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はじめに
筆者の担当である記録文献は殆どまとまったものがないため断簡零墨をあさったが短期の事とておざなりの感が深い。先ず現地の実状を知悉する事が第一であった,未だ研究不足であるがなお指導を望む。
1.「阿淡年表秘録」 (中山茂純輯)より
家政代
慶長四己亥年二月十八日
大仏境内にて祐松院殿法事勅使菊亭右府晴季公同広幡大納言長重卿也
正一位豊国大明神贈位贈号
至鎮代
慶長十八癸丑年五月二日
堺町奉行米津清右エ門下代之不行跡ニよって御咎公へ御預被蒙仰勝浦郡八多村に被差置九月,中田村御別荘へ米津清右エ門被召寄蓬庵公より御茶賜台命によって翌寅年二月二十二日米津清右エ門於丈六寺殺害首を駿府ニ被送……下畧
慶長十九甲寅年八月十六日
蓮庵公御隠居御屋敷勝浦郡中田村之御殿より弐町計隔豊国大明神之社御建立今日御上棟別当豊林寺権大僧都清仁被仰付
元和六庚申年五月十二日
千松丸君御幼少ニ付蓬庵公御後見被蒙仰依之中田御殿より西御丸へ御移被遊
寛永十二乙亥年三月
北巌山豊林寺四至傍示
東八幡之馬場限西林限南桜馬場外道限北林二目外堀限竹木等永代莫他坊事寄地建立処也住持之僧勤行旡怠可奉行国家安全然上者守護此寺処永傳子孫者家門感徳山高日昇万福是膺矣此外社領弐百石於別所令寄附也仍為後日証如件
豊臣朝臣蜂須賀入道
寛永十二乙亥暦三月十七日 家政
寵巌上人御房
寛永十六己卯年二月
中田村豊林寺へ
禁 制
一 殺生之事
一 竹木伐採事 付放牛馬事
一 罪者走入事
右条々於違背族者忽可処厳科者也
寛永十六年三月朔日
右豊国社並豊林寺御判物中田村庄屋鶴羽久助先祖文左エ門へ御預壱人御扶持方被下来候処宝永四亥年豊国社転候ニ付申上候処御扶持方ハ被召上寺地之義ハ是迄之通裁判仕候様被仰付
忠英代
正保三乙酉年四月二十一日
江戸より御書を以被仰出丈六寺観音堂御普請被仰付又中田豊林寺之堂宮破損候得共御当家へ対難成候間堂宮破損次第ニ仕置候様旦会所裏之長屋云々下畧
光隆代
承応二癸己年二月
当寺山林真木ハ不可伐採之枝おろし下苅等可仕寺用但草者為家中馬飼用自今以後遺之条可被得其意者也
観音寺へ
(右同断富田光仙寺佐古清水寺へ)
2.「勢見山観音寺縁起」
鎮護国家之道場寺主未定之間命平尾某為君主請住洛西高尾山之本願龍巌上人為寺主兼城 南豊国宮別当号豊林寺此宮祠禄二百石也伝言上人出於武門為家政公方外友也…畧…
3.「丈六号日鑑」 抜書
中ノ郷宝蔵寺有之太閤豊国大明神様札写
聖衆天中天、迦陵頻伽声、大自在天部類眷属
△奉建立豊国大明神御社一宇
哀愍衆生者、我等今敬礼矣釈提桓因四大天王
慶長十九甲寅八月十六日
豊富朝臣沙弥蓬庵
豊富朝臣蜂須賀阿波守至鎮 大工藤原
別当権大僧都清仁和尚位尊海上人
裏ニ
諸仏救世音 及於大神通 尊海上人
□大小神祗常在守護仏法紹隆寺社繁昌之攸
為説衆生故 現種々神変 敬白
宿坊豊林寺尊海坊龍巌二百石是後勢見山転住之□
右ハ中田ノ中郷村宝蔵寺蔵ニ入有之太閤之尊像□仮社ニ奉入門内右ノ手ニ新日吉明神ト
仰奉ル 宝暦十二壬午八月十五日参詣之節写也 興外
4.「阿陽忠功伝」(西岡生之)
豊国大明神社御建立並寺記由緒事
