阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。


郷土研究発表会紀要第12号(総合学術調査報告 阿南)
阿南市富岡城下町の小研究 文化史班 米田賀子

阿南市富岡城下町の小研究

―第1部 領主―

文化史班 米田賀子

 阿南市民としてのわたくしは、頭書の主題を与えられたとき、市民の皆さんが知りたいのは、なんであるかを感じとっていた。わたくしたちに要求されるものが、阿波中世史の僅かであるが、空間をみたすと思い、一年有余にわたって、阿南市の中心を形成する牛牧荘、つまり富岡町の地頭的領主であり、今日の阿南市の政治・経済・文化の基盤をつくった新開氏を主軸に、ささやかな研究をつづけてきた。

 主題の富岡城下町は、近世になって、賀島氏が営々と築きあげたもので、賀島氏こそ阿南市建設の恩人というべきである。

 わたくしの今日までの研究は、主題の二分の一を終えたばかりである。あたえられた紙数は、市民の皆さんが知りたいとおもわれる新開氏を書くにも足りないのである。紙面の配分に苦しんで、何回か書き改めた。従来、新開氏に対する史家の見解は、阿波・土佐の古書の誤りが多分に災いされて、両国の間でも一致しにくい。長宗我部氏に向ける徳島県人の眼も冷たい。わたくしは、この機会にと与えられた紙数を、新開氏に使い、賀島氏は、後日に発表させていただくことにした。どうぞお許しねがいたい。

 

第1章 新開氏の時代  正平17(1362)?〜天正10(1582)

 

 牛牧荘 在地領主としての新開氏が、およそ20年に余って支配してきたと解せられる牛牧荘は、現時の徳島郷土史学界では、起原をいつに発するか不明であるが、建仁3年(1203)10月の文書では、高野山金剛峯寺領であり、150年後の観応2年(1351)4月の仁和寺文書(はじめ引用文献を列記する用意したが紙数に制約せられ、心ならずもいっさいを省略した。)では、同寺真光院御門跡領になっている。一宮松次氏は、同荘を現在の地区でいえば、阿南市富岡町の学原・領家・石塚・日開野一帯であるという。吉見哲夫氏は、富岡付近と広域に解される。その面積は、旧富岡町に準じて、11.8平方キロメートルぐらいと想像してよい。阿南市の総面積は、251.46平方キロメートルである。

 阿波におかれた郡は、七郡あるいは九郡、鎌倉時代から室町時代は、那東郡に牛牧荘は編入され、寛文4年(1664)江戸幕府が諸大名に下命し、郡の統合を行なったとき、那東と那西は那賀郡に合併された。

 牛牧は牛岐とも云いかえられているが、いつごろから牛岐になったか定説がない。わたくしが、昭和39年8月、阿南市富岡町石塚の景徳寺に安置される文珠菩薩の像裏で発見した天文15年(1546)5月の造像銘文には、明らかに阿州南方牛牧庄と記されているから、この時代までは牛牧といったのは確かであろう。(図1:景徳寺文殊菩薩銘文にあらわれた牛牧荘)

 牛牧の地名はどうしてつけられたか。中西長水氏は、もと放牧の地であったのを、累年に開墾し穀作を奨励してきたといい、田所眉東氏も富岡町誌でそのように書いている。阿波では延喜式に拠るかぎり、御牧(勅旨牧)・諸国牧・近都牧といった。左右馬寮や兵部省に属した官牧はなかった。であるから私牧として早い時代に発展してきたと思われる。

 那東・那西両郡の境界は、那賀・桑野両川の流路によって設定されたというが、広義の牛牧荘は、いまの那賀・桑野両川の流域よりさらに北北東に拡がっていたと、わたくしはみる。

 牛牧荘は、主として養牛の地で、軍団制による軍役や運輸に使われる馬は、現在の板野郡藍住町馬木の付近が、馬牧としての牧養地であったかと、わたくしは仮説をたててみたい。

 牛岐と改まったのは、徳島藩士中山茂純が藩主蜂須賀斉昌の命によって編述した、阿波国史研究の有力史料のひとつである。阿淡年表秘録は、弘化2年(1845)に成っているが、後藤捷一氏蔵す原本の天正十三乙酉閏八御連枝・御家老・諸士・諸御役の項に、那賀郡牛岐城今富岡卜云細山帯刀政慶後賀島主水卜改とあり、羽柴秀吉の右筆梅庵法印大村由己は、秀吉の四国征討が終った天正13年(1585)8月から2ヵ月後の10月に、四国合戦の経過を“天正記”の中で報じている。その書中“一のみやより十里ばかり南にうしき(牛岐)という城有”と記している。また田所眉東氏は“富岡町志”において賀島家系図を引用し、蜂須班家政が細山主水に与えた書状に、“牛岐ヲ申替富岡と号し”とあり、年次は不明で霜月十八日とある。細山主水のちの賀島主水正政慶は、慶長8年(1603)に家老、寛永4年(1627)大坂川口の舟中で病死しているから、牛牧は、元亀・天正(1570〜91)以後、牛岐ともいわれた。いうなれば二つの地名を共用したのである、こう解釈してよい。

