阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第14号
港町小松島の形成過程

史学班 泉康弘

 はじめに
 第1章 在郷町の形成と富豪の存在
 第2章 小松島港の成立過程
  第1節 小松島港築港の背景
  第2節 小松島港の築港
   第1項 村営事業期(明治32年〜大正元年)
   第2項 県営事業期(大正2年〜大正10年)
   第3項 国営事業期(大正12年〜現在)
 第3章 市街地域の拡大
 結び

はじめに
 港湾都市として発展しつつある小松島の歴史的な形成について少しでも明らかにするのがこの小論の意図するところである。
 1900年以来の小松島港の形態的な発展は著しく,それに伴ない小松島市街の形態も変貌して来たが,港湾と小松島の発展がどのように結びついて来たか,藩政時代の小松島はどんな存在であったのかは明らかでないばかりでなく誤解されている点も多いように思う。発展した現状から類推して小松島は古くからの港町として見られがちであるが,それは正しくない。現在の市街地である小松島浦に本格的な集落が形成されるのは17世紀以来のことである。形成された集落は港町としてではなく城下町徳島との関係を強くもった在郷町としてである。小松島港の発展は在郷町の発展から直接的に結びつくよりも,藍商を中心に徳島県に蓄積されて来た経済力が日本の資本主義的発達に対応しようとする中で天然の良港たる小松島が重要視されるのであってそれは僅か70年に満たない年月なのである。
 日本の歴史的な発展に複雑に屈折しつつ対応していく小松島の姿を位置づけするために第1章で現在の小松島の母体となる在郷町がどのように形成されたかと富豪の存在を中心とするその特殊性を明らかにし第2章第1節で藩政時代から築港以前の小島松港の位置を明らかにし第2節で港湾建設過程を綿密に実証しつつその時々の問題点を指摘し第3章で市街地の拡大を見て,港町の形成過程を少しでも明らかにしようとするものである。
 史料不足のうえ,入手しえた資料を十分に消化しきれておらず表面的な概観のみであるが,読者諸賢のご叱正によりさらに進展深化させようとするものである。
 なお,この小論の構想,資料調査は三好昭一郎,浅野源二,佐々木清克,岡本敏,泉康弘が共同で数次にわたって行なったものであるが,文章史料解釈などの全責任は泉が負うものである。

