|
はじめに
徳島市の商店街は、大きくわけると、双曲線タイプにひろがった市街を形成しているといえようか。
つぎの第1図にみられるように、蔵本―佐古―新町―富田―二軒屋とつないだ城西←→城南の一連の商店街は、いわば、古くからある徳島の商店街の名残りをしめしつつ現代的な姿をしめしている傾向がある。
大工町、紺屋町、かごや町といった町名が、むかしをしのばせる。
むかしの阿波の盆踊りは、この城西←→城南の商店街をかなり、にぎやかに練り歩いたものか、つぎのような盆踊唄の文句が今も残っている。
“阿波の殿様蜂須賀公が、今に残した盆踊り…
池又 菓子屋じゃ、日の出は餅屋じゃ一丁目の橋まで行かんか来い来い。”
菓子屋の「池又」店は、東新町にあったようであるし(注現存しない)餅屋の「日の出」店は、今も、勢見山麓の二軒屋商店街の中にある。
ところで、この蔵本→二軒屋の曲線街は、現今では、繊維、酒造、みそ・しょう油製造、金融その他の業種からなる問屋街と東新町に代表される小売商店街を主に形成していて、各種商社の本支店が立ちならぶ商業の中心街となっている。
他方、助任(すけとう)―常三島―徳島本町―福島―安宅(あたけ)―沖の洲とつなぐところの城北←→城東の一連の商店街は、各種の小売商店の連続を主にしめしている。
この城北←→城東地区のなかで、常三島町(じょうさんじま)、と徳島本町は藩政期においては、商家よりも武家屋敷が多くあったところである。藩政期には、城山は渭津(いつの)城ともよばれていたので、これらの武家屋敷地域は渭北または渭東ともいわれていた。現今では、これらの地区は学校または住宅街となり、この学校・住宅街を分断するように小売商店街がつくられている。
双曲線が近接する地点、つまり、城山周辺地区は、県庁、市役所、警察署、裁判所、税務署、新聞社、放送局、図書館、大学、公園、体育館、文化センター(建物)といったものが存在するいわば、公共施設地区である。
写真
そして、また同時に、この地区は船場町、藍場町、元町、寺島町、通町、中通町(なかとおりまち)といった水陸の交通の中心街を形成して南のほうへのび、昭和町、津田町の商店街を経て小松島市の商店街へ至っている。
この地区の中で、船場町、藍場町は、むかしは、新町川に沿った船つき場で宿屋、めし屋、金貸屋などがならび、藍倉が白壁をつらねていた。現今もこれらの両町では、そのような業種の商店や銀行の本支店が多い。例えば、つぎに金融関係をその1例としてとりあげてみる。徳島県唯一の地元銀行である阿波銀行本店は西船場町2丁目にあるし、その他に、日本勧業銀行徳島支店(東船場1)、四国銀行徳島支店(東船場1)、兵庫相互銀行徳島支店(東船場2)伊予銀行徳島支店(東船場2)阿波銀行両国橋支店(東船場3)、香川相互銀行徳島支店(新町橋1)、東邦相互銀行(西船場1)徳島県信用組合(西船場1)高松相互銀行徳島支店(西船場1)、協和銀行徳島支店(西船場1)、商工中金徳島支店(西船場2)、健康保険組合(西船場2)、日本銀行徳島事務所(西船場2)、百十四銀行徳島支店(東新町1)、信用保証協会(西新町2)、三和銀行徳島支店(西新町2)、徳島相互銀本店(富田浜)、東洋信託銀行徳島支店(藍場町)と数多くの金融関係の事務所(おそらく徳島市に存在する主な金融機関の約30%)が、東西の船場町またはそのごく近くに位置しているのである。
現在の元町、寺島町、通町、中通町は、徳島駅を目前にひかえて駅前の目抜き通りを形成している。
今回の調査においては、徳島市全域の商店街を対象とすることは、とてもむずかしいので、主に船場、新町、佐古(1〜7番町)の実態を調べた。参考として、大阪船場の調査「大阪・船場卸売業務地区の調査研究」(昭37「国民生活研究」第2巻9号)を引用した。
(1)徳島市船場町の史的推移
(1)藩政末期
