阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会紀要第10号  
徳島公園お堀の水質とプランクトン 徳島生物学会 森本康滋
徳島公園お堀の水質とプランクトン

徳島生物学会 森本康滋

1 はじめに

 徳島市のほぼ中心にある徳島公園には、かって徳島城の本丸や一の丸などがあった城山と、堀、および徳島城表御殿庭園であった千秋閣(ここに心字池がある)などがあるが、お堀は国道11号線に沿って南北に走り、城山の緑が堀の水にうつったながめはまた格別である。ところが山紫水明であってほしい堀の水があまりにも汚れており、水の色が時によって非常に変化することに気付いた(昭昭36年)ので、水が汚れている原因を調べ、さらに水色がなに故変化するかを明らかにしようとしてこの調査を始めたわけである。

 なおこれは、城東高校生物部員約20名とともに調査したもので、調査にあたりいろいろと指導していただいた県衛生研究所の大恵先生・片岡先生および県水産試験場長加藤先生並びに便宜をはかってくれた市当局に感謝の意を表する。

 

2 調査期間 予備調査を昭和36年10月から始めたが、調査項目を検討し、それらの器具がそろって本調査に入ったのは37年7月で、ここに発表するのはそれから38年6月までの1年間の結果である。

 

3 調査場所 堀を中心に、堀へ大きな影響を与えていると考えられる助任川と寺島川、および千秋閣の心字池の4か所であるが、堀の汚れと関係が少ない心字池については紙面の都合上資料を省略する。図―1(検査場所概念図)参照

 

4 調査項目 調査は一部は現地で行ない、他は同時に採取した試料について実験室で行なった。

 1)現地試験

  イ)潮流・水位

  ロ)気温・水温

  ハ)水色(新色名帳による)

  ニ)透明度(直径10センチメートルの白色円板による)

  ホ)溶存酸素(ミラーの変法による)

  ヘ)硫化水素(ヨード消費料による)

  ト)pH(pH比色管による)

 2)実験室試験

  イ)アンモニア性窒素(ネスラー試薬比色法)

  ロ)塩素イオン(モール氏法)

  ハ)C・O・D(高温過マンガン酸カリウム法)

  ニ)B・O・D(生物化学的酸素要求量)

  ホ)大腸菌数(デスオキシコーレイト培地。混釈培養法)

  ヘ)プランクトン(ミューラーガーゼNo.13。種類と数)

 

5 お堀の歴史

 1)蜂須賀築城以前

 蜂須賀築城の徳島城以前は、わずかに山上に森飛騨守が館を守っていただけで、平地には城は造られていなかった。

 2)蜂須賀来城

 1586年(天正14年)蜂須賀家政が徳島城を築きここに入ったが、その外側につくられた堀は御堀川といわれ、東西は南側40間、北側18間、南北138間、幅8間と南北に細長いコの字形としてつくり、堀の外側には小堤(この小堤の跡は今も堀の東南部に一部残っている)があった。この時石垣に使った石は大きいのは一宮城から運んだといわれ、その中には時々文字や絵がきざみ込まれているといわれる。築石は主として緑色片岩で、所々珍しい紅簾片岩等を積み込んである。また石垣の上には所々櫓があった。

 堀は下乗橋の西の角で寺島川と通じており、海水が自由に出入りしていた。また堀の北東隅でも現在と同様助任川と通じていたが、ごく小さかったようである。表御殿の庭園にある心字池とは、数寄屋橋の下で連絡していた。

 3)明治時代

 この城は明治6年2月、陸軍省の管轄に移り国の所有するところとなった。明治8年にはこの城の鷲の門を記念として残し、他を取り崩したが、石垣・堀には何ら手を加えなかった。ただ明治41年、時の皇太子(大正天皇)の行啓に際し、堀の東側の小堤は取り去り、またこの時まで太鼓橋であった下乗橋を水平橋とした。

 4)昭和時代(終戦後)

 戦後福原建生氏を中心として公園内の千秋閣庭園とともに改造したが、堀南東、北東の水面の柵を取り、東側と南側の崩れた(南海地震により)石垣を直したのみで、昔の姿をほとんど変えていない。南西部の寺島川との連絡口および北東部の助任川との連絡口の改造は昭和にできたものだが、当時、寺島川は埋立ててなく、堀のすぐ西側を流れていたので寺島川との関係が大きかったようである。昭和32年から33年にかけて堀の底をさらえ砂利石を敷きつめ、助任川とは助任橋付近で、また寺島川とは立体交叉路をよけて東警察署裏で、それぞれヒユーム管で連絡している。このようにして2つの川から水を流出入させ、堀の水が絶えず入れかわるようにした。ところが堀の水はいっこうに美しくならない。