第1章 在郷町の形成と富豪の存在
 小松島の市街は勝浦川の形成した沖積平野の上に位置している。勝浦川の流路が論田,大原の方向に固定されるのは17世紀における藩の築堤工事の結果である。古来の勝浦川は田浦の井の口辺より南流し小松島平野を形成したのである。その遺跡は明白に残存している。小松島が古くから開拓された土地であることは中田の貝塚遺跡や田浦の前山古墳の存在,勝浦新荘,多奈(田野)荘の存在などから推察されるが,田浦,新居見,芝生,田野,中田など山辺の土地ではなく,純然たる沖積地である小松島浦の土地に集落が形成され現在の小松島市街の母体となるのは古くはない。小松島浦が松島の辺を中心として本格的に集落を形成しはじめるのは藩政時代に入ってからである。
 蜂須賀家政は徳島を城下と定めたが,小松島をも徳島城下に附属する一拠点として重視したことは武市常三の千代ケ丸山か日の峰山への築城献策は別としても,豊田神社豊林寺,自己の別邸の建築や柴山(日の峰)一帯,小松島浦,日開野村,中郷村を藩の直轄地としたことからもうかがわれる。小松島は徳島城下の補助的役割を負う土地として阿波国経営の中に位置づけられるのである。このことが理解されるためには豊臣政権成立と同時に断行されはじめる兵農分離政策と検地政策による社会の再編成の開始から,その後を受けた徳川政権による幕藩体制の確立までの16C末から17C前半の時期における全国的な人口移動のことが考えられなければならない。幕府においても諸藩においても17C初頭における急務は人民の兵農分離による身分秩序の確立と土地への固定化である。蜂須賀氏の阿波国経営もその例外ではない,このことは基本法として元和4年正月朔日に発布された「23ケ条御壁書」とその「裏書」の規定によっても明白である。この兵農分離を基盤とする身分秩序の確立のために城下町を経営するのであるが,その際に徳島城下町の補助的役割を小松島に与えたと考えるのである。地理的位置や後に記す寺沢家をはじめとする諸旧家の出身地や地位の家伝・記録によっても納得できると思う。全国各地から蜂須賀氏を頼ったり,姻籍を頼って阿波に移住して来た者のうち,兵農分離の過程で家臣団には編入できないがさりとて放置もできない者,あるいは自ら望んだ者などを小松島を指定して居住させたものと考えられるのである。小松島の地に紺屋が多いことも田辺屋(注1)等の例によっても知られるように城下の紺屋町や紺屋司仁木又五郎の所在と関係あると推測してよかろう。これら兵農分離によって小松島に土着指定されたものの中から後述の藍商をはじめ富豪は全て出てくるのである。
 上記のような理由に基づく小松島浦の在郷町化の初期の段階で大きな役割を果したのが寺沢一族である。「阿府志」の著者赤堀良亮は寺沢氏の功績を「按ズルニ寺沢氏一人ノ力ニ依テ小松島浦寺社共千軒余ヲ改起シ其余代々エノ勤功尤モ良民ト謂フ可キカナ」(注2)と評している。これは一面的評価であるとしても,寺沢一族が藩主蜂須賀氏と強く結びつくことによってその阿波国経営に寄与し自己を特権商人化する半面,小松島をその基盤とすることで藩主と小松島の土地を結びつける役割を果したことは事実である。寺沢氏は蜂須賀家政の阿波入国を慕って播州高砂から移住し家政の命により手束姓を寺沢姓に改め城下の新シ町に居を定めたと言う。初代寺沢六右エ門(宗斎)は山内松軒とともに小松島浦,日開野村,中郷村の代官を命ぜられ,山内が免ぜられた後は村瀬太兵衛と元和初年から寛永5年頃までの13年間勤めた。その間に地蔵寺本堂の建築(注3),勝浦川の分一銀(元和7年2貫),小松島の地下役銀,那賀川筋の分一銀(寛永5年,150貫)の徴収を行ない藩に上納し,また勝浦川上流の殿河内から杉桧などの藩の用材を伐り出し水運で輸送する任務を積極的に行なった。これにより小松島における地位を確固たるものとし,その勢力を頼って一族が小松島に集結して来た(注4)と考えられる。寛永17年には寺沢宗斎,同六右エ門,同長蔵,同六左エ門,同半兵衛,手束二郎兵衛,湯村五郎左エ門の7人が藩主に御目見(おまみえ)しており,これに寺沢姓の者11人,森姓3人,手束姓4人,湯村姓1人,井上姓4人,田中姓2人の計25人総計32人が寺沢六右エ門の親子兄弟甥として長谷川越前より刀脇差御免絹布着用御免の特権を与えられている。また手代小者も「分一番所付路次用心ノ為メ」に刀脇差御免とされた。このように次第に小松島に一族が根を張るとともに藩主との関係は忠英,光隆の代々に藩主の御用銀調達のために京都へ行ったり,その借用交渉が不調の時には自己の資金を立て替(300貫)えたりする役割を果たし祝儀歳暮は欠かさず行ない,藩主が南方へ鷹狩に出向いた時には休養所として自宅を提供するなどの関係を保つのである。藩主との直接的な関係によって藩が延宝8年に藩札発行を行なう時,その座本人を魚屋長左エ門(注5)と命ぜられる(注6)。
 小松島浦の在郷町化が寺沢一族を中心に藩政初期から行なわれることは地蔵寺に所蔵する記録や「過去帳」によっても明らかにされる。寺院諸法度に基づく檀家制度により小松島浦の大部分(注7)はその支配下におかれたが,過去帳の記載及び墓石の最も古いもので寛永10年代からのものである。諸家の初代や元祖の死亡が寛永12年から正保頃までに確認できることからも移住によって形成されたことがわかり,死亡者の漸増によって人口の増加状態が推測できる。延宝(1673〜80)頃までは各年平均の死者は5人以下であり,天和・貞享(1680〜87)の間で約10人となり元禄(1687〜1703)期に年平均約20人となる。以後20人を割ることはなく25人〜40人の間を上下するのである。また同じ過去帳に死者の肩書きとして記載される町名によって元禄頃までに中町,北町,新町,西町が形成され土佐街道からの入口として西の口が附属し,次第に周辺に拡張し初佐町(市民病院の通り)から東出口の方へ神代橋が架けられて向地の方向にも仲びたことがわかる。さらに俗名の姓の代わりに記載される屋号の状況から見ると延宝に2家,元禄に4家,宝永に2家の屋号しか見えないが正徳・享保期には後述の鹿島屋、野上屋をはじめとして17家の屋号が現われる。このことは小松島浦が在郷町化する時期が元禄期であることを意味しているのである。延宝から天保の間に記載される屋号は95(注8)が数えられる。在郷町化した藩政末期の状況は地図(注9)によっても確認でき,小松島浦の商業活動は撫養,中島,富岡とともに上方からの直仕入れまで特権として認められた存在であった(注10)。
 明和8年(1771)の「小松島浦棟付人数御改帳」(注11)によると家数700軒{寺8軒,庵1軒,御米蔵1軒,加子人,来たり人,見懸人竃数603軒}。人数1065人(注12){来たり人279人,見懸人111人,神主4人,後家78人,出家並道心13人,加子役外の者284人,加子永病片輪36人,困窮により役免除者100人,役銀安宅役負担者69人,役銀安宅役とも半役の者121人,役銀のみ安宅役免除の者39人}。{御役銀176人分,安宅側役76人半分。高合1378石2斗5升(内263石4斗3升は他村より出作り分)。牛馬11疋。舟2口合28艘}というようになり戸数603戸で人口は約2350人と推定(注12)され,来たり人,見懸人,困窮人及びそれに近い者,加子役外れの特権者が多いことが町の発達状況及びその実態を暗示している。天保9年(1838)は竃数860軒,人口3400人(注13)であり,明治9年(1876)には941戸,3631人(男1762,女1869)となる。
 以上のように形成される在郷町小松島には地主型,藍商型,紺屋(注14)など他の商人型とに大別される富豪が多数生まれる。その富豪達の前歴は家伝などによる場合は多少検討の要があるとしても全て他国,他地域よりの移住者であり,前記の兵農分離過程で小松島に土着したと考えられるものが全てである。富豪として最も華やかな存在が藍商の場合である。小松島の藍商は純粋に町方の商人として北方(きたがた)の藍玉製造力をもつ大監師とは違った商法で抬頭するが,その藍の流通機構への進出もすでに記したような小松島のもつ政治的な特異性と彼等自身がもつ「筋目」の良さによって,特別に認可されたものと見ると一応の説明づけができる。彼等の活動の初期においては北方の宮島,鶴島の藍商の行なう江戸問屋着販売に対して自分たちに有利な直売,振売方式をとって訴訟問題(注15)をも起しながら,元禄から宝永期にその地位を確固たるものにする。この新興グループの中心になるのは播磨屋,鹿島屋,野上屋,島屋などであり,これらの藍商は全て姻戚関係をもっていた。幕末に藍商として活動していた者(注16)には,鹿島屋甚太郎(井上家),播磨屋九兵衛(松浦家),野上屋嘉右エ門(西野家),島屋久兵衛(寺沢家),阿波屋嘉右エ門(安宅家),阿波屋(注17)十兵衛(七条家),熊野屋兵助(町口家),阿波屋源蔵(森八左エ門家,島屋六兵衛の森六郎家は分家)が記録にある。これらの藍商はその家柄と経済力によって身居(みずわり)で特権階層化し,その藍玉取扱い高も藍商の中でトップグループであり,売場先では沼津での井上家や安宅家のように無官の大名たる地位をもち,本拠である小松島にも豪荘な邸宅を築き富豪として君臨するのである。これらの富豪化した藍商にしても他の商人にしても蓄積された余力は全て土地に投資され地主としてもより大きな存在となるのであるが,中には井上家のように新田開発(富岡辰己新田),廻船業に事業拡張する者,西野家のように酒造業(琴平「金陵」)に松浦,森家のように肥料問屋に事業拡張するものなど幕末・維新期における富豪経営の分析は興味ある問題であるが,紙数の都合上他日を期したい。
 以上の記述によって概略ではあるが,小松島浦が藩政時代に在郷町化される過程とその特権的な位置を利して富豪が生まれ商業資本が蓄積された土地であることが明らかとなったと思う。しかし,この資本が小松島港に結びついて生まれたものではないこと,小松島港に結びつくのは日本の資本主義的発達という背景によってであること及びその時期は明治も30年を過ぎた頃からである。複雑と言えば複雑な屈折した小松島港の歴史的発展を次に述べたい。

