阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会第9号  
阿波水軍と朝鮮の役 阿波郷土会 森甚一郎
阿波水軍と朝鮮の役
   阿波郷土会森甚一郎
 天正18年(1950)小田原に北条氏を滅ぼした豊臣秀吉はもはや国内には征服すべき者がなくなったので,その武威を海外に示さんとの大志を固めた。しかし朝鮮は明国を征伐する嚮導役であって,最初からは武力を用いる意思はなかった。それ故に天正17年(1589)夏に対馬の宗義智を朝鮮国王宣祖李〓の許に遺し,来聘を促し,自分の計画を示して征服の途を借らんとした。これはあくまでも平和手段による朝鮮説服の外交方針であった。翌18年(1590)朝鮮の答使が来朝,11月7日に秀吉は伏見城に引見したが,明国を怖れて秀吉の要求を満足さすような返事は得られなかったので,軍隊輸送のため天正19年(1591)正月20日諸国に船舶の準備を命じた。その内容は
 1.東は常陸より南海を経て四国,九州に至る海に沿うた国々,北は秋田酒田より中国に至る,その国の高10万石について大船2艘ずつ用意すべきこと。
 2.水手は浦々の家100軒について10人ずつ出させその手その手の大船に用い,若し余りの水手があれば大阪に来るべきこと
 3.直轄地は高10万石について大船3艘,中船5艘ずつ作るべきこと。
などである。そして8月には翌天正20年(1592)3月1日を期して明国親征を決定した。天正20年(文禄元年)3月13日に毛利輝元にあたえた動員令には1番より9番までの諸将を部署し,陸軍は158,700人,水軍は9,450人となっている。秀吉はこの威嚇的な動員令によって朝鮮は必らず我が要求を容れ,無抵抗に明国への嚮導をなすものとの見解を持っていた。これは次の毛利家文書にも明らかである。
 万一御請不申,於及異議は,高麗へ近き島々へ人数悉相移,船揃を仕,前後次第に不及,先勢総人数申談,高麗之地何之浦々へも一度に令着岸,陣取を固,普請丈夫に可申付候。然時は九州,四国中国之人数の事は不及申,淡路衆,九鬼以下も右同前に一度に可相越事。
次に計画された諸準備を見ると特に水軍に対する閑却は見逃がせないものがある。後世朝鮮の役を談ずる者その不成功の最大原因は水軍の不振であったと決定づけている。事実天正18年朝鮮に征明のことを告げた翌19年に始めて軍船建造に着手し,しかも水戦の訓練を行わなかったことは水軍下振の重大な一因をなしたのである。また水軍にはこれを統轄する総指揮官がなく,ために数度の海戦に一致協力の実を失い,藤堂と加藤・脇坂の争いなど抜けがけの功名をこととし,或は功名争いを繰返したことは水軍敗戦の重大な素因ともなっている。それ故に小瀬甫庵の太閣記に水軍の規約として次のことが強調されたと記してある。
 1.船中の軍戦は多数決によるべきこと。
 2.何人の船にかかわらず危難に遭うものあらば助勢すべきこと。
 3.敵に珍らしき戦法計略あるを知らば互いに通報すべきこと。
 4.功名の程度はえこひいきなくありのままに報告すべきこと。
 5.他人の功労を盗んで己のものとなすまじきこと。
 6.各将哨船2艘ずつ出すべきこと。
 7.名護屋本陣への報告は軍奉行を経由すべきこと。
このような苦難の諸情勢の中にあっても天正15年(1587)の九州島津攻めや天正18年(1590)の相州小田原攻めに威力を発揮して水軍総指揮の加藤嘉明から感状を受けた阿波水軍の朝鮮の役の功績を没却することはできない。今阿波水軍の活躍を手元の古記録でたどってみよう。
