が存在していたことは当然で、可成りの欠落のあるのは残念である。この一覧表によると、その出自が、武家の系譜をひくものが13家、町人の系譜をひくものが同数の13家あるが、これらの初期豪商が、城下町の建設はもちろん、初期期徳島藩政のうえで果した役割りも、ひじょうに注目すべきものがある。まずその2〜3の例を紹介することにしよう。
初期徳島藩では、IIIでも触れたように、家臣団の絶対的不足を補充するために、阿波における浪人を召出して、家臣団に編入しようとした。仁木義治もその一人で、史料によると「御国中被触此時板野勝瑞村之浪人(中略)又五郎先祖軍功等被聞召御家来ニ可被召出旨被仰出候ヘ共仕官之望無之達而御断申上ニ付然ハ其方渡世之程不便ニ被思召候間何成共望可申旨被出候ニ付紺屋司被仰付被下候様望ミ通被仰付」(16)ということで、家政は又五郎(仁木義治)につぎのような下知状を与えている。
【史料8】
当国中之紺屋司之事其方ヘ申付候条可成其意然上者染物以下随分可馳者也
天正十四年十二月九日
紺屋又五郎とのへ(17)
このようにして仁木義治は町入となり、紺屋司として、領内一円における紺屋から、上納される一人前古銭10疋の取立役として、藩における財政政策の一翼を荷ったのである。さらに又五郎は、慶長5年(1600)の関ケ原合戦に際して藩政の危機を克服するうえで、重要な任務を果したいというエピソード(18)もあるが、ここでは省略して、その関係の深さを認識するにとどめておこう。
また市原三左衛門(寧楽屋)や魚屋道通に対して、文禄4年(1595)新田開発に対する諸役免許の判物や、宛行状を与えているが、このことも、新田開発を通して、初期豪商が藩経済の発展に大きく寄与していたことを示す有力な史料であろう。
【史料9】
四月廿七日
市原三左衛門へ板東郡らうもん荒地於令開発ハ十五ケ年諸役免許之御判物被下
三月十七日
魚屋道通へ那西郡之内新開高百石之御折紙被下(19)
以上のように、徳島城下町形成期における初期豪商は、その大半が蜂須賀氏の前封地である尾張、播磨などから来たものが多く、それだけに、藩政と密接な関係をもち、城下町の建設や町屋の形成にとって大きな活躍をしただけでなく、藩から特権を与えられ、初期藩経済において支配的地位を占めてきたことは、乏しい史料しか残されていないとはいえ、まずその状況を知ることは容易である。そのような初期豪商層が、初期藩商業の展開のなかで、どのような存在形態を示すか、紙屋町の紙屋仲間を中心として考察をすすめていきたいと思う。
注(15)藤原之憲編「阿波志第1巻」により作成。
(16)前掲書「徳島県史料第一巻」所収
(17)前掲書「徳島県史料第一巻」所収。
(18)前掲書「蜂須賀蓬庵」参照。
(19)前掲書「徳島県史料第一巻」所収。
VII.商業の展開とその変質
徳島藩が城下町経営をすすめるに当って、もっとも重視したのは、城下における特権商人を保護し、株仲間制度をテコとして藩域における商品流通を支配するため、極力郷村に対して商業を禁じ、藩内で生産される商品を城下の特権商人に売買させ、その運上銀を藩が収奪するために、城下町を藩中心市場とする必要があったし、さらに他国産の商品についても、城下特権商人の手を通さなくては、藩内に流通しなかったのである。
そのうよな藩の流通統制政策と、その変質過程、さらに城下町の郷町へと拡大される必然性について、本節では城下の紙屋町を例として歴史的に述べてみたい。
【史料10】
紙屋町江被下(元和2年)
定
紙之類売買之義寺島古町へ申付之条わきわきにて致取沙汰義令停止者也 御判(20)