船場町(新町橋を中心として東西にわかれ、同橋に近いのを1丁目とする)がその存在を、はじめてクローズアップさせるのは、藩政期も後半に入ってからで、阿波藍が全国にその地位を確立したころと考えてよいようである。藍をはじめとする在地特産品や他国商品が、かなり、大量に徳島藩内に流通しはじめたころ、その商品取引所の中心として、船場町が有名になる。とくに、文化元年(1804)西船場町に4軒の藍問屋職が藩庁から指定され、これらが藍玉、すくも(■)の売買とその値建市を取扱うことになってから、西船場が藍取引の中心になった。このため新町川をはさんで両岸に、藍倉がたちならぶ。この
状況を服部昌之はつぎのように描いている。(注1)
「新町橋を中心に新町川を挟んでんで両岸には、浜納屋、倉庫が建並び、年四度の値建市には、江戸売仲間、大阪愛染講仲間、京都大黒講仲間が参集し、これに荷主も加って盛況を呈した。この新町橋を中心とする船場町地区は新町川の河岸で港湾的施設をも有し、領国内や他国との水運連絡、さらに伊予街道 土佐街道の交会する地点にもあたり、この位置的有利性が、この時期に脚光をあびることになったと考えられる。かくて藩政後期における城下町の都心は、この新町橋付近にあったものと考えられ、この船場地区の繁栄が、新町橋筋から東新町の中心商店街を育成するわけである。」
(2)明治期
明治に入ってからの船場町の状況としては、壬申戸籍(明治5)を整理したつぎの第1表がある。(注2)
第1表から推定できるように、船場町は、藍玉、穀物、材木、砂糖、肥物などの問屋街を形成していた。
藍問屋街としての性格はその後ももちつづけた。明治8年(1875)に設立された精藍社(藍大商人たちを中心とした県内の独占的業者団体、頭取は久次米兵次郎か)の本社が「船場町5丁目166番地」に設立されたからである。(注3)
このころになって、藩政期よりもかえって藍製造人が増加していた。
これは旧特権的売場株の解放(明治5)の効果であるとともに、藍玉の売値が手堅く、米麦作や他の作物に手を出すよりも有利であると判断されていたことによるようである。藍製造人の急増は第2表にしめすとおりである。
明治元年を100とした場合、明治7年は120、明治11年には222へと2倍以上の急増だった。この急増する藍製造人(多くはメーカーであるとともに藍商人でもあったと思われる)の本拠が船場町5丁目にあったのである。
明治9年に、精藍社は名藍社(頭取は毎年選挙、明治13年頭取井形友三郎)へと改編されるが、この名藍社もまた船場町(同5丁目151番地)にあった。
その後、明治12年5月に、第八十九銀行(資本金20万円・頭取山田楽・明治42年4月解散)が、船場町5丁目162番地に、つづいて同12年11月に、久次米銀行(資本金50万円、頭取久次米兵次郎明治24年5月休業)が、船場町174番地に設立されている。(注4)
明治15年(1882)には、徳島銀行(資本金8万円)が、西船場2丁目に設立された(昭和2年休業)。
明治16年には、藍商取締会所が設立されたが、この事務所もまた船場町5丁目員外37番地にあった。
ついで、明治27年(1894)阿波商業会議所設立の気運が大きくなり、この設立発起人会が藍商取締会所でおこなわれた。明治30年(1897)、阿波商業会議所が成立するが、初代会頭吉見宗二は藍大商人で船場に店をもっていた。砂糖業者の代表格として、同会議所の常議員のちに副会頭をつとめた宮崎忠二も船場に店をもち(現在店舗なし)全県下の長者番付表(明治16)では東方前頭11枚目(徳島市内番付表では最上段四枚目つまり前頭筆頭にある)に位置する有力商人であった。吉見宗二は明治16年では、県下では番付表四段目東方22枚目(徳島市内番付表では最上段15枚目、つまり前頭12枚目にあった)
(3)大正期