 

6 調査結果および考察

 1)潮流

 昭和36年12月3日の満潮時堀にブイを浮かべて調べたところ、寺島川、助任川のいずれからも水は流入しているが堀全体としてみると助任川からの流入量が多いことがわかった。しかし各川との水門を時々開閉しているので、堀での潮流、水の流出入量は一定していないようである。

 2)水位

 昭和37年4月3日午前5時から19時(満→干→満)までの間、堀、助任川、寺島川の水面の変化を調べたところ、水面の変化(干満の差)が最大なのは寺島川で126センチメートル、次が助任川の109センチメートル、堀は50センチメートルであった。なおこのとき堀の水深は干潮時70センチメートル、満潮時120センチメートルで、また干満の時刻は2つの川は同時刻であったが、堀では川より2〜3時間おくれて干満がみられた。

 3)気温・水温

 10時と14時に同時に手分けして温度を測定した。図―2は堀の水温と気温(10時)を示したもので、全体的に冬は水温が高く、夏は気温が水温より高い。図―3は3か所の水温を比較したもので、2つの川は水温がよく似ているが堀は川に比べて夏高く、冬低い傾向がみられる。これは堀では川ほど水が動かず、また浅いためと考えられる。最高温度は堀29.5℃(8月)、寺島川27.9℃(8月)、助任川27.6℃(8月)。最低温度は堀4.3℃(1月)、寺島川5.5℃(2月)、助任川5.9℃(2月)であった。

(図−2 堀の気温と水温 10時)

(図−3 水温(10時) 助任川・堀・寺島川)

 4)水色

 水色は色名と色度記号(色相記号―明度番号―彩度番号の3つの数字)で表わした。堀では色相は4(だいだい)〜16(あお)の間を変動していて、この幅は3か所中最大である。明度は12〜16、彩度は2.5〜4の間で夫々変動しているから、平均して「オリーブ色で黒っぽく、あざやかでない色」であったといえる。助任川では色相が7.5〜14と、堀に次いで変動の幅が大で、明度は14〜17、彩度が2〜4と堀とよく似ている。寺島川では色相7〜14、明度12〜17、彩度0.5〜4で彩度は3か所中最低値を示していた。

 このように水色の変化が大きく、だいたい似た傾向がみられるが、3か所とも同じ色であったことはない。2つの川の水色は主として上流にある工場が廃水を流した「時」とその「量」および「潮の干満」などに大きく影響されている。(37年5月助任川の水が白色になったこともあった)このような川から廃水を含む水が干満によって、堀へヒューム管を通じて流入する結果、堀の水色が変化するものと考えられる。

(表−1 水色の変化)

 

 5)透明度

 直径10センチメートルの白色円板がみえる限界を長さで示した値である。湖沼の透明度は普通プランクトンの種類や量に左右されることが多いが、堀の場合はプランクトンとはあまり関係なく、助任川や寺島川からの廃水や雨水による濁流などにより左右されている。堀は冬水位が低く澄んでいて、11月〜2月の間は測定不能であったが、最低は4月の48センチメートルであった。助任川は最高96センチメートル、最低55センチメートル、寺島川は最高114センチメートル、最低44センチメートルであった。

 6)塩素イオン

 塩素イオンは海水中に含まれているので、海水が流入している場所で検出される。塩素イオンの変化は図―4に示す通りで、冬高く、夏低い値を示しているが、これは降水量と関係があると考えられる。9月に寺島川(8121.3ppm)、助任川(7905.1ppm)はともに低い値を示しているのに、堀では12553.0ppmと高い値がみられた。これは助任川、寺島川に流入している吉野川上流に数日来の降雨があったが、徳島市内ではそれほど降雨をみなかったので、2つの川と連絡しているとはいえ(水門は閉じていた)堀は影響を受けなかったわけである。平均値は最高が寺島川(海に最も近い)10962.7ppm、で堀10874.7ppm、助任川9766.4ppmの順となっている。海水は約30000ppmであるから、3か所とも海水の約1/3の塩素イオンを含んでいる。

(図−4 塩素イオン)

 7)硫化水素

 これまで調べた結果によると、硫化水素は工場廃水中にも含まれているが、また川底をかく拌しても、その値は高くなることがある。3か所の硫化水素の変化は図―5の通りで、よく似たカーブを描き、一般に冬に低く、夏に高い値を示している。このことから硫化水素の値は水温の影響を受けていることがわかる。平均値は助任川0.974ppm、寺島川0.518ppm、堀0.479ppmとなっている。

(図−5 硫化水素)

