阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会6・7・8合併号  
明治時代の徳島県警察の変せん 三原武雄
明治時代の徳島県警察の変せん

(江戸時代末期から明治十年代までの組織機構と警察官の名称)

三原武雄

 

 本県の明治初期の警察制度にふれるについて,江戸時代末期における阿波国の警察制度のあらましから述べることとする。

 日本警察史(山元一雄著)によれば,

 「諸大名の私領たる藩政の内容には幕府は直接干渉せざることを原則としていた為め警察制度も概ね各藩にて異り,統一したものはなかった。又当時に於ては警察と云うが如き名称もなく分科も確然と明瞭でなく,軍事,民事,刑事,警察等混同して諸奉行は諸般の行政を執ると共に当然必要の処置として併せて警察の権能をも用いたものである。といわれている。

 このことは蜂須賀の私領であった,阿波国の警察制度や諸警察活動にも一応あてはまることであって徳島県郷土史(県教育会編さん稿本)にもそのことを次のように述べられている。

 「御仕置は藩政を総裁し,其附属に書記役あり,年寄は五,六人合議体にて行政の枢機に参し隠然当職の専横を制す,目付は行政百般の監察と処断をなし,下奉行を指揮命令す。其附属に小目附,目附日帳等あり,別に伊賀士なるものありて視察をなす(中略)諸奉行は一般の地方行政を掌るものに町奉行(中老或は物頭を以て之に充て城下市街一般を管轄す)御郡代奉行(組士を以て之に充て封内各郡を区分して管轄す)の2あり,其の他特定の事務を掌るものに御蔵奉行,藍方代官,塩方代官,御作事奉行等約20許りありき。城下における年寄は町奉行の任免するものにして各町に設け,町内の事務を処理し兼て各町を代表する。5人組は各年寄に属し町内の事務を掌る,各部に於ける与頭庄屋は1郡3,4人を置き御郡代奉行の任免に係る庄屋以下を指揮監督す。庄屋は一町村の事を掌り,5人組は庄屋の指揮を受け傍示別に町村事務を分掌す。其他庄屋に属し犯罪治安の事をなす者に番非人あり御郡代所の同心下裁判の指揮により特別刑事に従ふ。」と,また川田町史によれば,「警保事務は与頭庄屋,肝煎,5人組の如きも干渉したが特別任務に従事したものは御目付,同心,番非人であった。御目付は郡代奉行の任命で適宜の個所に配置せられて受持区域を定めて巡廻り無切手,胡乱者,盗賊等の警戒をなし,同心は専ら郡代所に付いて御目付と共に郡内に於ける犯罪治安の事に従った。番非人は一に隠密又は探化と称し,与頭庄屋以下役人にれい属し御目付が巡回の節には召連れられたが,常に隠れ忍んで秘密に悪化の者等を探偵逮捕するを任務とした。」と記されている。

 以上2つの資料によって本県下の江戸時代における警察制度の大要が理解できるので,より以上の説明を必要としないが,そのほかに盗賊制道のため郷鉄炮の者が活動したとの記録や,治安警備のために原士や郷士が時として参加している。

 明治維新は我国政の上に空前の大変革を遂げたが,我国警察制度もその例外でなかった。従って本県警察制度も前に述べた,蜂須賀藩当時の警察制度に終止符をうったことは申すまでもないことである。

 明治2年(1869年)6月17日版簿奉還によって徳島藩が先ず置かれ同年6月5人組制度も廃止された。

 明治3年(1870年)9月10,藩制の制定によって,徳島城を改めて藩の公廨とし、公廨には総政,民政,会計,軍政の4局,総学,風憲,刑法の3司,及び陸軍,海軍,医院ならびに公務方など14方を置いた。