大正期に入って、船場町に設立されたり、明治以来、事務所を船場町にもっていた有力社会(資本金10万円以上または特殊なもの)を表示すると、つぎの第3表のとおり6社がある。
当時、第3表の基準にあてはまる会社数は徳島市内に43社あり、会社所在町名は16町名におよんだことから、市内各町平均の有力会社数は二・七社であった。それにたいして、船場町には6社あったわけである。(注5)
(4)昭和初期
昭和4年(1929)の徳島県下の会社組織の状況はつぎの第4表のごとくであった。
第4表からわかるように、比較的に大きな企業の組織として主に利用される株式会社は、その多くが大正期に設立されたのにたいし、中小企業の組織化のために主に利用される合資・合名は昭和期に入って急増している。つまり、徳島県では、株式会社の設立に象徴されるところの比較的に大規模の企業は、大正期にその法人化をはかろうとしたのにたいし、中小企業の法人化は少しおくれて、昭和期に入ってから、その基礎をかためはじめたといえよう。ところで県下の株式会社のうち、資本金(払込額)100万円以上のもの(昭4年12月現在)をあげると7社しかない。つぎの会社である。
南海鉱業株式会社 (徳島市出来島町 176万円)
大正林業索道株式会社 (同 寺島町 175万円)
阿波国共同汽船株式会社 (同 塀裏町 150万円)
株式会社阿波農工銀行 (同 船場町 150万円)
株式会社長尾商店 (同 北佐古町 130万円)
株式会社阿波商業銀行 (同 船場町 128万円)
阿波鉄道株式会社 (板野郡撫養町 121万円)
合資会社のなかで、出資額10万円以上の会社は、合資会社森農場(船場町25万円)を筆頭として7社ある。
合名会社のなかで、出資額10万円以上の会社は3社のみで、そのうち、船場町には、徳島地方塩元売捌合名会社(出資額11万円)があった。表示すると、つぎの第5表のようになる。
第5表からわかるように、株式、合資、合名をあわした県下の会社数全体の70%が徳島市に集中し、そのなかでも船場町へは23%が集中するといった状況で、船場町のしめる位置は大きいものであった。
(2)徳島市船場町への居住年数の実態調査
以上のべたように、藩政末期以来、船場町は、徳島県下における経済上の重要な位置をしめてきた。
ところで、こし船場町に事務所(本社・支店・工場をふくむ)をおいた特定の商工業者が、藩政末期以来、常に経済会の上層を占めつづけてきたかというと必ずしもそうではない。ある者は数年にして倒れ、ある者は数十年にして倒れるなどして、この約百年間を継続して巨財を保持したのはごくわずかにすぎない。
つぎに実態調査の結果をしめす。
【船場に幾年住んでいるか(事務所をおいているか)?】(昭和41年12月末現在調、戸別訪問による実態調査)
西船場町
●1年以内
店数 9軒(西船場町のなかで11%)
店名 喫茶にれ、四国厨房(炊事用品卸)、日本金銭、読売連合広告社、枝沢商店(メリヤス、雑貨卸)、東四国三洋徳島営業所、旭設備工業所、芝生(理容業)、阿波縄包装資材店
●5年以内
店数 14軒(16%)
店名 後藤田耕文堂、共同石油、東邦相互銀行、徳島県信用組合、七福興業KK、福田屋(タオル卸)、武知商事KK、船場モータース、山口正敬商店(洋品雑貨卸)森商店(食料品)、電波堂(日立製品の販売)、日本電信電話公社(四国電気通信局建設部監督事務所)、
三原栄商社(洋品卸)、幸田商会(自転車部品卸)
●10年以内
店数 14軒(16%)
店名 喫茶アルファー、こおり美容院、アスターダンスホール、岡藤商事 田村豊KK(自転車部品卸)、中島商店(メリヤス雑貨)、エバーライト、メナード高級化粧品店、キクノ洋服店、井原精肉店、東塗料店、吉田勝商店(洋品卸)、向井商店(洋品卸)、和合株式会社(雑貨商)
●20年以内
店数 33軒(39%)