 新開氏以前の地頭的領主 後醍醐天皇の建武新政は、封建制の発展という歴史の大勢に押し流され、“梅松論”著者のいう“公武水火の世”となって現われた。

 建武3年(1336)足利尊氏は追われて兵庫より海路を九州に走るとき、再起に備えて細川氏の一族に四国中の成敗をまかせ、以来、四国の別して阿波は、守護大名家細川氏の領国支配下に入り、民の歎きをよそに、南北両朝は、分裂と相剋を所在の山野にくり返すのである。

 観応元年(1350)足利義詮は、紀伊水道の制海権を確保し、近畿と四国の南朝方による連絡を遮断するために、紀伊国牟婁郡安宅の人、橘姓安宅頼藤を備後権守に任じて、淡路の由良に城砦を構築させ、横行する海賊の討平を命じた。翌2年、周参見(すさみ)氏と共に、阿波国竹原荘本郷(阿南市長生町・宝田町・上中町の付近に本郷の地名のこる)の地を知行し、同年、牛牧荘の預りとなった。牛牧荘と安宅氏の関係は、この年をもって始まる。

 翌文和元年12月、安宅氏の一族王松丸が、那東郡桑野保司になり、安宅氏の勢力範囲は、現在の阿南市のほとんど全域に及ぶにいたった。南北朝の動乱期における阿南市の胎生である。延文3年、南朝年号の正平13年(1358)4月、足利尊氏は疲労と外科的疾患に悩んで死。翌4年、安宅頼藤は南朝に通じ、阿州南方の北朝の拠点は崩れた。しかし、正平17年(1362)は、阿波の南朝軍にとって、全面的な後退を自認しなければならなくなった。それは、細川清氏と細川頼之の讃岐合戦に端を発する。

 阿波新開氏の祖遠江守真行 足利幕府は、二頭政治の欠点を分裂と和解の反復によって露呈した。尊氏と直義兄弟、高師直とその一族は相ついで死し、足利義詮、二代の将軍となり、やがて貞治元年、南朝の正平17年(1362)武蔵・相模と阿波のかけ橋をつとめる新開氏が、足利政権の危局にのぞんで、武者ぶり勇ましく登場する、すなわち新開遠江守平真行。

 その経緯を語るまえに、阿南市民の諸賢が、神と崇める新開氏の系譜について記しておく。

 新開氏の家系について、徳島郷土史界は、世にいう麻植那瀬詰城主市原石見守兼行を祖とする市原系図を根本に論じてきた。これをまず掲げておく。

 新開氏の基本系図というのは

 新開氏を、太田亮氏の“姓氏家系大辞典”に拠って分布を調べ、かつ実際に現地で調査したが、阿波新開氏は、桓武平氏の土肥氏族で、世に“千葉・下総系図”と称されるものに、新開の祖、荒次郎実重は、土肥次郎実平の子で、弥太郎遠平の弟となっている。

 市原系図の源流ここに発する。

 太田氏は、藤原姓の糟谷氏族、近江源氏の佐々木氏族、橘姓の信濃新海氏・桓武平氏の北条氏流、清和源氏の武田年流を列挙されるが、徳島県勝浦郡勝浦町三溪の新開茂雄氏系図は、新開氏を甲斐源氏として、新開道貫の子が道善で、遠江守を号し、丈六寺で戦死したことになっており、徳島市沖の浜町北浜の新開勝三氏と祖先を同じとされる。

 また東京都世田谷区の新開為吉氏が蔵せられる新開系図は、上記の新開茂雄氏とおなじ甲斐源氏ではあるが、武田信玄の子仁科五郎信盛からでており、新開加賀守盛信が、武蔵国榛沢郡深谷領の新開城主となっている。

 阿波新開氏の祖先である荒次郎実重については、林大学頭衡(述斉)が、文政11年(1828)幕命によって完成した“新編武蔵国風土記稿”に“榛沢村深谷領新戒村は上新戒村と下新戒付、古は地名を新開と書きしにや、按ずるに、新開荒次郎のほか弥二郎・左衛門尉”とあり、埼玉県立図書館編“武蔵国郡村誌”には“新戒村、本村古時大寄郷藤田庄。深谷領に属す。櫛引の里と称せり、沿革、古昔鎌倉右府のとき、新開荒次郎の領地なり。子孫相続して、天正年中に滅亡す、と見える。

