阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会第9号  
隠岐の島と阿波 阿波郷土会 森本義男
隠岐の島と阿波

   阿波郷土会 森本義男

 

 ◎隠岐の国概観

 隠岐国は島根県に所属する4つの住民島と180の無人島よりなる島国で人口43,600,水田1,300町,畑地2,900余町其他は山林で食糧は島民の自給不能にして不足分は本土より移入を仰いでいる。主な産物は水産物,木材等で小学校は30,中学校は13,高等学校3あって,最大の町を西郷町といい隠岐支庁の外諸官衛高等学校等がある。海岸線が多く風光の美に富み多数の史蹟は目下国立公園は申請中である。

 

 ◎隠岐と阿波との関連

1.隠岐の国造と阿波南方長の国造がその祖を同じくしていること。

 隠岐開発の祖神を祀る玉若酢神社宮司の憶岐家は隠岐国造の子孫で国造以来連綿として社家を伝え出雲大社の千家紀伊国造の紀伊家(東大平泉博士調査)と共に全国三家の一として稀に見る家系を有している。

 応神朝の頃観松彦伊呂止命五世孫十挨命が隠岐国造となり九世孫韓背足尼命が長(現在阿波国南方那賀川流域を中心とする所)の国造となり祖先の観松彦神社を奉祀したといわれている。

註.旧事記造本紀に

  「軽島豊明朝御代観松彦伊呂止命五世孫十侯定賜億岐図造」

  「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」

  ◎長は允恭記に阿波国長邑とあり,和名抄に阿波国那賀郡の名見え云々

 又隠岐家には大化の新制になる駅鈴を伝え隠岐倉印と共に国宝に指定されている。

 光格天皇は隠岐家より駅鈴を借上げ即位の式列に加えられ返還の砌の下賜の辛檐も伝えている。阿波における三木家が天日鷲命の裔として歴代の即位式に献上する荒妙の事故と対照的でもある。

(現宮司隠岐豊伸氏は本県立川島高校前身麻植中出身)

 承久の変に配流の後鳥羽上皇の行在地や火葬塚の遺蹟は阿波における土御門上皇の遺蹟と同じであり御父子の間柄であらせられる。

 乱世の砌とは云え一天万乗の大君が雲居の月を僻遠の孤島に眺め給うた十有九年凡ゆる御不自由を忍ばせられ,和歌や刀剣の御趣味に心を慰められつつ延応元年2月22日に御年60にして崩御遊ばされている事は恐懼に堪えない次第である。

 火葬塚に隣って隠岐神社が造営され神霊奉祀の点も阿波における阿波神社のそれと趣きを同じくしている。附近に忠勤を励んだ土豪村上助九郎(村上水軍の将縁屋城主)の邸宅があり上皇の遺品等を保管している。

3.後醍醐天皇の遺蹟が阿波における土御門上皇の遺蹟と取扱いの上に相似ている。

 後醍醐天皇行在所址は島後にある国分寺址が国指定となって居り古来人口に膾炙し後醍醐天皇の伝説のある島前の黒木御所が昭和30年に漸く県指定の史蹟となっている点は阿波における土御門上皇の遺蹟中板野郡池之診の丸山神社が明治の初頃火葬塚に決定を見,守護小笠原彌太郎長経が造営の申した御所村の行在所址が昭和2年漸く県史蹟となった事とよく似ている。

 隠岐国分寺址は天皇に関する伝説口碑は全くないが黒木御所址には三位局館址隠岐守護佐々木判官館址見付島等の遺蹟があり伯耆国名和長年の忠勤により夜に乗じて変装衷道より土豪近藤氏の援助を得て御潜幸海上無事名和港に御脱出の有様は今尚土地の祭典行事として残っている。

見付島は幕府の命に依る見張の武士の屯所で黒木御所前方

の海上にある小島である。

 御脱出を偲ぶ民謡

  「忍び出ようとすりや烏めがつける

   まだ夜もあけぬにガーガーと

   泣くや八幡の森がらす」

4.隠岐に長寿者の多くあること。

 長寿者の多い所として有名であり就中黒木村は全国にも珍しい長寿村である。主食としては米麦混用の外に雑穀を多分に使用し長寿味噌及び海産物によるカルシユーム成分を多量に摂収し早寝早起を習慣とせるによるという。

阿波藍の産地として阿波の北方は古来粗食地帯として知られ長寿者が多かった点も食生活と長寿が関連性を持っているようであり隠岐と対照的である。

 以上のように隠岐は偶然にも阿波と相似通って居る諸点があるの外人情風俗或は言葉のアクセント等が近畿に良く似ている。古来隠岐は流人島として有名な位で主に近畿を中心とした政治的罪人が自由な生活の下に彼地に土着し其の子孫が近畿の風俗習慣を伝え優雅な隠岐の伝統を形成して今日に至ったものであろう事を附言しておきたい。

徳島県立図書館