この紙屋町は、VIIで紹介したように、銭屋、平田屋などをはじめ、藩内で売買される紙は、国産紙も他国産紙も、すべて紙屋町の17家の特権商人によって独占的に販売されていたのであり、宝永4年(1707)の史料では「右御調紙之内元直段ニ被成為御国用当霜月時分より市中紙屋町之者共え被遣、利懸リ御究商売仕候様ニ申付候」(21)という状況で、その場合における藩の流通統制については
「製紙業者は其漉上紙を必ず紙役所へ持参し役所は其製紙を公定相場に依り之れを買上けたる後ち紙の小口に改めの墨印を押し紙屋町紙屋に特売す其時紙屋は公定代価の外八歩を御益と名け上納し製紙を引取り広く販売することを定則とす尤も城中並に武家中に使用する或一部の紙類は紙屋の手を経す紙役所より直接払出すものを御用紙と称せり。川田村、端山村、木頭村、神領村……阿波国内に産出する能はさる紙類は一定の制限の下に他国より輸入し紙屋仲間に於て商ひしものにて藩内製造紙の如く買上の手続益金上納等なし……(紙)奉行は代官と称へ役所の首脳となり司法警察の権をも行ふ見取役は製紙を納入する受取り価格を評価し受払役に引継きを為し受払役は紙屋仲間に在庫紙を下渡す紙商入と直接の関係を有せる手代は書記の役目なり」(22)とあるように、藩の紙屋仲間に対する独占的売買の保護と、上納銀の収奪は、初期藩政の経済政策の特色を集中的に表現するものであることがよく理解できる。
紙屋町に対する藩の政策は、当然他の各町においても貫徹されていたのであり、史料の新魚町に対する寛永19年(1642)の免許状も、その性格を同じくするものである。
【史料11】
新魚町魚類売買指免書写
一 富田新魚町弐拾弐家之通自今以後被仰付候条新町分於脇町生魚一切売申間敷候付常式塩肴同前候事
一 新町於脇町常は塩鰯並式弐季には色鯖波迄売買可仕事
右之通去々年長谷川越前殿を以奉得御意肴町相究者也仍如件
寛永十九年五月廿七日 書判
滝筑後守印判
富田新魚町頭廿弐人へ(23)
さらにまた天和3年(1683)に、仕置の賀島主水が、中町の商人に対して出した触書も、興味深いものがあるので史料を掲げておく。
【史料12】
覚
立売市場之義、先年より中町中え被下置候処、証文焼失仕旨申上ニ付、今度相改遣之候若於脇町立売仕事御制禁被成候、為其如件
天和三年十月廿三日 主水書判
中町中へ(24)
以上いずれも、特権的な独占的で有利な保護政策が展開される。さらにつぎの史料は、新魚町22の商人に対して、一町株町座といわれる制度が展開される。
【史料13】
……問屋並丁内家持次ニ借屋人魚中買仕者共同ニ壱割之口銭御座候、此内四歩問屋方へ取同四歩ハ右中買方ヘ割符仕相渡候、残而弐歩ハ家持之中買又ハ魚買不申家持方ヘ割符仕渡申候、借屋人中買ニハ弐歩之内遣シ不申候(25)
さて再び紙屋町の問題を深めていきたい。先述の紙屋町に対する元和2年の触書に対して、紙屋町以外の脇々の城下内外の郷町などで、先例に違反して紙の商売を行なったものが現われたとみえ、紙屋仲間が藩に訴訟をおこしたのに対して、寛文13年(延宝元年・1673)再びつぎのような触書が出されている。
【史料14】
定
万紙商売之義、任先定判之旨、寺島古町中え申付之也、若於脇町商之事令制禁者也
寛文十三年八月朔日 御在判(26)
ところが、天和3年(1683)になると、わずか寛文13年から10年後のことであるが、こんどは、城下の質屋小間物屋などが紙を質にとって、質流れの紙を売却したらしく、紙屋仲間はまた訴訟をおこしている。その裁決はつぎの史料のようになっている。
【史料15】
脇町紙商御法度御触写
一 紙商売之義紙屋町之外脇町に而商売仕儀先年より御法度之所近年猥に売買仕由に候脇町に而売買堅御法度之事
一 小間物屋其外脇々に而用紙之類商売仕儀御法度に被仰付候事
一 在々より紙持参仕質屋に不限質に取置可申と品を替売買仕由候自今己後脇町に而紙質取義御法度紙屋町に而質に取義は不苦候事