店名 丸一塗料店、近清海産物店、徳島食料卸協同組合、黒田正一、肥料販売KK、宮田木材、塚本自転車店、丸一和洋紙店、佐藤憲商店(防水・レインコート卸)、江本染料店、西島商事KK、明治生命徳島支店、高松相互銀行、協和銀行、商工組合中央金庫、奥村商店(肥料)、台糖株式会社、丸喜商店(肥料)、福井要、岡田屋、斉藤陸KK(服地・ふとん) 青木製作所、昭和電気商会、坂野ドライ中川商店、住友英一商店、浜田印刷所、新居商店(繊維卸)、住友洋服店、藤井商店、西川信郎、飯田商店(日用百貨卸) 日立チェーンストール
●50年以内
店数 8軒(10%)
店名 新居商店(碁石・柔道衣)違谷、三木鹿商店(雑貨)、三井和洋紙店、原田(土地売買)、中央商会、木津商店(飼料)、備後屋(綿卸)
●100年以内
店数 5軒(6%)
店名 徳島吉見商店(肥料)、阿波銀行、徳島塩元売KK、八百秀(乾物) 多智花商店(酒卸)
●100年以上
店数 2軒(2%)
店名 西野商店(酒製造卸) 越川(魚屋)
東船場町
●1年以内
店数 9件(東船場町全軒のなかで14%)
店名 石狩(喫茶店)、キューピット(喫茶店)、寿司秀、理容ハニー、アスターダンスホール、ゆうこうモータープール、ダイヤ(洋服店)、すし政、かにや(おにぎり屋)
●5年以内
店数 7軒(10%)
店名 家旅亭(飲食店)、すきやき(飲食店)、峠商事新町橋支店(土地売買)、富士商工株式会社、オガワ(カバン卸)、はちすか(喫茶店)、スイス(喫茶店)
●10年以内
店数 10軒(15%)
店名 紅屋百貨店、岡安商事、伊予銀行、吉永平八郎、船場モータープール、吉成種物店、東海運、大草洋服店、富士軒(食堂)、船場ビル
写真
●20年以内
店数 26軒(40%)
店名 さくらや(フィルム販売)、くれ竹(旅館)、板東ガラス、センビ薬局、コマドリ美容院、オデオン(パチンコ店) 信栄薬品、大興金属機械KK、魚井味噌、徳島ラビット(オートバイ修理)、安田生命、大塚証券、長美堂(ラジオ・テレビ部品)、兵庫相互銀行、安田火災海上保険、東邦生命、阿波銀行両国橋支店、中川硝子店、船場青果市場、大久保歯科、大井被服工業所、徳島建材KK、近藤商店(化粧品卸)、前田商店、四国黄銅KK、船場火災KK
●50年以内
店数 9軒(14%)
店名 高原石油、播摩陶器店、三井藤商店(紙店)、日本勧業銀行、四国銀行、三協薬品KK、真藤商会(農機具)、大気堂(タイプ印刷) 林写真館
●100年以内
店数 3軒(5%)
店名 井上写真館、蔵本商店(建設機械)、スワ自転車店
●100年以上
店数 1軒(2%)
店名 さくらぎ商店(家具販売)
以上の実態調査からわかるように、東西船場町を合わせて考えると82%(居住年数別グラフ参照)が、20年以内に船場町に居を定めたわけである。
20年という年月はさかのぼって想い起こすと、第二次世界大戦の敗戦直後のことである。徳島市が戦災によって焼野が原となった以後に、船場町にやってきた、いわば「新参者」によって、船場町はその大部分を占められている。船場町そのものは、藩政末期以来、つねに、時には、戦災、敗戦という特異な経験をへながらも、徳島県下の経済界においてその優位を保ってきたのであるが、船場町に定住する住人は激しく交代してきたといえよう。しかもその交代は、20年以内が82%というめまぐるしさをしめすのが現代の姿である。
写真
(3)船場・新町・佐古の経済的実態
(1)実態調査
前述の船場町の実態調査(昭41年12月)にひきつづいて、昭和43年7月〜8月には船場・新町・佐古の調査をしたので、つぎにその内容をしめす(昭和43年8月1日現在)。
船場の場合は、東船場1〜3丁目と西船場1〜5丁目までをふくみ、新町の場合は東新町1〜3丁目と西新町1〜5丁目までをふくむ。佐古は1番町から7番町までをふくむ。