 なおこの時職制として,知事,大参事,権大参事,少参事,権少参事,大属,権大属,少属,権少属,史生,準史生,出仕,附属,附属■等の官員が置かれた。

 この藩制の施行によって警察の主管は主として軍事,刑法,監察がその任に当った。そして係員は主として旧臣(士族)をもって充て,直接の執行官として藩兵も用いた。

 明治4年(1871年)3月大庄屋,庄屋,同心,郷目付が廃止されて新に制道役が置かれたが,番非人はそのまま制道役下役と称して警察事務をとっていた。

 このように警察制度は新しい時代の制度へと脱皮せんとしつつも同年7月14日の廃藩置県までの間は諸般の制度が混沌としていた時代なので警察の制度も不統一ではっきりせず旧態依然としていた。同年11月15日徳島県を名東県と改め,その年(明治4年)月日不詳,県に聴訟課を置いた,この月日が詳でないことは,徳島警察署沿革誌中に明治4年11月27日名東県庁内に聴訟課を置いたとなっているのに,富岡町史,新野町史,に掲載されている記事(聴訟課より制道役に出した達書)によると,

 盗賊召捕候上は制道役手許に於て拷問を許さず一と通り取糺上つづめ書認め用掛の奥書にて申出づべく候事

   聴訟課

 辛未6月17日

とあり,すでに辛未(明治4年)6月には聴訟課が存在していることなので(新山城谷村史,今津村史略には前記達書の日付が9月17日となっている。)聴訟課発足の日時はいまのところ正確にわかっていない。

 同年10月28日府県官制が発布され

知 事(1員) 4等

 権知事 5等  参事(1員)6等

 権参事(1員) 7等  典事 8等

 権典事(1員) 9等  大属 10等

 権大属 11等  少属 12等

 権少属 13等  史生 14等

 出仕 15等

と県官の職階制が制定された,また

 同年11月27日発布県治条例によると,

 令(かみ)

 権令

 令アレバ権令ヲ置カス,権令アレバ令ヲ置カス

 と県知事が令に権知事が権令と称されたことについての明文がある。

 当時の警察は専ら司法警察の時代であったので訴訟,裁判,因獄の事務と共に職訟課が併せて管掌し,県令,参事等の指揮監督を受けて典事が主任となり部下の大属以下(権大属,小属,権小属,史生,出仕などの係官)にその事務を掌らしめていた。

 同年12月1日県庁が寺島町賀島屋敷跡(現在徳島市役所のところ)に移転したので聴訟課も旧城内から同所に移った。そして間もなく,同年同月23日その県庁北長屋敷に捕亡吏(ほぼうり)(警察官)の本屯所を置いたと言はれている。この捕亡吏の誕生は,その後時流に従って名称こそ変るが,一応近代警察宮の誕生と見做してよいと考えられる。

 なおこの捕亡吏には階級があったと思われるがいまのところ本県のことは判然としていないので資料の発見にまつより他はない。

 明治5年(1872年)5月大小区が設置せられたので大里長庁に属していた制道役は廃止され,さらに同年10月20日捕亡吏も廃止されて新に邏卒(後年の官選邏卒に対し民設邏卒という。)を置き,先に述べたところの捕亡吏本屯を引継いで本屯所として使用している。このときの邏卒の階級は,

 邏卒総長

 邏卒長

 筆算役

 邏卒(1等邏卒―3等邏卒)

となっていた。

 呉郷文庫の名東県歴史(県立図書館蔵)によると,

 明治5年10月20日初めて邏卒を置くの許可を得旧藩治の際商人結社身元金として貯蓄之れ有るより生息する利金1万2千8百29円余を以て月給及び諸経費に充て同年11月23日邏卒100余人を設け邏卒総長及邏卒長を置き邏卒の等級を3等に分つ,と記されている。

 明治6年(1873年)1月邏卒を県下各郡に配置したためこのとき始めて邏卒出張所が発足した。(それまでは邏卒は本屯所に居て県下へ派遣していた。)