 これは、埼玉県大里郡豊里村下新戒にある東雲。大林両寺の縁起や相伝に拠ったものである。(図2)

 新会小学校長高木幹雄氏編の“新会社誌”(大正12年11月)は、“東雲寺、禅宗曹洞、的龍山と号、新開荒次郎の起立と伝う。男寺と称、本尊釈迦如来。大林寺、禅宗越前永平寺派、智芳山明妙院、新開荒次郎が妻の草創なりと。新戒の女子の菩提寺にして女寺と称、本尊阿弥陀如来”東雲寺には、荒次郎の墓があり、法名東雲寺殿大応宗徹居士、元禄6年(1693)正月、再建とおもわれる笠付棹石の塔婆、凝灰岩で総長1.18メートル。大林寺の記録では、荒次郎夫人土肥氏の法名大林寺殿明妙院蘭室智芳大姉建仁三年六月朔日(1203)墓は本堂の向って左脇きにあり、おなじ笠付棹石つくり、石質おなじ、総長1.09メートル造立年代は不明、いずれも、笠の正面に陽刻されている左三ツ巴が印象的である。

 両寺の後方、利根川を背にして、右に大林・左に東雲寺を、中央に新開荒次郎館がある。“武蔵国郡村誌”に拠れば、幅員東西23町41間・南北12町25間の広さの新戒村の中で、館址は、東西1町4間・南北1町42間とみられている。

 この館と寺の配置は、阿波新開館と寺を考える上にも無視できないのである。

 物語文学上に新開氏があらわれたのは、“源平盛衰記”で、異本を含めて、七騎落ちの一人として、土肥次郎・遠平父子と共に、新開次郎忠氏、あるいは荒次郎実重が登場してくる。また“曽我物語”で、曽我兄弟が大願を果し、頼朝から宿意をたずねられる御前にも、狩野介宗茂らと訊問にあたっている。承久の乱の宇治川合戦には、新開一族は、こぞって出陣したのか、吾妻鏡には、新開兵衛が討死している。

 こうして、遠江守真行の父とおもわれる左衛門入道が、新田義貞の鎌倉入りを武蔵野で食いとめる軍列の中に見える。

 貞治元年1月、若狭の守護細川清氏が、佐々木導誉のために、将軍義詮との間を離間されて、本領阿波に帰り、2月、讃岐国阿野郡白峯山麓の高屋に拠って挙兵した。

 足利直冬党の討伐に没頭していた細川頼之は、中国から讃岐にわたり、従兄である清氏と対決した。清氏は、細川家の総領家である和氏の子。頼之は、和氏の弟頼春の子である。

 かって足利方きっての豪勇無双を称せられ、いま南朝方となって衆望をになう清氏と、頼之の謀将新開遠江守真行は、合戦の駆け引きを競った。そして清氏は、あえなく最期をとげた。太平記巻三十八は伝えてくれる。

 頼之は、その功によって、新たに讃岐・土佐両国の守護職を与えられたが、諸将の論功行賞について、猪熊信男氏は、“第一の宿将たる新開遠江守をどの城に置いたものか”と疑問をもっている。

 清氏とその一党の鎮定は、阿讃両国における南朝勢力を完全に圧縮し去り、山岳武士の頭領として、頼春・頼之等の勝瑞城と三里の間にあって南朝に尽した一宮氏も、翌正平18年に細川氏に屈服した。

 新開真行は、かって尊氏における三宝院賢俊を武将に仕立てたような存在で、細川頼之のもとに、政治、戦略両面の枢機に参与していた。例えば、延文元年(1356)2月7日、真行は頼之の命を承けて、京都臨川寺三会院領、阿波富吉荘領家職を同院雑掌に交付している。三会院は、夢窓国師の塔所である。真行は、頼之の手書き(秘書)の役をつとめていた。新開氏一族が、いつ阿波国牛牧荘に領地をえたか、前後の史料を徴して、安宅頼藤とその一族の盛衰を照応させ、細川頼之の政治、軍事上の動きに注意する。すなわち、頼之が細川氏一族と退京、阿波に閑居、土佐の人中津絶海を招いて、補陀寺の西隣りに宝冠寺を建て、中津と徳島に遊び、山水の景観が支那の渭水に似たりとして、渭津と命名し小城を築いて、三島外記に守らせるなど、その身辺に、しばしの平和と閑寂が続いた、至徳年間(1384〜87)とみて、大きな誤りはなかろう。そして明徳2年(1391)4月。頼之が上洛するまでの約8年間、阿・讃・土の領国経営に真行は参画しているのである。真行の生没年は、わかっていない。