 文禄元年(1592)3月26日京都を出発した第5軍は福島正則,蜂須賀家政,戸田勝隆,長宗我部元親,生駒親正,来島通之の総勢25,100人が4月27日釜山に上陸した。家政は稲田左馬允植元,中村右近大夫重友,林図書助能勝,岩田七左衛門光長等の重臣を従え名護屋から壱岐を経て釜山へと向ったのであるが,古伝記には「家政公御召船無之故森志摩守村春が所持する鈴船にて御渡海云々」となっている。水軍の本務は陸軍の輸送であり戦闘は副務とみられていたが幸に阿波水軍は独立水軍として出陣した脇坂安治,加藤嘉明,九鬼嘉隆等の船方衆と相互援助の下に直接戦闘に参加する機会に恵まれていた。先着の第1,第2の諸軍に続いて釜山海に入った第5軍の阿波水軍は森志摩守村春,森新正氏村を部将として熊川に1番乗りをなし(2番乗りは鍋島直茂),更に沖の島を乗取って朝鮮海峡の制海権を掌握した。数川与三左衛門重勝は敵の哨船を分捕り功をたてた。かくして家政麾下の阿波軍は水陸ともに破竹の勢を以て無人の境を行くが如く北進して昌原に本陣を構えた。戦勝に乗じた日本軍は更に北進し王城の京城を陥れたので国王李〓は脱出逃亡した。(この戦闘で小西行長と加藤清正の先陣争いがあり家政が和解の労をとった)。秀吉はこの勝利を聞いて使者を送り家政に綿衣を,家臣稲田植元,中村重友,林能勝には感状と綿衣とを与えた。辻五郎大夫好勝が敵陣の太鼓を分捕り,今枝治兵衛が敵人を生捕った。この勝利に引きかえ水路に明らかでない日本水軍は次第に苦戦を重ね一度掌握した制海権も失い勝となった。これは敵の名提督李舜臣の卓越する指揮力にその原因があった。阿波水軍もその例に洩れず苦戦をした。李忠武公全書巻二の「唐浦破倭兵状」に李舜臣は6月2日(文禄元年)蛇梁を発して唐浦に至り倭船と戦う(唐浦の海戦)。とあるように6月1日唐島瀬戸(唐浦)を陥落した阿波水軍は翌2日敵の猛反撃を受けて大海戦となり阿波水軍の総指揮森志摩守村春が戦死を遂げ,更に樫原牛之介,小森六大夫,粟田半七,渡部式部など阿波水軍練達の勇将を失ったのである。この海戦はただに阿波水軍の苦戦のみでなく日本水軍としても指揮者の一人である瀬戸内海の名将来島通之を失った。阿波水軍の指揮代理を勤めた森甚五兵衛村重(村春の甥)は叔父の新正氏村とともに奮戦して村春の死骸を取り戻したという。一方陸戦では10月明の智将李如松が朝鮮を救援して平壊へと駒を進めたので小西行長は文禄2年(1593)1月7日敵襲に堪えかねて平壊の守備を棄ててしまった。それ以来わが征明計画は大頓挫を来たし全く前途暗澹たる情勢となった。この頽勢は小早川隆景が碧蹄館の一戦に李如松を喰いとめたとはいえ,大勢を挽回するには至らなかった。このために消極的な小西行長は沈惟敬と4月8日休戦の約を結び,19日には李如松が入城したので,釜山へと引上げざるを得ないことになった。さてその間の阿波水軍の記録を見ると文禄元年(1592)12月晦日加藤嘉明とともに唐島から釜山海の敵軍船を撃破し,翌文禄2年(1953)1月1日には唐島で敵軍船を分捕り美馬与七が功をたてている。朝鮮の文書に「2月8日李舜臣諸将とともに釜山を攻むも勝たず。3月6日李舜臣熊川を攻略せんとするも効果なし」と記してあるのはこの間の情勢を物語っている。一方李如松の攻撃に京城退陣を余儀なくされた家政は途中仁字,桜間の諸将を失う苦戦をして釜山に帰り,唐島を守って休戦の行方を見詰めていたがこの和議交渉中にもあちこちに戦闘が行われた。順天の海戦では森甚五兵衛村重の率いる阿波水軍が敵の石火矢にて船を焼かれ苦戦している毛利軍を助けて大勝を得ている。更に6月の晋州城攻略戦で蜂須賀阿波,加藤左馬介,藤堂和泉,脇坂中務など水陸併せての精鋭がこれに加わった。森新正氏村の一番乗りなど水陸両軍全力を尽しての攻撃の末6月28日晋州城を屠ったのである。文禄2年(1953)11月両国間の和議が成立したので家政は一部の将兵を以て唐島を守らしめ家臣を引具して12月名護屋に着き伏見へと向った。
