阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第13号
阿波の荘園につき二,三の考察 阿波郷土会 一宮松次
阿波の荘園につき二,三の考察

 阿波郷土会 一宮松次



 阿波における荘園を調査研究せられたのは,栗田寛氏の「荘園考」[1]が最初であろう。その216頁に22荘をあげて原拠となる古文書を附記してある。なおその他本文中に賀茂社領の福田荘[2]と,光明峯寺関白藤原道家の処分状の大野本庄[3]があるので,24荘となる。これについで8代国次氏の「荘園目録」[4]には,皇室御領荘園として14荘,貴族社寺領荘園として15荘三厨をあげてあるが,秋月荘,那賀山荘,宍喰荘は,両方に記載されているので,実数は26荘3厨である。また清水正健氏の「荘園志料」[5]には53荘8保と1厨列載してある。但し実数は52荘8保1厨である。つづいて小杉〓邨博士の「阿波国徴古雑抄」[6]は阿波関係の古書,古文書を収録せられた書物であるが,その中に阿波荘園関係の文書も多く,実に62荘を数えられるのである。特に最近出版された「徳島県史第2巻中世篇」には,一宮松次が執筆した「荘園の変遷」「阿波の荘園」[7]の章に72荘を収載している。

 右のうち清水正健氏の「荘園志料」は昭和8年5月出版されて,荘園研究者に多大の恩恵を与えられた功績は偉大であった。今回その複刻を望む一般の声に答えて,昭和40年12月に角川書店から限定版として出版されて,荘園に関心をもつものには入門書として珍重がられている。ここに「荘園志料」に記載されている,各国荘園が再認識されんとしているのであるが,この際阿波荘園について2,3の管見を述べ,あわせて「荘園志料」記載外の阿波荘園をあげて紹介したい。



1.いわゆる「内西荘」について

 内西荘については栗田寛氏の「荘園考」に初めてのせ,清水正健氏の「荘園志料」には未勘郡としてあげてある。いずれも証徴として左記の三木文書によっている。(写真1)

 袖 判

阿波国高越寺庄内

西庄為御恩可知行旨依

御執達如件

 正平十五年八月三日出雲守時有奉

 三木太郎兵衛尉殿

 「考」「志」ともに「高越寺庄」と「内西庄」として2つに読みわけているのであるが私は「高越寺庄(こおつじしょう)の内(うち)の西庄(にしのしょう)」と読んでいる。

 高越寺庄や現在の麻植郡山川町の西川田・東川田に美馬郡の拝村の地域[8]で,この地に標高1,122.3メートルの高越山があり,山上に蔵王大権現を勧請する,阿波山嶽信仰の中心である高越寺がある所から起こった荘園名である。建長2年(1250)の光明峯寺関白藤原道家の家領処分状に

 阿波国高越寺 子細同前 領家職前藤原中納言伝領之

とあるところであり,後応永7年(1360年)8月24日の細川元侯爵家の文書に

 阿波国高落御庄并種野山庄,穴吹山半分,符里壱分地頭職,麻植庄 平氏太庭分 秋月庄参分壱,坂西下庄地頭職,別宮島院主職等事,早任去月廿三日安堵可被沙汰付細川刑部大輔[9]代之由,所被仰下也,仍執達如件

 応永七年八月廿四日沙弥(花押)細河讃岐人道殿[10]

とある高藩御庄である。おそらく三木文書の西荘は現今の西川田かあるいは拝村を指したものかと考えられる。

 なお当時の文書で「何々庄の内の何々」と云う書きぶりは,阿波関係の荘園文書には多々見られるところである。

すなわち

徳善文書[11]

ろくろしの門下名分,徳善の治部亮為知行不可有相違旨依 仰執達如件

  正平十一年九月 日  為仲奉

田井庄中西郷内得善名先度任御教書可令知旨依 仰執達如件

  正平廿年正月五日  氏行奉

阿波守殿

これらによって,高越寺庄の内の西庄と読むのが無理ではあるまいと思う。

果たして高越寺庄に西庄があれば,東庄も考えられる。現在西川田・東川田はこれから起こったのかもしれない。

2.鴨部下庄

 清水正健氏の「荘園志料」には名東郡内にこの荘をあげ,その証徴として名西郡神山町阿川勧善寺所蔵[12]の大般若経第590巻の奥書をあげている。

 五百九十 嘉慶二年十月五日,於鴨部下庄遍照坊書写了,右筆良慶生年四十八才

 これによって清水氏は和名類聚鈔の名東郡賀茂郷の地にあて現今国府町の敷地・東桜間・池尻をさすとされているが,鴨部という部が何か引かかるようである。そこで勧善寺大般若経の奥書を調査してみると,筆者は各地から奉献したことがわかる。