 新開遠江守之実 嘉吉元年(1441)6月、四職家の一である播磨の守護赤松満祐は、将軍足利義教に含むところあり、自邸の猿楽能の宴に招いて殺害。幕府は赤松征討の御教書を、四国・九州の守護らに下したが参陣するものが少なく、伊予の河野通春も遅参し、よって幕府は問責の軍をおこすため、近隣の諸将に、通春討伐を催促した。この挙は、讃岐細川氏の画策とされる。史上有名な大内・細川両氏の遣明貿易をめぐる争い、強力な海軍力を保有する河野氏は、大内氏に依存して細川氏と反目していた。

 幕府は、通春の宗家河野教通に命じて撃たせたが効なく、中国の小早川(新開氏の祖、実重の兄である土肥遠平の裔)、毛利両氏に出兵させたが、通春よく防いで屈服さすことができず、寛正4年(1463)管領細川勝元、讃岐守細川成之に命じて、その家人らと伊予大洲の城主宇都宮家綱の連合軍で、通春を攻撃したが連戦連敗、通春は、大内氏に援を乞い、大内教弘は子政弘に命じて河野氏に与力させた。経緯については、“蔭涼軒日録”・“新撰長禄寛正記”・近藤清石氏の労作“大内氏研究”・御園生翁甫氏“大内氏研究”に詳しい。

 寛正6年(1465)陽に幕命を奉じ、陰に河野氏を援助していた教弘が伊予興居島で死去し、政弘は遺命によって強力に河野氏を支援、幕軍各所で撃破された。南海道の局地戦は、幕府の威信を問われるにいたった。管領細川勝元は、ついに最後の持ち駒を手離すことになった。かっては細川頼之を補佐し、讃州の乱を鎮定した新開真行の後葉遠江守之実。

 室町時代の五山文学者で有名な希世霊元の著“村菴小稿”に収録されている“新開遠州平之実画像賛〓序”から、之実の人となりを伝えたい。

 之実は、はじめの名を宗忠、怒隠と号し、細川氏譜代の臣、桓武平氏鎌倉氏流の香川上野介の三男に生れたが、おなじ細川勝元の臣で新開真行の子孫、新開遠江守持実に男子がなく女子だけであったから宗忠を嗣とした。よって之実と改めた。すでに之実は、細川氏ゆかりの竜安寺、義天玄承に師事して、禅の契悟を深めていた。

 当時、土佐には細川氏の同族、細川遠江守持益が守護代をつとめていたが、之実は土佐国守護代を命ぜられて出陣している。このことは、同年10月10付の細川勝元より、毛利豊元にあてた書信でもわかる。成之は直接の戦闘指揮にあたらず、守護代家から出陣していたとみたい。之実が戦線に出たときは、河野・大内両氏が優勢で、“思うに大将軍が才能機略なく、部下の心腹を得ないで、兵を用いて戦えば利を失い”と、希世が述べているような支離滅裂の状態であった。敵方は、戦闘指揮者の交替を知り、之実に降伏をすすめてきた。“之実おもえらく、臣子は主のためにただ一死のみ。ついに屈せず、即ち戦って死す。時に年三十九。寛正六年九月十六日也”

 伊予合戦は、細川氏の重臣新開之実を失ない惨敗におわった。之実の戦没した地を、井村あるいは井付という。愛媛県立図書館の数次にわたる調査によって、新居浜市の東部、宇摩郡に近接する国道11号線に沿って、元船木・大久保・船木を含めた地域と考証できた。

 数日の後、悲報が京都に達した。細川持賢(勝元の叔父、典厩道賢公)これをきいて、たまたま同座していた希世霊元に命じ、遺族が持参した之実の画像に賛をせよといった。希世は、翌文正元年丙戍七月十六日に書きあげて、之実の遺子鶴夜叉にわたし、細川持賢の嘱にこたえている。

 之実が戦死して24日後に、管領細川氏が毛利豊元に出した書が、之実に関する限りただ一つの現存古文書となった。毛利元道氏(防府市多々良 元公爵)のご厚意によって披見のおりをえたので、全文を記録して参考に供する。(図4)

 河野伊予守通春対治事、為、上意差遣軍勢候之間、大内入道(教弘)令自身渡海候、

 依背 上意、蒙天罰候歟、則死去候、但新介(政弘)猶猛勢合力候之間、当方勢悉被打散候、殊土州守護代新開達江守以下数輩討死候、言語道断次第候、所詮対新介可散鬱憤之間、伺申子細候、重而任可被仰出之旨、別而被致忠節候者、於身可為祝着候、偏馮存候、委細猶秋庭修理亮可申候 恐々謹言

十月十日(寛正六年) 勝元(花押)

 毛利少輔太郎殿(豊元)