守備中の記録を見ると,文禄4年(1595)唐島で森志摩守忠付(村春嫡男)は敵の軍船を追払い敵兵を討取ったので後に家政はその功を賞して刀を与えている。明けて文禄5年(慶長元年,1596)交代守備を命ぜられた森新正氏村(甚大夫家の始祖)は7月1日航海中に没している。さて正式講和のため6月に出発した明使沈惟敬の一行は8月29日伏見に到着し,9月2日は伏見城で秀吉が激怒して明使を遂う有名な劇的場面が起った日である。休戦令から約2年半で文禄の役(朝鮮では壬辰の乱という)の講和は破れ去ったが阿波水軍の活躍は永く史上に残るものがある。(図 阿波水軍活躍地域)
 翌慶長2年(1597)1月再び征討の令が下り慶長の役(朝鮮では丁酉の乱という)が始まった。家政は第7軍の将として生駒一正,脇坂安治とともに出征した。阿波水軍は脇坂水軍と行動をともにして輸送の任を勤めた。家政は前役と同じく昌原に本陣を備え水軍は蔚山への運使を勤めて活躍した。
当時敵水軍の名提督李舜臣は失脚し元均が指揮をとっていた。7月15日夜半,森甚五兵衛村重,森甚大夫氏純の率いる阿波水軍は藤堂,脇坂,加藤の水軍とともに加徳島から巨済島にかけて敵の大軍を捕え,16日払暁には全滅的な打撃を与えて捕獲数十隻,焼焚百余隻の大戦果をあげ,敵の総指揮官元均は悲惨な最後を遂げ朝鮮水軍はここに殆んど全滅の悲連に陥った。海戦史上有名な漆川梁の海戦(加徳島海戦・巨済島海戦)である。勝利に乗じて南原城を包囲した家政は小西行長,島津義弘,長宗我部元親,生駒一正等約9万の全水陸軍とともに8月15日夜半から攻撃を開始し,大激戦の彼占領したが敵は死者五千,俘虜数百を出して全軍壊滅に帰した。わが位田判次郎家忠(笹山加兵衛家忠)が一番乗りをして城門を開き,稲田修理亮示植,中山源兵衛一綱が手柄をたてた。しかしこの南原城の攻略を境として明暗は異なった。水軍の将として奮闘した加藤嘉明,脇坂安治を始め阿波水軍の指揮者が相続いで上陸し陸軍と行動を共にしていたその虚に乗じて,再登場の李舜臣が精鋭の亀甲船を率いて反撃に転じた。9月16日鳴梁の海戦で来島通総(通之の弟),波多信時等の勇将が戦死し,又明将揚鎬の応援を得た敵の陸軍は12月22日加藤清正,浅野幸長を蔚山に包囲したのである。(注,那波利貞先生の月峯海上録註釈に慶長2年9月27日,七山島附近で鄭希得(月峯と号す)等が倭将森志摩守忠村に捕えられ12月31日徳島に護送された。とあるように海上の攻防戦はその後も続けられていた)。加藤清正と親交のある家政は翌慶長3年(1598)1月4日その危急を救うため阿波の水陸両軍に加藤嘉明,脇坂安治の諸軍と併せてその数2万を以て蔚山へと向った。樋ロ内蔵助正長の一番乗りを始めとして森甚五兵衛村重,森甚大夫氏純,小南加賀右衛門氏長,鈴江嘉右衛門長定がそれぞれ功をたて,敵1,500人を討取り蔚山籠城軍を救って阿波軍の名声を高からしめた。5月秀吉病床に伏したので令を下して加藤清正,小西行長,島津義弘等を留めて諸城を守らししめ中国,四国の将兵を帰国させた。家政も家臣を従えて5月帰国の途についたが途中石田三成のざん言を聞いて,伏見へは行かずして徳島へ帰り大安寺に蟄居して秀吉の命を待った。8月18日秀吉は雄図空しく伏見に薨じたので外征の諸将兵を遺命によって召還することになり,家政は阿波の将兵を収容輸送のため森甚五兵衛村重と尾関猪右衛門とを朝鮮昌原へ遣した。