船場では東西船場の全商店162店のうち119店が回答に応じてくれた(アンケート率73%)新町と佐古では全商店ヘアンケート用紙を配布することがむずかしかったので、戸別訪問して回答に応じてくれた商店へ、アンケート用紙にもとづく質問をし回答をえた。新町では115店の調査、佐古では57店の調査となっている。アンケートの回答はパーセントをもって表示した。
表示では東西の船場町を「船場」、東西の新町を「新町」、佐古1番町から7番町までを「佐古」と略記した。
写真
(2)実態調査の結果の考察
1 商店主
船場、新町、佐古の3商店街ともに男子店主(社長)が多数をしめた。84〜89%までの高率となっている。ところで、女店主もいたわけで6〜9%をしめた。しかし女店主の存在は調査をした全商店主の1割にもみたない。
2 商店主年令
船場では、41〜50才店主がもっとも多くて28%をしめた。新町と佐古では、もっと高い年令層が多く、51〜60才店主が、それぞれ1位(33%、32%)をしめた。新町や佐古では、
若い店員(従業員)の姿がよくみられるのである(質間6参照)が、経営者としての店主の年令は船場よりも古くなっている。古い経営者と若い従業員という構造になっているともいえようか。
3 商店主学歴
船場では大学卒(28%)と高等小学校卒(22%)が多いのにたいし、新町は新制高校卒(39%)と高小卒(32%)が多く、佐古では旧制中学卒(32%)と高小卒(30%)が多くなっている。
4 資本金
船場・新町・佐古の3町とも、101万〜500万の資本金をもつものが1位(それぞれ27%、30%、33%)となっている。1千万円以下をとってみると、船場では72%となり、新町では88%。佐古では86%となって、いずれも中小企業がその大部分をしめている。大阪市船場でも、1千万円末満が83.3%(昭37)をしめていることから、やはり、中小企業によって、その大部分をしめられていることがわかる。
5 従業員男女別数
船場と佐古では男子従業員数が多く(60%、62%)、新町では女子従業員数が多くなっている(52%)。これは、ひとつには、船場や佐古に卸売業が多いことも、その原因となっているようである(注1)
6 従業員年令別数
3町とも21才〜30才の従業員が1位(45%、38%、32%)をしめている。2位をしめるのは船場と佐古では31才〜40才(25%、27%)であるのにたいし、新町では15才〜20才(32%)の者が2位をしめて、新町商店街では若い従業員の多いことをしめしている。20才以下が船場にやや少ないことの理由について船場の山口店(38才)と住友油店(63才)に聞くと、「若い人がほしいが来てくれない。新町商店街のきれいな店で働きたがる若人が多いようだ」とのべられた。
7 従業員勤務年数別
船場と佐古では10年以下(両方とも20%)が最も多くなっている。新町ではさらに定着率が低くて3年以下(17%)が1位をしめている。船場では3年以下が20%をしめて、1位の「10年以下」と同じであり、佐古でも3年以下が18%をしめて(2位)、定着率があまり大きくない。半年以下という短期間の勤務者が船場8%、新町と佐古で、両方とも12%もいるのは注目される。
勤務年数が半年以下(昭43.8.1現在)というのは、昭和43年2月以降に就職したことを意味しているわけであるが、3月や4月の新学卒者をふくめて考えても、8〜12%という数字は、商店の経営対策の面からは注目すべき数字ではなかろうか。
新聞の論ずるところでは、徳島県内の企業従業員の離職数の多いことを指摘し、つぎのごとく書いている。
「……県の調査によると、県内企業に就職した新規学卒者のうち、中卒者は職について9ヵ月後に16%、高卒者は12.4%が離職した。もっとも、その原因は企業側の労働条件などにもよろうが、労働力が流動化の様相を深めている現在、いかに学卒者を多く確保したといっても、決して油断はできない。……」