 新開氏が、中世史の銀幕に脇役として出演した治承4年(1180)から寛正6年(1465)までの284年間は、鎌倉・室町両幕府の直臣のときがあり、また側近グループに加わっていたときもあった。新開氏も細川氏と同じように在地の小領主であり、新開氏は、頼朝旗下の譜代の臣から政治情勢の流動に身をまかせて北条氏に従い、公武水火の世に遇って足利氏に服属した。清氏との会戦に近い時点で新開氏は細川氏の部将となり、丈六寺で新開実綱に殉じた松田新兵尉行継の祖、松田近江守政常は、阿南市桑野町山口の松田隆義氏系図によると家老の位置を占めている。

 このように宗家と運命をおなじくしているうちに、特別のつよい主従関係が生まれるのは当然で、新開氏は、徳川氏にたとえると、松平郷譜代・安城譜代といったつながりを、細川氏とつくっていた。であるから、最悪の情勢のさなかで、宗家の期待と信頼にこたえられたのである。

 新開遠江守実綱 牛牧荘と新開氏の関連がはっきりしたのは、実綱からである。実綱は、阿南市富岡町滝ノ下の正福寺にまつられる阿弥陀如来の補修銘文に天文五丙申年(1536)が50歳である。逆算すると文明18年(1486)に生れている。之実の遺子鶴夜叉の子である。新開氏の家禄について“徴古雑抄”は三百貫とある。近世初頭の石直しは一貫文を五石内外に換算しているから、新開氏の家禄は1500石と、いちおう見ておく。軍役の人数は高を基準にきめられるが、戦国期は一定しない。“徳島県史”第3巻金沢治氏担当の軍制には、1500石の配当責任数70人、内乗馬数4である。井上和夫は“長宗我部掟書の研究”において、百石の侍で騎馬1人、歩兵3人程度が、戦国期の軍役という。この率に従うと、新開氏の軍役に就くときの兵員数は、騎馬15人、徒士45人である。しかし設営や輸送の人夫(陣夫)が加わり、農兵の加勢があったりすると、正確な数字は出ない。城の大きさから250人内外とみるのが妥当である。

 新開氏の陣代をつとめたものは、いまの時点で入手史料から松田氏をさす。前出の松田隆義氏系図は、寛正6年以後の新開氏の動きを知るうえで、記載した内容年月など思いちがいがあっても重要史料である。

 応永6年(1399)大内義弘の乱に、松田左近太夫政長が新開氏の陣代となって参戦。応仁・文明の大乱に政長の子政幹が参陣、新開実綱が生まれた文明18年の翌長享元年(1487)9月、将軍九代義尚が、近江守護六角高頼を討伐に出陣、新開氏は、政幹の次男左兵衛尉政継が加わっている。細川勝元の子の管領細川政元の手に属したのである。

 之実このかた、歴史の舞台から引退したかに見えた新開氏が帰り咲いたのは、阿波屋形細川成之の孫で細川宗家政元の後嗣となった澄元と、おなじ養子になった九条関白家から迎えた澄之が争った。世に二川分流といわれる時期からである。

 享禄4年(1531)2月澄元の子晴元に従って堺に出陣した群将の中に、“三好筑前守元長・新開遠江守元吉相対して戦い”などと、香西成資の著“南海通記”にあり、松田系図は、字句の相違あるが、政幹の嫡男行方の子兵衛尉政之が参陣している。元吉が実綱なればこの時はすでに45歳。

 8年後の天文8年(1539)新開実綱53歳の秋、阿波屋形細川持隆を軍将として、阿波・讃岐・淡路の兵2万余人、海陸両道から宿敵である伊予の河野氏を討つため発向。“阿波屋形に相従う兵将は、一宮長門守・新開遠江守・海部左近将監・篠原弾正少弼”と“南海通記”にあり、この遠江守は実綱か元吉か、わたくしは、はじめ実綱、のち細川政元の一字をもらって元吉、また忠之を名乗った時があったと考えたい。

 新開氏は、享禄の出陣を界にして宗家との隔絶がはじまり、後は阿波屋形に近づいて、その政令・軍令に従うようになった。

 牛牧城の実綱 応仁のころの武士の加冠つまり元服は14〜16歳、軍役は17歳で勤めた。この勘定でいくと実綱が17歳になる文亀3年(1503)を起点に、永正・大永・享禄・天文・弘治・永録・元亀・天正と9代の年号を軍ねて78年間の在世である。中西長水氏は、新開氏の治績六業を挙げている。

 1 耕地の開墾、農工を盛んにす。

 2 水取の便利はかる。

 3 社寺の建立人心の安堵。

 4 土倉・船倉の経営、造船、海運を盛んにす、地方経済の発達。

 5 学原に学校をつくる、武技を授け農民の訓練。

 6 正福寺境内に、故山より桜樹を移植世にいう新開桜。

 新開氏の勢力圏は、元亀年間(1570〜3)で、所属部将の湯浅豊後守国貞は、那賀郡羽ノ浦町中ノ庄に塁をもち、これが北の最先端、したがって元亀・天正年間の新開氏の領地は、いまの那賀川を越えて北に拡大されていたことになる。