 記録によればこの頃の邏卒出張所は後日の警察署処在地町村内にある有名な寺院(主として)に置いたのが特色である。

 同年5月邏卒伍長の制度が設けられて,そのかわりに邏卒の等級がなくなるという階級の変更があった。さらに

 同年6月邏卒出張所は邏卒屯所とその名称がかわって,屯所の下に分屯所が置かれた。

 明治7年(1874年)1月聴訟課が廃止され,県庶務課に警察掛が置かれることゝなった。この理由は,その頃全国的に裁判所が設置され始め(本県ではっきりした記録は,明治9年11月に高知裁判所徳島支庁が設置されたとなっているので過渡期があったものか,その以前に裁判所ができていたかいずれか)裁判事務が地方官の関係から離れたもので聴訟課を廃止したものであろう。なおその頃「地方邏卒兼逮部職制」が公布せられ,(逮部とは検事の指揮により犯罪の捜査検挙に従事する者)聴訟課の大属以下は2分されて,検事局に属して司法警察事務を専掌するものと,県庶務課に属して専ら地方警邏取締に任ずる者とになったようである。

 同年8月7日(徳島警察署沿革史による。ただし呉郷文庫名東県歴史によると同年7月29日となっている。)県庶務課の警察掛を警保係と改称し,なお同日,邏卒総長以下の名称を廃止し次のようにその名称を改めた。

 総長

 権総長

 大部長

 小部長

 巡査(1等巡査―3等巡査)

これによって,県下各郡の邏卒屯所,分屯所は巡査屯所,同分屯所とその名称が変った。

 ところがこの制度の巡査の月給は日課銭でまかなっていたので,予算上の制約を受け人員が少かったために県内治安の維持に欠ぐるところがあった。その辺の事情と問題解決のため警邏を設置する経緯を書いた公文書が半田町史に次のように記されている。

 達 書 57号

 巡査ノ義ハ人民ノ安全ヲ保護スヘキ職掌ニテ必ス置サルヘカラス然シテ是ヲ各処ニ設置スルトイエトモ民日課銭ヲ以月給ニ与へ候得ハ其人員ニ於ル限リアリ故ニ遠郡辺村ニ至リテハ其保護ニ洩ルモノ不少苦情有之趣ニ相聞候ニ付今般阿波国中巡査ヲ廃シ更ニ各小区毎ニ両3名ノ警邏ヲ置区内ノ保護一層行届候方法ニ改正シ10月1日ヨリ施行候条此旨無遣漏可触示候事

 明治7年9月23日

 名東県権令 久保断三代理

 名東県参事 西野友保

こうして,このときの巡査制度は改正のやむなきに至って,同年10月1日巡査を廃して各小区毎に警邏を置いた。従って巡査屯所,分屯所は警邏屯所(分屯所は不詳)が置かれるに至った。この警邏の上役は各大区長が警邏長,各小区戸長が副警邏長を兼務して警邏を指揮監督して治安維持にあたった。

 しかしながらこうして折角発足を見た警邏制度も欠陥があったのか僅か二カ月位しか続かなかった。

 明治8年(1875年)1月20日警邏は廃止となって,再び邏卒(官撰邏卒)が誕生した,そのことはその頃司法省警保寮は全国警察を直接統轄する意図で各府県の警察官吏の名称を番人と統一しょうとして次の通達を発したことが改正の発端となったと考えられる。

 太政官第225号

 従来各地方ニ於テ邏卒又ハ取締組或ハ捕亡吏等ノ名称ヲ以テ其実番人ノ職ヲ奉シテ居候類ハ都テ番人卜改称可致此旨相達候事

 これに対して各県共番人の名称に猛反対をし,本県も同調した様である。そのことの裏付として次のような公文書が残っている。

 第17号

 阿波国戸長区長宛

 警邏ノ名称ハ御達ノ旨ニ基キ番人ト改称可致筈ノ処今般区戸長ノ申立ノ趣モ有之更ニ官撰ヲ以テ邏卒ヲ設ク各郡ヘ出張セシメ行政警察ヲ体トシ司法警察ノ事務摂行致シ別冊ノ通為取扱候条此段無洩至急可相達事

  明治8年1月18日

   名東県権令 古賀定雄

    (別冊省略)

