阿波学会研究紀要

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第四回郷土研究発表会  
昭和二年の高島塩田労働争議 阿波郷土会  岩村武勇
昭和二年の高島塩田労働争議
阿波郷土会  岩村武勇
一、はしがき
 鳴門市高島は360年の昔から現今にいたるまで製塩業を主産業とする地である。昭和2年(1927年)この高島(当時は板野郡鳴門村高島)においておこった塩田労働争議は、闘争期間が105日におよぶ徳島県はじめての大争議であり、全国にまだ例のない塩田大争議であった。
 ところがこの大争議も一部の日本労働運動史上にわずかに「撫養塩田労働争議」とその名が見えているだけであって、くわしく記述されているものは徳島県の郷土史関係の文献にも日本の歴史関係の文献にも見受けられず、したがって争議の内容はあまりよく知られていない。
 ここに資本家、労働者、その他の方面から集めた資料により客観的立場から争議の大要を述べ、各位の御批判と御垂教をあおぐものである。
二、争議はなぜおこったか
○遠  因
労働者の自覚
 藩政時代以来、塩田労働者の待遇と地位は低く、労働者自身もそれにあまんじていたが、明治末期に鳴門塩田労働組合を結成し、第一次世界大戦後全国的に労働運動が盛んになるとそれに刺激せられて組合活動も活発となり、毎年節季借り、労賃などについて塩業家との交渉に当っていた。
 新聞の普及とともに全国的な社会問題が村民の話題にのぼるようになった。青年の中には八珍クラブと称するグループを組織して読書・体育など文化運動をはじめ、読書は唯物論にもおよんだものもあった。こうしてしだいに村民の社会的知見が進むにつれて、労働者の中には、労働者は生活にあえいでいるのに塩業家は豊かな生活をしてめかけを置いているものがある、労働者の子弟の教育は小学校程度にとどまっているのに塩業家の子弟は中等教育を受けさせているなど、労資間の生活の相違矛盾点を問題にするものもできてきた。
評議会の指導
 大正14年4月日本労働総同盟(会長鈴木文治)は分裂し、左派は同年5月日本労働組合評議会(中央委員長野田律太)を組織し、本部を大阪市において労働者の解放運動を積極的に推進することになった。同年8月長尾他喜雄が高島に来て進歩的労働者福永豊功と会い、経済及労働講座を高島公会堂において開催して労働者に対し唯物史観・階級闘争などの講義をおこなった。これが徳島県へ共産主義思想が入った最初である。そうしてその実践運動の第一歩が大正15年の塩田争議であった。
 政府は八億万斤の貯蔵塩の処分に窮して塩生産一割制限をはかりこれを塩業家に諮問した。塩業家は承諾したが、福永豊功は評議会の幹部とはかり、同年9月8日撫養町清光座において労働者大会を開いて「生産一割制限はわれわれの賃金一割制限である」と政府の一割制限に絶対反対の声明をおこない、10月1日労働条件に関する要求書を徳島県塩業組合に提出した。評議会本部からは野田律太・長尾他喜雄が来援して撫養浜全労働者を評議会に加入させようとした。労働者は一割制限反対には同意したが評議会加入には賛否両論にわかれ、ついに撫養塩田労働組合聯合会は右派の本斎田塩田労働組合と左派の日本労働組合評議会徳島撫養塩田労働組合(支部――高島、三ツ石、桑島、明神)とに分裂した。福永は徳島撫養塩田労働組合の実権を握り争議を継続したが、争議は撫養、鳴門、瀬戸の各町村長のあっせんにより同年11月28日労働者側に有利に解決した。
○近  因
賃上げ要求
 徳島撫養塩田労働組合(書記福永豊功)は高島四七番浜(小作人益田仙蔵経営、段別二町五段六畝二八歩)について生産調査をおこない、その結果、塩業家は大正14年度一か年に4000円の出資に対し6000円の利潤があったのでこれを平年作に換算すれば4198円46銭の純益がある、労働組合の要求をすべていれても1500円ほどで塩業家は2600円以上の純益がある、労働者は362日(1年3日の欠勤)働いて519円の収入でこれでは最低生活を維持することができないとして、昭和2年4月6日徳島県塩業組合に対して左の要求書を提出し、4月12日までに回答を求めた。
1、最底賃銀トシテ
 (イ) 1月持浜賃銀 2円20銭
 (ロ) 4、5、10月ハ最底賃銀ノ2割増ノ事
 (ハ) 6、7、8、9月ノ4ヶ月ハ最低賃銀ノ3割増ノ事
2、朝役ハ浜ノ2割ト為ス事
3、引日役ハ浜ノ7割ト為ス事
4、雨日役ハ浜ノ6割ト為ス事
5、桑島ハ従来朝役賃ヲ支給セザルガ4月1日ヨリ支給スル事
6、雨天及持日ノ外ハ引日役賃ヲ支給スル事
7、釜コシラエ日ハ釜焚賃ヲ支給スル事
8、釜焚ヲ消釜間日役ニ使用スル事
9、盆ノ釜焚及持浜ハ1日半ヲ支給スル事
10、奉公人制度ハ撤廃スル事
11、工場法ヲ適用スル事
12、犠牲者ヲダサザル事
13、此ノ要求ハ何日先デ決定シヨウトモ4月1日ニ逆登ツテ支給スルコト
 塩業組合は協議の結果、要求事項を不当と認め、4月12日全部を拒絶した。
三、争議はどのような経過をたどったか
怠業・休業の開始