第2章 小松島港の成立過程
第1節 小松島港築港の背景
 第1章で記述したような大監商の存在と現在の状況から小松島港が藩政時代から藍の積出港としても重要であったように見られがちであるが,積出量から見れば,津田川口,別宮川口,撫養川口とは比較にならない。小松島の藍商の本拠は小松島であるが,その活躍の場は徳島の藍場と関東を中心とする売場先である。小松島においては藍製造はもとより取扱いも殆んどしていない。本拠の小松島に持った蔵は藍蔵でなく米蔵である。
 文政7年頃の関東売仲間と阿波・兵庫間の運送特約に加盟した浦々の船は165艘であり,地域別に見ると津田浦65艘,徳島27艘,別宮川口44艘,撫養川口25艘,小松島浦2艘というようになっている(注1)。この比率がその当時における積出量の率に近いものであろうと川口番所などの条件からも考えられる。小松島から積出された最大のものは藍玉製造の際に混入される藍砂である。藍砂は小松島の元根井沖で採取されたものが最上とされ藍場の浜(現在の小松島石油所在の辺)で選別され,徳島の出来島附近に設置された砂置場へ30石積の船で積出され,そこから吉野川の水運により藍玉生産地の玉師に年産実績に応じて配給されたと言う。藍砂は寛政10年に専売とされ13軒の問屋が取扱ったが,その当時10ケ年の平均は毎年15,000石でその税銀は年間銀80貫目(注2)であった。
 小松島の港としての状況は明治12年頃には「根井港,本村東ニアリ東西2丁15間,南北3丁深サ干潮2尺ヨリ1丈ニ至ル。東風西風ニ宜ク南風ニヨカラズ。暗礁ナク1年出入船凡ソ5000艘」(注3)であり,小松島浦の船の所有状況は蒸気船(100 t 以上)1隻,日本形船166艘(50石未満29艘,50〜200石6艘,漁船130艘,遊船1艘)である。蒸気船1隻については井上家(鹿島屋)が所有した鵬翔丸で総トン数792 t 登簿トン数448 t である。当時,小松島を定繋地として登録されていたもので,根井沖に碇泊して人々を驚かせた黒船である。この鵬翔丸は阿波藩が慶応4(戊辰)年にグラバー商会から98,600両で買入れた戊辰丸を井上家が明治5年10月に廃藩置県後蜂須賀家(注4)の所有となっていたものを金30,000両10ケ年賦で購入し改名したものである。維新当時の井上家の当主井上三千太(鹿島屋甚太郎)は藍商で得た経済力を背景として明治2年2月に藩の商法方(注5)に就任することを契機として廻船業者を志向していたのである。購入後の当初は徳島―東京間の藍玉輸送を行なっていた。しかし不運にもこの鵬翔丸は明治14年11月24日に暴風雨のために陸奥国三戸郡鮫村湾で沈没して廻船業はざ折してしまい,このことが大きな打撃となって小松島を離れることになる(注9)。この井上家に見られるように小松島においても海運業に乗り出すものもいたのであるが,小松島を基地の港としては使用できず,明治13年には船籍も東京に移される。
 明治10年代前期における徳島県の海運の中心は津田川口,別宮川口,撫養川口であり,小松島港は全く問題にならない状態で「西南諸港報告書」(注6)でも完全に無視されているのである。
 海運の中心であった津田港も「東西7丁南北8丁干潮深6尺浅3尺余,海水総テ遠浅ニシテ300石積以上ノ船舶ハ満潮ヲ待タザレバ出入スルヲ得ズ。若シ東南風烈シキトキハ出入最困難ナリ。汽船碇泊ニ便ナラズ,多ク津田川口ニ碇泊ス。近来北海道物産ヲ輸送スル船舶ハ多ク板野郡別宮川口ニ入ル」(注6)と言う状態であり,このことが,それまで避難港の意味しかもたなかった小松島湾に注目する原因となる。
 当時の徳島県の輸出物産は表1のようであり,津田,撫養の輸出入状況は表2表3表4である。
表1 徳島県阿波全国著大物産輸出表(「西南諸港報告書」)
表2 撫養川口港輸出入表(「西南諸港報告書」)
表3 津田,別宮両川港北海道直輸入肥料(「西南諸港報告書」)
撫養川口港北海道直輸入肥料
表4 明治13年津田港輸出入表(同上)
 当時の徳島県の最大の輸出品が藍玉,■,砂糖,塩などであり,輸入品は米と肥料であることがわかるであろう。また津田・別宮・撫養の輸出入に占める割合が明らかである。藍作のための肥料は北海道から直輸入するようになっていたのである。これを扱う肥料問屋は久住第平(25,000石)(注7),天羽兵吉(20,000石),金沢仁兵衛(20,000石),山西庄五郎(12,000石),森六郎(10,000石),松浦九兵衛(5,000石)であって,松浦家も肥料問屋に業務拡張していた。この輸入は平均1,000石積以上の船60余隻で9月より10月下旬までに別宮川沖に碇泊しそこから小船に分載され別宮川口の紙屋新田で艀舟(はしけ)に移載されて徳島船場に陸揚げされた。この本船の多くは越前,加賀の船で地元の船は1隻か2隻に過ぎなかったと言う。
 こんな海運の状況と17年設立の大阪商船による藍玉輸送運賃の値上げに対抗するために藍商達が「共同一致して県内産業文化の発達に資せんとする精神」(注8)で阿波国共同汽船会社が資本金30,000円,株主1,500余人により明治20年に設立される。この阿波国共同汽船の所有船舶の増加と津田川口の航路筋の埋塞とは船舶出入の支障,物資の停滞を生み,会社側としても浚渫申請を当局に何度も行なっていた(注8)が,中洲・津田川口では一年を通じて土砂埋没し船舶出入を容易にするためには常に浚渫が必要であり,しかも時代の進展により貨客の増加をみて円滑な輸送が不可能となったので船舶の自由に出入できる港湾が切実に要求されるようになる。このような背景のもとに四国の東門,天然の良港の条件を備える小松島湾の開発の世論が起こるのである。最も痛切に良港の必要性を感じた阿波国共同汽船の中心的な株主が西野嘉右エ門であり,明治26年当時の9名の取締役の中に湯浅貞太郎(小松島村長),西野謙四郎がおり,この両名が小松島港築港の中心的な推進者ともなるのである。
 次節にも記すが,阿波国共同汽船会社の活動とその中にも含まれた小松島地元の経済力によって小松島港の築港工事が着手され,徳島・小松島間の軽便鉄道をパイプとして小松島港が近代的港湾へと形成され,時代の要請に応えることになるのである。
 以上によって築港の背景が多少とも明らかになったであろう。このように築港以前の小松島港は港の形のない元根井の漁港と小松島湾奥が避難港として認められていた程度であったのである。
第2節 小松島港の築港
第1項 村営事業期(明治32〜大正元年)