 こうして番人の名称で全国警察官を統一しょうとした警保寮の企図は中絶したという奇妙な経過も辿ったといわれている。

 この再度置いた邏卒(官撰)の階級は,

総長

権総長

邏卒長

邏卒権長

邏卒伍長

筆算役

邏卒

の7階級となっている。またそのときの改正で県庶務課警保係は警察係と,警邏屯所は邏卒屯所分屯所といずれも名称が改められた。

 同年10月24日邏卒はさらに警部と巡査に名称が改称され警部は1等から6等まで,巡査は1等から4等まで等級がつけられることとなりこの期間は朝令暮改が行われた。

 この警部、巡査に改まるときの事情について日本警察史(山元一雄著)には次の通り説明されている。

 全国的に巡査と改称されたのは明治8年6月20日より20日間開催された,地方長官会議の結果である。此の会議は我国最初の地方長官会議であり,今日の地方長官会議とは異り帝国議会の試みであった。それは三権分立の趣旨に基づき元老院,大審院を置き更に地方官を府県民の代表者の意味で召集したので其議事規則を「議員憲法」といい,開院式閉院式には明治大帝自ら臨御あらせられ議長は勅命を以て木戸孝允が任ぜられたのである。その会の議案は,(中略)地方警察に関することは重要な議案の一つであった。そこでこの会議に於て地方警察の事に就て種々審議せられ,尚邏卒の名称を巡査と改称すべく次の上申となった。

 今般新ニ警察ノ課ヲ設ケラレ邏卒ノ名称穏当ナラス警視庁ニ準シテ巡査卜改称スヘキ旨ヲ小会議ニテ議セシニ可トスル者多シ庶畿ハ改称ノ命アランコトヲ

   明治8年7月2日

    幹事長  神田孝平

  議長 木戸孝允 殿

 別紙邏卒改称ノ義去30日上奏致候地方警察答議ヘ相添可差出条件ニ御座候処本日申出相成候間即上申致是亦宣御執奏可被下候也

    地方官会議議長

     木戸孝允

   8年7月2日

  太政大臣 三条実美殿

 同年11月30日県治条例を廃して新に府県職制竝事務章程が発布されるに及んで県に6課を置いたが,そのうちの第4課(警保)が警察担当課として新発足した。

 明治9年(1876年)1月19日徳島に警察第1出張所,(管轄,名東,名西,板野,勝浦,那賀,海部の6郡)川島に警察第2出張所,(管轄,阿波,麻植,美馬,三好の4郡)を置き,県主務課と第一線屯所との中間機関とした。

 同年8月21日,本県は高知県に合併されたので警察関係も高知県の管轄となった。

 同年12月12日,警察出張所の番号をなくし,所在地の地名を冠するように改められたので,寺島警察出張所、川島警察出張所と夫々改称した。

 明治10年(1877年)1月,さきに定められた警部の等級を改正し,1等警部から10等警部までと定め4等級多くなった。

 同年2月,川島警察出張所を脇町に移転した,ついで

 同年3月,警察出張所と県下主要の地に在る屯所を警察署に,残る屯所と一部の分屯所を警察分署と改称した。

 そしてそれから以後順次分署を警察署に昇格し,分署は廃止の傾向となった。

 明治11年(1878年)月日不詳,県第4課を警察課と改めた。

 明治13年(1880年)3月2日,徳島県が再置されるについて警察もまた徳島県の管轄となった。また

 同年4月,警察課を警察本署と改称した。

 明治14年(1881年)11月26日,その警察本署に長を置いて警部長と称した。

 さらに,同年12月,警部,巡査の等級を廃止して新らしく警部補が設けられた。これによって警察官の階級は警部長―警部―警部補―巡査となりやや現在の警察の階級制度に近づいている。

 明治17年(1884年〉6月,から分署を交番所に改める傾向となり,

 同年7月1日には寺島外28分署を交番所と改称した。こうして警察の縦の構造は,警察本署―警察署―警察分署―交番所となり機構の近代化が進んだ。

 明治19年(1886年)7月12日,警察本署は警察本部と改称され,本部に第1課から第4課までの課が設けられ県警本部の横の組織(分課)も漸く近代化された。

徳島県立図書館