 実綱が20歳の永正2年(1505)から、50歳になる天文5年(1536)までの30年間、阿波で一揆や兵乱の発生を“徳島県史料年表”で調べてみたが、それらしいものが見あたらない。兵馬の徴発は、細川宗家や守護の権威を求め地位を確立しようとする野望のために、しきりに行なわれたが,所領の侵害はなかった。

 実綱50歳までの牛牧荘は、港湾をひかえた交通の要地だけに,屋敷城を中心とした町つくりは、城山の西または西北にかけて、一般の農民や工兵などが、まばらに集住する程度だった。むしろ古代の統合的な陸上交通施設である駅制が崩壊しはじめ、水運の利用が盛んになると、港津は年貢米の積出し、中継・荷揚地として発達した、牛牧荘でいうなら黒津地・領家付近は、土倉・宿屋をかねた材木問丸などが定着し、船頭・水主の宿もでき、いまの阿南市の中心は、この付近から発達した。港町として、阿南市は胎生したといってよい。

 新開氏が、真行や之実のような教養人を出しているので、学原の学荘(学校)を考えないわけではないが、史料が集まらず、先覚史家の諸説を拝聴するばかりである。

 新開氏と合戦 いままでの成書・文献は、新開氏を侵略者のように書いているが、おちついて土佐・阿波の戦記物語や古文書を見ていると、記録による限り、土佐方とはじめて接触したのは、阿・土両国の文献とも、天正7年(1579)の桑野(阿南市桑野町)今市(阿南市宝田町)合戦であるが、戦線の移動に疑いがある。このとき実綱93歳、陣頭に立てるはずがない。子の式部少輔実成か家老松田新兵衛尉行継のどちらかである。土佐物語では、桑野・今市合戦で新開方は敗北し、長宗我部軍の阿波南方軍代香宗我部親泰に扱いを入れて降参しているし、すでに阿波南方諸将は、土佐方に歓を通じているので、合戦のしようがない。したがって、牛牧城の攻防戦はありえない。

 長宗我部氏は、新開氏が軍事力を充分に養える経済的要素を、牛牧荘は地理的環境で把握しており、分国統一を遂行するための因子のうちに入る海港と河港のふたつながらもつ所領の魅力は、領主にその人ありとせられるだけに、新開氏を、軽々しく扱うことを避けた。牛牧城の攻防戦は、やって無益であったのである。

 新開遠江守の丈六寺遭害 新開遠江守は丈六寺で長宗我部氏のために暗殺された。これが、阿波・土佐両国の郷土史学で定説となっており、いまのところ反証はない。

 織田信長は、三好康長を利用して四国を征討しようと、長宗我部氏との約束を破り、康長の阿波入国を許したことから、元親の阿波手入れの図表が書き替えられる。“四国の御儀は某が手柄を以て切取申事に候、更に信長卿の御恩となすべき儀に非ず。存じの外なる仰せ驚き入り申す”と元親記にもあるような強硬な態度であった。かくして今日は元親の軍門に叩頭し、明日は康長の傘下に旧領の安堵をはかろうとする。戦国乱麻の常とはいえ阿波武士の当世風に、当国人を見る眼がきびしくなった。細川宗家の重臣にして真行この方武功抜群の新開氏、細川守護家と対立的な立場であったが、いまは譜代にひとしい一宮氏、しかも三好氏とは同祖にして重縁の関係をもつにおいて。

 一宮成祐が三好康長と連絡したという疑いで牛牧に連行されたことを真実とするなら、香宗我部親泰旗下の兵は、

海部城から北上し、牛牧城を拠点に三好軍と対戦の用意をととのえていることになり、長宗我部氏にマークされている諸将の死命は、土佐方の手中にあったといえる。

 天正10年(1582)8月、おそらく19日か2日のこと。長宗我部宮内少輔元親・嗣弥三郎信親・香宗我部安芸守親泰ほか一門・同族・譜代から、“此度、人の二男・三男いずれの無足者によらず、心懸次第に罷り立つ可し、其身の恩賞望み次第たるべし。十五以後六十以前”と“元親記”にあるような、挙国一致の体制で軍勢すぐって二万三干余人。鳩酢草(かたばみ)の家紋の大将旗は牛牧城にかかげられ、城まわりはもちろん、石塚・学原・領家・日開野・七見・西路見・牛屋崎・見能林・桑野など陣列は続き、所在の社寺は宿営に供用された。“長宗我部に寺を焼かれた。系図をぶんどられた。家をこわされた”巷間に伝える根なし草をはびこらせたのは、このときであった。軍議は五日間、そして長宗我部の南方軍は、はじめて那賀川を渡河したのである。