 小松島港の築港について前節で記したような条件と海上輸送の必要性増大を背景として小松島港築港の世論が明治20年頃に起こる。26年12月に村長湯浅貞太郎(明治24.12.25〜27.2.25在任)が中心となり県知事村上義雄に小松島港築港を建議(注1)する。しかし日清戦争の影響と主唱者である湯浅の衆議院議員当選(27.3〜30.12まで2期)により一時期下火になる。31年湯浅貞太郎が再び村長(31.11.1〜42.2.15)になってから論議が活発になり阿紀間航路の開始に刺激せられて32年3月13日の通常村議会決議のもとに築港工事が実施されることになる。3月13日村会での村長の小松島港湾改築議事説明(注2)は次の如くである。「小松島港ハ天然ノ一大良港ヲ為シ居ルモ川口水浅ニシテ汽船ノ通行ヲ断絶シタメニ海陸共ニ便ヲ欠キ遺憾比上ナシトス。今ヤ陸海ノ運漕事業ハ日ニ月ニ隆盛ニ趨キツツアリ而シテ従来ノ阿摂郵便航路ハ変更ヲ為サント目下計画中ナリト聴ク。果シテ然リトセバ徳島市附近ニ於テ本港ヲ措キ他ニ良港アルヲ認メズ。然レドモ旧来ノ侭ニテハ汽船ヲ深ク川口内ニ進メ繋留スル事能ハザルニ付コレニ人工ヲ加エ完全ナル良港トナシ陸海運漕ノ便ヲ計リ斯業ヲ盛ンナラシメ以テ一村一国ノ福利ヲ増進セシメント欲ス。コレ本案ヲ発シタル所以ナリ」。これによって築港の意図は明白であろう。この趣旨に基づき「小松島港湾改築施行規程」(注3)が決議される。
 第1条 小松島港ハコレヲ改築シ字東出口及字外開蛭子ノ段以東堤防へ弐百噸以下ノ汽船ヲ横着ニ為シ得可キ迄浚渫スルモノトス。
 第2条 港湾改築ニ関スル調査ノ為メ委員15名ヲ置クモノトス。
 第3条 調査委員ノ任務ハ左ノ如シ(略)
  調査委員氏名
   西野嘉右エ門 七条佐代太  松浦九兵衛  西野謙四郎
   萬宮 忠蔵  安宅 権一  樫原久賀蔵  赤沢茂一郎
   島田弁五郎  内藤 文一  三木 宇平  多田勝太郎
    新開  貢  宮本 谷蔵  内藤利五郎
これに伴う予算措置ハ通常予算で200円(注4)の調査費が計上され,本格的な予算計上は5月22日の臨時村会で議決された追加予算で行なわれ表5の(イ)のようになった。その歳入に県費・郡費補助を見込んだのは「右工事ハ村税ヲ以テ起工スルモ其工費予算金17,769円56銭ノ多額ヲ要スルニ付村力ニ耐ヘザルニヨリ金3,000円ノ県・郡補助ヲ請求スルモノトス」と言う理由に基づくものであるが,結果としては「第一期工事ハ急速ヲ要スルニヨリ県費補助金下附ヲ受クルノ遑ナキヲ以テ既決議ヲ消除スル」ことになり郡費補助金も工事縮少に伴ない1,500円に削減された。そのために当初の第1期,第2期工事を積算した19,817円の予算から8,885円の予算に縮少されて7月31日に議決される。この変更予算額に基づいて直ちに第一期工事が工事委員(注5)監督のもとに着工され神田瀬川口の3,000坪の浚渫土砂堀揚(1坪1円20銭),その土砂で官有水面の湊口(2町5反1畝20歩)横須(3町2反2畝2歩)の埋立が行なわれた。また同時に投石による波除波止を南根井側から100間,外開側から50間のもの(両方で石坪1,020坪,1坪石代4円)を建設する工事がされた。これらの工事は和船78艘を用いジョレンを主な道具として行なわれたと言う。第1期工事は33年10月に一応の竣工をみたので,10月28日に埋立地で竣工式が挙行された。この竣工式は起工式でもあった。同年5月に県よりの正式の工事許可が与えられ,それに基づき築港起工を記念した県知事小倉久の名を刻んだ基礎石(注6)を沈める儀式をも合めて行なわれたからである。この第一期工事はその後も33年10月に4,000円(1,000円は小松島浦村の寄附),34年7月に2,550円の予算追加が行なわれて継続されたので総額15,345円の工事となった。
 第一期工事で造成された埋立地は「成工ノ上ハ無代価ヲ以テ払下ヲ受ケ小松島港湾改築第一期工事ノ内支弁ノ為メコレヲ公売スルモノトス」とされたが,これらの殆んどは西野家がその経済力によって購入することになる。
   埋立地所分議決(注7)
 勝浦郡小松島村大字小松島浦村字湊口
 1.埋立地 2,184坪 此ノ売却金 2,712円50銭
  右埋立地工事竣工許可相成リ村有ニ帰シタル上ハ西野嘉右エ門へ前記ノ代価ヲ以テ売却スルモノトス。明治37年2月27日
小松島港湾改築工事が第一期工事のみに予算が縮少されたのは自然的災害によるところが大きい。明治32年7月9日の暴風雨により勝浦川の江田村の堤防が決潰し大洪水となり神田瀬川が本流と化し神代橋は半壊となる。9月8日には前回を越える暴風雨が襲来し,勝浦川堤防は前原村,江田村仮止堤防が決潰し死者2人流失家屋18戸,金磯新田村でも海岸堤防が切れ倒壊家屋5戸全村浸水の惨状となる。9月22日にはまたまた大洪水のため各所の堤防が切断され,小松島全村が水浸しとなり床上浸水2,000余戸(注8)に達したのである。これと共に「此第一期工事ノ終了ハ恰モ経済界ノ不振ニ際会シ第一期工事中ニ敷設ナルベキ計画ノ徳島岩脇間ノ鉄道ハ延期ノ不幸ヲ見,且ツソノ為メニ南海汽船商社ノ航海ハ廃止ノ止ムナキニ至ル。茲ニ於テ予期ハ悉ク齟齬シ第二期以下ノ修築工事ハ鉄道敷設ノ機ヲ待ツノ止ムナキニ至レリ」と言う。経済界の不振が港湾改築工事と直接的につながるのである。
 前記の7月31日(注9)議会に「小松島港湾改築議案」(注10)も出されたが「第一期工事ニテ不充分ナガラ船舶ノ出入ニ差支ナキヲ以テ第二期以下ノ工事ハ多額ノ費用ヲ要シ且ツ即今民力ニモ耐へ難キモノト認ムルニ付追テ時期到来マデ暫ク延期スルモノ」とされたのである。7月31日議会では以後の築港工事に重大な影響を与える議決も行なわれた。「ソレハ小松島港湾改築工事ハ大字小松島浦村ニ直接ノ利益アルヲ認ムルニヨリ他ノ10ケ大字村(注11)トハ利害ノ関係同一ナラザルニ付港湾改築工事ニ要シタル公債金償還ノ為メ村税ヲ賊課スルトキハ不均一ノ賦課法ニヨリ工費総額十分ノ七ヲ大字小松島浦村ニ,残り十分ノ三ヲ小松島全村ニ賦課スルモノトス」と「小松島港湾改築工事ニ伴フ利益ノ収得及権利ハ大字小松島浦村十分ノ七トシ小松島全村ハ十分ノ三トス」の緊急動議が一議員から提案され出席議員15名(定員24名)による1次2次3次会を経て原案の通り可決され,利益の収得及び権利と財政的負担は小松島浦村10分の7とし小松島全村は10分の3とすることが決定される。この決定は以後に非常に強い拘束力をもつことになる。一般的傾向としては予算編成上の財源確保のために公債が「他ニ適当ノ財源ナク且ツ賦課法ハ不均一ナルニヨリコレヲ一時ニ賦課センカ一部ニ於テ其ノ負担ニ堪ヘザルニ依ル」理由により募集されることが多くなる。しかし結局は小松島浦村民と他の10大字村民に顕著な負担の格差をつけることになる。「地租制限外課税決議」によると「本村費支弁ノ為メ左ノ課率ヲ以テ地価割ヲ追加賦課スルモノトス。(1)臨時費ニ充用スル地価割課率地租地価100分の2箇半。金壱円ニ付小松島村2銭8厘2毛5糸7忽,大字小松島浦村56銭6厘3毛4糸3忽。但シ明治34年度」のように小松島浦村民には重い付加税賦課となるのである。その負担比較は表7の如くである。
 なお,35年4月1日現在小松島全村戸数は2,317戸で,そのうち,35年度上半期県税戸数割賦課(1,444円42銭)において無財産と認定されたものが1,094戸に及びその1戸当りは9厘で総額98円46銭(全体の6.1%)である。これに対し最高納入者(西野嘉右エ門)は150円32銭で全体の10.3%を納め,第2位(宮本谷蔵)が79円26銭となり,10円以上の者が22戸の状況であった。