蓬庵公御隠居地ヲ御見立ナサレ勝浦郡中田村ニ御殿成就シテ閑居シ玉フ慶長十九甲寅年御殿ヨリ二町計隔テ豊国大明神ノ社ノ御建立ナサレ同年八月十六日ニ成就ス別当ハ豊林寺ノ住僧権大僧都清仁ナリ導師ハ豊林寺ノ隠居尊海上人是ヲ勤ム清仁ノ師匠ナリ然ルニ慶長廿て卯当将軍家ノ御代ト成リタルニ因リ連々社破壊スルトイヘ片御修覆ヲ加ヘラル、御沙汰ナク豊林寺ト共ニ自然ト退転シ御殿モ畳テ西ノ御丸ニ暮シ玉フトイヘリ豊国大明神ノ社御建立ノ棟札左ニ記セリ
聖主天中天、迦陵頻伽声、大自在天部類眷属
奉 建立豊国大明神御社一宇 大檀越
哀愍衆生者、我等今敬礼、沢提垣因四大天王
豊富朝臣 沙弥 蓬 庵
豊富朝臣蜂須賀阿波守至鎮大工藤原朝正
別当権大僧都清仁和尚位封
慶長拾九甲寅歳八月十六日
5.「異本阿波史」
勝浦郡中田村
疣寺 豊林寺 千代松林中にあり礎石存
元和中釈尊海此に居る
6.「阿府志」(赤堀良亮)
疣豊国社跡
同郡中田村ニ在今ハ石居ノミノコレリ別当寺杯モ跡アリ 社地九千八海石ト云石アリ此石人不知シテケガス時ハ必祟リ在ト云 大キナルアリ小サキハ甚ダ多シト云 真言九千八海ノインナリト云フ
木像則中ノ郷村ノ宝蔵寺ニ在リ
7.「阿州奇事雑話」(横井希純)
勝浦郡中田村千代の松原といふ林の内豊国の神社の前に八景石といふ有、名高き石なり今見るに奇異の石とも見えず神石なりとも云へり 一説には天馬石ともいへり
8.「灯下録」(元木芦州)
天馬石 同所豊国明神御古社の原にあり高四尺ばかり
馬の立たる形に似たり
昔は馬の形にさも似たりしに童共石もて打砕き今はたゞ三、四尺のあらぬさまなり、されど地中より生ると言う 相傳ふ此馬石に耳をあてて聞けば浪の音はるかに響き舟こぐ音、人声、くつわの音等静に聞ゆとぞ
御県神社 神事等なし
神明帳 勝浦郡御県神社
中田村日吉社より三丁ばかり未申方森の中にあり、五尺四方ばかりの小社なり、所の人宮方と称す、されど御社の柱いと古くて延喜式内五十坐内御県社と棟札三枚打てあり
9.「阿波誌」(阿波志笠井藍水訳)
勝浦郡記事中より摘記
千代松原 中田村に在り芝山を負ふ中津峯西に聳え浦叙東に連る南に豊太閤祠址あり老松叢茂数十歩の間に植立す又桜樹道を夾む春時美観今枯る。
仁良世子嘗て中院内大臣通枝を請じ国風を作る曰く「常盤木に花の光をにほわせて又一入の千代松原」又林中往々礎あり豊林寺の址也、又石あり高低峯を成す九山八海と称す、又石あり馬石と云う形の似たるを以て名づく其東に峙するもの延子と呼ぶ石を取る俗に傳ふ昔海水囲繞し漁家の児嬉び遊ぶの処なりと
八幡祠 中田村千代松林に在り東西二祠あり東を大宮と称す松林環囲す天正十七年瑞雲公十石を賜ふ慶長中財を賜ひ改造す
疣豊臣祠址 中田村松林中に在り
宮坊 亦中田村に在り真言を修す八幡西祠を管す疣寺一あり豊林寺と言ふ千代松林中に在り礎石存す元和中釈尊海此に居る
宝蔵寺 中郷村に在り一に豊林院と称す前に日吉祠あり豊太閤像を安ず寛永十二年釈龍厳此に居る手書を賜ふ今小松島地蔵寺に隷す
10.「蜂須賀家記」和訳
瑞雲公(家政)項中
慶長六年辛丑公中田の別館を修め徒りて老す。豊国明神の祠を別館の側に建つ、世子立つ是を竣徳公と為す。八年癸卯東照公征夷大将軍に任ぜられ右大臣に進む十年乙己東照公職を辞し駿府に老し世子秀忠大将軍に任ぜらる是を台徳公と為す(中畧)十九年甲寅老公徒りて西九に居る
11.「阿波国郡邑記」抜書