(徳島新聞社説昭44.1.29による)
離職率が大きいということは、「半年以下の勤務経験」ということとつながりがあり、そのような短い勤務時間では、販売している商品に対する充分な知識をもたないであろうし、従業員相互、あるいは商店主対従業員との人間関係も充分な理解を期待しがたいであろう。
8 商店主の居住年数別
従業員の勤務年数の短かいことは、商店主の居住年数の短かいこととも関連している。
船場では前述したように、その商店主の82%は、20年以内に船場に住みついたのであり、5年以内という短期間の商店主も14%(昭41.
12月末現在)もいるわけで、開店して5年以内という商店の従業員が、その勤務年数が3年以下(20%、昭43.
8現在)半年以下(8%)ということになることもやむをえない事実であろう。
新町では、20年以内が59%(昭43.
8)、佐古では82%(同上)もあって、3町とも比較的に新しい商店主によって、商店街が形成されているといえる。
商店街の商店主たちの居住年数が、比較的に新しいという事実は、徳島市のこれら3町のみの特有現象ではなく、大阪市船場の調査でも、そのような数字がでている。大阪市船場地区では、「79.4%が、昭和20年以後に大阪市船場に居を定めたこと」が明らかになっている。
(大阪・船場卸売業務地区の調査研究による)
9 生活状態
中流の生活だと答えた者が、船場(48%)、新町(75%)、佐古(77%)ともっとも多い。船場では上流だと答えた者(33%)もいるが、新町や佐古ではその数は少ない(18%、14%)。
新町商人について、徳島市内の他の商店街(例えば福島町)で聞くと、「新町の商人には金持が多い」という答えであるのに、新町商人自身は「中流だ」と答える者が多いわけで、ここに、何かしら、新町商人のもつ伝統的な生活意識の一端にふれた感じがした。
徳島藩政期以来、徳島商人のなかでの「格付け」のことばとして「内町人(びと)に、新町者(もの)よ、佐古の輩(やつら)に、二軒屋の餓鬼(がき)」というのがある。
藩政期に2流だとみられた新町者も、他の町の商人からは畏敬されてきたらしいのに、今でも自己を「上流だ」と表現することをさける意識が残っているのであろうか。
10 将来の生活
将来の生活は上流へ向うと考えている者が3町ともに多い。ただし、一部の者は「下流へ向う」と悲観的な考え方をしている。「下流へ向う」と回答した店主を再訪してみると、「利益率低下」(アンケート(28)参照)によって、現在以上の発展はのぞめないのではないかと考えているようであった。
11 水洗便所・下水道整備
船場(76%)と新町(87%)が、かなりよく整備されているのにたいし、佐古では、下水道整備(56%)は、過半数ほどととのっているものの、水洗便所は17%と、ずっと低くなっている。
船場よりも新町のほうがよく整備されている理由を聞くと、「新町は道路がせまく、バキュームカーの出入にこまるから水洗式にした」(さがわ商店27才)、「小売商で、お客の出入りが多いから水洗式のほうが悪臭を出さなくてよい」(まつうら商店30才)といった回答をた。
12 電話台数
3町とも電話1台が多く、船場35%、新町66%、佐古65%となっている。船場の1部には、電話をもたないで商売をしている商店もあったが、これは近隣とか電話ボックスを利用していた。新町と佐古は、調査した範囲では全部、電話をもっていた。船場では、5台以上所有というのが18%もあり、船場町内部で、かなり、設備充実の格差(貧富の差)をもっているようである。
13 エンゲル係数