 天正10年8月28日、元親は、中富川の合戦で三好存保の軍を破ると、後顧の憂いを断つために、一宮成祐・弟主計等を、夷山城(徳島市の西南部)で死を命じ、家臣の抗戦を排除した。“土佐国編年紀事略”は9月3日、“三好家成立之事”では、11月7日とある。当時の事情から9月3日が正しい。一宮氏ここに亡ぶ。

 天正10年9月16日、新開遠江守実綱入道道善、勝浦郡本庄の丈六寺(徳島市丈六町丈領)において死。(図5)阿波・土佐の古書のうちで“土佐物語”は、牛牧城外の合戦で、新開道善の家老松田新兵衛によく似た松田新右衛門という者に討ちとられているほか、いずれも同工異曲な筆で、丈六寺謀殺説をとる。よってこれに従う。

 遠江守ときに、よわい九十有六。三浦大介義明八十九歳、北条早雲八十八歳よりはるかに長寿だった。この年令は、正福寺の阿弥陀如来の修理銘文を史料として考証した。

 実綱に刃をあてたものは、阿波・土佐の古書一致して横山源兵衛。そうなれば、天正7年(1579)讃岐財田の城主財田和泉守を一太刀で斬り伏せた手練者のはず。冷やかにながめたのは、長宗我部氏の興亡史上、戦国非情のモデルケース久武内蔵助親直。この迷惑千萬な事件をもちこまれた時の住職は、藤目正雄氏“丈六寺の姿”によると、六世竹奄見性。

 “今度勝瑞退治し、一国平均す。知行分の事も談合の為に、久武これまで参り候。道善も是まで出合わるべし”阿・土両国の古書は、こういって新開氏を誘うと、喜んで丈六寺へ馳せつけ、たらふく酒をのんで、足もともきまらぬ新開を討ちとったといい。こうしないと、阿波国きっての猛将とて討つ手段がないとある。まったく首をかしげるばかり。

 徳島平野の南端に位し、後に山を、右に勝浦川の清流を臨み、境域四千六百六十五坪、曹洞宗永平寺派に属す禅宗、瑞麟山慈雲院丈六寺。実綱の祖父遠江守之実が、この丈六寺を再興した細川讃岐守成之のために、悔いを残さず死んでいったのである。

 いくどとなく襲いかかった生命の危険をのりこえてきた実綱が、死を予知しないで、丈六寺の三門をくぐっただろうか。読者の明鑑にまつ。

 実綱は、横山源兵衛の刃にたおれ、予期しない実綱の死に従者たちは、長宗我部の使者一行に怒りの刀槍をむけて、伝えていう“丈六与の血天井”となった。血のりの板をつくったのである。

 久武親直の才覚が、こうした戦国非情を後世に残したか、元親・親泰などがそうさせたのか、阿波における長宗我部氏の不評判の幾割かを、丈六寺でつくっていることを、高知県人は、あまりご存知ない。

 牛牧落城と後日 “三好家成立之事”にある“新開式部少輔道善嫡子・同右近道善聟・桑野河内守・野田采女・川南駿河守等の頭を上る程の者どもをば、方便寄て討果し”とある式部少輔は、阿南市富岡町石塚の景徳寺に安置する文珠菩薩像裏の逆修(ぎやくじゆ、生きているうちに、死後の幸福を仏に祈って行なう仏事)銘文にある“大旦那平実綱実成”の実成にあたる。式部少輔は、すでに城内に駐留していた長宗我部勢と戦って戦死、このとき新開氏の一族・郎党は節に殉じたとみてよい。

 阿南市桑野町の紅露皓一氏家の過去帳によると、新開遠江守の娘が、紅露弥左衛門尉祐綱の室になり、慶長18年(1613)3月20日に死んでいる。実成の姉妹であろう。そのためか実成の墓は紅露氏の墓域に、五輪塔として残り、紅露秀綱が文化8年(1811)に再建したと碑面に刻してある。(図7)

 新開遠江守の弟直之の子孫という名東郡国府町佐野塚一帯の真貝氏、新開右近の子孫である板野郡板野町の新開誉一氏、新開遠江守の弟治部少輔の子孫といわれる勝浦郡勝浦町三溪の新開茂雄氏と徳島市沖の浜町新開勝三氏。ほかに新開氏の子孫という家もある。

 新開遠江守と林皷浪 徳島県で初めの人間文化財に指定された徳島県文化財専門委員会委員長林皷浪(明治20〜昭和40.11.25)氏は、月余をついやして、縦89センチメートル×横150センチメートルの桧板に、錦絵ふうな“新開道善の最期”をかきあげ、昭和38年10月、藤目正雄氏ほか31人の手によって丈六寺に奉納した。この絵馬と、つぎにご紹介する浄瑠璃が、視聴覚をとおしての、武蔵新開氏が阿波に入国以来の“芸術新開像”になっている。(図8)