表8 
 小松島港改築第一期工事は小松島浦村への過重負担や一部富豪層への財政的な依存を強めながら36年度中に公債の償還方法(注12)をも含めて一応の決着がつけられる。37年度よりは寄附金を財政的な基盤とする10ケ年継続の村会協賛事業として実施されることになる。37年4月の「小松島港湾改築工事施行議決」は「小松島港湾工事ハ左記ノ通リ明治37年度ヨリ明治46年度迄10ケ年ノ継続事業トシ其工事金ハ寄附金ヲ以テコレニ充テ毎年度歳入歳出ノ予算ヲ編ミ本村会ノ協賛ヲ経テ施行スルモノトス」としており,毎年度1,000〜1,300円の予算で港内の浚渫を中心に工事が実施される。この間43年度には町(注13)の直接事業として1,161円(町税720円,小松島浦村寄附216円,西野嘉右エ門寄附225円)の予算で港内の航路(長360m,巾18m,深90cm)を浚渫する工事を行ない300 t 級の汽船の接岸が可能となる。
 以上のように第一期工事及び継続事業により神田瀬川口を利用した港が一応完成される。この時期は日本の資本主義化が急激に進行した時期であり産業の発達に伴なう輸送力強化のために全国的(注14)に港湾修築工事が活発化した。この動向を背景として藍商を中心として蓄積されていた経済力と村長湯浅貞太郎の決断力とが結合されて小松島港湾の修築が実施されたのである。災害復旧工事,小学校建築など山積する重要事業を抱えながら,消極的な慎重論を押えてこの小松島港湾修築工事を村営で断行した湯浅貞太郎の積極的な行政手腕は評価されるべきであろうし,衆議院議員として東京で得た日本の将来への識見が生かされたものであろう。また村営で築港工事を断行しえたこと及びその結果の意味も考えられねばならない。決算表でもわかるように経常部に対して臨時部の比率が非常に大きくその財源は公債で村内有志,貸金業者からの導入であること,不均等賦課による小松島の過重負担に見られるように小松島の内包する問題を明示もしているのである。
第2項 県営事業期(大正2年〜大正10年)
 大正期になると港湾修築工事も新段階に入る。それまで村営事業として推進されてきたが県営事業となるのである。その状況は大正元年11月11日町会における町長三木金作の説明によって明らかである。「(明治32年以来の工事により現状をなしたのであるが)其後ニ於テ小松島港ノ完成ヲ期スベキヲ認メラレテ居リマシタガ所謂時節ノ問題デアツテ愈々徳島小松島間ノ鉄道計画成リ其工事ハ来春落成スルト言フ機運ニ会シタノデ県ニ於テモ愉々修築ニ決心シタノデアリマス。昨年来問題トナリマシテ以来衆議院ニ於テ国港ト為スノ議ヲ致サレマシタ次第デ県ハ一昨年ヨリ本年五六月マデ実測ヲシテ小松島港湾ノ設計ヲ致シマシタ。爾来本町ハ申ス迄モナク郡ニ於テモ深ク嘱望シテ明年度ヨリ実施ヲ望ミマシタガ不幸本年ノ災害ノ為メ着手延期トナリ県ノ方針ガ一変シタノデアリマス。夫レデ直接関係アル本町有志郡会議員諸氏ハ県ニ一任スルノ不利ナルヲ知リ延期ヲ慮ツテ再三県ニ出頭シ知事ニ向ツテ本年議会ニ小松島港湾修築案ノ提出ヲ要求シマシタ処ガ本月2日郡長ヨリ通知ガアリマシタ。夫レハ本町ノ熱心ナル希望ヲ諒シ幾多ノ事業ヲ除キテ本年度ヨリ修築ヲ為スベキ決心ヲ示シタノデアリマス。然シナガラ県ノ経済上40万円ノ県債ヲ募ラナケレバナランノデ120〜130万円ノ予算ノ処大凡100万円ノ公債ヲ超サナケレバナランノデ主務省ニ於テコレヲ許可スルヤ否ヤ,如斯経済苦境ノ時デアルカラ止ムヲ得ズ築港費ノ内へ指定寄附金ヲ求ムト言フノデアリマス(後略)」。国会における港湾の国家管理の方針と年来の懸案であった徳島小松島間の鉄道開通(注1)という情勢の中で県営事業となる。県営事業とする条件となった寄附金の問題は「小松島港修築ハ小松島町ノ発展ニ至大ノ関係ヲ有セルヲ以テ県費支弁港湾修築費ノ内へ前書金額ノ指定寄附ヲ為シ築港ノ急速完成ヲ期セントスル」念願のもとに15,000円(注16)をすることに決定され大正2年度に一轄納入される。県営工事として大正2年度より4カ年継続事業として工費144,600円で内港部の整備に着手し水深が干潮面下約4.5mとされ繋船岩壁が建設される(注17)。このような状況により小松島港が小松島の発展の第一要素であることが町政当局者に強く自覚されるようになる。このことは大正3年9月11日町会で決議した「阿南鉄道基点変更ニ対スル意見書」(注18)によって明白である。「吾ガ県営小松島港ガ四国ノ東門トシテ将タ本土連絡ノ重要関門トシテ実現スルヤ茲ニ我ガ町史以来ノ大変革ヲ来タシ尋テ町是赤変ゼザルヲ得ザルノ気運ニ到達セリ。即チ本町発展ノ要素タル以上ハ是レニ基キテアラユル施設経営ヲ企画スルハ当然ノ町是トシテ爾来着々其ノ歩ヲ進メツツ来レリ尚一方本町発展ノ要素タル港湾ノ充実発達ヲ計ルハ素ヨリ町発展ノ根本義タルト共ニ町是確立ノ第一要議タラズンバアラズ。然レバ苟モ港湾ノ価値ヲ削減シ港湾ノ利益ト相馳スルモノアランカ事物ノ何タルヲ論ゼズ極力反対ノ行動ニ出デザル可カラザルハ自ラ明ラカナルノ事理ニ属ス。况ンヤ県営港トナルノ初メニ於テ挙町一致多大ノ犠牲ヲ払ヒタルニ於テヲヤ。(後略)」のようにである。
 4ケ年継続事業後大正6年から10年度まで工費199,400円で港口の南北突堤を増築して港口の有効幅員を90mに拡張し港内の浚渫によって1,000 t 級の汽船の出入が自由にできるようになる。しかし急速な商工業の発展によって出入船舶及び貨物が増加し神田瀬川口を利用した内港は港内面積が狭隘になり時代の要請に順応することが不可能とされて港域の拡張修築が急務とされるようになる。
第3項 国営事業期(大正12年〜現在)
 大正10年6月の第2種重要港湾指定(工費国庫補助2分の1)を転機として国営事業の新段階に入る。大正11年7月の港湾調査会に於て大正12年度より昭和5年度に至る8ケ年継続事業,予算3,202,000円の計画(注19)が決定され実施される。大正15年に県費による埋立工事費247,500円が追加されはしたが,世界的な恐慌に伴なう緊縮財政の影響により予算節減,年度繰延が行なわれ総予算金3,068,526円(国庫1,425,190円,県費1,643,336円)で昭和9年5月までの12ケ年継続事業となったのである。昭和10年には県費140,778円により陸上設備が建設され,また臨港鉄道が敷設されて近代的な港湾の形態を整えた。この12ケ年継続事業により現存の東(582m),南(132m一文字波止),北(66m)の防波堤が建設された。これにより神田瀬川口に村営県営で建設されていた防波堤は除却された。またイ 南(221m水深6.4m),ロ 北(218m水深6.4m),ハ 西(91m水深4.5m),ニ 物揚場(129m水深1.5m,この部分を突出させ,35年に1万 t 岩壁が建設される),ホ 物揚場(330m水深3m)の岩壁が左図のように旧存の溜池を堀込んで建設せられ,その土砂及び浚渫(港内601,500平方メートル)の土砂で周辺に埋立地(226,850平方メートル)を造成し小松島港の中心部が形成せられて新港と称せられることになる。これにより南北の岩壁には3,000 t 級の船舶が繋船可能となるのである。これ以後神田瀬川口の部分を旧港と称することになる。