中田村 豊国明神ノ社有今悉破損ス桜馬場有リ左右松林ナリ近年迄ハ名花ノ桜多盛之節ハ
遊人樽ヲ枕ニス今枯レテ桜木ハ無シ畧
12.「神社寺院明細帳」抜書
神社 中田村
東八幡神社 郷社東西廿間南北百六十間 面積三千百二坪 本村西ノ方奥村ニ鎮座ス 祭神応神天皇 祝祭年月不詳 祭日九月十五日
西八幡神社 村社東西十六間南北三十六間 面積五百九十三坪 本科西ノ方狭間ニ鎮座ス 祭神応神天皇 祝祭正徳三年九月 祭日九月十五日
中郷村
豊国神社 村社東西十二間南北十五間 面積百八十坪 本村東ノ方字豊ノ本ニ鎮座ス豊臣秀吉ノ木像ヲ祭ル慶長十九年甲寅八月十六日蜂須賀蓬庵創立ス 祭日十月三日
寺院 中郷村
宝蔵寺 東西三十間南北十六間 面積四百八十九坪 真言宗古義派小松島村地蔵寺末、開基創立不詳 慶長年中僧龍厳中興シ其後又衰微セシメ 寛永年中僧宥昌再興ス
(以下畧)
13.「阿波国最近文明史料」(神河庚蔵著)
(上畧)徳川家康関ケ原の戦に勝て阿波国を至鎮に賜ふ蓬庵国に帰りて豊臣秀吉の為に祠を勝浦郡中田村に建て豊臣大明神と称し、豊林寺を興し之を祀らしむ(畧)
蓬庵隠居して同(慶長)六年勝浦郡中田に別館を修し側に豊国神祠を建営せしめ(下畧)
14.「阿波名勝案内」(石毛賢之助著)
豊国神社=豊林寺
秀吉薨ずるに先ち重臣片桐且元に命じて我死後此像を家政、至鎮の両名に与うべしを、慶長四年五月十五日嗣子秀頼遺言を奉じて両人に賜う慶長五年より十九年に至る間仝木像を徳島城内に奉祀仝年三月千代の松原北手へ神殿を建立して豊国大明神(後日吉大明神と改む)として奉斎す之と同時に洛西高雄山なる運巌上人を迎へ北巌山豊林寺を開基し豊国神社の別当たらしめ社領二百石を寄進し奉祀頗る厚かりしも徳川氏の治世に豊公を奉祀し其の遺徳を景慕するが如きは衷心徳川氏に臣事するに非る嫌あり乃ち元和二年勢見観音寺を営み竜巌上人をして之に移らしめ豊林寺は自然疣寺に帰せしめ更に承応年中光隆に至り豊国社の社殿を壊ち神体棟札等は中郷村松軒文左エ門に預け保管せしめしが文左エ門私に近傍なる宝蔵寺(一名豊林院)へ之が保管を托せり近年再び神殿を造立し豊公の神像を安んず。
九山八海石 中田千代小学校門側にあり豊林寺趾より移せし巨大な礎石を以って小丘を築きなせる丘に立てるもの即是也、本石は大和奈良の都の御庭石なりしを時の帝より豊臣秀吉に下し賜わり秀吉更に之を家政に賜わりしと家政慶長二酉年秋九月大阪中島御屋敷に引取り次いで阿波に搬輸し豊国神社に奉納せるものなり阿波志に「有石高低成峯称九山八海」とある如く一石よく山水の勝を恣にして宛然一幅の唐画に対する思いあらしむ云々
15.「勝浦郡志」(勝浦郡教育会、田所眉東編)
上編中、次に神像めきしもので本郡で有名なるは中田豊国神社の豊太閤の木像である今少しく之れに就いての記述を試みたいと思う、木像の其の模様といひ其衣装といひ孰れより観るも当代の作たる一つも疑を挟むの余地がない而して秀吉は鬘髯甚だ少い故に其威儀を高めんとし、常に添髪を施した依てこゝなる木像に於ても髯頗る粗なるに髯の濃なるは之れが為である故に小杉博士の直話によれば前田家所蔵のものと同一なるも作品の上よりせば頭部が少し劣れるの感があると、或は疑ふには後にこれを取り換へたものではなからうかと今の所之れに関係する有力なる古文書等一つもないは遺憾の極みである座像の下に引出あるは其の関係書類を納める為の設けのものなりとのことであった。