 要求を拒絶せられた徳島撫養塩田労働組合は4月17日から一斉怠業すべきことを指令し、高島・桑島両支部の労働者は指令を実行し17日から怠業に入った。徳島県塩業組合は労働者の気勢を制するため4月27日から休業を断行し、怠業中の労働者に対し内容証明便をもって解雇の通知を発した。解雇せられた労働者は対策を講じあくまで要求事項の貫徹を期することに決定したが、桑島の労働者は生活不安のため5月12日から無条件従業をはじめた。こうして争議は徳島県塩業組合所属高島浜人会(浜人38)対徳島撫養塩田労働組合高島支部(組合員512)の争いとなった。
争議団の対策
 争議がはじまると大阪の評議会本部から長尾他喜雄ほか数名が来て応援した。労働者の生活を維持して争議を継続するため、中年以下の男子は評議会本部の就職あっせんにより多く阪神地方に出かせぎに行き、婦女子と少年はせっけん・マッチ・その他日用品の行商をはじめ、板野郡内はもちろん徳島市方面まで行動した。また宣伝ビラを配付したり、たびたび昌住寺において演説会を開催して資本家と官憲をののしり裏切り行為を防止した。
 5月22日から小学校児童(労働者の子弟159余)の同盟休校を決行し、同月25日からは労働学校を開設して休校中の児童を集めて来援の評議会闘士が講義した。
塩業家の対策
 塩業家ははじめ休業していたが、上荷組合員有志の応援を得るとともに香川県から労働者を雇い入れて事業を開始した。労働者に対しては従来の雇用関係を利用して好条件で誘致した。けれども争議団の団結が強固で容易にその目的を達することができなかった〜(争議期間中に20名あまりをようやく切りくずしただけであった。)
争議団幹部の検挙
 5月22日夜、福永豊功は団員を連れて香川県から出かせぎに来ている者の宿舎へ押し寄せ即時退去を要求した。このため福永ほか幹部5名は暴力行為取締規則違反により検挙せられた。幹部を失った争議団はこの旨を大阪の本部に打電し、評議会幹部太田博が闘士十数名を連れて高島に来て争議団を指揮することになった。こうして争議は、評議会対高島浜人会の闘争となった。
持 久 戦
 争議開始以来、塩業家や労働者相手の小売商も商品の売行きがなく大打撃をうけて村は火が消えたようになったので、塩業関係以外の者の代表がたびたび調停に当ったが両者から拒絶せられた。付近の町村長、有力者、国粋会宗教団体など多数の調停者があらわれたがみな成功しなかった。それはこの争議が賃銀問題だけでなく思想の相違・感情の対立があって塩業家労働者ともに少しもゆずらなかったからである。
 財界不況のため阪神の出かせぎ状況も思わしくなく、労働者の生活苦は相当なものであったが、みな粗食に耐え、その結束は日増しに強固となった。浜人会も争議の根絶を期するために労働者が左翼団体である評議会から脱退しなければ交渉に応じないという態度に出た。そのために争議は持久戦となり、たがいに秘術を尽して対戦した。その間に双方の感情はますます緊張して険悪な状況を呈して来た。
 撫養警察署は県下各署から柔道・剣道にすぐれた警官30名余りの応援を得て高島公会堂に取締本部を置いて治安の維持に当った。争議団員が徒党を組んで浜屋(塩業家の宅)へ押し寄せて塩業家をつるしあげたり、浜人会長をはじめ就職労働者や塩業家に好意をよせて争議破りを試みた者が争議団員のために殴打せられるという事件がたびたびおこったが、検挙は困難であった。
 争議団は自衛団を組織し、浜人会もそれに対抗するためと護身のため国粋会員を招致したのであったが、7月24日国粋会の1人が闘士になぐられた事件に端を発して暴力闘争の気がみなぎった。
 そこで警察当局は国粋会一派の退去を命ずるとともに来援闘士の総検束をおこなうことにきめ、県から出張して来た労働争議調停官補・警部狩野亀吉が積極的に労資両者に働きかけて解決をはかった。争議団・塩業家ともに精神的にも資金的にも疲労の極に達していたのでそれに従うことになった。
解  決
 7月30日夜、浜人会長青山福太郎ら、争議団代表太田博らは狩野調停官補、先山撫養警察署長、高木徳島地方専売局長ら立会のもとに昌住寺に会合して調停書に調印した。解決条件は次のとおりであった。
1、賃銭ノ増加ハ之ヲナサズ。但シ臨時手当トシテ10月1日迄ニ一人前ノ者ニ対シ最高5銭ヲ支給スベク考慮スルコト
2、犠牲者ヲ出サザルコト
3、包金トシテ一金壱千五百円ヲ支給スルコト
4、節期貸ノ返還ヲ要求セザルコト
5、将来不当ニ争議ヲ起サザルコトヲ労働者側ニ於テ誓言スルコト
 こうして105日にわたる大争議も終り、8月1日からいっせいに就業することになった。
四、争議はどのような影響を及ぼしたか
1、争議による直接の損害は左記のとおりであった。
             業務上の損害     約200,000円
塩 業 家  約210,000円 争議の失費       約8,600円
             罷業者に対する諸給与金  1,500円
              争議費用           約1,900円
労 働 者  約66,000円  受けるべきはずであった賃銀  約64,000円
 その日暮しの生活をしていた労働者の経済的打撃は特に大きかった。
2、この争議を契機として主従意識が弱くなり、従来塩業家から名(姓はつけない)を呼びつけにせられていたものがやめられたとか、従来選挙の時ほとんどすべて塩業家の支持する政党政派に投票していたものが進歩陣営にも投票するようになったなど、労働者の人権が尊重せられるようになった。


 



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