 二百十 於阿州板西郡吉祥書写了。

 三百九 於佐那河内主蓮寺書字了。

 三百廿一 於阿州名東庄倉本下市真福寺書写了。

 三百九十 於阿州麻殖郡牛嶋八幡宮書写了。

 五百八十六 讃州於寒河郡小方浦之山〓坊,不恥悪筆書写了。

など広範囲にわたっている。讃岐寒川郡には和名聚集鈔には鴨部郷があり,仁安3年(1168年)4月25日文書に石清水観音堂領として鴨部荘がある。おそらく先の586巻が讃岐寒河郡の人が書写したので,鴨部下庄もやはり讃岐の鴨部庄に当てるべきであろう。讃岐鴨部庄は現在の大川郡志度町の鴨部・鴨庄・小田の地域である[13]。事実阿波には鴨部荘の文献はない。



 清水正健氏は「荘園志料」巻頭例言の14に,

 余少小より遠遊を好むと雖も,足迹の及ぶ所僅に数十国に過ぎず,海内の広き人事の繁き,奚ぞ之を周知するを得む。唯頼む所は国誌及郡郷記録のみ。是を以て余が荘園保牧所在の考定は或は隔靴掻痒の憾なきを得ず。希くは国郡土着の学人ら指摘批正の労を惜しむなかれ。と言われている。

 それにしても全国3,000余荘を考定し,ほとんどその正しき所在をつきつめられたのは偉大であるが,阿波荘園にも2,3の遺憾なきにしも非ざるものを数荘認められる。例えば平島荘を名東郡上下八万村としたのは郡賀那平島の誤まりであり,富吉庄を名東郡敷地の地域に考定したのは,板野郡藍住町の富吉であり,日輪庄は名東郡でなく海部郡であり,未勘郡に堀江庄をあてたのは板野郡であり,牧方荘は名東郡に,牛牧荘は阿南市であり,光富保は板野郡である。これらについては,徳島県史第2巻中世篇を参照されたい。

 なお附載事項の板野郡下の下荘は板西下荘であり。那賀郡附載の本庄は竹原庄の本庄であり,中庄,古庄は今羽の浦町に在り,私は坂野庄の中庄,古庄であるまいかと疑っている。

 また美馬郡附載の北庄はすでに東から西拝師の加納として荘域の拡張が行なわれている事実から,穴吹庄の北庄として荘域が拡張されたのではあるまいか。

 



 阿波の荘園には「荘園志料」に収載もれの荘園で注目すべきものが数荘ある。これを左にあげておく。

 1.板西荘 本荘は板野郡が平安末期に分立して,板東郡と板西郡に分かれた。その板西郡のほとんどを占めた広大な荘園である。すなわち,大寺,吹田,大坂,古城,唐園,高木,下庄,西中富,中久保,矢武,犬伏,那東,松谷,黒谷,神宅,椎本,西分,神宮寺を含み,西は日置荘に接,南は高橋庄に,東は富吉荘に接した地域である。革項要略五十五上古証文集に,貞応元年(1223年)6月 日の慈鎮和尚の承久貞応御譲状案[14]に

三昧院領

 板西庄(阿波国)

  御年貢能米二百石(京定・国器)

 麦二百石(同)

  除寺用等定,延勝寺・雙林寺・法華堂

とあり,後に板西上荘,板西下荘に分かれた。おそらく下地中分によったものと考えられるが,文献は見当たらない。

2.板西下荘

 安芸国竹原小早川家計図の小早川景宗の条[15]に

 正応二年六月十六日安芸国都宇庄地頭職等事。阿波国板西下庄内小笠原十郎泰清跡地頭職同所職事。備前国裳懸庄地頭聴同所職事。鎌倉米町在家一宇跡父政景譲。

とあり右の小笠原十郎泰清は小笠原系図[16]

 

 小笠原氏は承久乱後,阿波に来り板西下庄の地頭職であったと思われるが,十郎泰清に至って地頭職を奪われ,小早川政景が補任されたもので,また景宗が孫重景に建武5年(1338年)2月24日の譲状には板西下庄はない。越えて応永7年(1400年)8月24日の熊本の細川氏文書には,細川刑部大輔頼長が地頭職に補任されていることは,前掲の高落御庄参照されたい。