不明の回答が、船場で57%、新町で31%、佐古で15%あった。回答してくれた店主も、ほんとうに理解していないむきもあったようで、このアンケート回答は必ずしも信頼できない。しかし、いちおう、数字を見ると、船場では、エンゲル係数11〜20%(上の中)がもっとも多く、新町と佐古では、31〜40%(上の下)が多くなっていて、前掲の(9)の質問とやや一致した面をみせている。この回答が信頼できるとすれば、前掲(4)の「資本金の規模」のところで、500万円以下が、新町において69%もあるということと考えあわせて、新町が名実ともに徳島商人の代表町であるといいきれない面があるといえよう。ただし、新町といっても、東新町と西新町では、かなり、格差があり、東新町の商人は自分を上流だと考えている者もかなりいるようである。
14 公職選挙への関心
関心をもち行動する者が、船場で54%、新町で41%いるが、佐古では、ぐっと少なくなって18%になっている。関心はもつが行動しない者が、船場と新町にそれぞれ4%ずついる。無関心や回答内容の不明なものが3町ともそれぞれかなりいる。佐古では、それらの人々の合計は82%にもなっているくらいである。無関心と答えた人を再訪して聞いてみると、政治に関心をもって動くと、「敵ができたら困る」「商売が忙しくて、そこまで手がまわらない」「政治の動きより客の動きに関心がある」などという答がかえってきた。
15 圧力団休を構成するか
圧力団体を構成して、行動したというのは、船場と新町ではきわめて少ない。船場で6%、新町で3%、佐古で20%となっている。船場も新町も佐古も共同行動というのは、右の14
の回答とよくにたものであった。
16 地価の変動
自分ところの地価が上昇していると考えている者は、船場で44%、新町で81%、佐古では全調査戸数の100%が上昇すると考えている。新町や佐古の商人は、まだまだ繁華街として発展していくだろうという自信をもっているわけでこの自信の1つのあらわれが、地価上昇への期待となってあらわれているともいえよう。ところで、船場では、地価が「下降」していると考える者も5%いるわけで、この店主を再訪してみると、「現在のように交通規制が厳しくなる一方だったら営業活動にさしつかえてくる。商売ができないような土地では値下りも止むをえない」とのべた。
たしかに、現在のままの、ややせまく感じられる船場町の道路上に、さらに駐停車禁止などの交通規制が厳しくなるばかりでは、土地利用の面で難点が出てくるようになり、値下りもありうる。しかし、大阪市船場の計画(築港深江線船場ビル)のごとく、徳島市船場の再開発を計画し、高架高速道路と地下鉄(高速鉄道)に上下を解放した4階建ビル(筆者案、延長約1キロメートル、総幅員50〜80m)などが実現するならば、船場の地価はますます上昇の方向にむくのではあるまいか。
17 、18 、19
10年前と40年前の地価と現価
過去の地価については、3町とも不明と回答する店主が多かった。これは3町とも、比較的に、新しく居を定めた店主が多かったことにもよると思われる。
現価では、船場と佐古が11〜20万円(3.3平方メートル)あたりが多く、新町はもうすこし高価で、21〜30万円と答えたのが多い。しかし、地価(現価)は、地域差が大きく、同じ新町地区でも、丸新デパート前だと、約500万円だと答えた人もいる。
20 、21 、22 、28
運送方法と車庫
3町とも、自動車運送によるのが多く、とくに自家用の普通貨物車によるのが多いことがわかった。今後の船場・新町・佐古地区の発展のためには、自動車対策が緊急といえよう。
車庫の設備は、大阪市船場にくらべると、船場、新町ともによく整っているようである。
23 代金收授
現金または小切手が、3町とも1位となっている(38%、55%、46%)。船場や佐古において「つけ」支払が、やや多いのは、卸問屋などの場合、特定の小売商へ売ることが多く、そのような場合は、後日の代金収授に不安がやや少ないためによるようである。
