阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第14号
豊林・豊国の旧址について

郷土班

藤目正雄、藤岡道也、石川豊作、若江兵二、山本武男

調査報告
 今回の小松島市総合学術調査に際し,阿波郷土会は郷土班という名称で会員藤岡,石川,若江,山本の4者と私が加わって中田町の豊林寺と豊国大明神の旧址を調査した。

所在附近図
 現在,堀越の観音さん横の豊国神社右手に置かれている大きい礎石は元千代小学校の運動場に置かれ,豊国神社の礎石である,といわれていた。その石を山本武男君が拓本すると「豊国」の文字が読める。また,家臣名も刻み込まれている事が判明した(資料参照)。現地には17石であるが,千代小学校玄関前に1石残存しているから計18箇の礎石がある。学校の運動場に運び置かれる以前は近くの現在2階建ての借家の地にあった。これは中田町生え抜きの人達の言葉で一致する。
 75才になるタバコ屋の老父は小若象の時まで借家の建っている所にあったといい,70才になる婦人は小学生の時,礎石の上で遊んだという。家主の主婦は50年余り前に先々代の時に借家を建て,当時あった礎石を運動場へ運び置いたという。大正の初めである。
 借家は学校の運動場と小路を隔て,槙垣の中に東面して建っている。小路は南へ伸び本街道に接し,曲ったような型でさらに南進し天神境内に至る。この社地の近くの前方(南)が豊国神社。堀越寺である。
 借家の建っている地に礎石が並んでいたというから,ここが豊国大明神の社殿の建っていた地である。現地では豊国を「ほおこく」といわず「とよくに」といっている。とよくに大明神であり,とよくにの宮である。
 ところでこの豊国大明神の社殿の建立はいつであろうか。阿淡年表秘録では慶長19(1614)としている。丈六寺の住持日鑑に棟札の写しがあり,慶長19年建立は正しいと思われる。

礎石実測の縮図
 「蓬庵公御隠居御屋敷勝浦郡中田村御殿より弐丁斗隔豊国大明神之御社御建立今日御上棟別当豊林寺権大僧都清に被仰付」(阿淡年表秘録)で豊国大明神の別当は豊林寺清仁である。ここで豊国・豊林の密接なる関係を知るのである。豊国大明神の社段建立の場所は一応決定できるが,豊林寺の地域はと考える時,阿淡年表秘録に「東八幡馬場限,西林限南桜馬外道限,北林二目外堀限,竹木等永代莫他防事寄地建立処也」とあり,家政名で龍巌上人宛となっている。
 東八幡の馬場というのは現八幡神社の前通りで松原節のことである。西の林は明治の初期頃まで松林であり,樫の大木が生えていたといわれる線である。南桜馬場外道は建島神社の馬場といわれる山麓から南へ伸びた道が尽きる所で本街道に接し,この本街道は西須賀・大松・江田を通じ小松島に至る道で,東西に伸びている,この線を南限と考える。北は山麓に沿いて流れる現在の用水路である。これは外堀というに当然する旧い手法が認められるが耕作の関係で用水路に改良されたものであろう。成願寺附近及び所々に岸を築いた石や溝築工法に旧型が残存している。

1.礎石の大きさは一様でない。
2.中央の穴は円形であるが歪がある(正しい円形でない)
3.穴は柱の脚元欄を入れる。

 東西南北の線を定めた地域が豊林寺の寺域である。しかし,境内の規模や建造物を推定するに何の資料もなく,豊国・豊林とも様式は不明に終る。ただ,豊国社殿の敷地の判明で豊国大明神は豊林寺地域内に建っていたことが明かに知れ,千代小学校は豊林寺地域内になっていることが理解された。
 ところで,この豊国・豊林の社寺がいつ廃絶したかを確実に知るに足る資料もない。「宝永4年(1707)豊国社転候に付申上候処御扶知持方ハ被召上寺地之儀ハ是迄通御裁判仕候様被仰付」で宝永4年に豊国社は移転している。阿淡年表秘録によれば「正保2年4月21日。江戸より御喜を以て御被仰出,丈六寺観音堂御普請御被付,また中田豊林寺之堂宮被損候得共,御当家へ対難成候,堂宮破損次第に仕置候様,且会所裏の長屋借家に申付義如何候(以下畧)」とあって,丈六寺観音堂の普請は許されたが,豊林寺には厚意がみえない。創建者蓬庵死して65年余にしてこの状態であるから自然に変敗廃絶したものであろう。
 俗間に伝えられるところによれば豊林寺の本尊は中津峰の如意寺へ,本堂・三門は勢見の観音寺へ遷したというが,如意輪寺・観音寺とも元和の創建であって豊林全盛の時代に寺院はなっている。富田八幡神社や大山寺えも遷されたものはあるが信否を立証するに足る資料を欠ぎている。
 豊林寺と観音寺の関係は開祖を同一人としたことであろう。観音寺縁起に「請住洛西高尾山本願龍巌上人為寺主,兼城南豊国宮別当号豊林寺,此宮祠緑二百石也」とあるよう龍巌は豊林寺に住し,また観音寺に住した。この寺緑によって後世に後山こと閑々子が豊林寺の一角に庵を結び,その住居址を「閑々子跡」跡という俗用の地名となっている。閑々子は観音寺で刺髪し,この寺で終生し墓碑は裏山にある。成願寺の閑々子の墓というのは供養墓であろう。
 最後に豊林・豊国と関係のある蓬庵の中田別荘について記しておこう。前掲した阿淡年表秘録の中に「御隠居御屋敷二丁計隔豊国大明神建立」とある通り豊国社と別荘の間隔は2丁である。豊国の社殿敷地と思われる所から西へ2丁測れば桜の馬場であり,この線の西側に「おやぶ」・「ご隠居所」・「おもん」等いわれる地がある。この一郭が狭間という小字で蓬庵の別荘と推定した(資料参照)。そして,その地の利便さを指摘しておく。
 狭間の桜の馬場を東限とし,西はコンクリートで両岸を改良している用水路で,元は堀であった。南は街道で区切るが,この街道の南方は神田瀬川の上流で,ここより船を出せば小松島・大神子・小神子を経て津田の沿岸を通じ城下に至る。現在は小溝のような感じがするが,大正の初め頃までは小舟が出入をしていたという。北は芝山で登れば目下に南方の平野を望み人の動きが知れる。背を反せば北に徳島の城下町を眺め,東は城下に至る大船小舟の数さえ読める海原である。豊臣方滅び,徳川氏の天下といえ,いまだ安定したる社会状態ではない。隠居したという蓬庵は普通世間並の隠居ではない。故あって頭を丸めた家政は蓬庵に称しつつも世の中を凝視していたことである。こうした観点から中田別荘の地は狭間26〜33番地と推定した。家屋結構,様式等明かにする資料の無い事は残念であるが,別荘の地が明かになった事は喜びとする次第である。(藤目)


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