 板西下庄は,下荘八幡宮の氏子たる,下庄・西中富・古城・唐園・中久保・大寺・那東・犬伏などがその地域である。

 附 板西上荘 其地域は矢武・黒谷・堆本・西分・神宅・神宮寺の地域で,矢武八幡神社を上庄八幡神社というのはこのためである。

 飯尾文書[17] 観応3年(1352年)5月20日の「飯尾隼人佑吉連光吉□右衛門入道心蔵申軍忠事」に。

(観応2年)同8月15日,板西上庄内神焼,致昼夜警固記

飯尾隼人佑が北朝のために警固したのであった。もちろん本荘は「荘園志料」に収載されている。

3 種野山荘 本荘は麻植郡木屋平村,美郷村川田山などのいわゆる麻植郡の山分一帯の地を占め,剣山(1955.9メートル)の高峻な山間にある広大な地域を占めている。単に種野山ともいい,また麻殖山[18]ともいった。

 三木氏などの阿波忌部氏の神孫が居住し,歴代大嘗祭に荒妙貢進の由緒ある家柄が居住するところで正元2年(1260年)正月11日の文書

 宛行 柿平四郎大夫守貞領所

右件領所,東にかすりたに,きたハすくたに,下はたけせをかきりて,せんれいのことくあてたふところ也

一□しかの山のひきちの事,西のハ大くほのをさかうて,ひきちをさかうへき物也

自今以後不可有他人妨状如件

 正元二年正月十一日 正意在判

 この文書を筆頭に実に四十五篇の古文書[19]は,名の研究,名の産業経済,南北争乱における南朝尊奉,阿波忌部氏人の「惣」による横の連絡,大嘗祭荒妙進貢等貴重な文献である。ことに嘉暦2年3月8日の「□□阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」には種野山の名の数があげられ,

大浦名・河井名・三ツ木名・カシ原名・上別司名・下別司名・東山名・気多名などの名があり,今も地名として残り,その地域が想像せられる。

元享元年(1321年)11月19日の「麻植山内三木村番頭百姓等訴申条々下知条」は三木名の経済生産状況を知る貴重な文献である。

なお種野山には木屋平氏(松家氏)があり,古文書15通[20]を有し髻綸旨は全国的にも数少ない,当時南朝との連絡に苦心のあとを忍ばしめるものである。

軍忠之次第被聞食了,尤以神妙猶弥

可抽忠節,者 天気如此悉之以状

正乎九年九月廿三日 左兵衛督(花押)

小屋平五郎館(縦12.0センチ,巾10.9センチ)

種野山を種野山庄を書いた初見は前出の熊本の細川文書の高落御庄の条参照。

4 大嶋山 和名類聚鈔美馬郡大島郷於保之万の西部の小島,太田,貞光,端山,一宇にかけての地域である。東祖谷山村西山文書[21]に

大嶋山内赤松之野口三間,穴吹庄内葛雲之

 

三間,為料所可令知行之旨,依仰執達如件

 正平廿四年七月八日 右馬助

   西山兵庫助殿

阿波の荘園で「何々荘」といわず,本荘のように大島山,種野山(嘉暦2年3月8日)那賀山(建久2年10月 日)

・八田山(正平十二年正月十一日)等と称する場合がある。

5 八田山 美馬郡半田町の地域である。祖谷山渡辺氏文書[22]に

阿波国八田山三分一内半分,為恩賞可令知 行之旨,依 仰執達如件

 正平六年七月七日 出雲守時有奉 花押

   渡辺宮内丞とのへ

6重清 美馬郡美馬町の地域。

西山文書[23]に

阿波国重清地頭職八分一事,為兵粮料所

々被預置也,任先例,可致沙汰之状如件

 正平廿一年十一月廿二日 政氏判

  西山兵庫亮殿

 附説 美馬郡重清,郡里の地域は,和名類聚鈔の三次郷美須木であろう。三次は「みすき」と読ませているが,広島県には三次を「みよし」と読んでいる。長講堂領文書の祇園社旧記所載[24]に

持明院殿御代于時無御政務

元享三年三月廿三日長講堂領阿波国一宮大粟三好両郷,為勅願料所可被相伝云々

とあり三好郷は,既に阿波国長講堂領として一宮・麻植御庄・那賀山・宍喰庄の四庄であったが,ここに三好郡が一所加えられたのであろう。この三好郡の所在を明らかにした文献をみない。おそらくは重清・郡里に比定せられるのであるまいか。