24 宣伝方法
店の宣伝は、船場では新聞が多く(27%)、新町と佐古では看板利用(34% 40%)と新聞利用(31%、27%)が多かった。ついで「テレビ」や「ちらし」利用が多くなっていた。
25 、26 、27
店の移転計画など
商店の移転計画は、船場と佐古では「ない」と答えたのが意外に多かった(72%、70%)。新町では、63%が移転を考えているが、この理由は、店舗拡大と老朽改築が多い。佐古の商店の移転理由は、調べた築囲では100%が店舗拡大のためであった。移転後の建物については、独立建物を望む店主が多い(船場54%、新町60%)。
このことは、前述した徳島市船場ビル建設の問題を、より困難にするかもしれない心配がのこっている。
29 営業活動上困っていること
「人手不足」を3町とも1位にあげている(37%、54%、43%)。とくに小売商人の多い新町(「徳島市広域商業診断報告書」昭41.3月編集、徳島商工会議所によると、東新町1丁目では衣料店38.5%が、もっとも多く、東新町2丁目でも衣料店49%が最多となっている。西新町1丁目では衣料品は2位で、1位は文化品店29.4%となっている。)では、そのことを強く感じているようである。ついで、船場と新町では利益率の低下を、佐古では交通規制問題をあげている。交通規制問題は船場と新町でも3位にあげられている。
大阪市船場では、交通関係が1位で、人手不足がそのつぎの問題となっている。これは大都市大阪市と、地方都市徳島市との差を如実にしめしている1例といえようか。
(付記)この実態調査には徳島商店街研究会の入々の多大の援助をうけた。ここに謝意を表したい。
(注1)
徳島商工会議所の調査によると、東西の船場町の業種別店数はつぎのようになっている。144店調査。卸売および卸小売業63店の細分類をみると、「衣服・身廻品卸」など28種の卸売業に細分されて、どの種類の卸売業が優勢であるというような判定がむずかしくなっている。強いていえば、東船場には金融機関がやや多く、西船場4・5丁目は、繊維卸問屋がすこし、集まっているといえよう。
大阪市船場地区の業種別実態はつぎのようになっている。
(「大阪・船場卸売業務地区の調査研究」昭37による)
「業種別構成では、繊維・衣料品関係88.5%、そのうちもっとも多いのが、洋品雑貨を主として扱う『その他の衣服・身のまわり品卸売業』で比率は30.1%、以下『織物卸売業』の22.2%、『洋服卸売業』の12.9%などの順である。したがって、大阪・船場問屋連合会としては繊維・衣料品問屋街としての特長をみせているといえる。」(同書68ぺージから)佐古町については、いま、ここには資料を出すことができない。
(筆者徳島商業高校教諭)
(注1)広島女子大服部昌之「城下町徳島における都市構造の変容過程」(地理科学5号)および「元居書抜」660号、2040号
(注2)壬申戸籍の整理について、服部昌之氏は前掲論文の中で「足利健亮氏や京都大学大学院学生諸君の援助を得た」と記している。壬申戸籍については、若干の町のそれが残存していないし、また2・3の町については一部を欠いているとの服部氏の注があるが、ここにしめしたのは、船場町関係のみである。
(注3)「精藍社および名藍社ならびに藍商取締会所」についての詳細は、「徳島商工会議所70年史」42頁以下(小泉執事)を参照されたい。船場町5丁目というのは、現在の西船場町2丁目にあたると思われる。このころは両合区橋畔を1丁目とし、それから西へ2〜7丁目まで数えたようである。
(注4)八九銀行と久次米銀行については、徳島県史第5巻439頁以下を参照されたい。県史によると、久次米銀行の資本金50万円というのは、三井銀行に次いで二番目の大きさであり、藍商人たちの支持によるものであった。
(注5)前掲商工会議所史279―280頁参照。 |