阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会6・7・8合併号  
三好長治の新加制式 阿波郷土会 長江正一
三好長治の新加制式

阿波郷土会 長江正一

 

 1 戦国大名の家訓と家法

 十五世紀後半の応仁の乱は室町幕府の権威を衰えさせ,十六世紀に入ると各地に卑賤が起ったもの,同輩を制圧したもの,主家をしのいだり主家を倒したものが抬頭して群雄となった。これらの諸雄は,その家を永続させ領域を保全しようとして家訓をのこし,家法を制定した。家法はまた分国法ともいう。

 家訓は家族家中特に子弟を対象とした教訓又は訓戒で,自己の経験を述べた私的なもので,朝倉敏景(初名 教景)十七箇条(142881)北条氏茂の早雲寺殿21箇条(1491以後)武田信繁(信玄弟)の家訓,毛利元就遺誡(1571?)が有名で,その他に上杉定正長状,朝倉宗滴(教景)話記・沙弥洞然長状・北条幻庵覚書・多胡辰敬(尼子の部将石見の刺賀岩山城主)家訓,などがあって,内容は祖先の法式を述べ,武具の整備を教え,戦場での勇敢を説き,孝を要求し,質素で信義を重んじ,虚言をいましめ,家風の高揚を示した親心的なものである。

 家法(分国法)は戦国大名がその分国統治の必要上家臣・領民を統制するため御成敗式目らを基準として制定した公的なものであって,その分国独特なものである。大内氏壁書(14621491)相良家壁書(1493)今川家仮名目録(1526)伊達氏の塵芥集(?)島津貴久・忠良の掟(1539)武田信玄の甲州法度之次第(1547)結城家法度(1556)里見家法度(?)六角義治の式目(1597)長宗我部元親,盛親の百箇条(1597)等があり,三好長治(155377)の新加制武もこの中にはいる。

 家法はその性質上,(1)忠義を要求して戦死者を優遇し,恩給地を統制し,譲代を規定し徒党密盟を禁ずるなどの君臣関係を示し,(2)養子をある程度許可し,孝道を奨励して家名存続を示し,(3)寄親の忌避,喧嘩口論を禁じて家臣を統制し,(4)戦場での勇戦のためと平時の質素好学を説いて教養を要求し,(5)違反者に厳罰を次て臨むと規定していて,武断的排他的経済的な色彩が濃いが,そのうちには道徳的,訓戒的なものを含んでいる。

 

 2 新加制式

1 制定者とその時期

 「新加制式」22箇条は「続史籍集覧」に収められている。しかしそれには制定の年次も制定者も記されていない。けれども第八条に,実休(長治の父義賢の道名)のときの盗賊与党同類の罪は「縡己違期之上,以寛有(宥)之義,今更不及糺明」としているから,義賢の戦死の永録5(1562)年以後10年を経過した元亀3(1572)年以後の制定であろうと思われる。長治はこのときすでに20才に達しているが,4年前の永録11年に織田信長のため京摂から全面的に退却した三好勢も,元亀元年信長が近江の浅井・越前の朝倉と事を構えるや,摂津の野田・福島に築城し本願寺の光佐顕如も協力し,信長は翌2年伊勢長島・延暦寺と戦い,3年には信玄が西上の途につき,天正元年には浅井・朝倉を,翌2年には勝頼を討滅するというように東方の軍事にいそがしく,そのため三好勢は摂河泉をほぼ回復するという状勢であった。しかし天正3年以後は土佐の長曽我部元親の阿波侵入があって,以後は阿波の軍事がいそがしかった。それで新加制式の制定はこの元亀3年から天正3年までの4年位の間であろう,と想像する。

 2 新加制式の母法

 新加制式はその中に明記しているように,聖徳太子の17条憲法(604)北条泰時の御成敗式目(1232)足利尊氏の建武式目(1337)を引用している。即ち第2条に17条憲法の第5の中の「得利(くほさ)為常,見賄聴〓(ことわり)(訟)」(利を得て常と為し、賄を見て〓(ことわり)もうすを聴く、訟は…)の語を引用し,第1条に式目の語があって,内容は御成敗式目の第1・2条を要約したものであり,同様に第3条の要目は式目の第36条と同文であり,第5条は式目の第35条とほぼ同文であり,第7条にも式目の語があり第15条に関連している。また第2条には建武式目の語があって同式目の第9条の趣旨を採用している。