承応以降大に徳川氏に遠慮の結果社殿さへ壌ち此の木像も保管に窮した情態であったから保管も転々であった間に此の引出中にあった重要書類も失せたのである只鶴和氏の代まで存在した事を傅ふのみである此の木像と同様のもの武蔵国川越喜多院にありと言はれた三上博士の「正確なる史料に現れたる豊太閤」の論文中に高野山の蓮華院、京都東山の高台寺、旧宇和島の伊達侯爵家の画幅、故川崎千虎氏所蔵の画、京都の妙法院、等持院にあるものに依り作った人相に……五十五、六才の中肉中背の男、色赫く顔はまっ尋常にてさまで長からず又さまで円からず下頬は少しくこけ観骨は稍高く唇は少し厚く額には寄る年波の皺少しく見え眼は鋭き方である耳は左程大きくはないが又小さくもない髯は薄く顎の所に生えたと云ふ、されば此の木像の如きものか次に故重田博士の如きは徳川時代に入っての作品は人品を下さんとしてわざわざ猿面的ならしめたとの説もある合せて述べた訳である、之れを納めた神殿現今の豊国神社の神殿に旧殿の古材を以て建立したの話がある成程柱等の大さと桝形などの所に不釣合の点が見える彼の蟇股などに桃山の特長がある、されば旧殿の風格も太閤気分がたゞよって居ったに違いないと思ふ
茲に今千代尋常小学校の庭地に九山八石と共に現存する元の豊国神社の礎石の大さを東南陽より南側北側東側と順次に示す畧一覧表(十九箇記)
中編中 豊国神社今中郷に鎮座して居る同社は其元中田の松林中にあったのが一旦廃社となって居ったのを更に此地で再興したのである、それで阿波志に「疣豊臣祠址在中田村松林中」とある
抑々同社は豊臣秀吉が薨ずるに失って重臣片桐且元に「我死するの後此像を家政父子に与へよ」と遺言した其後慶長四年五月十五日嗣子秀頼桃山御殿の大広問へ家政至鎮父子を召して親しく之を賜った其後其木像は徳島城内で祀ってあったが慶長十九年中田千代の松原北手に神殿を建立して其年八月十六日上棟式を行って豊国大明神として奉祭し其後日吉大明神と改めた其棟札今に宝蔵寺蔵して居る本願は豊富朝臣沙弥蓬庵仝上蜂須賀阿波守至鎮別当権大憎都清仁和尚とある、清仁和尚は宝蔵寺初代の住僧である、それで豊林寺の開基以前は宝蔵寺の構へであったといふのが知れる其後豊林寺龍巌時代となって社領二百石を寄せられたのは別に豊林寺の所で述べてあるが社領はいづれの方面にあったか別らない今小松島の字に領田といふのがある之は豊国神社の社領の跡だと、いって居るのは或はさうでもあらうと思ふ黙るに徳川氏の治世に豊公を景慕するのは心中疚しい処があるので先づ豊林寺を廃し遂には承応年中に至って蜂須賀第四代光隆の治世に豊国社の社殿を毀ち神体や棟札等は中郷村松軒文左エ門に預けてあったが段々面倒を見るので私に宝蔵寺に保管を托したそれで同寺の古文書中豊国社の棟札神体等の記録の左書に「豊林寺より庄屋久助方へ預り後元禄十一年より当院へ移転と申傳候」とある庄屋久助は鶴輪家の一人である近来又中郷に神殿を建立して豊公の神像を奉安した。