 一宮庄は小笠原宮内大輔長宗に押妨せられているが,三好郷も小笠原氏に横領せられたのであるまいが,正平十八年細川頼之に破れた小笠原宮内大輔成宗が重清に退隠したのもこの間の消息であるまいか。

7 西拝師荘 清水正健氏の「荘園志料」には東拝師荘をあげられて「今郡中に東西林村存す然らば西拝師荘もありしにや」とあげてあったが,昭和40年3月,香川県木田郡三木町小蓑の筒井清八氏が土中から掘り出した梵鐘の池の間に陰刻して五行三十三字の文があった。

 阿州西拝師荘

  広柵村善福寺

  文安三年丙刀三月十七日

   願主 作吉守(永)

   大工 凡衛門

 この梵鐘は,西宮市の田岡香逸氏が,40年6月10日書状により報ぜられて,始めて西拝師荘の文献があらわれたもので,これには坪井良平氏のご尽力も多い。謹んで田岡氏坪井氏の学恩を感謝する。

 特にこの広柵村は美馬郡の曽江谷を西に越えて,曽江谷の両岸が西拝師荘になっていていわゆる和名類聚鈔の美馬郡秦原郷へ深く入りこんでいることは注目すべきで,東大寺文書[25]「阿波国観音寺,東拝師庄者依悪党人偽謀云々」とある如く東拝師荘の如く悪党の跋扈した地方であり,広柵村まで西拝師が広がったところに荘園解体期の事情が想像される。

8 三昧田 所在が不明であるが,小松島市の櫛淵荘の附近であることは誤まりないでがろう。元久2年(1205)12月 日清水八幡宮記録一当宮縁事抄相伝房領処分譲状事 宗清の山城 の中[26]に

阿波国

生夷荘・櫛淵庄・三昧田

(中略)

右件荘々相副宣旨院宣等,修理別当宗清

永代譲渡畢,不可有違乱之状如件

 

  元久二年十二月 日

  (道清)

 石清水別当法印権大都僧(在判)

この文書によって三昧田が一荘であったことが知られる。また

寛喜2年(1230)正月 日石清水文書に若宮長田御油月宛事[27]

生夷庄 1斗5升2合

櫛淵庄   5升7合

三昧田   1升

 

 

と書き分けている。

承久乱後新補地頭の秋本二郎兵衛尉が横押して農業を妨けた際に六波羅の下知状[28]も同日つけに出されている。

阿波国櫛淵別宮地頭□□三昧田六町事,関東御教□書遣之・子細見于状,早任被仰下旨,可令停止其妨之状如件

          (泰時)

貞応元年八月廿一日 武蔵守平(花押)

         (時房)

         相模守平(花押)

阿波国櫛淵荘地頭秋本二郎兵衛尉代官背庄務択取能田,妨農業事,関東御教書如此,子細見于状,早任被仰下旨,可令停止濫妨之状如件

          (泰時)

貞応元年八月廿一日 武蔵守平(花押)

           (時房)

 

 

相模守平(花押)

 要するに三昧田は地頭は同一の秋本二郎兵衛尉であるが,別の荘として成立していたもので,あるいは加細田であったのかもしれない。

9 名西荘 郡名を負う荘園として,板西庄勝浦荘,名東荘があったが,この名西荘は,名西山分の一宮荘,西部の浦庄吉野川河北の高橋を除いた,郡内の里分の大部を占めたものであるまいか。

淡路の三原郡国分村国分寺釈迦仏像の修理銘に

 歳次

淡州国分寺本尊釈迦象一体敬白暦応三年

                  庚辰

三月辰手斧始同四月廿七日庚戍本開眼

  歳次     辛

四年  六月廿五日 御安坐祈祷聖人僧乗

  辛己     未

 或円房      尊忍房

○   大願主僧盛尊   女大施主海氏女

 同寺住      当寺住

          観地房昔者洛陽住今阿

大仏師兵部法橋僧命円

          州名西庄第十連福寺住

         戒忍房八太   良忍房上

結縁細工番匠僧流泉     僧盛弘

         ○光寺住    田八幡住

   性円房当      ○○道賢房阿州

僧重信    信心結縁衆僧

   寺承仕       名西庄中島郷延福寺僧

平光久治部允藤原近実○○○僧禅尊若盤○○

 この文書に第十と中島郷の地名が明らかなっているか第十,高畑,中島,西覚円,東覚円,南島,天神,高川原までが含まれていたのであろう。

10 一宮荘 徳島市一宮町・入田町・名西郡神山町の地域。阿波の荘園中早くから成立した荘園の一つであるが,立券等が伝わらない。荘名起源は平安中期から起こり,国中第1の神社をその国の一宮と尊崇し,その神社所在地を一宮と称した。初期の阿波一宮は式内の大社天石門別八倉比売神社であった。後に「一宮記」などに大麻比古神社が替わったが,「一宮記」は,また400年余以上にはさかのぼらない。思うに勝瑞城の阿波の守護細川氏の勢力がしかせしめたのであろう。一宮荘にはすでに,