 8)pH

 堀は年間を通じて2つの川より値が高く、最高8.7(4月)、最低7.5(6月)と常にアルカリ性を呈し、かつその差は2つの川より大である。(図―6)。2つの川は大変よく似たカーブを描いている。夫々の平均値は堀8.0、寺島川7.5、助任川7.4といずれもアルカリ性に偏している。なおこれは海水の(pH=8.3)の影響にもよると考えられる。

(図−6 pH)

 9)溶存酸素

 溶存酸素(ppm)の変化は図―7の通りで、堀は最高15.6ppm(2月)、最低3.46ppm(3月)とその変化が激しく、その差が3か所中最大でしかも常に川より高い値を示している。1月2月の高い値は、堀に異常繁殖した褐藻類の1種によるものと考えられるが、9月と4月は硅藻類が多くみられたことから、それらによると考えられる。助任川と寺島川とはほぼ似たカーブで変化も堀ほど激しくない。平均値は堀9.12ppm、寺島川2.91ppm、助任川2.79ppmとなっている。(37年5月堀のイナが約5,000尾死んだが、このとき0.896ppmと非常に低い値であった。このように堀では溶存酸素の値が大きく変化するが、その原因が何かよくわからない)。

(図−7 溶存酸素)

 10)生物化学的酸素要求量(B.O.D)

 BOD値が大である水は、微生物によって分解されやすい不安定な物質を多く含んでいるといえる。2つの川は大きく変動しているが、堀ではそれほど著しくなく、また川と異なるカーブを描いている(図―8)。川のBOD値の変動は工場廃水や汚水によると考えられる。夫々の平均値は寺島川が13674ppm、助任川11679ppm、堀6529ppmとなっている。普通清浄な水のB.O.D値は約1ppmであるから、堀では約6倍汚染されているといえる。

(図-8 B.O.D)

 11)化学的酸素要求量(C.O.D)

 堀のC.O.D値は非常に変化が激しく、助任川もまた堀同様変動している(図―9)。このような値の変動は川の上流にある工場の廃液(ある工場の廃液は677ppmであった)の影響を大きく受けていると考えられる。平均値は大した意味はないが、助任川7.72ppm、寺島川6.69ppm、堀6.28ppmとなっている。

(図−9 C.O.D)

 12)アンモニア性窒素

 アンモニア性窒素の変化は図―10に示す通りで、特に堀が37年度に高い値を示している。(市民会館からの汚水が堀に流入していた)。38年に入ってからは低い値を保っている。平均値は寺島川0.16ppm、助任川0.2ppm、堀0.28ppmと堀が最高値を示している。工場廃液中のアンモニア性窒素は多いところで、4.32ppmを示している。

(図−10 アンモニア性窒素)

 13)大腸菌

 大腸菌数は主として糞便による汚染の度合を知る目安になる。図―11に示すように夏多く、冬少ない傾向がみられるが、2つの川は大きく変動している。これは川に下水が流入していることや上流のどぶ川の汚染が著しいことなどがその理由と考えられる。堀は川より少ないとはいえ、やはり糞便により汚染されていることがわかる。

(図−11 大腸菌数(cc当たり))

 14)プランクトン

 表―2は調査期間中に出現したもののうち、主な種類を表にしたものである。3か所ともほぼ同じ種類がみられるが、これらはほとんどが海産のプランクトンで、特に硅藻類が圧倒的に多い。年間を通じて季節的に変化しているものもみられる。例えば Nauplius は冬に多く現われ、フジツボの幼生 Cypris は夏から秋にかけて一時的に多数出現し Nitzschia のイカダ形群体は10・11月に多くみられるなどである。

 堀の水色の変化がプランクトンの種類や量と密接な関係があると考えて水を調べ始めたが、プランクトンとはほとんど関係なく、水色は主として工場廃液の色によるという結論に達した。

(表−2 堀のプランクトンの変化)

7 おわりに

 徳島公園のお堀について14項目にわたって多角的に調べてみたが、堀が助任川・寺島川と非常によく似た値を示すもの(例えば塩素イオン、硫化水素、アンモニア性窒素)もあれば、またほとんど関係がないようにも考えられるもの(溶存酸素、pHなど)さらに複雑に変化しているもの(B.O.D,C.O.D)などあって、いちがいに結論を述べることはできないが、堀の水色は2つの川が示す水色の範囲内でだいたい変化しているので、2つの川が大きく影響していることは確かである。そして塩素イオンが海水の約1/3含まれているということも水が腐敗する原因の1つでもある。これらの事柄を考え合わすと、今よりは堀の水を美しくすることができるのではなかろうかと考える次第である。堀の調査に関係した生物部員とともに水が美しくなる日を待ってやまない。

徳島県立図書館