其の神像は高さ一尺許の座像であって厚さ二寸五分許の台座の上に安置せられて白袍を着し頭上に関白の唐冠を載き笏を手にして眼光炯々威風凛然たる処に五十有余と思はれる厨子は高二尺許で前面には菊桐の紋章が入った金梨子地で頗る古色を帯びて居る此の神体は明治元年七月十八日神仏取別の結果で引上げられたといふのは宝蔵寺の所でいってある又現在の宮殿に用ひてある瓦、石、木材の一部は中田時代のものを再用したものらしい、それで何んとなう不釣合の感じがする次には同社に保存する古記録中から必要な部分を抄出すると次の如くである豊国大門は福島慈光寺へ国主より送渡候左大臣右大臣木像は富田八幡宮へ国守より送渡候弐の門は二軒屋勢見山 赤の門左大臣右大臣は名東郡大山慈光寺下寺に十五、六年迹迄御座候処潮音寺天神の社前に今御座候。
明治年中に神様格別御取調被遊候豊国神社は官幣小社別格と居り候京都大仏寺内に豊国神社御普請仕候大阪は中の島豊国大普請東京より西方へ御免成候
阿波志に宮坊亦在中田村修真言管八幡西祠又有廃寺一日豊林寺在千代松林中礎石存元和中釈尊海居此」と見えて居る宮坊は山伏で今徳島市富田の掃除町へ転住して居る宮守秀太郎方である、同家は秀太郎の父常盤まで修験の職を奉じて後暫く復職神勤して居たと云う豊林寺は豊国神社と一大関係を有する名刹で慶長年中蜂須賀家政其子至鎮と共に豊国大明神を中田に勧請した時京都高雄山から龍巌上人を迎へて開山せしめたもので北巌山豊林寺と称して古義真言宗の巨刹であった是れ即ち豊国大明神の別当職で当時は大層重んぜられた、それで寺領は別になかったが境内四面と豊国神社に対する社領二百石とを当寺に寄せられた其後至鎮の子忠英が祖父家政の旨を奉じて豊林寺の住職龍巌上人に下された墨附で勢見の観音寺に存するものに次のやうなものがある
北巌山豊林寺境内四至傍示並ニ社領祖父家政被定置所任先判之旨今以不可有相違者天下長久国家安全之祈祷可被致精誠為保証之如件
寛永十六年三月朔日
阿波侍従 忠英 判
龍巌上人
其後幕府を憚る処があったので豊国大明神の崇拝も大概にするやうになった、そこで豊林寺から兼摂して居た龍巌上人を勢見の観音寺に移らしめると共に宝林寺の什器宝物は勿論主尊並に仁王門及び一刻庵と称する茶室までも残らず観音寺に移した、それと同時に二百石の社領も亦観音寺に移されて豊林寺の寺務は全く観昔寺で執られる事となったそれで豊林寺は自然疣寺となって其跡は豊国神社の附属地となり芝草の繁茂に任せるようになった唯其形見として見るべきものは現在同地の千代尋常小学校の門側に築き上げた小丘に置いてある九山八海石のみである之は奈良の都の庭石であったのを其時の天子から秀吉に賜はり更に家政に賜はったのを慶長二年秋九月大阪中ノ島の屋敷に引取り次いで阿波に取寄せて豊国神社に奉納したものである其の類石には日本中で金閣寺に存して居るばかりであると云う是阿波志の千代松林項に「有石高低成峯称九山八海」とあるもので一石の雅趣能く山水の勝を恣にしてさながら一幅の唐画に対する感じが起る、次に中郷の豊国神社に存する古記録中から豊林寺に関する分を抄出せり
豊林寺は豊国仮別当也豊林寺の宝物諸々へ行き鏡は板野郡大山寺観音へ国主より送る豊林寺に祭申候観音は勝浦郡中津峯観音、豊林寺観音堂は今御座候勢見の観音堂也、尤豊林真言宗に而大寺と申伝候並に豊林寺の証拠類は勢見に御座候、又勢見観音寺に御座候家政殿木像は豊林寺に祭申候豊林寺の後に勢見に引受申と是亦申伝候