 久安2年(1146)[30]に一宮司の川人成高の弟成俊が観音寺荘の延命院へ軍勢80人を引率して濫妨狼藉を働いたこともあり,建久2年(1191)に後白河法皇の長講堂領として持明院統が後に伝領した。

 元享3年(1323年)3月23日長講堂領文書(祇園社旧記所載)には「長講堂領阿波国一宮大粟三好両郷云々」とあり,一宮に大粟を附加している。大粟とは鮎喰川上流神山町を指す土地の総名である。

 本荘は鎌倉末期小笠原宮内大輔長宗が一宮城を築き,南北朝の騒乱に当たり,南朝側に立ちついに横領してしまったものである。

(注)[1] 明治21年7月19日出版

[2] 「荘園考」179頁〜180頁

[3] 「荘園考」186頁

[4] 「荘園目録」昭和5年7月15日出版

[5] 「荘園志料」昭和8年5月出版

[6] 「阿波国徴古雑抄」大正2年3月26日発行

      巻1(10荘)巻2(38荘)巻3(9荘)巻4(5荘)これは各巻に重複して

いるが新出の荘のみをあげた

[7] 「徳島県史第2巻中世篇」阿波の荘園には

徳島市(9荘)小松島市(7荘)鳴門市(1荘)阿南市(8荘)勝浦郡(1

荘)那賀郡(2荘)海部郡(2荘)板野郡(15荘)阿波郡(3荘)麻植郡(五

荘)美馬郡(3荘)三好郡(10荘)名東郡(2荘)名西郡(4荘)計72荘

[8] 美馬郡拝村は寛政年中の川田村誌に

     「往古は川田四十二名の内政宗名と申し1名を分て拝村と号し侯今に川田八

幡宮を氏神として奉敬右の四十二名は唯今悉敷相分り不申侯」とあり恐らく

拝村は高越寺の一部であったのであろう。

[9] 細川刑部大輔は細川頼長で応永15年8月29日の細川文書に和泉半国守護に補

任された。この頼長は高越寺荘内の井上城に阿波の館としていたので泉館とい

った。

[10] 細川讃岐入道は細川義之で常長といった。

[11] 阿波国徴古雑抄巻3273頁

[12] 阿波国徴古雑抄巻3244頁〜246頁

[13] 清水正健「荘園志料」1704頁

[14] 大日本史料5編の1

[15] 大日本古文書家わけ第11小早川文書

[16] 尊卑分脈(新訂増補国史大系第60巻上)第3篇

[17] 阿波国徴古雑抄巻2119頁

[18] 渡辺澄夫氏はその名著「幾内荘園の基礎構造」の679頁において番頭制荘園

の南の限界が紀伊,阿波であるとして,麻植庄のことをあげられて「元享元

年(1321年)11月19日の「麻植山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」の

三木文書を引用せられているが,麻植庄は現今の鴨島町の地域であり,麻植

山というのは麻植郡の山分という意である。阿波では郡中平坦地と山地との

ある場は,かかる呼称を用い平坦地を里分,山分を大粟山・麻植山・那賀山・

海部山などと呼ぶ慣例がある。

[19] 麻植郡木屋平村三ツ木三木寛人氏所蔵

[20] 阿波国徴古雑抄巻二121頁〜126頁

[21] 阿波国徴古雑抄巻二167頁〜169頁

[22] 阿波国徴古雑抄巻二165頁〜166頁

[23] 阿波国徴古雑抄巻二167頁〜169頁

[24] 前掲書170頁

[25] 阿波国徴古雑抄巻三192頁

[26] 大日本史料4編の7

[27] 大日本史料5編の6

[28] 阿波国徴古雑抄巻1「八幡宮寺領那賀郡櫛淵庄文書」74頁

[29] 淡路常盤草

[30] 阿波国徴古雑抄巻3「愚昧記所載問註申詞記」

徳島県立図書館