参考図
 これらの内務省直轄による工事に対する地元の対応についてみてみる。大正10年の重要港湾指定に関して「政府当局ニ於テハ目下全国ニワタリ重要港湾トシテ指定地ヲ調査中ナリ依テ此ノ際小松島港ヲ重要港湾トシテ指定セラレンコトヲ請願セントス。素ヨリ本件ハ小松島港ノ存亡ニ関スル重大問題ナリ依テ其方法及将来執ルベキ方針ニ就キ本町会ノ意見ヲ問フ」(注21)ために6月24日に繋急町会が開会される。指定決定の情報が町会開会の前夜に入手されたので請願する必要はなくなったが,この指定に関してそれ以前の状況は「御承知ノ通リ臨時港湾調査会ニ於テ香川県高松港ガ突然重要港湾トシテ指定サレマシタ付テハ何トナク小松島港ハ侮辱サレタ様ナ感ジガシマシテ誠ニ不愉快デ堪リマセン処ガ其後昨今ニ至リ四国ニ於ケル第二種重要港湾ハ高松以下四港卜決定我県下ニテハ徳島カ小松島トイフコトニナリツツアリトノ情報ヲ得マシタノデ此ノ機ヲ逸シマシテハト存ジ(後略)」というわけで総理大臣,内務大臣,同次官,上京中の県土木課長など関係筋に町長,郡会議長,西野,共同会社などから電報によって「指定方ニ付懇願」したのである。緊急町会で将来の執るべき方策研究のために「小松島港速成委員」(注22)が設置される。大正11年に「小松島港修築期成同盟会」が県会議員を中心に県の理事者を含めて設立される。この同盟会への5,000円の寄附財源を討議する中で「直接利益を享受しつつある大字小松島町が負担すべきだ」「小松島港を現在の港にする迄には多田家,西野家は多大の費用を投じていることでもあるから更に一歩を進めて同盟会へ相当の寄附を求めよう」というような意見が出たが町長の「不均一ノ賦課徴収ニヨリ事ヲ為スガ如キ弊害ハ追々除去シナケレバナラナイ事ト存ジマス。何トナレバ不均一徴収ニヨル時ハ何事ニヨラズ町一致ノ事業ハ出来マセヌカラ」との意見で繰越しとなっていた紡績工場の建家税をあてることで決せられた。この町長の発言に見られるようにこの時期になって小松島港修築当初よりの不均等賦課の弊害を避ける姿勢がとられるようになる。
 大正15年に小松島港修築による地引綱使用不能化に伴なう漁業補償問題が起り町会で8月30日より1週間に及ぶ論議がたたかわされる。松坂,港水,高松,今治など他府県の状況を参考にして補償金15,000円の支払いと海面埋立による補償について議論百出したのである。補償の根拠は「本町ノ港湾修築ハ県ガ主体トナリ内務省ガ事業ヲシテ居リマスカラモシ救済ノ必要ガアレバ県ガ救済スベキガ至当デアルガ内務省当局ノ言フニハ理論上起業者タル県ガ救済スベキガ至当デアルガ小松島町トシテハ少シモ金ヲ消費セズ320万円余ヲ投ジタル築港ガデキ将来受ケル利益ハ少クナイノデアルカラ町内ニ起ツタ出来事ヲ起業者タル県ニ心配ヲカケズニ円満ニ解決セラレルノガ徳義デハナカロウカ(後略)」(注23)というものである。
 次いで昭和4年になって世界的な大恐慌の波の中で修築工事は進行中であったが,国家の予算緊縮措置に対し工事の進行状況から削減しないことを要求する意見書を議会の議決により町長名で内務大臣,県知事に出した。「意見書」の内容は「小松島港修築工事ハ目下最盛期ニアリ然ルニ今回国費緊縮ノ方針ニ従ツテ予算削減ノ議アルヲ聞ク,惟フニ比政策ハ現下ノ我国状ニ於テ最モ喫緊ナル救国ノ大策トシテ国民等シク信服スル処ナリト雖モ予算ノ緊縮ニヨリ工事ニ及ボス結果ニ於テ地元関係者ノ希望スル処ヲ披瀝シ当局ノ清鑑ヲ煩ハサザルモノアリ謹ンデ具状ス。(1)旧港南北突堤が一部除却されて水中に没しているが放置すれば危険である。(2)旧突堤を一部除却した結果内港が危険となっているから新設防波堤を早急に建設すること。(3)凹字形船溜堀込みのため旧護岸堤防が一部除却されたが高潮の際危険であるから適当な措置を講ぜられたい。」というもので,4年度は40万円,後年度は60万円より少なくならないように切望に堪えないという。この記述より明らかなように昭和4年の段階で凹字部の建設が進行中であり,神田瀬川口の突堤が一部除却されて新突堤の建設が早急な課題となるのである。地元としては内務省直轄工事になってからは工事の進行状況を常に見まもり,附随して発生する問題の解決に意をそそぎ港湾完成後の利用方法に関心が集中されるようになる。一地方の工事も一地方であるが故に経済界の世界的恐慌の直接の影響を受けることが多かったのである。
 なお,港湾建設に伴う乗降客など参考資料を掲げる。説明,グラフ化は紙数の都合で省略する。
 