 

 3 新加制式の内容

◎第1条は社寺の崇敬を述べて,修理・祭祀・神事を怠れば1部の過銭を出させ,僧が勤行を怠れば停廃し,社寺領を売却すれば土地を没収し,林木を私用で伐れば糺明するとした。当時の世状の一端をついたものであろう。

◎第2条から第10条までと第21条は裁判の条項で,第2条は収賄を禁じ,もし収賄があれば裁判官は白状しあって評議せよと,面白いことをいっている。第3条は境界争の決定で過銭を出させ,その金で社寺を修理し,過銭のないものは所領没収とした。当時は過銭を不浄視し神仏に宥免を請う意味で修理費に充てたことは第7条にも見えている。第4条は中間に非がある狼籍は訴人の勝であるが,訴人が無理なときは別の取扱いをするとしている。中間の勝にはならない。第5条は裁判に被告が出席しないときは原告の勝で,原告が欠席すると糺明とした。第六条は裁判に証人が偽証をすると所領を汲収するとした。為証の罪が重いのは道徳的であるが,後に述べる徒覚盟約を予防する意味と思える。第7条は謀訴は田畑1反を銭1貫に計算して贖銅させるとし,家財牛馬は値の半分ときめた。第8条は強窺盗とその共犯は重罪とし,第9条で紛失物は持主に返すか,盗賊として一倍の贖銅を出させる。しかし他国の土倉(質屋)で見付たときは仕方がないとしている。第10条と第21条は犯罪人は主人が殺してもよいし,犯罪人を追跡しているとき出合ったものが殺してもよいとした。これはまた主従関係を示したものでもある。

◎第3は主従関係で,第12条に10年間奉公したものは譜代相伝の被官人であるとし,第13条では1季奉公輩は月毎に代るが,月の内に代るのも自由であるとした。第11条は重罪を犯した被官人を主人がかばって捕えなかったり,逃亡させたりすると主人の所領の半分を三年間没収するとしている。第20条で被官人か党類を結ぶと所領を没収して分国を追放し,第22条は被官人が攻戦したとき主人が同心していたら主人の所領の半分を汲収するが,被官人が虚言したときは主人に所罰させるときめた。

◎第4は土地問題で,第14条に百姓が年貢を出し渋れば田畑を差押えてよく,第15条で名主職を売却するとき年貢を少額に記入するものは売人に弁償させ,第16条で年貢の減額を要求するのはよくないとし,新給人も先規の年貢をとれとした。所領を子孫に譲るときは第17条に「父祖相伝の地」は多くの子孫に分配させてよく「三代附属の領知」は庶子に譲れなく,「新地」は父祖の任意として一族間の争と小分割と嫡庶の別をたてている。そして18条で譲状には末期や重病のときは証人を必要としている。第19条は御恩地の入質は禁ずるが,止むを得ないものは三年を限って許可して,土地の兼併を防いでいる。

 以上が新加制式のごく大ざっぱな内容である。

4 新加制式にあらわれた社会階級と刑罰

 社会階級は侍と農民とに大別され,侍には被官人(11・22)譜代被官人(12)新給人(16)一季奉公人(13)中間(4)があり,農民には名主(15)百姓(14・16)に区別されたようである。

 刑罰には死罪(6)分国追放(20)召放(1・3)所領汲収(3・6・20)三年間所領半分汲収(11・22)糺明(1・5)贖銅(7・9)過銭(1・3)があったことがわかる。

 ついでに述べるが,三好長慶のときには鋸引刑があった。「言継郷記」は天文13年(1544)8月11日長慶の家臣和田新五郎が京都一条戻橋において,鋸で左右の手を切り,最後に首を切られた。前代未聞な過酷なものであったと記している。

徳島県立図書館