11月19日無事乗船,護送して露梁海峡に来ると島津,文花の船が朝鮮水軍(李舜臣)に帰路を遮られ苦戦していた。森甚五兵衛村重は早速立花の船を助け敵船を破り活路を見出してやった。この海戦は敵の名提督李舜臣が戦死という大激戦であった。世に露梁海戦とも漆川海戦ともいい慶長3年(1598)11月18日―19日のことで朝鮮役阿波水軍史の最後の一頁を飾り,舜臣の戦死によって七か年の戦役も全く終りを告げた海戦である。虎口を脱出することができた柳川待従立花左近宗茂は大いに悦び,阿波水軍の功績をたたえて早速伏見の大老五奉行へ報告をなし,又次のような自筆の礼状を家政にも送った。
  尚々申候爰元於様子者従寺志摩可被申候間不能申候以上
 此表之□□之令使今度番舟之剋拙者家中之舟御方以手柄壱艘たすけられ候一段見事之仕立無比類儀候拙者弐得御芳志之段無申比候於此地者御礼不得申候間以状申入候随而帰朝之以後□□以状申候相届候や不顧御□候折節急候間不具候惶惶謹言
   立左近
    宗茂(花押)
  11月19日
蜂阿州様 御中
このように阿波水軍はこの一戦を最後として将兵を無事輸送帰国させた。森甚五兵衛村重は帰国後伏見に赴き増田右衛門尉長盛を通じて軍状を申し上げ内府徳川家康はその労をねぎらって呉服一領を与えた。兼ねて上洛中であった家政は12月阿波に帰り外征有功の諸士にそれぞれ加禄賞詞があった。
 今度朝鮮為使相越島津殿立花殿船合戦之剋行合無比類働深重聞届候為褒美脇指一腰兼氏並領知百石内那西郡大野村之内卅七石余百姓一人那東郡新庄村之内弐拾七石同郡荒田野村之内五拾石百姓一人合百拾五石遣之条全可令所務之状如件
 慶長三 12月13日 一茂(花押)
  森甚五兵衛とのへ
多くの人命と資材とを消費したこの前後7か年に亘る大戦役は予期に反して獲る所は甚だ少なかったが四国の海将来島通之,通総,加藤嘉明,藤堂高虎,脇坂安治と行動を共にし又は単独に功績を挙げた阿波水軍は不朽の名を残したというべきである。
 最後に阿州奇事雑話(横井希純)から次の一文を引いておく。
 「森氏の祖先は当国の撫養土佐泊浦に住しその辺を領す。足利公御治世の末には土佐泊の松江の小城に住し家人も多し。尤も森甚五兵衛同甚太夫同宗森志摩守と共に住し海辺に住せる家にて代々船法水戦の妙を得水手を鍛錬し船を操ること飛ぶが如し。又水中の術に委し。天正の頃より御当家へ随順し御船手の将たり。その後文禄年間に朝鮮御征伐の節釜山海その外所々の水戦に船手の軍功甚だ高し。又朝鮮にて毛利家も船戦し給ひしに戦難儀に及びたるに御当家の御船手森氏は横合より兵戦を乗入れ加勢し攻め立てしに朝鮮の兵戦散々になりて毛利候全勝を得給ふ。依て厚く当時の謝礼をなし給ひなお又御内々の仰せには時を経若しくは仔細等あって阿州を立ち退く抔のことあらば後代何時にても早々毛利家へ来らるべしこの報恩には厚く扶助をなさんとありしに依りその頃より今に至るまで長州萩の御城下に森甚五兵衛屋敷と云ふを修造し秋納米一千石を彼の屋敷の蔵に納め積み毎年先繰りに米を詰め替へ囲ひ置き何時にても森氏の来るを待ち受け一向手支えなきとの御仕成りの今に絶へず二百余年に及び昔の約を変じ給はぬと云ひ伝ふ。依て長州より当国に来る人は多分は椿泊の森家のことをつぶさに尋ね問ひこの屋敷は只今に毎年米を蔵に囲ふことを話すとなり。誠に毛利候は御家柄大国の余風にて寛仁篤実なること他州の及ぶところにあらず。又森志摩守の家は御当家にて高三千石余を給はり船手の将として朝鮮の船戦に功多し。朝鮮の将士を檎にして帰り後に願ひ乞ふて家臣とす云々」と。

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