右は今度紙屋町三丁之者共御訴訟申上右之通御法度被仰出候条市中相触可申候己上
戌八月十六日 福本作兵衛
藤村惣太夫(27)
この段階では、紙屋町の完全な勝訴にて決着がついているが、それが大きく変質するのは貞享4年(1687)の段階からである。それは、天和3年から、わずかに4年後のことであり、紙屋仲間に対する初期の特権が、徐々に縮少されていく画期を求める意味からも、つぎの史料は、ひじょうに重要な歴史的意義をもつものといえるであろう。
【史料16】
貞享四年正月廿三日
一 紙屋町之者とも願出候は、紙商売之義彼町迄被仰付旨御代々御判物被下置候、然処ニ、郷町にて商売仕迷惑之由訴出候に付承届、佐古、富田、二軒屋、助任、右郷町ニて紙商売停止被仰付旨、速水助七ニ申渡之、庄、蔵本之義も紙屋申出候得共、是は郷中之義故差除之(28)
とくにこの史料で注目しなくてはならないのは、「庄、蔵本之義も紙屋申出候得共、是は郷中之義故差除之」という判決である。この段階までは、紙類の商売は、紙屋町以外では一切禁止という、初期の政策を、金科玉条のようにすすめてきた藩権力が、なぜこの段階になって、郷中においては、紙類の商売が自由にできるという判決を下したか。これは歴史的に、きわめて重要な意義がなくてはならないと思われる。
この課題に答えるだけの史料を、いま用意していないことは残念であるが、その背景をなしている藩経済の発展と、藩財政の状況などを基礎として考察すれば、以外に容易に解釈できる道も開けるのではないかと思われる。そこで、いま筆者の抱いている問題解決の見通しを若干述べて、今後の課題としていきたいと考える。
(1)徳島藩の政治体制が確立して、特権的豪商に対する依存の度合いが可成り薄らいできたこと。
(2)農村経済が、体制的にも技術的にも進歩発展し、商業的農業もすすみ、農民的再生産が拡大し、ようやく蓄積段階に入って、諸商品に対する農民的需要が高まってきたであろうこと。
(3)市郷の商品流通が活発化し、新たに商人化していく階層が増加し、城下町が郡市、郷町に拡張されていき、活発な取引きが展開されるようになったこと。
(4)そのような商品流通の発展は、どうしても藩の財政支出を増加させ、藩財政がその規模をひろげ、それに伴ってようやく窮乏の傾向を生じたものと思われ、在来の特権時豪商に依存するよりも、むしろ新興商人の活動を黙認する形において、それら多くの新興商人からの運上銀収入を図ることの方が、より政策的に優れていることに藩も気付きはじめ、政策の転換が行なわれたこと。
以上のような背景のもとに、この課題に接近していくことは研究上不可欠であうろ。
紙屋仲間に代表される、初期豪商は、城下町形成の段階では、藩権力と結びついて、すぐれた貢献をなしたし、藩財政の面からみても、その存在形態が、藩と一身同体のものであった。したがって、徳島藩制第一段階における藩政はそれら初期豪商層の存在を無視して論じられないが、藩政が展開期を迎えるとたちまちにして徳島城下町に対する藩の経営に変質を生じ、第二段階の藩政に対応しようとする政策転換の事実が、紙屋仲間によるこの訴訟事件の判決が、ひじょうに集約された形で表現されているものと考えられる。
注(20)前掲書「徳島県史料第一巻」所収。
(21)前掲書「藩法集3(徳島藩)」所収。
(22)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料下」所収。
(23)徳島県刊「阿波藩民政資料」所収。
(24)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料下」所収。
(25)服部昌之「城下町徳島における都市構造の変容過程」参照。