参考1

参考2

参考3


第3章 市街地域の拡大
 小松島市街の拡大は港湾建設と表裏をなすものである。港湾修築以前の神田瀬川以北の外開,網淵などの地域は前掲地図の如くで長い葮や萱の繁茂した荒田であった。神田瀬川にも原ケ崎(東出口の浜辺)から干潮の時には藍場の浜へ子供の膝頭の上ぐらいで渡りきれたと言う。32年7月と9月の暴風雨洪水のために川口が深くなって築港工事を早めることになる。また同じ暴風雨のために大破して使用不能となったが外開には火葬場があったのである。この火葬場は「(前略)小松島港湾改工事ハ既ニ計画相整ヒ其竣工ノ期モ近キニアラントス。然ルニ該火葬場ハ同港湾ニ接近シ船舶輻湊スル碇繋場ノ範囲ニ設置シアルニヨリ衛生上適当ノ位置ニアラザルヲ以テ廃止シ撤去」(注1)せられることになる。これによっても新市街地となっている外開北開など川北地区の状況が推測されよう。前節でもふれたように明治32年よりの築港工事に伴なう浚渫土砂の捨て場としてこの地域の水田,荒田が埋立てられたのである。この埋立に関しては築港事業にその経済力によって多額の寄附金を出した西野家の存在を無視することはできない。浚渫の副産物として生れた川北の埋立て地域は前記のような購入も含めて全てが西野家の所有に帰し,現在もその大部分(約85%と言う)が継続されて西野家(会社組織となっている)の所有である。このことは西野家個人の埋立事業もあったが,明治37年以降の寄附金を財源とした村営事業期における西野家の経済的な出資の大きさを意味しているわけである。
 埋立地を市街地化する直接の契機となったのは待望久しかった徳島―小松島間の鉄道敷設工事が明治45年3月から阿波国共同汽船会社によって始められ小松島駅が建築されたことである。大正元年末には既に85戸425人(注3)が居住したと言われ鉄道工事に併行して県道の敷設工事も着工されるが,それでも大正2年12月15日に幾原知重が数万人の観衆の注視の中を12人の若者の後押しによって滑走して飛行した有名な飛行演技が行なわれ得たのである。鉄道開通に伴ない新しい道路が敷設されて小松島の新しい市街地が急速に拡大する。即ち大正2年度に敷設された中町(西野哲太郎宅東南隅)から北町(浜松常五郎宅の西)を横断し神田瀬川を渡り小松島駅へ至る道路である。現在の小松島市街の中心を通っている街路である。中町―北町―神田瀬川北詰までの長さ約210m(116間)巾7.2m(4間)で42m(23間)の橋を含む道路を町営で当初4,600円余(大字小松島の寄附負担60%町全体負担40%)で着手し更に大正3年度に1,450円を追加し3年4月頃に完成され,川の北詰で県営(地元負担1,802円)で敷設された小松島駅への県道に接続された。この橋が千歳橋であり,「比ノ道路ハ小松島町ノ新市街ト旧市街ノ連絡上最モ必要欠クベカラザル道路」(注4)として千歳橋筋が完成し,それ以前の狭い中町,北町を通って神代橋へ向っていた交通径路をを一変させ,小松島市街の大動脈となり,現在に至っているのである。これ以後外開,北開,井利ノ口ヘの新市街の拡大と共に前記の県道を二条通りとし川沿いのを一条通りとし更に三条通りが敷設された。その間をそれぞれ結ぶ旭町線(30m),霞町線(56m),橘町線(54m),桜町線(54m),柳町線(78m)が敷設され,大正13年には町道として認定された。この間に私設軽便鉄道としての阿南鉄道(大正4年1月起工5年12月竣工,60万円)が中田―古庄間に開通し南小松島駅が設置され,接続道路が会社の寄附により建設された。大正8年には阿波国共同汽船会社の小松島支店船客待合所(支店は2年4月21日に設置)が建築された。
 大正9年に若井崎に大阪合同紡績会社の紡績布工場及び附属建物の建設が着工され10年4月に落成し11年6月から一部操業が開始されるようになる。(精紡機21,760錘,織機810台),14,15年に第2工場(精紡機42,888錘,織機1,308台)が建設される。小松島に建設されたのは第1次大戦後の労働運動の活発化による都会地での従業員の確保及び管理の困難化により従業員を地元で補給できる場所を物色中に小松島町からの工場設置方の申し込みにより条件を調査したところ小松島が四国の東門に当り,阪神との交通の便がよく水質も純良且つ豊富であるうえに問題の労働力も豊富なことが判明(注5)したからである。合同紡績は昭和初年の不況の影響により昭和5年11月に東洋紡績に合併されて東洋紡績小松島工場となるのである。
 昭和6年7月に失業救済土木工事として県知事土居通次の決断により県会が否決した津田,小松島間の産業道路工事が実施される。予算総額は532,120円(小松島負担39,000,大字小松島寄附3,000円,西野嘉右エ門寄附3,000円。当時米1石は約20円)で着工し7年4月に竣工した。また同時期に小松島築港線(中田八幡社前―新港阜頭)1,271mが産業道路の延長として敷設された。
 昭和9年には小松島新港が完成し接続地の埋立,県費による上屋倉庫の建築などにより港湾としての形態が整い新港が機能を発揮しはじめたことにより元根井,北浜に市街地が拡張しはじめるのである。小松島市街の拡大の基盤は大体この時期にできたと見てよかろう。第2次大戦後の急激な膨張はこれを土台にして行なわれるのである。明治以後の人口状態の変化は表9の如くである。 
 以上によって市街地の拡大が築港過程と表裏をなしていることが明らかであろう。
 現在小松島港の建設は39年4月の小松島港港湾区域の拡大に伴ない新段階に入り,小松島港区では金磯1万 t 岩壁建設に見られるように小松島港全体が港となる日も近い。このことと小松島市街の発展がどう結びつくかはターミナル的な港湾から生産工場と直結した港湾建設への変化や小松島の都市構造内に占める港湾の比重などの分析によって予想されなければならないが,小松島市の将来に大きな問題となるであろうし,歴史的な発展を考慮した都市計画の必要性を提起しているのである。

結び
 在郷町小松島の形成,小松島港築港の背景,小松島港建設課程,市街地の拡大について概観することによって今まで疑問とされたこと誤解されていたことに私なりの説明を試みたのであるが,史料不足や努力不足によって意に満たないものとなってしまったがここで今後に残された問題を列記して結びとしたい。
(1)城下町徳島と小松島の関係を全藩的な視野から分析しそれによって在郷町小松島の特異性と港の特異性を更に解明すること。
(2)特権的豪商や富豪の存在形態の個別的分析から明治維新期の富豪経営を解明する。
(3)数量的な分析によって小松島港の建設過程と貨客輸送の発達とを機能的に結びつける。
(4)小松島港と小松島市街の将来について歴史学的な未来図を描くこと。
 これらの問題をもってこの小論を更に進展させたいと念願している。読者諸賢のご叱正ご鞭撻を心からお願いする次第である。

