| 阿波学会研究紀要 |
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| 徳島県郷土研究論文集第二集 | |
| 合併による新町村名について | 徳島郷土史研究会 沖野舜二 |
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合併による新市町村名について 徳島郷土史研究会 沖野舜二
合併による新市町村の命名はむつかしいことの一つである。人間に古いものへの郷愁と執着の存する限り、せつかく成立した合併問題も、新市町村名のいかんによつては、ふり出しにもどつた例も少しとしない。しからば、合併による新市町村名をいかにすべき。これを歴史にみる。 全縣的な大規模の市町村の合併をみた例は、明治22年の市制、町村制の発布による全国的合併の場合がたゞ一つである。このばあいは、今回のそれとは異つて、封建の遺習濃く、官尊民卑の観念強く、官命によつて強制的に行なわれた合併ではあつたが、その新市町村名にはかなりの紛糾と衝突をおこした跡もあり、住民の意志も表面化しており、種々苦心を重ねたふしもみられ、各種各様の命名であつて、今回の合併新市町村名に多くの示さを与えて興味深い。 私はこのときの合併を主とし、その後の社会の発展にともなつて行なわれた散発的な合併も加えて、新市町村の命名の型を下記の如く分類してみた。もつともかゝげる例は紙数の上から二三にとゞめざるをえず、命名のいきさつもすべて割愛せざるをえなかつた。 第一型 異字組合せ型 合併の前の各町村の異字をとつて組合せるもの。佐野・馬路・白地を合して佐馬地サマヂ村。拜原・曽江山を合して江エ原村。広野・阿川を合して阿野村。山崎・瀬詰を合して山瀬村とせる如きである。 第二型 同字組合せ型 これは第一型と同種であるが、同じ字をとつて組合せるものである。川田山・種野山・桁山を合せて三山ミヤマ村とした如き代表例である。もつとも、浅川・浅川浦を合して浅川村とし、岩倉・岩倉山を合して岩倉村とし、半田と半田口山を合して半田村としたごときは、ぐわんらい一つであつたものが分村していたものであつて、それがふたたび復帰したにすぎない。また上大野・中大野・下大野を合して大野村とし、東井内谷・西井内谷を合して井内谷イノウチダニ村としたごときも、いずれが本家であつたかはともかくとして、これまた復縁の例であろう。一宇口山・一宇奥山を合して一宇イワチコウ村とし、東端山と西端山を合して端ハバ山村とし、西林と東林を合して林村とし、東川田・西川田を合して川田村とし、郡里と郡里コオザト山を合して郡里村としたもの、この型である。 第三型 同字異字混合組合せ型 これは第一型と第二型の混合型である。小オ島・三谷・舞中島を合して三ミ島村とし、児島・学・三つ島を合わして学島村とし、志和岐シワキ・東西由岐ユキ・木岐・山岐浦・田井タイを合して三岐田ミキタ村としたごときである。 第四型 中心村名型 以上のは、二三ヵ村の比較的小さい合併のばあいであつて、数ヵ村以上に跨る大規模の合併には適用しえない。このような大規模のばあいには、比較的市町村勢力の有力なる市町村名をとつて、命名されることが多い。石井他五村を合して石井村とし、板東バンドウ他五村を合して板東村とし、高川原他六村を合して高川原とし、富岡他十村を合して富岡町とし、宍喰シシクイ浦他十一村を合して宍喰村としたごとき好例である。牛島ウシノシマ・上カミ浦・麻植オエ塚を合して牛島村とし、喜来キライ・上下ジョウゲ島・鴨島を合して鴨島村とし、貞光・太田を合して貞光村とし、穴吹・拜を合して穴吹村としたごときも、二三ヵ村の小規模合併にすぎないが、これもこの型のものであつて、二三ヵ村の合併でも勢力の強い村名をとつている。中枝村は中枝と別枝を合したものであるが、中枝村が中心であつたためか、または両者の同字を組合せたものか、おそらく両者のばあいであろう便利な例である。 第五型 積重ね型 きわだつた中心勢力の村もなく、また組合せに妥協することもいさぎよしとせず、さりとてまつたく新らしい村名も心よからず、おのおのの村名に根強い執着を有する場合には、それぞれの村名を積み重ねる場合がある。これは二村の合併に限られるが、本縣にはその例稀で、木頭・坂州他数ヵ村合併で、その比較的中心勢力の両村名を積重ねて坂州木頭キトウ村とした例あるにすぎないようである。 