(26)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料下」所収。
(27)前掲書「阿波藩民政資料」所収。
(28)前掲書「御大典記念阿波藩民政資料下」所収。
おわりに
序でも述べたように、徳島城下町の形成過程とその歴史的構造についての論考は、従来皆無に均しい状況である。今日の徳島市が、約400年前、蜂須賀氏によって建設された城下町を中核として歴史的発展をとげてきたことは、別段ここで強調するまでもないことだが、今や徳島市の発展を阻害している要因があるとすれば、それは一体なにか。現代都市として当然そなえなくてはならない、商工業都市と文化都市としてのバランスのとれた都市形成の要素に欠けるところがないかという点に、まず注目しなければならないのではなかろうか。
地理や交通の面から考察すべき問題も多いであろうが、もうひとつ歴史的にみて、その発達段階に、何か問題はないか、ことに重要なことは、封建都市から近代都市に移行する幕末・維新期に注目しなければならないと思われる。私自身も将来の課題としたいと従来から考えている。しかし、本論では、徳島城下町の成立期の問題に限定せざるを得なかった。何といっても、幕末・維新期の城下町を探るにしても、やはりその成立期から考察しなくては、問題の本質に接近することはできないと思うからである。
本論で私は、徳島城下町の藩制史を前提とした成立期に画期を求めようと試みたが、いま読み返してみると、見事な先敗に終わっていることに気付く。城下町全体を考察するのに、初期城下町のいかに中核地帯を形成していたとはいえ、紙屋町だけを研究対象としたことが、その原因である。もっと史料を広範に探求して、キメの細い論を展開しなくてはならないと反省している。しかしいまの時点で、史料調査、補訂するというには、とても力の不足と、それにまして時間が許さない。やむを得ずこのままで読者のご批判を仰がなくてはならないことが残念である。
しかし、弱音ばかりもはいていられない。初期城下町を研究対象とし、しかもその成立の画期をいずこに求めればよいかという場合、初期豪商の存在形態と、城下町商業の展開過程を追求することは、不可欠の作業であろうと思われる。粗雑さが目立つとはいえ、この問題に取組んだことは、決して学問的意義少なしとしないものと自負するものである。
本論でも述べたように、徳島城下町の成立の画期として、もっとも注目しなければならないのは、天和〜貞享期である。すなわちその期になると、在来の藩による城下町経営の諸政策に対して、違反し、逸脱する新興商人層の活動が俄然活況をみせてくる。しかも藩では、それらの動きを、ただ不届であるとして強圧的に処署せずに、むしろそのような新興商人の動きに対応しようとすらするかのような政策がすすめられている。私はその点にもっとも注目したのであるが、それを考察するのに、ひじょうに部分的な地域と業種に限定されるような史料しか用いられなかったがこの問題をさらに拡大して、城下町再編成の運動形態を追求すれば、大きな成果が期待できるものと思われるし、そのための突破口を本論が開いたと考えれば、私自身の拙劣な論文しか書けなかった心の負担も、うんと軽くなるというものである。
なお本論作製に当っては、佐古八番町の医師三木正光氏には、貴重な所蔵文書の閲覧を心よく許され、またいつもながら調査の計画と、うだるような酷暑のなかで、ご助力をいただいた県立図書館の横山昭氏に対しては、心から感激しているものである。なおまた史料調査と筆記という準単純作業を、私とともにすすめてくれた関西大学学生の板東紀彦君の助力があって、はじめて本論が構築できたのであり、互にそのよろこびを頒ちあいたいと思う。 |