   <第1章 注>
注1.『勝浦郡誌』P520.田辺屋(渋谷家)は先祖が紀州田辺で250石を頷し,慶長13年11月3日に蜂須資家政から紺屋役使を命ぜられたと言う。中田,前原を含めて70軒余も幕末,維新の頃にはあったと言う。
注2.『徳島県史料第2巻・阿府志』巻29。
注3.元和7年11月に代官山内松軒,寺沢六右エ門が檀那となり,家政の援助を受けて建立した。この本堂は現存せぬが棟札及び家政からの書状の記録がある。家政は中田別邸にいた時に月に10回余も来遊したと伝える。地蔵寺の縁起は天文頃から明確である。
注4.『森六三百年史』参照,森家は土佐国より寺沢家を頼って来住したと言う。
注5.『御大典紀念阿波藩民政資料』P1430「銀札場一巻留書」に魚屋について記す。
注6.正徳・享保頃には徳島の居宅の2度の類焼,商売の失敗により座本人を網干屋に譲り,小松島の宅地2ケ所や田地を売却して拝借銀の上納にあてざるを得なくなるなど窮乏したが,旧功申し立てによる藩の援助を受け,後に藍商として復活し再び座本人となる。横須の松原も寺沢一族の植林により生れる。
注7.一部分が光善寺の檀家となる。光善寺は三好元長の孫,安宅甚六郎宗久が寛永7年10月開基創立したものである。安宅家の先祖である。
注8.延べ数でなく全部違うものである。従って同じ屋号で別家の場合も一つに数えたことになる。
注9.県立図書館所蔵「井上家文書」の「五冊之内当浦町方絵図」(慶応元年写)
注10.上掲『民政資料』P2130「取究商業解放社組申付触書」
注11.『勝浦郡誌』所載。小松島町役場には棟付帳,検地帳などが,所蔵されたことは『民政資料』の参考書目によっても明らかであるが,それらは現在全て散逸してしまい,焼却されてしまったのかどうかさえ不明である。その所在,消息をご存じの方はご教示願いたい。
注12.合計数が合致しないが,原本がないため確認不能,多分男子のみの数であろう。棟付改の人数は男子及び後家のみの数であるから,天保・明治の一戸平均は約3.9人であるから603×3.9として推定した。
注13.「明石家成立代続記録村中旧事共委細記」(美郷村明石家所蔵)
注14.前記の田辺屋(渋谷家),姫路屋(樫原家),大和屋(太田家),愛宕屋(松島家),鶴島屋(鶴本家),中田の讃岐屋(井内家),田中屋,大黒屋,炭屋前原の広島屋,田野の笠屋などが有名である。地蔵寺の過去帳記載の屋号の中にこれらは殆ど合まれている。
注15.『阿波藍沿革史』に詳述されている。
注16.前掲「井上家文書」の「藍問屋名面帳」「藍仲間連名」による。他に2,3の名前もあるが,記録による確実なものだけとした。
注17.板屋を称したとも言う。
   <第2章 第1節 注>
注1.『阿波藍譜』(史話図説篇)P134.「甲申文政7年8月吉日,兵庫廻御荷物藍玉積船名面帳」より。
注2.前掲『民政資料』p1874「藍玉取行雑記抄録」
注3.『阿波国勝浦郡村誌』
注4.木村方辰,伊賀直亮の名になっている。
注5.天羽兵右エ門,板東貞兵衛,森六兵衛も就任し,戊辰丸を使って藍玉輸送(徳島―東京)を行なう。他の和船を使っても廻船業務を共同で行なう計画があったが実行されたか否未詳である。
注6.『明治前期産業発達史』第3集所載。
注7.明治13年当時である。( )内の数字は13年の取扱概数。久住九平は13年に兵庫で風帆船(1169石)を買入れ通済丸と命名し北海道など各地と廻運した。
注8.『阿波国共同汽船会社50年史』
注9.没落の原因には南部家,安藤家など東北大名,旗本への貸金回収不能,静岡の茶園経営の失敗などが考えられる。今井(東大大学院生)氏の計算によると幕末における井上家の総資本金は13万3000両であったと言う。
<第2節 注>
―第1項―
注1.西野嘉右エ門,西野謙四郎,西野永太郎,松浦九兵衛,七条佐代太,安宅権一,西野平吉,萬宮忠蔵,樫原久賀蔵,多田昇二と協議し工藤工学士の設計,奥山技師の測量図面により行なう。
注2・3.明治32年度『小松島村会議事録』小松島市役所蔵。
注4.明治32年当時米価は1石が10円前後である。2000倍すると400万円となる。
注5.最初7名であったが,32年11月に5名,33年8月に8名が追加され20名となる。西野嘉右エ門,松浦九兵衛,萬宮忠蔵,七条佐代太,多田勝太郎,赤沢茂一郎,内藤文一,西野謙四郎,安宅権一,樫原久賀蔵,内藤利五郎,宮本谷蔵,樫原忠八郎,多田友二,西野永二郎,鶴田利七,太田和平,島田邦太郎,島田弁五郎,林嘉太郎
注6,『勝浦郡誌』所載「小松島港基石,明治33年庚子10月28日,臨小松島築港起工式沈基石而期其成功矣。徳島県知事正五位小倉久」と刻んだ大神子石の7貫目のものであったと言う。この時,小倉久は既に和歌山県知事に転任。
注7.明治37年度『村会議事録』所収。
注8.明治32年度「事務報告書」
注9.9日の洪水のために12日,15日,20日,31日と4回延期された。
注10.1金73,671円36銭4厘,工費総額{金7,641円77銭5厘,第1期工事費,金36,527円51銭1厘,第2期工事費,金29,502円銭7銭8厘第3期工事費}
注11.明治22年11村が合併して小松島村を形成した。小松島浦村,日開野村,金磯新田村,田野村,芝生村,中郷村,中田村,江田村,前原村,田浦村,新居見村。
注12.未償還公債5,425円を公債により償還し,その公債を37. 38. 39. 40の各年次に村税により償還することに決定される。
注13.明治41年11月1日町制施行。
注14.横浜築港着手明治21年9月,神戸明治34年,大阪明治30年10月『日本産業史大系』(11)運輸業,『神戸港史概説』
―第2項―
注15.阿波国共同汽船会社により徳島―小松島間11km,明治45年3月起工,大正2年4月竣工,工費85万余円,竣工と同時に政府に借上げられ,6年に買収される。
注16.内訳{勝浦郡会4,500円,小松島町10,509円(大字小松島寄附6,050円,町公債1,700円,町基本財産処分金2,750円)}
注17.『自治制50周年記念徳島県治概要』による。
注18.『大正3年度町会議事録』所収,内務大臣,県知事宛に提出される。
―第3項―
注19.『日本港湾修築史』小松島港の項に小松島港築港平面図がある。
注20.前掲『県治概要』。県費負担の内,1,175,200円が県債として小松島港修築及び埋立費の名目で求められる。
注21.『大正10年度町会議事録』
注22.委員7名,町有志委員(西野嘉右エ門,多田勝太郎),町会議員(浜松常五郎 牧松蔵,太田和平,三並績,内藤直太郎)
注23.『大正15年度町会議事録』に詳細に記録されている。
注24.『昭和4年町会議事録』
<第3章 注>
注1.『明治33年村会議事録』
注2.『明治41年度町会議事録』所収「公有水面埋立諮問」(可決)によると「別紙西野嘉右エ門ヨリ出願ニ係ル本町大字小松島町字湊口公有水面埋立ノ件諮問ス明治41年8月3日,町長湯浅貞太郎」とある。別紙が発見できないので内容不明であるが,可決されて実施した。
注3.『勝浦郡誌』
注4.『大正3年度町会議事録』町長の予算追加の際の説明。
注5.『東洋紡績70年史』P258.
<付記>
 この小論を作成するにあたって幾多の人々のお世話を受け,まだこ迷惑をおかけした。ここにそのことを記して感謝とお詫びの意を表したい。資料的に非常に乏しい中で進めざるを得ない状況であったので,藤丸,福本両氏をはじめ県立図書館の方々,市立図書館の福本氏,地蔵寺住職の服部氏,村長湯浅貞太郎の子息虎雄氏,小松島市役所の方々及び資料保管をされる仙石氏からいろいろご便宜をはかっていただけたととは非常にうれしかった。十分に活かし得なかったことは浅学菲才の故として今後とも努力することでお許しを願いたい。調査途上では本田先生をはじめ西野家の溝田氏など地元の幾多の人々の貴重な時間を割いてもらった。
 また,この調査に関してその最初から湯浅良幸徳島史学会長には私の不徳のために多大のご迷惑をおかけした,心からお詫びしたい。
 最後になってしまったが,三好,武知,松本,高橋,石原,浅野の徳島史学会での同学の諸先生からは身に余るご教示をいただいたことを記して感謝の意としたい。
 本研究を足場としてさらに前進のため読者諸賢の厳しいご批判をお願いしてこの小稿を閉じたい。 

(昭和43年1月11日記)


徳島県立図書館