宝蔵寺一に豊林院ともいって小松島町大字中郷にある地蔵寺末の密宗である本尊は地落菩薩にして杖持山延命院といふ当寺は火災に罹った事があるので古文書等は大抵焼失して仕舞ったが阿波志には「宝蔵寺在中郷村一称豊林院前日吉祠安豊太閤像寛永十二年釈龍巌居此賜手書今隷小松島地蔵寺」とある是に依って日吉神社の別当として蓬庵公以来蜂須賀家に於ても帰依浅からなかった事が想像せらせる其時代の遺物として豊林寺から移されたといふ金箔木像の如意輪観世音蓬庵公の寄附だといふ本尊延命地蔵及び其脇侍で正勝(蓬庵父)の記銘がある不動明王、毘沙門天の二像が存して居る、日吉神社の神体も以前は当時に構って居ったが神仏取別を八鎌しくいった結果で明治元年辰七月十八日郡代奉行へ引渡した豊国神社の棟札は矢張当時に蔵して居るが之は別にいふとして
(以下畧)
16.「本尊」木彫豊太閤像 厨子入
現在中郷豊国神社玉殿に蔵す 複写
元中田にて豊国大明神と称し次で日吉大明神又日吉宮と改め中郷に移して日吉神社明治年代となりて豊国神社と称す
17.「豊国神社所蔵棟札」中郷現在
(表)維時明治十五年五月二十四日 総代
奉葺替豊国神社星霜已久雨蝕露敗清宮廃礼
祠掌 長太夫 棟梁
島文平敷島宅右衛門前地作之助前地八蔵
典有闕故今葺脩輝其旧儀焉
前地理之助
(裏)聖主天中天、迦陵頻伽声大自在天部類眷属
△奉建立豊国大明神御社一宇 大壇那
哀愍衆生者、我等今敬礼矣釈提桓因四大天王
慶長十九甲寅八月十六日
豊富朝臣 沙弥 蓬 庵 大工藤原豊
豊富朝臣蜂須賀阿波守至鎮
別当権大僧都清仁和尚位尊海上人
18.「同社前石造銘」
燈 籠 一対 安永二癸巳八月十八日
日吉宮宝前(現棹石のみ)
手洗鉢 一 安永六丁酉三月吉良日
寄附勝村氏□歳男□歳男
御神燈 一 寛政八丙辰
願主中郷村(現棹石のみ)
鳥 居 一 文化六歳次已己仲冬吉日
願主 那賀郡答島村新居峯之助
木額 豊国神社
常夜灯 一 文化十三子八月十八日
久 願主 答島村新居峯之助
世話人 中屋勘兵衛
狗 犬 一対 天保癸己正月
獻主 岡十二(破損甚だし)
獻 灯 一 天保十二辛丑八月吉日
徳島かぢや町郡屋茂兵衛
百度石 一 慶応元乙丑五月吉日
世話人 鬼門直五郎
19.「地積図」小松島市役所蔵大字中田の一部
右参考 明治初年土地所有者調
26番 畑 4畝2歩 所有者 沢村 近蔵
27番 畑 9歩 〃 沢中力太郎
28番 畑 3歩 〃 矢和田隆三郎
29番 畑 15歩 〃 原田 藤吉
30番 宅地5畝20歩 〃 矢和田隆三郎
31番 畑 4畝19歩 〃 原田 藤吉
32番
33番 畑 4畝2赤 〃 井内 忠平
小計1反9畝2歩
外に御籔とあるもの1反6畝23歩あり
21.「礎石について」
石質種々あり勝浦郡志に十九箇とあり小松島市史小松島町の巻に記名六箇不明無名数箇とあり現在中郷豊国神社境内に十七箇(古老曰く数年前中田千代小学校講堂横より堀り出して現在地へ運搬せりと云う)別に千代小学校門側にも一箇あり計十八箇有其記名あるを列記すれば
益田左兵尉(千代小学校に現在あるもの 他は全部豊国神社にあるもの)
細山主水助
佐渡民部
野々村左門
長江刑部
倉知兵庫
長谷川但馬守
山田織部佐
稲田監物
蔵人
内匠
山田
おわりに
以上のように史料を列記したが,新規に発見したものは少なくかえすがえすも残念である。先覚者の研究努力の結果を並べたに過ぎない感がする。ここに改めて先覚諸先生に謝意を表する。 以上 |