 鳴門瀉浮亀名城 昭和36年12月11日の徳島新聞は、“浄るり雑記のなかで、阿波で生まれた浄るりとして、“鳴門瀉浮亀名(明)城”(なるとがたうきのめいじよう)をあげている。久米惣七氏によれば、作者は板野郡竹須賀(徳島市川内町)の人、谷川為次氏で、勢玉と号し、慶応3年(1867)かって富岡町に住んだ所縁によって、新開主従と丈六寺を素材に十段ものの台本を書きあげた。明治初期、市村六之亟一座の手で、阿波・淡路で上演した。勢玉の孫にあたる徳島市幸町の谷川羌一氏所蔵の勢玉自画像で考証できる。

 新開遠江守の墓 丈六寺十六代住職の凸巌養益は、享保14年(1729)9月、大阪の旅から帰って、新開遠江守の墓について住持日鑑、寺では識遺編とよんでいる日誌の第四十三冊に書いている。凸巌が十六代住持になった年の7月、勝浦川に沿った中門近くの杉林で落葉の堆積にまじっている阿波の青石つくりの板卒塔婆を見つけ、寺僧に問うと、新開遠江守の墓だという。来歴をきいて、これが一城の主の塔婆かと驚き、墓を困定し周囲を清め、香華を手向けること16年、凸巌は病んで摂津の多田温泉に入湯の留守、新開氏の子孫という、徳島城下内町の医師鈴木善明が来山。その後、宿縁によって石塔を建てた。最初の板碑ようのものは、高さ60センチメートル巾40センチメートル厚さ12センチメートル中央に幻海道善居士、法名をはさんで右に天正九年十月十六日、左に新開寿的と刻している。石川重平氏は、疑いもなく天正期の作という。

 いままで、新開寿的は道善の弟となっている。凸巌の日記のなかにも“弟法名寿的也”細川阿波軍記に出ずと註しているが、景徳寺の過去帳には、天正九辛巳年十月十六日逝玄海寿的天正年中富岡城主新開遠江守入道道善新開寿的実綱公と記しているところをみて、実綱の道号を寿的、法名を道善といった。出家したのはいつか。戒師はだれであったか知られていない。

 新開神社創建記 新開遠江守は、新開神社として、阿南市富岡町トノ町の秋葉神社境内にまつられていたが、昭和15年11月、多くの篤志家によって、由緒深い牛牧城跡の北嶺に遷宮奉祀した。昭和26年のルース台風のため社殿が大破損したので、山下の牛牧振興会が再建計画たて、大川鉄三・田淵島雄・豊田為雄・小西洲司・青木正義・山田敏・福原健二・振津幸子の諸氏が再建発起者となって、昭和39年2月に着工、同年4月17日に遷宮式を執り行った。神殿は摂社とも鉄筋コンクリート造り、工費は境内の植樹・参道工事をふくめて金七十四万円余だと。祭神は主殿に新開遠江守夫妻、脇殿に殉難将兵。祭礼の日は毎年十月十六日。氏子は西新開地区全員四十九戸である。(図9)

 新開氏系譜私考 この章を終わるにあたって、いままで採訪してきた史料を綴りあわせ、読者諸賢のご参考に供するため系譜を作製しておいた。千葉・上総系図・市原系図を参考にした。なお実綱の没年は、9月と10月の両説あり、しばらく9月説をとる。

 

あとがき

 すでに規約の紙数をこえたので、第2章以下をつぎの時にした。なまじ体裁を短文でつくろうのは、読者に親切とはいえない。

 お教えをいただいた飯田義資・後藤捷一両先生に、心からお礼を申し上げる。

 地元の阿南市役所・教育委員会・教育研究所・文化財保護委員会・阿南市土木出張所・阿南郵便局・正福・景徳・光円・常光・本覚・桂国の各寺、新開神社・八幡神社の各位に対し感謝を表明したい。

 丈六寺住職豊田知雄師丈六寺顕彰会藤目正雄先生には数次にご指導いただいた。

 とくに、群馬、埼玉、東京、神奈川、静岡、上野、福井、滋賀、京都、大阪山口ならびに四国の県立図書館、山口県文書館の館長、司書諸先生より本研究について有益なご指示をえた。

 毛利元道・長井梅市・毛利俊雄三氏のご懇情も忘れがたい。ささやかな小研究は、ひとえに皆さんのお指図による結果でただありがたいと申すほか言葉がない。徳島県立図書館の江島智恵子さんには、この稿についてご迷惑をかけとおした。お詫びとお礼をいちどに申します。


徳島県立図書館