第六型 地形型 以上の型は、大きく分類して旧名執着型、すなわち合併以前の旧村名に執着して、その全部又は一部を残したものであるが、まつたく旧村名にとらわれず、新らしい市町村名をもつてした新村名型ともいうべきものがある。この新村名型の中で、山・川・平地など地形によつて、命名したものを地形型として一括分類した。これは数ヵ村以上の大規模合併で、比較的中心の村がない場合に命名されている。例えば海部カイフ川上流地帯五村を合して川上カミ村とし、同じく同川西岸一帯八村を合して川西村とし、同川東岸一帯五村を合して川東村としたごとき好例である。那賀川とその支流岡川によつて圍まれている平地帯五村を合して中野島村とし、吉野川本支流と海岸によって圍まれている平地帯十二ヵ村を合して川内ウチ村としたごときも、その例である。 第七型 文化財型 地形的理由にもとづく他に新村名型として、史跡・古地名・神社仏閣のごとき歴史的名稱にもとづき、また名勝・天然記念物・特産物などの自然的名稱にもとずいて新しく町村名を附したものがある。これらを一括して文化財型となづけよう。 史蹟にもとずくものとしては、平島公方クボウにちなんだ平島村(十一村合併)があり、應神村(五村合併)は應神神社を、御所村(三村合併)は、承久の変で阿波国に御出でになり亡くなられた土御門上皇を祀る御所神社をそれぞれとつた村名であろう。 合併町村一帯にわたる古地名を附したものはかなり多く、加茂カモ谷(七村)・鷲敷ワシシキ(和食七村)・撫養(十一村)・一條(二村)・国府(九村)はその地方一帯を總稱する古名であり、堀江(十村)・松島(四村)・井上(南井上九村・北井上六村)・三野ミノ(六村)・三縄ミナワ(六村)はいずれも往昔の「郷」名か、または「荘園」名であつて歴史上著名なものである。 天然記念物に因めるものとしては、松坂村(四村)があり、同村の黒谷の坂の上に聳立していた一本松にちなんだものといはれ、鳴門村(三村)や瀬戸村(九村)は、大鳴門、小鳴門に因んだものであろうし、大山オオヤマ村(三村)は大山に箸藏ハシクラ村(二村)は箸藏山と箸藏寺に合せちなんだと考えられ、仏閣名をとつた例でもある。 阿波の特産物「藍」の産地として著名な藍園村(六村)および藍畑村(七村)があることは、興味ある命名で、藍は亡んでも地名に残つたわけで、人心の郷愁を思はせるに足る。 第八型 佳名型 合併後の新町村の将来の繁栄を祝福して、まつたく何の関係もない佳名を附したものがある。栄サカエ村(五村)、八千代村のことき好例である。もつとも八千代村については、明治22年では半田奥山村であつたが、後に改稱されたもので、半田奥山よりはひびきがよい。長生イケ村・橘村のごときも多少旧地に因縁はあつても、まず佳名型とみてよいであろう。 以上明治22年の市制町村制発布による合併市町村の命名を分類し、数種の型に分つたのであるが、これを観察するとき、全国的に共通する型であつて、本縣特有の型ともいうべきものは、とくにとり立てゝ見出しえないようである。すなわち当時本縣もすでに全国的規模の一環として歩みをすゝめつゝあつたことを示すものであつて、今回の合併による新市町村名も、そうした傾向を出るものではないであろう。 しかしながら、歴史研究の目的の一つを温故而知新におくかぎりにおいて、こうした研究も、今回の市町村合併の新市町村名に何らかの示さを与えるであろうと信ずる。たゞこうした命名が、その後の経過において、いかにして関係市町村民に、そして又第三者関係に、うけいれられたかの研究調査が、新市町村名の是非を檢討し、今回の合併による命名をいかにすべきかの結論を抽出する上に、たんなる分類型の研究以上に貴重な研究成果を生ずると思うのである。例えば半田奥山村が八千代村と改稱され、後年のことではあるが、撫養町他三村が合併して、命名に紛糾し、当初に鳴南市と名づけたが、まもなく鳴門市と改稱されたごとき、右の消息を示す一端である。 しかしながら今回は全縣的に十分な資料が整わないのと、紙数の関係もあつて、分類型にのみ止めざるをえなかつたことを遺憾とする。(1955.1.20) (徳島大学学芸学部 社会科教室 徳島大学教授) |
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